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旅の始まりと祖母ちゃんと涙

 思えば。俺がこんなに弱くなったのは、屁理屈を覚えてからだ。いや、弱くなったのか?それもよくはわからないのだが・・・。ただ、いつもこの身を包み込む不愉快な感情の正体だけはわかる。それは、希望による絶望だ。旅先の秋空を見つめながら、出てくる溜息を押し殺す。どうせ、誰にも届かないのだ。どうせ。



 あと二年ばかりで30を数える。なんとなく大学を出て、なんとなく就職した今の会社。俺のような経理の窓際社員にはわかり得ないが、この不景気の煽りをうけて、うちも随分不味いらしい。一週間前、部長の長野が申し訳なさそうに声を絞り出した。


「つまり、一か月ごと。交代で休暇を取ってほしい。何も辞めてもらおうってわけじゃないんだ。早めに手を打たなければ、来年がまずい。来年も誤魔化せば再来年が見えない。落ち着くまでの辛抱だ。こんなこと、すぐに終わる可能性だってある。」


 ざわつく。有給は使えるのか、ボーナス査定に響かないのか、皆、不安そうに質問をぶつける。俺は部長の長野は好きな部類に入る。なんとなく人を寄せ付けない空気を纏いながらも、目の届く範囲のことはほとんど熟知できる程目ざとく、うるさくない。うまい人だと一目置いている。皆も普段は長野に対して一定の距離を置きつつ、批判はしていない。だが、今日は別だ。皆ざわつく。正直、うるさい。


「なら、最初は僕が。」


 皆、俺の方を見る。ホッとした顔もあれば、驚く顔もある。眉間にしわを寄せている先輩方も多い。あんまり見るな。面倒くさい。


「急にこんな話になっても大変でしょう。お子さんがいらっしゃる方も多い。家や車のローン。結婚資金を貯めていらっしゃる方もいるでしょう。僕は幸い、どれにも属さない。」


「勝浦、いいのか?」


 長野は興奮を抑えながら、僕の方を見る。それでも見えている。すがるような目。あなたのそういう目は見たくない。


「二か月。最初の二か月間は僕でいいです。その間に立て直してください。」


 ざわつく。皆、俺の方を向いたり顔を突き合わせながらぼそぼそ話し合っている。ああ、本当にうるさい。長野、なんとかしてくれよ。


「んん!静かに!・・・勝浦、助かるよ。」



 ちょうど、休みが欲しかった。この身を包む不愉快な感情。これは、俺が散らかっている証拠なのだ。きっと。散らかりすぎている。自分自身と向き合う時間が、今の俺にはなにより必要だったのだ。

 周りの皆に英雄扱いされ、長野に恩を売る。そして欲しがっていた長期休暇。金はまあある。そして時間もある。今の俺にとってこれ以上のことはない。まさにしてやったりだ。


 そして今日、適当に電車を乗り継いで旅を始めた。鎌倉の秋空。なかなかこれも悪くない。先のことを考えて、チープな宿をとったが、一人旅には十分だ。

 よくわからないがたいそう古そうな寺。その寺に溜息を落としながら、町をぶらつく。焦ることはない。俺の時間は今止まっているのだ。これは自由だ。そう考えて、また溜息をつく。


 自分自身と向き合う。物心ついてからは、流されるままにここまで来た。適当に部活やって、適当に塾に行って、適当に遊んで。これぞといった夢もなく。大好物と言える程の趣味もない。俺のようなやつのことを一般的な現代人と言うのかもしれない。また、重い溜息をつく。


 空がほんの少しオレンジ色になってきた。バス停の横にある、小汚いベンチが目に入る。そこにどかっと座り、鞄から手帳を取り出す。せっかく自分と向き合う時間ができたのだ。何か、気のきいた日記でも残していこう。恰好つけた詩なんかもいいかもしれない。とりあえずは、今日までの流れを起こす。二か月の休みをもらったこと。纏わりつく不快感のこと。絶えない溜息のこと。長野の媚びた面に、阿呆な同僚どものうすら笑い。


 気がつくと、見知らぬ婆さんがバス停の横にいる。まあ、知らない土地なのだ。知ってる婆さんがいても困るのだが。視線に気がついたのか、婆さんは上品に会釈してくる。俺も例に習う。結構な歳のようだが、真っ白な髪もきれいに整っている。いい家柄の婆さんなのだろう。


「観光にいらしたの?」


 お上品な口調でお話しかけなさる。ふう。俺の時間は止まってるんだ。できれば話したくないのだが。まあ、仕方ない。


「ええ。ふと寺巡りでもしたくなりましてね。」

「あらまあ、それは素敵なこと。」


 ふと。だと。自分に笑いたくなる。婆さんは喜んでいるようだし、まあいいのだが。別に素敵なことはなんにもない。溜息が出るだけだ。


「自分自身と向き合うには、とてもいいですからね。」


 はっとした。心の中が読まれたのかと。


「ええ。まさにその通りですね。とてもいい。」


 焦りを見透かされないように、努めて冷静をきどる。誤魔化しがてら伸びをして、空気がうまいとでもいいたそうな表情を見せつける。つくり笑いとともに。と、右手からバスが見える。なかなかいい間だ。東京の街中で聞くより、やかましい騒音をたてながらバスが止まる。周りの環境が違うと、こんなにも音が違うものか。ともかく、この婆さんとはおさらばだ。また、俺の時間は止まるだろう。


「乗りませんの?」


 しまった。バス停のベンチに座っているのだ。婆さんがそう言うのも当然だろう。全く、溜息のつきすぎで酸素が脳に回らなくなったのか。


「あ、いえ。ちょっと。人を待っていましてね。」


 少し焦る。婆さんは「まあそう。」と言ってバスに乗り込む。はあ。なんでこんなことで嘘をつかなければならんのだ。不便なものだ。


 程なくしてバスは通り過ぎ、自分の世界に立ち返る。すると、母方の祖母を思い出す。昔よく世話になった祖母。今も健在だが、少しボケが強くなったために、母の姉と田舎で暮らしている。

 祖母ちゃんか・・・。思えば、祖母から受けた影響は大きい。泊まりに行くと、毎日の様に戦争の話を聞かされた。おかげで、未だに戦争という言葉に嫌悪感を覚える。

 当時のことを深く思い出してみる。ああ、そういえば、あまりに怖くて布団の中に逃げ込んだこともあったな。戦争はおっかない。戦争は苦しいって。

 その時、初めて思ったんだ。神様なんていないって。


 それから、一心不乱に手帳に書き込む。細いボールペンを武器に。俺を書き込む。少し興奮を帯びながら。俺というものをそこに映し出す。思うがままに。


 題名:神様と祖母ちゃん


 ああ、神様よ。あんたは何故放っておく?この恐怖を。この恐怖の元になった現実も。何故あんたは放っておいた?俺に恐怖をもたらすためか。俺を怖がりにするためか?

 ああ、神様よ。あんたはきっといない。あんたはきっといない。もし本当にいるなら。もし本当にいるなら。俺の祖母ちゃん、あんなに苦しまなかった。

 甘党の俺の口に、嬉しそうに小さな角砂糖を放りこむ、あの優しく善良な祖母ちゃんが、苦しみながら俺にあんな話をする必要はなかったはずだ。そうだろ?神様。

 やっぱ、あんたはいないよ。神様。あんたはいないよ。じゃあ、あんたを信じている多くの人間にとっての真理はどこ?なあ、神様。


 大粒の涙が頬を流れ落ちる。泣いたんだ。俺。久々に。泣いた。

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