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わたしたちの婚約解消『絶対阻止』計画

作者: 午前零時

不器用な主人たちとお節介な家来たちの宮廷恋物語

 品のよい調度品で飾られた王城の一室で、カップがソーサーにぶつかる音が乱暴に響いた。年頃の淑女としては少々はしたない行動も意に返さないで、ディアナはカップの中の紅茶とよく似た琥珀色の瞳で対面に座る男を睨みつける。


「これは、どういうことですか殿下。今日の昼頃まで時間が取れると言っていたのは殿下ご自身ではございませんか。それを反故になさるおつもりで」


 ディアナからの言葉を静かに聞いていたウォルフは空のカップをコーサーに置くと、眉間のしわをいつもより深くさせながら答えた。


「早朝のうちに使いを出したはずだが──」

「わたくしは聞いておりません」

「……そうだったか。それは申し訳なかった」


 ほとんど間を置かずに答えるディアナに、ウォルフは小さく息を吐いてから亜麻色の髪を後ろに払ってから頭を小さく下げる。ディアナは相当腹に据えかねていたのか少しは冷静になっても王族の頭一つでは機嫌が直った様子はない。


「それでも、事は変わらん。急用故、今日はあと少しで失礼させて頂く」


 ウォルフが黒髪の侍女に淹れてもらった茶を飲むのを遮るように、言葉を続けた。


「今日だけのことではありません。最近はずっとこんな調子で」

「それは、──」

「わたくしは殿下が暫く王城で暇をもらったと聞いていたから、領地に戻らず父と屋敷に留まっていたのですのに、これでは何のために帰らなかったか分かりませんわ」

「……こちらは未だ用が出来るかもしれん。今からでも帰れるの──」


 ディアナは膝の上で手を痛いほど握りしめる。自分の顔に熱が集まっていくのを感じながら彼女は怒りからか悲しみからか声を上げた。


「そうじゃないッ……そうじゃ、ありませんの。どうして教えて下さらないの。今日も、先週も用事が出来たというだけ。それだけで、貴方はわたくしには何もおっしゃらない」

「これは、対外秘に関するものだ。誰にだって言えん」

「わたくしは貴方の婚約者なのよ」


 ウォルフはその言葉で弾かれたように視線を上げたが、何も言わない。ただ、その鋭い目つきで一度は目を合わすも、逃げるように視線を手元のカップに落とした。

 ディアナは婚約の証でもある胸元の碧水晶が埋め込まれたペンダントに触れていた。彼女はそれを掴み、証を立てるかのように話す。


 「わたくしは貴方の妻として相応しくなれるように努めてきた。それまで以上に礼儀と作法を厳しく身につけさせられた、それ以外の勉学も。乗馬だって辞めさせられた……それなのに。まだ、わたくしは、相応しくないと言うの」


 ウォルフはディアナの震える瞳を見ながら言葉を探すように口を開けた。


「相応しいか、そうでないかの問題ではない。外に他言できるようなことではないといことで、君がどうこうという話ではない」

「……殿下も、そう思っていらっしゃるのでしょう。わたくしは王妃の席に相応しくないと」


 ウォルフはその言葉を聞くと目を見開き、辺りを確認した。


「誰がそんなことを言った」

「ご自身は何も言わないくせに、わたくしにはそれを求めるのですか」


 ウォルフは腹立ち気に息を吐くと念を押すように言う。


「いいか、ディアナ。どこの誰がそんな下らないことを言っていたのかは知らないが。そんな風聞なんぞ気にするに値しないし……父王陛下も兄上もいらっしゃる時からこれから先の妃の話をするもんじゃない」

「それは。結局、貴方は相応しくないと思っていらっしゃるのでしょう」

「私の意志はどうでもいいい。分かっているのか、ディアナ。外で自分が未来の妃などとは決して口にするなということだ。」


 『妃に相応しいよう』そうやってこれまで努めてきたディアナにとってウォルフの言葉はこれまでの自分を否定ように聞こえてしまった。 

 ウォルフは年の離れた兄である王太子に子がない現在、王国内において事実上の次期王太子であると目されている。それはディアナだけでなく王国の諸家においても同様であり、彼の婚約者には相応しい家格と振る舞いが求められてきた。

 その中で、自分の一部を押し殺してでも努力を重ねたディアナに、彼の言葉は大きく響いてしまった。


「そうですか、どうやら。わたくしは本当にあなたに相応しくないようですのね」

「どうするつもりだ」


 ディアナは椅子から立って「リズ」と侍女の名を呼ぶと、彼女に茶器の片づけを命じる。そのまま、ウォルフに背を向けると首に手を回してペンダントの金具を外し、それを机の上に置いた。


「殿下。こちらは貴方に返しておきますわ」

「……預かっておく」


 ディアナは返事をまるで聞いていない様子で少し乱れたハーフアップの茶髪を整え、ウォルフの方に小さく礼をすると廊下に続く扉へと歩き去った。


 ウォルフは出て行った背を無言で見送った後、ぼんやりと机の上のペンダントを見つめていた。リズが茶器の片づける音のみが部屋に響く中で、ウォルフがはたと何かに気づいた様子で少し冷えてしまった茶を飲み干す。茶の礼をリズにすると、ペンダントを懐に入れてウォルフも部屋から出て行った。


 時の頃は昼よりすこし早く、窓から差し込む日の光は良く磨かれた茶器を照らしている。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 主人の言い付け通りにリズが茶器を片付けていると、ノックの音が聞こえる。彼女が「どうぞ」と入室を促すと、赤毛の男が良い匂いを漂わせるバスケットを小脇に抱えて入ってきた。


 彼は少しバツの悪そうに短く刈り上げられた襟足を撫でると、首に手を当ててもう一方の腕で愛想笑いを浮かべながらリズの方でバスケットを差し出す。リズはバスケットの方をちらりと見るも、そのまま片づけを続けていた。


「あのぉ、リズさん。ちょっとお時間あります?」

「今は、片づけがありますので。ロイ様は、そちらに掛けてお待ちを」

「はい……えぇと。あの、何か手伝えることは──」

「掛けてお待ちを」


 言われるがままにロイは先ほどまで主人たちが座っていたものとは別の背もたれのない椅子に腰掛け、バスケットを抱えながら待つ。少しすると、片づけを終えたリズが台を持って来て、私物の茶器に二人分の茶を淹れた。


「これは、炊事のお姉さま方から頂いたものなんですけど」

「美味しそうですね。頂きます」


 ロイが持ってきたバスケットの中には王侯用の料理に使った食材の切れ端や豚肉の燻製(ベーコン)が挟まれているバゲットサンドが五つ入っていた。リズは早めの昼食としてそれを食べる。ベーコンの塩味がレタスと肉に効いてちょうどよい塩梅であり、早々に一つ目を食べてしまう。リズはカップの茶を一口飲んで、台を挟んで座るロイに話しかける。


「聞いてましたか」

「聞いたというか、聞こえたというか。お声が中々大きかったもので、番をしていた俺の耳にも入ってきましたね。あ、でも。俺以外は聞いてなかったと思います。」

「そうですか」

「それで、今回は何が原因で……」


 ロイが恐る恐る聞く。


「いつも通りです。王子殿下の言葉足らずと秘密主義」

「いや、でもそこは。そちらにも多少手心を加えてもらいたいとも言いますか」

「でも。今回ばかりは、いつも通りという訳にはいかないかもしれない」


 リズは先刻まで主人が居た椅子を見ながら言う。


「このままじゃ。婚約の解消もあるかも」


 「婚約の解消もあり得る」などと聞いてロイは危うく手に持ったカップを落としそうになる。今までも波乱はあれど何だかんだ上手くやっていたものが、今回に限ってはそうではないと言われたからだ。


「それは、考えすぎなんじゃ──」

「王族の婚姻は国策であり、貴族のそれは策略」

「そう、そうですよ。今はちょっとぎくしゃくしてるかもですけど。お二人ならまたすぐ仲直りできるんじゃないですか」

「一週間後です」


 リズは指を一本立てる。


「一週間後に、大奥様がこちらにいらっしゃることになっています」

「えと。それは何のために」

「成果と可否を見るため。とだけおっしゃっていました」


 ロイは唾を飲み込んで恐る恐る尋ねた。


「もしも、その、一週間もこの仲違いが続いてたりなんかしてたら」

「恐らく、大奥様は婚約の解消をお決めになられるでしょう。お嬢様ご本人が望んでいないのならそれも仕方がないかもしれない」


 リズは何か言いかけたロイを手で制すると、彼の目を見て続ける。


「でも、わたしにはそう思えない。私にはお二人はちゃんと想いあっているように思見えた。もし、わたしのこの考えが間違ってなかったとしたら。今回ばかりは荒療治が必要でしょう」

「荒療治?」

「ええ、お二人は互いに相手には自分しかいないと考えている節があります」


 確かに王家が王党派との結びつきを強くしたいと考え、侯爵家が王から信任を必要とするのならウォルフとディアナの婚姻は両家にとって最善なものだ。だが、探せば次善の相手ぐらいは簡単に見つかるだろう。


 最近何かと王城に出入りすることが多くなった聖女、王弟の家系にあたる公爵家のご令息、ディアナの弟、他の王党派貴族。リズが頭の中で思い浮かべた次善の婚約者候補について考えを巡らしていると、ロイが不安そうにこちらを見てきたため一度この考えを保留した。


「よく言うでしょう。嫉妬は恋のスパイスだと。いくらあのお二人だって背中に火が付けば自分から動いてくれるでしょう」

「上手くいくかなぁ」

「勿論。わたしのみでは無理です。なので、王子付きの護衛たるロイ様のお力をお貸しいただけますか?」


 ロイは「無論だ」とも言うように頷くと、手に持ったバゲットサンドの残りを口に放り込む。よく噛みながらリズの言葉を待っている。


「最近は何故かお二人の噂話がよく話されているようですから、今回のことも誰かの耳に入っているかもしれません……ロイ様は誰にも言ってませんよね」


 ロイは「俺じゃない」とでも言うように首を大きく横に振る。


「なら、よいのですが。しかし、お気を付け下さい。この城にはお二人のご結婚を望まない人が少なからず存在するのですから」




 ロイとリズはそれぞれバスケットと茶器を片付けると、それぞれの主たちの所に向かう。二人の結婚がかかっている重要な計画をなすために。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 王城から城下街のロートホルン家の屋敷に続く道を進む馬車の中で、ディアナは市場の喧騒に目を向けていた。大通りの両側には露天商が軒を連ね、まだ日差しが強い中だというのに売り手も買い手も非常に活気に満ちている。

 ぼうっと外を眺めている主人に、リズは声をかけた。


「お嬢様。今日の茶請けのお味はいかがだったでしょうか」

「美味しかったわ。あれも、いつもの御用聞きから買ったのかしら」

「いえ、あちらをご覧ください」

 

 リズが指を差した先には赤い看板を掲げた露店がある。周りの店よりも目に見えて賑わっており、特に若い婦人が多く買いに来ている様子だった。


「一か月ほど前に帝国からこっちに来て、王都で茶の商売を始めたそうですが。お菓子も中々のもので、城下のご婦人方から評判になってます」  

「そう、帝国の方から……あの人たちも紅茶とお菓子を持ってくるだけならよかったのに」


 ディアナは自分の小柄な侍女の方に向き直って続ける。


「ありがとう、リズ。御用聞きにそのお菓子を買い付けておくように伝えておいてもらえるかしら」 

「かしこまりました」

「……それで、ね。その、お茶の時のことなのだけど」

 

 ディアナは自分の明るい色をした髪を弄びながら聞いた。彼女の耳は少し赤くなっている。

 リズは少し気恥ずかしそうにしている主人に「はい」と答えて続きを促した。


「もしかして、殿下に言い過ぎてたかもしれないと思って」

「ご安心をお嬢様。今日のお振る舞いに一つとて瑕疵はありません」

「そ、そう」


 リズは御者の方を一度見てからディアナの目を見て言う。


「お嬢様……お嬢様は本当にこのご婚約を望んでおられるのでしょうか」


 リズの問いに対してディアナ何も言えないでいた。ただ、握った手に痛いほど力を入れて続きの言葉を待っている。 


「もしそうでないのなら。そう、おっしゃって下さい。大奥様はともかく、旦那様なら良いように取り図って下さるでしょう」

「で、でも。結婚はずっと前から決まっていたことでもあるのだし──」

「お嬢様は、エーゼル侯ロートホルン家のご息女でございます」


 リズは大仰に言う。


「不法によってその権利が侵され、不遜によってその誇りが辱められたのであれば、我らは相手が王であろうと皇帝であろうと一戦交えてご覧に入れます」


 馬車の中で器用に片膝をついてディアナに臣下の礼をとった。


「そうだと言うのに。どうして王家の小倅こせがれ如きに何ら憚ることがありましょうか。もし、あなた様がお命じになされば我らは必ずや彼の者に無礼の対価を払わせて見せましょう」


 ディアナは忠実な家来から差し伸べられた手を慎重に取ったが、そのまま引っ張り上げて身を起こさせて席に着かせる。あっけにとられながらも忠義者の不器用なユーモアのおかげで気が楽になるのを感じていた。

 自分は少し気を張りすぎていたのかもしれない。そう思いながらディアナはリズにゆっくりと話しかけた。


「大丈夫よ、リズ。あの方の不器用さは知っているもの。でも、なんだか色々と気にしすぎていたみたい」

「ならば、良いのです。最近のお嬢様は根を詰めていらしゃっていたようですので、これからはもっと気楽にいきましょう」

「ふふ、いいわね。それ。次の春に領地に帰ったら久々に遠乗りにでも出かけようかしら」

「その時は、お供いたします」




 いつの間にか馬車は屋敷のほど近くにまで来ていたようだ。駆ける駿馬の紋章をかたどった金属細工が己の主人を出迎えるように控えている。武門の一族たるロートホルン家の屋敷はその気質を表すかのように武骨な様で構えられている。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 王城の一室でウォルフは山のようになっている書類の束に目を通していた。それは全て彼個人に宛てられたもので、国のあちこちに散らばっている所領に関する代官からの報告書や市参事会からの嘆願書、さる貴族からの息女の売り込みや密告の類、紛争中の有力者からの調停の願い、夜会への招待状など様々だった。


 日も暮れかけており卓上ランプが机の周りを照らしている。一枚、二枚と目を通してはそこにペンで所感や指示、判断を書き込んでいく作業を幾度も繰り返した。部屋にはウォルフ以外の姿はないため、彼が紙を開く音、そこに何事かを書き込み印章を押す音、開いた書類を再び丸めて紐でとめる音しかなかった。


 そんな時間が半刻か一刻ほど過ぎたあたりでノックの音が部屋に響く。


 ウォルフは一瞬だけ手を止めるもすぐにまたペンを動かし始めながら、「入れと」と答えた。使用人に扉を開けてもらいながら、赤毛の護衛騎士が料理が載ったトレーを持って入る。


 ウォルフは一瞥をくれると再び書類を読みながら口を開いた。


「ご苦労」

「ご苦労じゃないですよ、王子。時間になっても食堂の方にいらっしゃらないんで、こっちまで持ってきたんですから」

「そうだったな。それはすまなかった」


 広い机の上にトレーを置くと、ロイは部屋を見渡す。寝室を兼ねた部屋であるはずのそこは様々な書類や資料が入った箱がいくつも置かれていて執務室かと思いたくなるような様であった。

 

 ウォルフは銀蓋を取って今日の夕食に雄鶏の酒煮が入っていることを見ると、少し機嫌がよさそうに声をかける。


「改めて、助かった。夜分遅くに悪かったな。下がっていいぞ」


 ウォルフは何かに気づいたのか、付け加えるように言う。


「それと。悪いが、ランプ用の植物油が切れそうだと伝えておいてくれ」


 使用人は言われた用件を一度復唱すると、ウォルフに頭を下げてから部屋から出て行った。ロイは先に帰っていった同僚に軽く手を振り、働きづめの主人の方に向き直って若干のあきれ顔で言う。


「少しは休んだらどうですか。王子」

「……お前は帰らんのか」

「ついでなんで。トレー、持って帰っていきますよ」


 そういうと、ロイは来客用のソファーに寝っ転がって懐から包みを取り出した。包みを開いて中のバゲットサンドを一つ手に取ると無造作にかじり始める。


「言われずとも。夕食くらいちゃんと食べる」

「さようで……王子。俺のベーコンバゲットと何か一つ交換しませんか。さっき、なかなか美味そうな匂いがしてたもので」

「鶏以外ならな」


 ウォルフは包みごとバゲットサンドを受け取り、それにかじり付く。

 ロイが革製の水筒で水を飲んでいると、ウォルフは沸かしたばかりの湯を二段になっているポットの上層に注いでいる。


「またそれですか」

「まあ、待っていろ」

「王子はほんと好きですよね。それ。ええと、なんて言うんでしたっけ」

「コーヒーだ」


 ウォルフは二段ポットの下層にコーヒーがたまっていくのを待ちながら、どこか得意げに話し始めた。


「いいか、これはこの間のことだが。西の砂漠を超えてきたヴィステ人の隊商キャラバンが献上品として持ってきたのが、これだ。こいつは、どうやら向こうでも最新式の抽出器らしく、中々の優れものでな。これを見てみろ」


 二段ポットの上層を指す。


「湯を入れるとな。まずこの上層部分にたまっていく。そこから網を通して粉が漉され、抽出されたコーヒーが下層にたまる。こうすることでコーヒーの渋みが抑えらるという訳だ。あの渋みも悪いという訳ではないんだがな。お前みたいのは苦い苦いとうるさいものだからな」

「はあ」

「いいから、試しに飲んでみろ。今回は砂糖も用意しておいたからな。お前でも飲めるはずだ」


 ポットから水滴が垂れる音がしなくなったのを確認すると、ウォルフは手自らカップにコーヒーを注ぐと砂糖が入った容器と一緒にロイに出した。


 ロイが二、三、四、五杯とカップに砂糖を入れていく。砂糖の数が増える度にウォルフの眉間のしわは深くなっていくがそれを努めて無視してスプーンでかき混ぜる。砂糖が溶けたのを確認して、カップに口をつける。


「美味しい」

「そうだろう」


 ウォルフはその様子に満足げに頷くと、自分の分を用意し始めた。

 しばらく二人して、ただコーヒーを飲んでいる時間が続く。




 ウォルフは懐からペンダントを取り出した。それをランプの光にかざしながら誰にという訳でもなく語り始めた。


「王族の言葉というものには常に責任が付きまとう。一度口にしたなら最後、誰かが必ず責任を取らなければならん。例え、それが不用意に口を開いてしまったどこかの間抜けじゃなくなくともだ」


 隠すかのように手を顔にあてる。ロイにはそれが自分を握りつぶそうとしているほど力が込められているように見えた。


「ひどい話じゃないか。その間抜けは自分で責任さえをとれなかったくせに……」


 いくらかの沈黙の後、やや気まずそうにしながらもその場で居直ったロイはゆっくりと言葉を選びながら話す。


「俺は、慎重なのは別に悪くないと思う。でも……でもです。怖がってばかりじゃ駄目なんじゃないですかね。ええと。その、いつかは分かんないですけど。た、多分。いや、必ず。言葉にして口から出さないといけない時が来ると思います」

「……」

「確かに、王子は少し言葉足らずですし。いったい何考えてるのか、分からない時もありますが」


 ロイはソファーの横の丸テーブルの上に転がっていたペンと便箋を手に取ると、それを机の上に置いて続けた。


「なにも、口だけが全てじゃ無いんです。王子は、まあちょっと口下手ではありますけど。筆まめな方なんですから。これなら、まだやりやすいんじゃないですか」


 ウォルフは便箋を手元に置くと、腕を組んで眉間にしわを寄せる。目をつむって首をひねったと思えば、亜麻色の髪を両手でをかき上げながら机に肘をついた。


 しばらくそうしていると、ペンをインク壺に入れて早速何かを書き始める。


「そうそう、その調子。なにも詩や歌を書くわけじゃないんですから。肩ひじ張らないで、率直に、思ったことを書けばいいんですよ」


 そう言うとロイは飲み終わったカップをトレー載せると、無言で手紙に向かっている主人に頭だけ下げると出口に向かっていった。ウォルフは気付いていないのかそのままペンで手紙に言葉を書き連ねている。

 部屋にはペンを動かす音とカップとソーサーが当たる音がするだけだった。

 

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 雌鶏が朝の訪れを告げている中で、ディアナは寝惚け眼をこすりながらベッドから這い出る。彼女は東向きの窓にかかっているカーテンを両手で勢いよく開けて、倒れこむように身を椅子に預けた。 

 窓から差し込む朝日を浴び、町中に響いている鐘の音を聞きながら侍女が部屋に来るのを待っている。


 軽快な足音がとともにベルを振り鳴らす音が屋敷を一周したのちに、扉をノックする音が響いた。ディアナがそれに「どうぞ」と答えると、リズが朝食を載せた台車を押しながら部屋に入ってくる。


「お嬢様。朝食をお持ち致しました」

「ありがとう、リズ」


 リズが円テーブルに豚の香草焼きに目玉焼き、パンとバターが載った皿を並べるのを見て、ディアナは胸元まで伸びた自分の明るい茶髪を櫛で梳かしながら尋ねた。

 

「この香草焼きはどこのものを使ったのかしら」

「エーゼル領から取り寄せたものです」

「やっぱりね。香りが違うもの」


 カップに紅茶を淹れて朝食の準備を終えると、リズは手紙の束を持って口を開く。


「お嬢様宛てに、手紙が何通か届いておりますがいかがいたしましょうか」

「ああ、そうね。返事を考えるから。今、読み上げてもらえる」


 ディアナは朝食を口にしながら読み上げさせた手紙の内容に耳を傾けた。

 一通目は、御用聞きからの新商品の売り込み。


「あなたの方で、適当に返事をしておいて」


 二通目は、母親から近況を尋ねられたもの。


「……これは、こっちで書いておくわ」


 リズが三通目を読み上げ始めた。


「んん。

 『ディアナ様へ 

  この所、段々と寒さが増してきておりますが。

  貴方様へおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

  こちらは、父王陛下と王太子殿下、私には過ぎた──」


 ディアナはリズから三通目の手紙を半ば奪うようにして受け取り、差出人の名前を確認する。そこには、第二王子ウォルフラムの名と王家の印章があった。

 彼女は急いで手紙に目を通すと、挨拶と己の近況報告から始まる文章がウォルフらしい几帳面な字で綴られている。


 神と王への忠誠が形式的に述べられた後に、昨日の茶の席に長居できなくなったこと事とその連絡の不備にてついての改めての謝罪がディアナに対してなされていた。彼らしく、詩的な例えなど洒落た表現を一つも含まない文だ。

 ディアナがさらに読み進めていたところで、リズから声がかかった。


「いったい、いかがなされましたか。お嬢様」

「いえ、ごめんなさい。その……て、手紙が、殿下からのだったから……」

「そうでしたか」


 続く文章には、ウォルフが数年前に西方での戦役から戻って以来よく口にするようになったコーヒーについて事細かく書かれている。その偏執ぶりを伺わせる文に少し呆れながらも、ディアナは侍女の手前であるので頬のゆるみを努めて抑えた。


 しばらくは上機嫌に読み進めていたものの、途中から段々とディアナの視線が険しくなっていく。ウォルフからの言葉にはディアナへの小言が増えていき、二枚目には初めから半ばまでが『王城における言葉選びの注意』から始まって『貴族にとっての風聞への対処』を含む小言で埋め尽くされていたからだ。

 先ほどまでは不器用さの表れとして少し微笑ましく思えた文も、今では命令書や行政文書のように思えてくる。


 そして、手紙は『今度の夜会には出席する必要がない』という内容と締めの言葉で終わっていた。ディアナはゆらゆらと手紙から顔を上げるとリズに問いかける。

 

「夜会、主賓は誰だったかしら」

「王子殿下と帝国からの皇帝特使でございます」

「主催は」

「王都のる商会の長であったかと」

「殿下の相手役に足る人間は誰がいるかしら」

「お嬢様……に付け加えるのでしたら。いま城に戻っておられる王女殿下か、あるいは件の聖女……聖師母猊下せいしぼげいかあたりが適当であるように思われます」


 ディアナは『聖女』の言葉を聞いて眉をひそめた。王城の秘め事に彼女が何らかの形で関わっていると噂になっているからだ。


「……父様の今日のご予定は」

「朝の会食後は屋敷にて余暇を過ごされると聞いております」


 ディアナは食堂の方で使用人たちが慌ただしく会食の準備を始めている物音を聞きながら、冷めてしまった紅茶を口にする。彼女はリズに自分の髪を梳かさせながら、手紙にもう一度目を通すことにした。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 

「はあぁ」

 

 くすんだ茶髪の小柄な男がどこか遠い目をしながら、庭園の片隅に植えられた野菜を眺めていた。驚くほど覇気のないこの男はもうすぐ収穫を迎える野菜たちをただずっと見ている。

 何をするでもなく、ため息をついたと思えば首からかけているロケットペンダントを手に取り、泣きつくかのようにそれに頬を寄せた。


 ここが侯爵家の私的な庭園でなければ、彼のすぐ傍に熊のように大きな従者が控えていなければ、その手に駿馬の紋章が入った手袋が握られていなければ、白シャツにさえ着せられているこの男がエーゼル侯ジギスムント・ロートホルンだとは誰も思わないだろう。


「帰りたい」

「年の暮れまでです。辛抱ください、父様」


 ディアナはジギスムントがいるテラスに寄ると、そう声をかけた。ジギスムントが娘に仕草で席を勧めたため、彼女は静かに椅子に腰を下ろす。


「そんなことは分かっているんだよ。私だってね。でもね、こう。毎日毎日、高貴なる方々の相手をしてるんじゃ、嫌になっちゃうんだよ──」


 いつまでも愚痴を続けそうな父親を制するように、ディアナは本題を切り出した。


「二日後の夜会のことですが」

「ああ、商会の所のだね。気を付けて行ってらっしゃい」

「父様にわたくしの相手役をお願いしたいのです」


 その言葉を聞くとジギスムントは明らかに身を固くさせ、探るように尋ねる。


「確か。ウォルフラム殿下と行くんじゃなかった」

「事情がありまして」

「じ、事情」

「ペンダントを返してしまいました」


 それを聞いて彼は青くなりながら続けた。


「じゃ、じゃあ。いっそのこと行くのを辞めるってのはどうだい。あの会に集まっているのは帝国びいきの人ばかりなんだし」

「そう言う訳にも参りません。殿下とお話したいことがあるので」

「なにも、そんなに急がなくても。今度じゃ駄目なのかい」


 ディアナは居住まいを正して頭を下げる。

 

「お願いいたします。父様」


 ジギスムントはどうにかして顔を上げさせようとする。しかし、自分に似ないで頑固で意志の強い娘はこうなったらどうすることもできないと知っていたため、諦めて大きくため息をついた。



 彼は夜会への同行を約束すると一度娘を部屋に戻らせる。

 突発的に夜会のことを反故にしようとして、数歩進んでは諦めてテラスに戻る動作を繰り返すこと五回。やっと決心がついたのか、ジギスムントは残された時間を日光に照らされた野菜たち目に焼き付けることに費やしたのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 夜の王都で爛々と明かりを絶やさない場所の一つに一台の馬車が乗り入れた。

 中からはくすんだ茶髪を横に流してたジギスムントを先頭に四人が出てくる。この日のために仕立てられた白と朱色のドレスに袖を通したディアナは父のエスコートを受けながら、案内を経て会場の方まで通された。


 「エーゼル侯爵閣下とそのご息女並びにお連れの方々がいらっしゃいました」と声が響き、珍しい人物の名に周囲の視線が集まる。

 何か月ぶりかの社交界の空気に耐えられなくなったのか、ジギスムントは無理やり連れてきた従者の背に隠れるとそのまま会場の隅に行ってしまう。


 ディアナは「後ほど」と言って父の背を見送ると、侍女とともに案内人に連れられて女主人の所にまで向かうことになった。


「これは珍しい」

古狐ふるぎつね殿でなく、エーゼルの閣下がいらっしゃるとは」

「どういった風の吹き回しでしょうね」


 会の話題が父のことで独占されている中でディアナは会場を見渡す。大小も形も様々な照明器具で明るくされた庭園には帝国からの輸入品やさらに遠方からの舶来品と思しき品々が用意されていた。

 

 ある婦人は色鮮やかな尾羽をもった籠の鳥で目を楽しませ、ある紳士は蜂蜜酒ミード葡萄酒ワインなどの用意された多種多様な酒を飲み比べている。

 まだ、夕食も配られる前だというのにカード遊びに興じている気の早い男たちもいれば、その後ろで二人の夫人であろう女性たちは噂話に余念がない。


 一通りあたりを見渡していると、恰幅のよい金髪の女主人がいるテラスにまで通されたいた。ディアナは彼女に軽く頭を下げ礼をする。


「お招きいただきありがとうございます。今は居りませんが、父の分も含めてここにご挨拶させていただきます」

「どうもご丁寧に、こちらこそ侯爵閣下とそのお家族にご足労頂き光栄の極みです」


 婦人は顔を寄せて他人には聞かれないように話しかけてくる。


「実は今夜も閣下は来られぬのだと悲観しておりましたの。彼の方はこのような場には中々来て下されぬようなので……それにディアナ様もてっきり王子殿下といらっしゃると考えていたのですが」


 ディアナの胸元にちらりと目をやってから続けた。


「いや、これは方々から聞こえ来る噂に過ぎないのですが。お二人の間に何事かがあったとか、無かったとか……お時間があれば、家の愚息を紹介していとも考えているので──」

「申し訳ありません。父とともに挨拶に伺わなければならない方々がいますので」

「これは失礼いたしました。では、また後ほど」


 ディアナは女主人のもとを離れると恐らくジギスムントがいるであろう人だかりに歩みを進める。彼の姿は見えないものの、人だかりより一つ高いところに彼の従者の頭が見えたからだ。


 従者の鋭い眼光が輝くたびに人の波は寄せては返すを繰り返していたが、まったく意に返さないで近づいてくる男が一人。その人物に、ディアナはついさっき聞いた案内人の「皇帝特使閣下がいらっしゃいました」との声を思い出した。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 黒い長髪を後ろで結っている特使は侯爵家の忠実な下僕を無視してジギスムントに近づく。見下すような目であたりを見渡して侯爵とその娘の姿を確認すると、大げさに礼を取ってから腕を広げ声を上げる。


「これこれは、珍しい方がいらっしゃるじゃないか。まだ暮れにはいささか時期が早いじゃありませんか、侯爵……いや捕鳥官殿」


 特使は給仕から受け取った酒で喉を潤してから続けた。


「いや、なに。貴殿を目にするのは年の暮れの祭事の時くらいかと勝手に追い込んでいたもので。いつもなら屋敷と田舎に引っ込んでいるでしょう。どうしたんですか」


 従者は特使とジギスムントの間に立って射殺さんばかりの目で睨みつけるも、やはりそれを気にも留めていない様子だった。ジギスムントは従者の背に隠れているままでいるため、この口撃は壁を相手にするかのように続いていく。


「挨拶ぐらい返したらどうですか。こっちがわざわざあなた方の作法に合わせてやっているんだから、貴殿にも相応の礼を尽くして頂きたいものです……それとも、なんですか。貴殿は言葉にも不自由するのですか」

 

 ディアナは人波を縫ってジギスムントの方まで近寄って小声で告げる。

 

「父様。無理を言って申し訳ありませんでした……すぐに、ここから出ましょう」


 その言葉にジギスムントは首をただ横に振って、手に持っていたグラスから酒を一気に飲み干すと震えながら口を開いた。


「い、いや。お……王子が。ま、だ」

「震えているじゃありませんか、それはよいのです」


 ディアナが帰りを促そうにも、まったく動こうとしない。それどころか、ジギスムントは手で黙っているように示した。

 当主を飛び越えて言を発する訳にもいかず、ディアナも従者もただ黙って睨みつけるしかなかった。反応の乏しさにいささか興が削がれたのか、特使は手法を変える。


「おお、そう言えばあなたのお嬢さんのこと聞きましたよ。どうやら、王子に愛想つかされたとか」

 

 案内人が王子の到着を告げた。


「そうか、今日は男に縋り付きにいらっしゃたんだ……あぁあ、見苦しい。田舎者の猪おん──」

「閣下。それは言葉が過ぎます」


 いつもは垂らしている亜麻色の髪を後ろに撫でつけているウォルフは感情を感じさせずにそう言った。二つの声がした気がしたが一方の声は小さすぎてかき消されてしまったようだ。特使は振り返って後ろを見ると、自分の肩越しに言葉を返す。


「ああ、王子殿下じゃないですか。お構いなく、挨拶も返してくれない人間にご高説を垂れているだけですので」

「そういう訳にはいきません。ロートホルンの名は我が王国にてその武と忠勇について語られておりますれば、主を同じくする同輩として誤りは正さねばなりません」

「それは何とも無骨なもので」

「閣下に置かれましても。かの地の駿馬と勇士たちを戦場にてご覧になったことがございましょう。」


 ウォルフは軽く咳払いをして続ける。


「そ、それにの家のご令嬢については。その、器量にしても礼儀作法においても言うこともなく。そもそも、他人がとやかく言うことでは……」

 

 特使は体をウォルフのほうに向き直し、大きくため息をついた。


「誤りを正すのなら。あの無礼者じゃないんですかね」

「我が国において、武人は言葉を無駄に弄するものではないので」

「……我々は、友人になれると考えていたのですが」

「互いの敬意があれば、今からとて遅くはないかと」


 特使はそれ以上は何も言わずその場から離れていく。

 ウォルフは割れる人波の中を歩きながら従者の影に隠れているであろう人物に語りかけた。


「侯爵、臣下と君主の名声というものは互いに不可分なもので──」


 そこにいるのがジギスムントだけじゃないと気づいた途端いつもの小言がやむ。

 ウォルフはそこに居るだなんて想像にもしていなかったディアナの姿を認めると、みるみる顔を赤く染めていった。


 ウォルフはやや間を置いてから平静な声色でディアナに問いかける。


「なぜ、君がここに居る」

「それは、同じ事をわたくしがお聞きしたいところですわ」


 ディアナはハンカチで汗まみれの父をの額を拭いながらそう返した。ジギスムントは娘とウォルフの間で幾度も視線を行き来させるだけで何も言えず、二人の家来もただ見守っているだけだ。


「俺は兄上の名代としてここに来ている。参加は絶対だ……それよりも、今度は確実に伝えさせた筈だが」

「ええ、手紙はお読みしました」

「なら、どうして」

「今日は父とこちらへ招待されたのです」


 ウォルフはその言葉を聞くとジギスムントの方へ一瞥をくれる。ジギスムントはしどろもどろになりながらも、どうにか首だけを動かして肯定した。

 息をいて続ける。


「そうなら、そうと言ってくれれば……」

「殿下。そろそろ後ろの方をわたくしにもご紹介頂きたいのですが」


 ディアナはウォルフの後ろに二人の騎士とともに控えていた銀髪の女性から目線を外さずにそう言った。その女性はこの場に似合わぬ白の修道服に黒いケープを(まと)いながら興味深げにディアナの方を眺めているようだ。

 ウォルフは一つ咳ばらいを挟んで紹介を始める。


「こちらは、いま王城にて逗留して頂いてるベルナデット聖師母猊下でいらっしゃいます」


 ジギスムントなんかはウォルフからの紹介を聞くと今にも膝をついて祈り出そうとするまで感激している様子だが、ディアナはますます目に敵意を募らせるとやや不機嫌そうに組んだ腕を指で叩いていた。

 紹介を受けたベルナデットはディアナたちの前に進み出て、丁寧に礼を取ると涼やかな目元を伏せながら口を開いた。


「本日は名誉なことにもウォルフラム殿下にご相伴にあずかるのみならず。こうして、エーゼル侯爵閣下とのお目通りが叶い感激しております」

  

 顔をディアナの方へと向けると言葉を続ける。


「侯爵家のご令嬢のご評判はたびたび私の方へまで聞こえておりました。北の姫君の噂に何ら違う所なきお姿を拝することができて大変光栄でございます。ディアナ様」


 その聖職者というよりも貴族的な礼を受けて、ディアナは小さく息を吐いてからベルナデットに同じように貴族的な礼を返した。そのまま、彼女は目をまっすぐと見ながら話し始める。


「かくも名高き聖師母猊下から直接そのようなお言葉を賜ることができて嬉しい限りでございます。わたくしめの不見識ゆえに猊下に対して礼を失する時もあるやもしれませんが、その時はこの未熟者へのお導きをお願いしたく思っております」

 

 ディアナは何かを決めたように一度め閉じてから続けた。


「猊下には一つお聞きしたきことがございます。多忙な身でいらっしゃることは重々承知しておりますが。どうか、お時間をいただきたく」


 ディアナがそう口にするのを聞いてジギスムントもウォルフも慌てた様子だ。

 ウォルフはその言葉を聞くや否や顔色を赤や青へと変えていた。

 彼がディアナの方に駆け寄って何事かを言おうとするのを制したベルナデットは控えていた騎士に目配せしてから答える。


「未だ修道の半ばへをも至らぬ身ではありますが、私にできることであれば……すぐに部屋を一つ貸して頂けるようお願いするので、そちらにて」


 ベルナデットはそういうと女主人に話を通して客間の一つを貸してもらうと、ディアナとともに案内を受けた。案内人は二人のただならぬ様子に恐縮しっぱなしだ。 

 ウォルフは何か言いたげであったが、ディアナから「また、後ほどに」と告げられてからは黙って二人たちを見送った。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 部屋の表に一人を立たせもう一人の騎士に何かを言い付けるとベルナデットはディアナに着席を促す。

 案内されたのは屋敷の主がいつも商談に使っている客間らしく、上等ではあるが決して嫌味を感じさせない調度品の数々で飾られている。二人は騎士も侍女も下がらせてから向かい合って席に着いた。


「人払いをさせておきますので、この場では儀礼や作法についてはあまり気にし過ぎないで下さい」


 ベルナデットはつい先ほど淹れてもらった茶に一度口をつけてから言う。


「それでは、いかなる御用でしょうか。神についての問答ではないのでしょう」

「恐れ入ります。猊下……いえ、聖女様はいかなる目的をもって殿下にお近づきになられているのか。それをお聞きしたく」


 その言葉を聞いてベルナデットは目を細めた。


「目的ですか。恐らくは、あなた方と変わりないかと」

「それは、いったい──」

「王家の人間に貸しを作っておく。下らぬ風評が飛び交うことになりましょうが、それを差し引いても余りあるものです」


 彼女はカップの中身をスプーンでかき回している。 


「でも、あなたが知りたいのはそういう事じゃない……王城の住民たちの昨今の慌しさ、王太子夫妻の隠棲、第二王子の隠し事、私という城の闖入者ちんにゅうしゃ。世の噂好きが口にしてるような事」


 ディアナからはカップに隠れたベルナデットの口元がよく見えなかったが、クスリと笑っているように見えた。


「そういうことでしょう……でも、まぁ。ご安心を。我々には侯爵家と席争いをする気は全くありませんから。それに、私としても何処かの誰かのように修道の誓いを捨てるつもりもありませんし」

「……」

「私の口からすべてを話すことは叶いませんが、少なくとも教会は両家のご婚姻に祝福申し上げるとだけ言っておきます」


 ベルナデットは目の前の少女の様子を興味深げに眺めながら続ける。


「どうでしょうか。これで、この件についてはご納得頂けませんか……まあ、侯爵家はともかく。あなたはそう簡単には納得しかねる所でしょうが」

「……わたくしはこれまで努力してきたつもりでした。でも、最近はなんだか少し自信が持てなくって」


 ディアナはらしくないと思いながらも弱音を吐いてしまう。その声は叱られた子供のようで、目線を彷徨わせながら一つ二つと口に出していた。


 家のこと。昔のこと。己のこと。

 国のこと。今のこと。彼のこと。

 

 大切な友人でずっと一緒に居た侍女にだって言ったことのない事まで話してしまっている。しかし、一度口から出た言葉は飲み込めない。

 ベルナデットはそれに小さく頷きと同意を加えながら聞いていた。彼女は聖職者としての本分を果たし終えてると、ゆっくり話しはじめる。


「あの帝国人ではないのですが、あなたは猪みたいなお人ね……これは、決して皮肉ではなく。あなたは何があっても前へ進める、そんな強い人。でも、今は進むべき道を見失ってしまっている」

「道ですか」

「ええ道です。でも、道などいくら間違えても良いのです。どこに行くべきかさえ分かっていればね。ディアナ様、あなたはどこへ行きたいのですか。」

「わたくしは──」


 ベルナデットは彼女を手で制した。


「まだ、言わないで。力強く前へ進めるのはあなたの美点でしょうが、時には立ち止まって考えることも必要です。それは、ゆっくりと言葉に変えてください」

「……ありがとうございます。聖女様」

「いえいえ。それと、聖女やら猊下なんて言わず。ベルと、お呼びください。私には名前で呼んでくれる人が少ないので。最近は寂しいんです」


 ベルナデットはわざとらしく笑って見せると、居住まいを崩してカップに残っていた茶を一気に飲み干す。


「では、お言葉に甘えさせてもらって。ベル様と」

「ふふ。では、これはベルナデットとしての言葉なのですが。わたしもの殿下の心配性と秘密主義には辟易しておりまして……下らぬ噂と言っても、そんなもの無いに越したことはないので、そちらの方で払拭してもらえると助かります」


 そう言い残すと、ベルナデットは一度透き通るような銀色の髪をかき上げてから身なりを整え、ディアナに断って席を立って出ていく。控えていた騎士に二三告げ、最後にもう一度振り返って手を振り、扉の向こうに消えていった。


 扉の奥にある会場の方ではいまだ喧騒が尽きず、宴もたけなわに王都の夜を賑わせているようだ。


 騒がしい宴の喧騒から離れる人物が一人。

 黒髪の男は心底見下げるような目つきを庭園の馬鹿騒ぎに向けながら、壁のそばをなぞるように歩いている。灯りもここまでは届かない。


 彼が月明りを頼りに歩いていると、悪趣味に感じられる騎士の像の陰に誰かがいることに気づいた。「誰か」と問う前に小柄な人影が口を開いた。


「お待ちしておりました。特使閣下」

「あいにく灯りが無くてね、失礼でなければ先にご紹介頂けると助かる」

「これは大変失礼いたしました。わたしはロートホルン家にてディアナ様の侍女を務めさせて頂いている、リーゼロッテ・モントラーベと申します」


 特使は小さく頭を下げて礼を返す。


「……それで。こちらからも挨拶が必要かな」

「いえ。閣下のことはよく存じ上げておりますので」

「そうか。なら、そろそろ用を聞こうか」


 リズは肩から下げていた鞄に手に入れ、中から束になっている手紙を取り出した。彼女は歩いて特使に近付き、それを彼に差し出す。手紙の封は破られておらず、外からは書かれている宛名が分かるだけだった。


「こちらが誤って当家に届けられていたようでしたので」


 特使は手紙を受け取ると、月明りを頼りにそこにある封蝋が自分のものであることを確認する。四つの手紙のうち三つが特使が送ったものであり、残りの一つは汚い字で宛名に彼の名が書かれていた。


 特使は見せないように息を吐く。手紙を懐にしまいながら、彼は暗がりでこちらをじっと見ている小柄な少女に声をかけた。


「確かに、これらは私が書き送ったもので間違いない。何かの手違いでそちらに届いてしまったのだろう」

「そうでしたか。うっかりと封を破ってしまう前に気付け、幸いでした」

「ああ、それとだ。モントラーベ嬢。この一枚。書かれている差出人の名前に、心当たりもないし。宛名の綴りも誤っている。悪いが、そちらで処分してもらいたい」


 リズは特使から粗紙が使われている手紙を受け取って聞き返す。


「よろしいので」

「そういう類の手紙は日に何十通と来るのでね。それに、私もそれらすべてに目を通すほど暇じゃない」


 特使は辟易とした顔を作って見せ、わざとらしくため息をついた。懐に手を入れ、リズの方に歩み寄る。


「ところでだ。本当に手紙の内容を読んでいないのかを聞きたいのだが」

「それは、わたしの言葉を信用してもらう他にありません」

「信用ね、──」


 あと数歩で伸ばした手の届く距離に至ろうとするとき。

 馬車の繋ぎ場の方から「お二方、いかが致しました」とよく響く声が届いた。


 外套を纏い、手に持った携帯ランプの灯りが照って常よりも目立って見える赤毛の騎士が小走りでやってくる。特使は目の前の騎士がランプを持っていない方の手で、隠すように外套の下で剣の柄を握っているのを認める。


 特使は肩をすくめて少し離れる。


「いや、問題ない。見回りご苦労……君は、王子殿下の従者だったかな。殿下に宜しく伝えといてくれ」


 そういうと会場の出口の方へと去っていった特使を見送ると、リズは少しバツの悪そうにしているロイの方に向き直った。

 

「誰に似たのか、心配性ですね」

「え、えと。あのぉ」


 リズはごまついているロイから強引にランプを受け取ると、先導するように出口とは反対側に歩き始める。ロイも慌てて付いてきた。


「会場に姿が見えませんでしたが」

「王子には、聖女サマの騎士が付くようなので。俺は馬車の方に」

「なるほど。その聖女様は、お嬢様と会っていらっしゃていましたが」

「はあ」

「……馬車の方へは戻らなくてもいいの」

「人に少し任せてきたので」


 会場の喧騒が判別できる声として耳に届くか届かないか位の場所に至って、ロイは急に立ち止まった。ずっと剣の柄は握ったままであるし、顔も赤い。

 

「き、今日のドレスは、いや。今日も、リズさんはお奇麗です。その緑色のドレスもよくお似合いで。なんか、俺」

「ロイ様も、素敵でしたよ。まるでお話の騎士みたいで」

「いえいえ、そんな──」


 ロイの言葉をかき消すような歓声が聞こえてくる。二人は自然と主人たちがいるだろう所に目を向けた。


 恐らくそこでは、二人の不器用な主たちが事を決しようとしているのだろう。

 数年間の、数か月の、一週間の二人の時間の。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


「お待たせ致しましたわ、殿下」


 ディアナはペンや測量器などの帝国からの産物を眺めていたウォルフに声をかけると、手に持っていたグラスの一つを渡した。

 二人は常の決まり通りに神と王への文言を唱えた後で、互いのグラスをあてて乾杯をする。


「殿下。本日はあなたにお聞きしたいことがありまして」

「そうか……いや、待ってくれ。私の方でも、君に言っておかなくてはならんことがあってな。どうする」


 ディアナは息を一つ置いてから答えた。


「殿下からどうぞ。私の方は、その。少し時間がかかりそうなので」

「前もって断るが。やはり、何もかも話すという訳にはいかん。それでもいいか」

「承知しております」


 ウォルフは懐からペンダントを取り出すと、それを温かみを感じさせる瞳を向けている。金の金具に収められた碧水晶を優しく撫でた。


「思えば言ったこともなかったが。これはな兄上からの贈り物なんだ。」


 彼は自分の首にペンダントをかけて見せた。

 ディアナの目から見てそれは決して飛び抜けて高価な品には見えない。もちろん、宝飾品としての価値はそれなり以上のものであろうが、一国の王子それも何時かの国王と目されるような立場の人物が身に着けるにはやや違和感があるものだ。


「十年以上前だ。俺が珍しく風邪をこじらせてな。それも、教会の癒しの奇跡も効かん類のものだ。そんなときに兄上は病の平癒を願って、これを下さった」


 ウォルフはペンダントを右手で握りしめると心臓の在るあたりによせる。

 

「兄上はな義姉上と一緒に俺の手を握っていて下さったんだ。温かかったよ。俺は感じるんだ。これを手にする度に、あの時の温かさを。それ以来、戦場でも何処でも俺はペンダントに救われてきたように感じたんだ」

「殿下、それをわたくしに──」


 ウォルフは手でもう少しだけディアナに言葉を待ってもらった。


「いや。本当はな、これも俺が言わねばならなかったことなんだ。でも言わなかった。違う、言えなかったんだ。ずっと怖かったんだ……俺はずっと未熟で子供だったから。責任すら取れない子供だ」

 

 彼は手に今一度力を込めた後で、ディアナの方へと向き直る。その目にはいつも以上に強い意志が感じられ、同時に揺れても見えた。


「ディアナ。俺は、自分が王になると思っていないし、なろうとも思わない。侯爵家にとっては約束違いかもしれん」


 ディアナにはその言葉から彼の怯えをを感じる。


「それに、君にとっても。きっと強いられた努力を台無しにされたと感じるかもしれんが。でもだ、それでも。俺が君の婚約者でいいのなら、これを」


 そう言いながらウォルフは改めてペンダントをディアナの前に差し出した。


 ディアナはペンダントごと彼の手を凍えた身体を温めるように両手で包む。目を合わせながら、彼の手の震えが収まるのを待ってからディアナは口を開いた


「何で王都に残っているのか、考えていたんです。家のためじゃない、王妃になるためでもないんです。あなたと居たいから、なんです」

「ディアナ」

「あなたと居たいから、王妃にだってなってやる気だったのです。ウォルフ、あなたはどうなの。あなたも……」


 ウォルフは深呼吸を一つする。


「俺は、初めてペンダントを渡した時から変わらないつもりだ。相応しいとか、相応しくないじゃなく、君に俺と一緒に居て欲しいんだ………君のことが、好きだから。いつからか、何でだったか君が愛おしいから。誓わさせてくれ、ディアナ」

「はい、殿下。心からの愛と敬意をあなたに」


 ウォルフはディアナの首にペンダントをかけ、跪いて彼女の手の甲に口づけする。


「我が神と王の名に懸けて、俺は全身全霊をかけてあなたへの愛を捧げ、生涯にわたって君のすべてに敬意を表することを誓う」 




 どっと会場がわく。今の今までは固唾を飲んで見守っていた聴衆もついに抑え気なくなって、次々と歓声を上げた。

 ある人は涙ぐみ、

 ある人は祝福を上げ、

 ある人は踊り、

 ある人は賭けの勝利を喜び、

 ある人は触発されたか隣の誰かに愛を告げる。 


 それぞれが各々の形で喜びを表現して、王都の夜をますます騒がしいものにするのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 件の夜会から二日経た昼下がり、王城の一室でウォルフは手自らコーヒーの用意をしている。挽いた豆が入っている二段ポットの上層に湯を淹れて、下層にコーヒーが溜まっていくのを待ちながら上機嫌に口を開いた。


「君にこれを見せるのは、始めてだと思うが。前に伝えてた抽出器だ。少し前に砂漠からのキャラバンが王都にまで来たことがあったろ……その、キャラバンの献上品がこれだ。私は陛下から下賜されたのだが、そこで──」


 ディアナは常になく口の回る自分の婚約者の話を頷きと相槌を交えながら聞く。

彼の話は初めてコーヒーを口にした時の驚きから始まり、自分で淹れた時の失敗談、コーヒーに対する社交界の無理解への憤り、淹れる時のちょっとしたコツに至ったところで、ディアナは彼の話に口を挟んだ。


「……そろそろ、二人が飲めるくらいには溜まったのでは」

「ああ、そうだな」


 ウォルフはポットの蓋を開けて中身を少し見てから、二つのカップにコーヒーを注いでいく。カップからは湯気と共にコーヒー豆の香りが部屋を漂う。

 彼はカップを載せたトレーをディアナが持参した菓子の載った皿の隣に置き、自分も彼女の対面の席に着いた。


「香りは中々良いものですね」

「ふふ、香りだけじゃないさ」


 コップから上がる香りを楽しんでから、少し口をつけてゆっくり味わう。


「少々、苦みというか渋みがありますね」

「飲みずらいか。なら、砂糖を入れたりミルクを差すといい」


 ウォルフは自分のカップに砂糖を一匙とミルクを注いでから、砂糖とミルクの入った容器をディアナの方に差し出した。彼はカップを匙で軽くかき回してから、コーヒーを味わう。


「どうだろう。これなら、苦みと渋みを抑えながらコーヒーの風味を楽しめると思うのだが。入れすぎると砂糖菓子みたいになってしまうのだし」


 ディアナは改めてコーヒーに口をつけた。


「これは良いですね。わたくしにはこの位がちょうど良いみたいです」

「そうか……よかった。君が持って来てくれたこの菓子も美味しいよ。甘すぎないからコーヒーにもよく合う」

「そうですか、お楽しみいただけたなら。大変光栄なことです」


 ディアナはもう一度コーヒーを味わってから、心の中で侍女を褒める。


「こちらは、リズが教えくれたものなのですの。あの子、城下街でする買い物が趣味みたいでね。こうして、いいお菓子を見つけたら教えてくれるんです」

「『リズ』というのは君の侍女だったか。彼女にも美味しかったと伝えといてくれ」

「ええ、必ず……今日はどうしたんですの。夜まで時間を空けておいてくれなんて。それに、先ほどから妙に落ち着きがないようですが」

「それは、だな」


 その時、扉を乱雑に叩く音が二度した。ウォルフはそれを聞き、声で答えるより早く扉に駆け寄る。勢いよく扉を開くと、目の前にいた使用人に急いで尋ねた。

 

「用件はッ」

「で、殿下。かかる慶事を、お伝え申し上げられることについての喜びを──」

「前置きは要らん」

「王太子ご夫妻のお子が無事お生まれになりました」


 長らく子の居なかった王太子夫妻に第一子が誕生したという知らせは鐘の音とともに王都中を駆け巡る。この知らせは王都の人々をお祭り気分にさせ、つい先日まで口々に語られていた第二王子の婚姻話をご婦人方の四方山話よもやまばなしに変えてしまった。

 つまり、ウォルフとディアナの結婚は『未来の王と王妃の結婚』は『王家の次男と地方貴族の娘の結婚』になったということだ。

 

 王国の未来の跡取りの誕生に一番喜びを感じているのは目の前の婚約者じゃなかろうかと、ディアナには思えた。

 ウォルフは知らせを聞くや否や握った手を振り下ろして「よし」と、いささか貴族的な礼儀に欠けた振る舞いを見せる。常になく大きな声で笑って見せると、呆けているディアナの手を取った。


「聞いたか、ディアナ。我が、甥か姪かの誕生を。今日は、このために呼んだんだ。陛下に君の臨席の許しも得た。さあ、早く。準備を」

「……陛下にお目にかかることになるようでしたら、前もって言ってほしくはありましたが。まずは、未来の陛下に幸あれ、と申し上げさせて頂きます」


 二人は城の廊下を小走りで進んでいく。王城のあちこちで鐘が打ち鳴らされ、楽師や詩人が祝いを歌う。書記官はペンと紙を抱えて走り、使用人たちは踊りを踊る。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


「何だか、すごい騒ぎですね」


 主たちが居なくなった部屋で後片付けをしていたリズにそう声がかかった。


「酒瓶を抱えている誰かさん程ではないと。思いますよ」


 ロイはボトルを片手に持って立っている。へへと少し肩をすくめて笑うと、テーブルの上にボトルと二人分のグラスを置いた。

 リズが見たところでは中々上等なものだ。


「リズさん。葡萄酒ワインは気に召しませんか」

「飲まないとは、言ってません」

「そうですよ、こんなにめでたいことは。お酒を飲んで祝わまきゃ」


 二人で片付けと準備を済ませ、乾杯をはじめる。


「お二人の未来と」

「二人の未来に」


 小さく音を鳴らしてから、グラスに口をつけた。リズはほんの一口、ロイは半ばほど飲んでから二人の酒盛りは始まる。ロイは肴に持ってきたチーズをつまんでいる。


「ロイ様はずいぶんと楽し気ですね」

「だって、そうじゃないですか。こちらの殿下もそちらのお嬢様も何だかんだ上手くいったんですから」

「ですから?」

「ほら、あの。ロートホルン家の大奥様の」


 リズはグラスを傾けながらロイの顔を見た。酒がもう回ってきているのか髪だけでなく顔も赤く染まってきている。


「ええ、恐らくは大奥様はご協力して下さるでしょうが。それはあくまでもお力添えまで」

「……」

「父から結婚の承諾を得るのはわたし達なのですから。ちゃんと許してもらえるのかはあなたに掛かっているんですよ」


 ロイの居住まいが正される。


「勿論。分かっているよ。分かっているけど……はあ、本当に俺で大丈夫かな」

「何度同じことを言わせるんですか。いいですか、ロイ。あなたは陛下直々に叙された立派な貴族です。他者と比べて格式と伝統にに劣ることはあれど、その誇りに誹りを受けるいわれは無いんです」

「リズさん……」


 リズは残ったワインを一気に飲み干し、席を立ってロイの背を叩いた。


「いいですか、さしあたっては大奥様のことです。わたし達の結婚がいかに侯爵家に益があるかを説くことが重要です。の御人の意向があれば、父が何を言ってこようが問題じゃありません」

「自信満々だね」

「われら二人であれば、なしてなせぬことなぞないのですッ」


 赤ら顔の家来のたちの企みは王城の一室で繰り広げられていたがそれを知るものは誰もいない。王城の騒ぎは彼らの声を打ち消していたからだ。

 

 この馬鹿騒ぎはきっと夜になっても終わらない。



 ここまでご覧頂き誠にありがとうございます。

 少しでもこのお話を楽しんで頂けたなら幸いです。

 また、ご感想などは気軽にお送り下さい。

 それらは、私にとって大変励みとなるものでありますので。

 また機会があれば私のお話を読んで頂けるとありがたいです。

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