表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

竜昇りて神となる

作者: 沢藤南湘

竜昇りて神となる



 七八一年、藤原四家のうち式家の藤原百川さまの後押しにより、桓武天皇が誕生いたしました。

 それにより、式家の藤原種継さま、藤原仲成様父子も天皇の信任を得ていましたが、一方、政権を朝廷の手に戻そうとします天皇は、和気清麻呂さまや北家の藤原小黒麻呂さまらの提言を受け、気学における四神相応の土地相より長岡京から東北に位置する場所の平安京へ遷都したしました。

 都は、東西に四.五キロメートル、南北に五.二キロメートルで朱雀大路の北の突き当たりに道真たち貴族や役人が出仕する大内裏があります。

 その大内裏は高さ二メートルほどの築地塀で囲まれ、天皇の住居の内裏と今の国会議事堂にあたる朝堂院、そして宴が行われる、重要な国家的儀式が行われる大極殿、公式の行事が行われる内裏の正殿の、そして周辺には各役所の建物が建ち並んでいます。

 それぞれの役所の役割ですが、中務省は禁中の庶務をとる役所で天皇に近侍して、詔勅,宣下、叙位のことなどを司り、式部省は、 国家の儀式、文官の考課 、官を授け位を叙す、禄賜など人事一般を司りました。被官に大学寮,散位寮があり、長官である式部卿には四品以上の親王が任じられ、その下の大輔,少輔には,儒者で主上に読書を教授する侍読をつとめたものが任じられます。

 治部省は、氏姓・系譜にかかわる訴訟,五位以上の官人の相続・婚姻,祥瑞,喪葬,外交,寺院・僧尼に関すること、雅楽寮、寮と諸陵司、喪儀司の2寮2司を管轄しています。

 民部省は、全国の戸籍・賦役・田畑・水利・道路など、広く民政全般、特に財政を担当し、管轄下には、諸国から貢上される調庸など中央財政を管轄する主計寮と、諸国の田租など地方財政を管轄する主税寮を置いてます。

 兵部省は武官の人事ならびに軍事に関する諸事を、刑部省は、訴訟の裁判,罪人の処罰を司り、 大蔵省は租税や貢献物の管理出納を、宮内省は宮中の庶務を担当で合計八省です。

 この町は、大路、小路によって一辺が四十丈(約百二十メートル)と正方形に区画されており、更に東西に四等分、南北に八等分した三十二分の一町がといい、政府が人々に宅地を分け与える基準単位としています。

 この中で、貴族の屋敷は庶民とは比べものにならないほど広く立派で、四脚門を入ると寝殿(南側は接客場所、北側は家族の部屋)、東対、西対、北対(対は、屋敷の主人や家族の御座所として、また儀式や接客の場としても使用)の建物が有り、それを渡殿という渡り廊下でつながっています。また、中門廊というものが有り、寝殿造の外郭と内郭を区切る廊下になります。

 一方、豪勢な貴族たちとは異なり、庶民の身分が低い人たちの住居は、板を打ち付けただけの掘っ立て小屋で、また、地方に行きますと依然として竪穴式住居(地面を掘り、そこに床と壁、屋根を設置したもの)という粗末な所で生活をしていました。

 その桓武天皇の治世から五十一年の間、埴輪や土器の製作の職務で朝廷に使えてきた土師氏に不満をもった殿は、菅原の姓を賜わりそして、菅原家を中流貴族として地位を築き上げたのです。

 その後、古人殿の四番目の息子殿(道真の祖父)は役人として、(この平安時代では、擬文章生を経て、式部省の文章生試に合格した者をいう。このうち二名が選ばれて文章得業生となり、秀才・文章博士となる。)から、になりました。

 それから、(大学寮の判官。大・少允があり、それぞれ正七位下、従七位上相当官に、その大学寮は式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関であり、官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式であるを行った)となりました。

 そして、延暦 二十一年 (八百二)に遣唐判官兼近江権掾となり、同 二十三年三月に遣唐大使藤原葛野麻呂に従って、最澄や空海らとともに入唐、翌年帰朝しました。

 その後、大学助(大学寮の次官でなどを経て大学頭(大学寮の長官で従五位上相当官。)、(大学の学科の一つである文章科(歴史、漢文学)の教官の長)となりました。

 

 一方、嵯峨天皇が創出した賜姓源氏即ち自らの皇子女のうち母の出自が低い者に源朝臣の姓を与えて、皇族の身分から臣下へ移す措置で、最初の一人、源潔姫が藤原良房さまとご結婚したことにより、藤原氏は貴族社会に大きな影響を及ぼすことになったのです。

また、源氏姓の者たちは、まずは官人として公卿の手前の四位を与えられたことにより、将来藤原氏とともに無視の出来ない勢力を形成するのでありました

八一〇年、嵯峨天皇は、藤原冬嗣さまをさまとともにに任命されました。

 国家組織とその役職ですが、官職は次の二官で、祭祀担当の神祇官と国政担当の太政官です。

 太政官は左弁官局管轄の省、省、省、民部省と右弁官局管轄の省、省、大蔵省、宮内省から組織され、、、、の四階級に分かれています。

  長官は、常設の地位ではなく、則闕の官とも呼ばれていました太政大臣、行政最高責任者の左大臣、その補佐の右大臣そして左右大臣の政務を代行する内大臣になります。

 次官は、大臣不在時に政務を取り仕切り、天皇に近侍して,奏上,宣下のことをおもな職掌とする大納言、中納言そして、参議です。

 参議以上が公卿と呼ばれていました。

 判官は、左弁官局を司り、下に四省を持つ左大弁、左中弁、左少弁で、右弁官局を司り、下に四省を持つ右大弁、右中弁、右少弁。そして、少納言局を司る少納言です。

 主典は、左弁官局に属して事務を行う左大史、左少史、右弁官局に属して事務を行う右大史、右少史

 そして、少納言局に属して書記を行う大外記、少外記です。

 一方、位階ですが、親王は一品から四品の四階で、臣は最上位の正一位から最下位の少初位下まで全部で三十段階に分かれていました。

 位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則としていました。

  上から、正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位、正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下、正六位上、正六位下、正七位上、従七位上、従七位下、正八位上、 正八位下、 従八位上、 従八位下、大初位上、 大初位下、少初位上、 少初位下となります。

 

 弘仁九 年(八一八) 三月、天下の儀式の男女の衣服を改める詔が、清公殿の進言によって下されました。

 文官は束帯で両脇を縫い閉じたの袍を着て石帯でしめ、の冠を被り、左腰に太刀を差し、懐にと、手にはを持ち、の(牛革製黒塗りの靴)をはきます。また、武官は、の袍を着て、(けんえい)の冠を被り、背に矢、手には弓を持ちます。

 また、平服は直衣か狩衣を着て、をかぶります。

 宮廷内に住む女官の装束はです。

 一方、庶民の男たちは(麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地で作った粗末な服)や(上半身は前合わせの着物で、下半身はズボンのようなもの)を着て、女は小袖に腰布を巻き付けています。

 

 清公殿は承和六年 (八三九)、従三位とさらに出世します。

 清公殿の息子の一人に殿がいました。

 幼い頃から頭脳明晰で、十一歳にして殿上に侍し、常に嵯峨天皇の前で書を読み、詩を作ったりしておりました。

 承和二年(八三五)文章得業生となり、その四年後「対策」に及第して従六位下から正六位上と三階級特進、大学允/助・大内記を経ております。

 その三年後、(八四二)さま、さまらが謀反をくわだてたとして、二人は隠岐、伊豆にそれぞれ配流されました。

 この結果、両氏がおしていた恒貞親王さまはその座を追われ、藤原良房さまのおしていた仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王さまを皇太子に立てることに成功(承和の変)したのです。

 中央政府の覇権争いの中で、承和十一年(八四四)是善殿は従五位下に昇進しました。

 この秋の重陽の日、仁明天皇が紫宸殿で開いた宴に是善殿も呼ばれておりました。

 出席の公卿たちは、杯に菊花を浮かべた酒を酌みかわし、長寿を祝っていました。

 そして、仁明天皇は皆に詩をつくるよう命じられました。

「「なかなか、皆のものよくできた」と帝が言われています」と蔵人が公卿たちに向かっていいました。

そして、「「この中で一番は、菅原是善殿」とのことです」

「菅原是善殿、御前に」

 仁明天皇はひれ伏した是善殿にいわれました。

「これからも精進するよう」

 是善は屋敷に返って、伴子にそのことを伝えた。

 伴子は喜んだ。そして、いった。

「私にまた子が出来たようです」

「それは良かった。まずは飯にしようか」

「はい、今支度をさせます」

 是善たち貴族は、白米の飯、わかめ汁、鮎の煮付け、鯛の和え物、アワビのウニ和え、寒天、枝豆、清酒、酢、塩で、下級の役人は玄米の飯、青菜のみそ汁、鰯の煮付け、蕪の酢の物、キュウリの塩漬け、糟湯酒、塩を食しています。

 一方、農民や商人たち庶民はヒエやアワを主食としていますが、それも非常に少ない量を食べるのが一般的で、おかずは雑草を茹でたものや、塩などです。

 

 翌年の一月、是善は文章博士に任ぜられました。

 そして、是善にとっての四男の道真が生まれました。

「賢そうな子だ」是善が道真(幼名をといったがここでは道真と呼ぶ)の顔をのぞき込んでいった。

「あなたさまそっくりですわ」と道真の母、伴子(伴氏の娘であったが、名は不明のため、ここでは勝手につけた)が答えた。

「そうか、将来は菅原家の大黒柱になってもらいたいものだ」

 道真は体が弱く、良く病に患わされた。

 三年後の夜、

「苦しい、たすけてお母さま」

「道真、どうしたの」

 伴子はすぐに是善の寝所に行った。

「あなた、道真が・・・」

「どうした」

「早く来てください」

「道真、どうした」

「お父様、苦しい」

「わかった、すぐに殿を呼びにやろう」

 半時過ぎて、陰陽師の忠行が荷を担いだ一人の若者を連れて、息を切らしてやってきた。

「物怪が移っておるぞ。晴明、早く支度を」といった。

 晴明と呼ばれた若者は、道真が寝込んでいる部屋の一角に三本垂らしたととともにつけられた簡単な注連縄で囲を作り、祭壇を組みたてた。

「お師匠、準備が出来ました」

「そうか」と忠行が答えて道真から離れ、祭壇に行き、箱宮の扉を開き、お札と三角に折った紙の包みをそこに入れ、白の浄衣に紙を綾にしたかつらのようなものを若者から受け取り、それをかぶって、唱えだした。

「オン、アボキヤ、ビロシャナ、マカボダラ、マニハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤウン・・」

 それが終わると、道真の顔を覗きこみ、

「リン、ピョウ、トウ、シャ、カイ・・・」大声で呪文を唱えた。

 そして、懐から取り出した細かく切られた紙を掌に載せ「やっ」たに息を吹き付け、「立ち去れ!物怪!と叫んだ。

 すると、その紙が蝶のように道真の周りを舞い始めた。

 半時ほどして、

「晴明、帰るぞ」と忠行はいった。

 そして、伴子から渡された謝礼を懐に入れて、帰っていった。

 伴子は必死に観音菩薩を祭った近くの寺に、朝、昼、晩と詣でて祈った。

「世尊妙相具、我今重問彼、仏子何因縁、名為観世音、?具足妙相尊、偈答無尽意、汝聴観音、善応諸方所、?弘誓深如海、歴劫不思議・・・・・・・・・・・」

 陰陽師の忠行と母の祈りの甲斐あって、道真は日に日に快復へ向かっていった。


 是善が仕事から戻ってきた。

「お帰りなさいませ。あなた、道真が元気になりました」

「そうか、道真の顔を見てこよう」

 戸を開けると、ほの暗い部屋に道真が机に向かって、書物を読んでいた。

「道真、もう勉強か」

 道真が振り返った。

「父上、お帰りなさいませ」

「道真、まだ病み上がりじゃ。横になって休んでいなさい」

 伴子が心配そうに言ってから、

「そなたは観音様によって、病を克服することが出来たのじゃ。そのお礼に、成人したら、お寺に寄進しなさい」と続けた。

「はい、母上承知しました」

 数日後。

「道真、忠行様にお礼に行きますから支度をしなさい」

 一里ほどで賀茂忠行の屋敷に着いた。

 二人は弟子に案内されて、客間に通された。

 しばらくして、

「わざわざ、遠くから」と忠行が部屋に入ってきた。

「おかげさまで、道真は元気になりました」

「それは祝着な。道真殿、よかったのう」

「些少ですが、お受け取りください」と伴子は半紙につつまれた物を差し出した。

「これは、これは、ご丁寧に」といって、懐に入れた時に、

 弟子が白湯を運んで来て、皆の前に配り終え部屋を出て行ったのを見届けた忠行は、

「母御殿、相談なんだが」

「なんでございましょう」

「道真殿を時々我が屋敷に来てもらうことは出来ぬかな」

「どうしてでしょうか」

「道真殿は、何万に一人にいるかいないかの天才と見もうした。和賀でした地と一緒に陰陽道を教えたいのです」

「道真、どうしますか」

「はい、是非」


 それから年が過ぎ、道真、六歳を迎えようとしていた。

 この年の三月の宮廷では。

 仁明天皇の後を継いだ二十四歳の皇太子道康さまが即位し、文徳天皇が誕生いたしました。

 文徳さまの母は、左大臣藤原冬嗣さまの娘順子さまで、冬嗣さまの息子が藤原良房さまでありました。

 良房さまは、皇位継承が迭立である状況において、八年前に当時の仁明天皇の実子であり自らの甥かつ婿である道康親王さまを皇太子に立てることに成功し、宮廷内でも確固たる地位をきづいたのでありました。

 是善は、道康親王さまの教育官であったためか、二階級昇進して正五位下になり、そして、加賀権守に任ぜられました。

 文徳さまは病弱のため、外出するのがお嫌いで、庶民の暮らしぶりを知らずに内裏で政務を執られておりました。

 そのためか、良房さまと意見が対立するときが時々ありましたが、文徳天皇は、自分の考えを通すことが出来ずにおり、なんとか良房さまを遠ざける方法を思案していました。

 そこで、

 文徳天皇は、大納言の源信みなもとのまことさまを呼びました。

「このたび、長子の惟喬親王を立太子にさせようと思うのだが」

「みかど、畏れ多くも言わせていただきますが、そのことが露見したら、惟仁親王さまを立太子にしようとしている良房殿が何をするかわかりません。惟喬親王さまの身に危害が及ぶかもしれません。ここはご忍耐を」

「まだ、惟仁は生まれたばかりではないか」

「それはそうですが、惟仁親王さまは第四皇子なので彼も焦っています」

「朕の力ではもうどうにもならないのか。このままでは今以上に、良房の言いなりになってしまう」

 文徳天皇は苦々しい顔をしていわれました。

 惟仁さまは、皇太子時代の文徳さまに嫁いだ良房さまの娘の明子さまが産んだ皇子で、ここで惟仁さまが皇太子になれば、次代の天皇となることが約束されるのであります。

 惟仁さまが天皇になれば、良房さまは天皇の外祖父となり、天皇と対等な立場で政を遂行できるとの野望を抱いていることがあからさまなため、是善殿たち宮廷の官吏たちは歯がゆく思っておりました。

 やはり、良房さまは文徳天皇の思いを無視されて、十一月、僅か生後八カ月の惟仁さまを立太子にさせました。

 翌年、良房さまは正二位に力尽くで、昇りつめました。

 道真は九歳になっても、病に度々苦しんでいたが、学問に対しての情熱は衰えることはなかった。


 梅の花が咲きほころび始めた。

 勘解由小路南、烏丸西の菅原院から詩を読む声が甲高く響いていた。

「道真殿、もっと心を込めて」

「はい、島田様」

「菅原家代々に恥じぬよう学問にいそしむように」

(父上やお祖父様をこえてみせる)

 道真は昼夜休まず、勉学に励んだ。

「道真、朝から晩まで部屋に閉じこもっていてばかりでは、だめです。外で、遊んでいらっしゃい」

 道真は渋々、外に出て行った。

 それからというもの、道真はいろいろ遊びを覚え、暗くなるまで、遊び仲間と遊び回っていた。

 忠行からも伴子に最近道真が来なくなり心配している旨を書いた書状を弟子がもってきた。


 伴子は、道真を呼んでいった。

「最近、お前は勉学もせず、また忠行様の所にも行っていないそうですね。外で遊ぶのも良いのですが、ほどほどにして、勉学にも励みなさい。島田様に面倒を見てもらうようお願いしますがよろしいですね」「わかりました、母上」

 伴子は、島田忠臣が勉学している菅家廊下をたずねた。

「島田様、道真のめんどうをみてやっていただけませんか」

「わかりました」

「よろしく頼みます」

 翌日から、島田は、道真を廊下で、朝から昼まで塾生たちと一緒に勉強させた。

 最初は嫌がっていたが、十日もすると、道真は以前と同じように朝から晩まで学問に没頭するようになった。

 忠行の処にも行くようになった。

 道真の祖父清公は自分の書斎で講義をしていたが、塾生が多くなってきたため、屋敷の中門廊を仕切り、畳を敷いてそこで、清公から是善と菅原家の当主が中国の詩文および歴史についての講義を行なっていた。

 塾生たちは式部省の文章生試に合格し、このうち二名に選ばれて文章得業生となり、官人登用試験の最高段階である秀才・進士試験に及第して任官するのが目標であった。

 その試験対策としての教科書には、史記、漢書、後漢書など中国の歴史書や文選 などの漢詩文集が使用された。

 ここの塾生たちは、この菅原氏の私塾を管家廊下と呼んでいた。

 これに対して、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、和気氏の弘文院、在原氏の奨学院があり、各氏の子弟の教育が行われており、各氏は、政界へ多くの官吏を送り込んで権力を広げようと躍起になっていた。

 

 斉衡二年(八五五)、雪が降り始めていた一月の中頃、是善は従四位下に叙せられた。

「おめでとうございます」

 伴子は、是善を玄関で迎えた。

「父上、おめでとうございます」子供たちが声を合わせていった。

「おめでとうございます」島田忠臣も出迎えていた。

「ありがとう」

「是善さま、道真殿が初めて詩を作りました」

「そうか、聞かせてもらおう」と是善が道真に向かっていった。

「はい」といって 道真は、是善の前に出た。そして、詠じた。

「月の輝くは晴れたる雪の如し 梅花は照れる星に似たり 憐れぶべし金鏡の転じて 庭上に玉房のかおれることを」

「十一歳にしては、よくできている」といって、是善は微笑んだ。

「道真、お父様が褒めてくださいましたよ、これからも精進しなさい」

 伴子が嬉しそうにいった。


 道真十三歳の時(八五七)の宮廷では。

 左大臣の源常さまが四十三歳で死去された後、大納言の源信さまが文徳天皇の居所としている東宮雅院に参内しておりました。

「みかど、良房殿をそろそろ左大臣にされてはいかがでしょうか」

「考えてみよう」

 その年の二月、朝から雪が舞い散っており、昨晩からの降雪で、内裏は雪で埋もれていました。

 その中の東宮雅院に参議一同が介していました。

「藤原良房、そなたは朕の外舅であり、幼い頃から今に至るまで朕を導き、国政を助けてくれた。にもかかわらず、前代の仁明天皇が右大臣に任命して以来、朕はそなたに報いることが出来ずにいた。よって、今回、そなたを特別に太政大臣に命じる」と文徳天皇が藤原良房さまの前で宣旨いたしました。

 一旦良房さまは固辞されましたが、すぐに受け入れました。

 (これで好きなように政を司ることが出来る。我が一族は安泰だ)と喜びを隠すのに必死でした。

 太政大臣は太政官の全てを管轄し天子の師範たる職とされていました。

 それに引き続いて、大納言の源信さまを左大臣そして、次席の大納言で良房さまの同母弟のさまを右大臣に抜擢しました。

(これで、良房は勝手なまねは出来ないであろう)と文徳天皇は、この人事に自分ながら満足しておりました。


 その翌年、天安二年(八五八年)八月二十三日に、文徳天皇が急死されました。三十三年の短い人生のうち藤原氏の台頭に悩み続けて青年時代を過ごされたのでした。

 巷では、文徳天皇は何者かに毒殺されたのではないかとささやく者がいました。

 

 文徳天皇と良房さまの娘の子である惟仁親王がわずか九歳で即位して、清和天皇となったのです。良房さまは九歳というまだ幼い天皇の外祖父となり、政を一切任され、左大臣の源信さまや右大臣藤原良相さまを軽んじ、朝廷は良房さまの独断場となりました。

 

 道真は、十五歳になり、元服を迎えた。

 その朝、道真は、菅原院天満宮神社の社前で大人の服に改め、と呼ばれる子髪型を改めて大人の髪(冠下のかんむりしたのもとどり)を結い、冠親により冠をつけてお祓いを受けた。

(兄だった道善と道仲も天で喜んでいてくれるだろう)伴子の眼が潤んでいた。

  娘の類子は不思議そうに伴子を見た。

 宴に入った。

  是善の兄弟の清成、興善、忠臣、善主、是算、康子と伴子の両親伴真成夫妻及びその親族たち、是善の弟子島田忠臣夫妻そして娘の宣来子そして、陰陽師の賀茂忠行が席に着いていた。

 是善は伴真成に挨拶し、隣席の伴善男の前に座っていった。

「昨年文徳天皇の崩御の後に、皇太后宮大夫になられたとのこと、おめでとうございます」

「かたじけない。この春、正三位に叙されることになっておる」

「それは、それは、重ねておめでたいこと」

「ところで、是善殿。藤原良房殿には気を許されない方が良いですぞ」

 と伴善男は声を落としていって、さらに大納言になった良房が藤原北家と源家を中心に政を進めるために、他家を貶めようとしている危機を感じていると心配顔で続けた。

 是善は十分注意しますと答え、忠行の前に移り、

「この度は、お忙しいところ来ていただきありがとうございます」とあらたまっていった。

「道真殿が元服をお迎えになるとは、年が過ぎるのは早いものです」

「道真はいかがですか」

「我が弟子の中でも道真殿は、突出して優秀な生徒です。許されるならば、私の跡を継いでほしいものですが」

「ありがたいお話ですが、道真は菅原家を継がなければなりません」

「そうですか、では、当分の間、今まで通り道真殿に陰陽道を教えても良いですか」

「それは道真にとってもありがたいことです。厳しくご指導をお願いします」

 といって、是善は自席に戻り、道真の酌を受けた。

 そして、是善は道真の盃に酒をついでいった。

「お前はこれから学問で菅原家をもりたててくれ。政には深く入り込まぬように、わかったな」

「はい、父上」

 伴子が道真に話しかけた。

「道真、歌を作った。聞いておくれ」

「はい」

「久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな、どうですか道真」

「しっかり勉強して、官吏登用試験に合格し、家風に恥じず出世するよう努めます」

 そこに、島田忠臣夫妻と娘の宣来子が是善、伴子そして、道真に祝いの言葉を述べにきた。

 挨拶を受けた伴子は

「これからも主と道真をよろしく頼みます」と頭を下げた。

「とんでもございません、奥様。こちらこそよろしくお願いします」と忠臣が恐れ入っていった。

 道真は宣来子から酌を受けた。

「ありがとう」

「道真さま、これからもいろいろ教えてくださいませ」と宣来子は顔を赤らめていった。

「良いとも、宣来子殿」

 横に座っていた伴子が二人に笑みを送っていた。


 翌年の貞観二年(八六十)、参議の伴善男が中納言に昇進し、是善は、文章博士に播磨権守を兼ね、従四位上に昇叙された。

 承和の変以降、公卿は藤原北家と嵯峨源氏の縁者たちで占められるようになっていた時に、それとは全く関係のない伴善男と菅原是善の出世は異例として宮廷では噂になった。

 

 文章博士の是善は二十人の文章生(擬文章生を経て、式部省の文章生試に合格した者)に三史(史記、漢書、後漢書)その他の中国の歴史書、文選の中国の詩文などを教えた。

 この文章生二十人から優秀な者二人を文章得業生として選ばれる予定であった。

 

 二年後の貞観四年(八六二)の四月十四日、十八歳の道真が文章生試に合格し、晴れて文章生となった。

 道真が両親に合格の報告をしていたところ、使用人がやってきていった。

「ご主人様、東対の間にお食事の準備が出来ました」

「わかった、すぐに行く」と是善答え、三人は東対の間に腰を下ろした。

 三人の膳には、白米の飯、わかめ汁、鮎の煮付け、鯛の和え物、アワビのウニ和え、寒天、酒が添えられていた。

「道真、良くやりました。早くお父様のように、文章博士になってくださいね」と伴子は嬉しそうにいった。

「母上、必ず」

「今日はゆっくり飲みなさい」といって、是善は右側に座っている道真の持つ盃に酒を注いだ。

 文章生になった道真は都中で有名になった。

 道真はお礼参りに、神社に詣でた時に、目鼻立ちがはっきりした細身の若々しい巫女に知り合い、遊び始めた。


「道真、遊び女にいつまで身を尽くしているの。いい加減にしなさい」と道真の放蕩に気付いた伴子は

部屋に呼んだ道真に説教した。

 是善は若い時の女遊びは、世の中の仕組みを知るには良い勉強だと寛容に構えていた。


 貞観五年(八六三)の桜が咲き始めた頃、京の町に疫病が蔓延し、地方にも伝播した。死亡する者が日に日に増えていった。

 都鄙の民たちは、御霊の祟りとして、それを慰めるために御霊会という営みを行っていた。

 中央も遅ればせながら、未だ疫病の流行が沈静化しないため、左近衛中将の藤原基経は、大内裏の南に接した神泉苑において御霊会を催すことを上申した。

 当日、公卿たちだけでなく、政治への不満や社会への不安を持った庶民も参加が許され、多くの人々が集まった。

 その中には、菅原家の人たちもいた。

「盛大ですわね」と伴子がいった。

「こんなに集まるとは驚きだ。ところで道真、この御霊会とは何か知っておるか」

「はい、多少ですが」

「言ってみろ」

「はい、御霊会の御霊とは、早良親王、伊予親王、藤原吉子夫人、橘逸勢大夫、文大夫の文室宮田麻呂、観察使の藤原仲成の六柱です。その一人の早良親王は桓武天皇の弟で、延暦四年(七八五)に、藤原種嗣が暗殺された事件に関わっていたと疑われて、 乙訓寺に幽閉されました。しかし、親王は罪を認めず、飲食を断ち、無実を主張したのですが、流罪地淡路国へ配流される途中無念にも亡くなられました。それからというもの、桓武天皇の夫人藤原旅子様、 母の高野新笠様、皇后の藤原乙牟漏様が相次いで亡くなられ、皇太子の安殿様も病気に罹らってしまいました。桓武天皇は不吉に思い、占師に占なわせましたところ、早良親王の祟りによるものとの結果でした。また、延暦七年(七七八)には、大隅国の霧島山の噴火、延暦四年(七八五)から延暦十年(七九一)にかけて大風による水害、旱魃によ る飢饉、痘瘡などの疾病が大流行、そして、延暦十九年(八〇〇)には、富士山が噴火し、災禍が続いたため、光仁天皇は親王に対して、崇道天皇と追称したという経緯があったようです」と流ちょうに話した。

「道真、良くそこまで調べ、覚えましたね」と伴子は驚きの表情を隠せなかった。

 是善は満足そうに頷き、そして問うた。

「道真、伊予親王やその他の人たちについてはどうだ」

「父上、申し訳ありません」

「そうか」

 十二歳の清和天皇、藤原良房、そして主立った公卿たちが六霊座の両側に顔をそろえた。

 御霊会が始まった。

「カンジザイボサツ ギョウシンハンニャハラミツタジ 〜」  

 花や果物を供えられた早良親王ら六霊座の前に座した律師慧逹の唱える般若心経が神泉苑中に響き始めた。

「うこくだいおう ごおうふみょうわ まからだ ぜおううし のうだいふせ ・・・」

 慧逹の金光明経の経、そして、加茂忠行の祈祷と続いた。

それらが終わると、雅楽寮の麗人による笛、鼓、琴の演奏が始まった。それを待っていたかのように、幼帝清和に近侍の子らや道真たち良家の少年そして、民衆たちが踊った。

「藤原家の子らや、忠行殿の弟子たちも踊っているが、道真も負けてはいないな」といって是善は笑みを浮かべた。

「あなたさまに似て、道真も負けず嫌いですね」と伴子はいった。


 道真、二十二歳の春、貞観八年(八六六)の三月。

 暖かな青く澄み切った空の下、清和天皇は是善殿たち詩賦の才のある四十人の廷臣たちを従えて、良房さまの弟右大臣藤原良相さまの屋敷へ桜花を観るために行幸されました。

(お上は、藤原氏に操られているのか)是善殿は宴を見ながら、わが子の行く末を案じた。


 数日後、内裏の朝堂院の南にある応天門が炎上した。

「火事だ、応天門が燃えている」

 門番が大声を上げた。

  朝堂院で政務を執っていた是善たち官吏が外に飛び出してきて、燃えさかる門を見て、皆呆然と立ちすくんだ。

 火消し役の下級武官たちと陣頭指揮の弁官(太政官の事務局)がやってきた。

 指揮者は怒鳴り散らした。

「何やっているんだ。早く、水をかけろ」

「人数が足りない、京中を駆けめぐって、民を集めてこい」と側近たちに命じた。

 懸命な消火にもかかわらず、火は東西の建物二棟をも燃え尽くした。

 

 朝廷は、直ちに、火難が続くことをおそれ、五畿七道(大和、山城、摂津、河内、和泉の五国及び東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道)の諸神に加護を乞い、京内の各寺で仁王般若経を転読させた。また、原因の究明および治安の乱れや世情不安に対して、厳戒態勢をとった。

 翌日、大納言伴善男さまが、右大臣藤原良相さまの部屋を訪れていました。

 

「応天門の火災は、左大臣源信様の仕業と思われます」

「なに、それは本当か」

「間違いありません、それがしの家来が源信様の家人が付け火をしたところを見たともうしております」

 良相は参議で左近衛中将の藤原基経を呼んだ。

「基経殿、この度の大手門の火災は左大臣の手によるものらしい、すぐに源信殿を逮捕していきさつを明らかにしなさい」

 基経は、承知したといって、部屋を出た。

(父上に相談してみよう)とすぐに太政大臣良房の屋敷に赴き、この件について報告した。

 話を聞いた良房は驚いた。

(最近、伴大納言は権力を拡大化している、きっと左大臣を貶める画策に違いない。ここは、源家に恩を売るのと同時に伴大納言を失脚させるためにまずは、帝に左大臣が無罪であることを知らしめなければならない)

「だれかおるか、内裏に参るぞ」

 牛車に乗って良房は、清和のいる太極殿に到着し、すぐに清和に諫言した。

「わかった、右大臣は不問としよう」と清和天皇は良房に答えた。


 それから何も進展がなく、五ヶ月が過ぎた。

「殿、大宅鷹取と申す者がやってきて、応天門の件は、伴大納言様と息子の中庸殿が共謀して、火を放ったと密告してきました」

「なに、即刻そやつを検非違使に引き渡して留置するよう命じろ」と基経がいった。

 基経から報告を受けた良相は、清和天皇に伝えた。

 清和はすぐに伴大納言の逮捕の勅を下した。


 刑部卿の是善は検非違使の最高責任者の別当を訪ねて談判した。

「応天門事件はこちらの仕事ですので、伴大納言様をこちらに預けていただきませんか」

「菅原殿、昔ではあるまいし、司法すべてを管轄し重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行するのは、我ら検非違使の職掌でありますぞ」

「どうしても、そちらで調べると」

「くどい」


 伴善男さまは無罪を訴えましたが、伊豆へと追放され、また、連座した伴氏一族の者たちや有力貴族であった紀氏も一緒に左遷させられました。

 巷では、良房さまの陰謀と囁かれましたが、この年、良房さまは人臣初の摂政に任じられました。

 

 伴子は、応天門の事件で善男たちが処刑されたことを是善から聞かされた。

「なんですって。兄上までも」伴子は悲嘆に暮れた。

「伴子、申し訳ない」

 妻の出身の伴氏の没落に対して、何の手も打てなかった是善にとっては無念であった。

「母上は大丈夫ですか」心配そうに道真が是善に問うた。

「今のところは、その動きはないが。身を慎み、気をつけなければならないぞ」

 是善の弟子島田忠臣そして娘の宣来子も嘆き悲しんだ。

 時をおかずに、政府は、伴大納言家の財産はすべて没収され国家の用に供しました。

 道真は、是善よりこれら一連の出来事を聞いて、政治の世界の恐ろしさを、そして、今までにない母の悲しみようを見て、藤原氏に恨みを抱いた。

(良房さまとはいったい何を考えているのだろうか。いつか・・・)


 応天門の炎上から一年が過ぎた。

 二十三歳になった道真は文章得業生となり、正六位下で下野権少掾に叙任された。

 文章得業生は、文章生の中から選ばれた成績優秀な者で、定員二名。七年以上勉学ののち、文章博士の推挙により方略試を受けて及第した者が秀才となるという出世コースを道真は歩み続けていた。

「道真、おめでとう」伴子は誰よりも喜んだ。

「めでたい、めでたい。道真、これからもがんばるのだぞ」是善も良い気分であった。

 円仁の「顕揚大戒論」の序の起草を頼まれ、見事に書き上げ、道真は儒教だけでなく仏教にも教養を持っていると宮廷でも評判になっていた。

「道真さま、この度はおめでとうございます」と宣来子は自分のように喜んでいった。

 道真は宣来子の屋敷に通い、それから三日後、道真は正装で、島田忠臣夫妻に挨拶をしに屋敷を訪れた。

 道真はいった。

「宣来子殿を正妻として迎えたいのです」

 忠臣は満面笑みを浮かべていった。

「道真さま、宣来子でよろしかったら喜んで」

 正装の宣来子は頬を紅に染めてうつむいた。

「島田さま、ありがとうございます」

 道真は島田夫妻に頭を下げた。

 道真から宣来子を正妻に迎えたとの報告を受けた是善と伴子は喜んだ。


 結婚三年後、二十六歳を迎えた道真は、毎日、方略試験のために朝から晩まで勉学にいそしんでいた。

 そして、三月二十三日、方略試験に臨んだ。

 受験生は、二名。式部省の担当官の注意事項の説明後に試験問題が配られた。

 ‘氏族を明らかにす’と‘地震を弁ず’の二問であった。

 (両方とも易しいな)道真はすぐに筆を走らせ始め、二十五分()(現代の二時間)ほどで、席を立った。

 策問及び採点にあたったのが、昨年三十五歳で方略試験に合格したばかりの少内記の都良香であった。

 

「あなた、いかがでしたか」と着替えが終わった道真に宣来子が聞いた。

「たぶん大丈夫だろう。腹がすいた」

「すぐにしたくします」

 といって、宣来子は台所に向かった。

 

 道真の解答を良香は見ていた。

 「一問目は、歴史の考証に関して遺漏が多くみられるな、二問目は、仏典やその他の引用文献に的を得ていないものがあるが、かなり勉強をしていることがわかる。よって、成績は“中の上”で、合格としよう」といって、式部省に赴いた。

 五月十七日、道真は方略試に中の上で合格と政府から伝えられ、九月十一日には、正六位上に叙された。

 その報告に道真は、宣来子と一緒に是善の屋敷を訪れた。

「おめでとう」是善と伴子から祝福を受けた。

「父上さま、この度、私は中の上で策試を及第したのに、三階上がって、従五位上となるはずでしたが」

「道真、残念ながら藤原氏や源家などの家柄のもの出ない限り、無条件で五位に昇るのは不可能なのだ」

「そうですか。成績ですけど、もっと良い得点だと思っていたのですが」

「受かったのだ、まあよいではないか。伴子、酒の支度を」

「はい、今すぐに」


 翌年三月二日、道真は少内記に任じられた。

 少内記は、中務省に属し、詔勅や宣命の草案を作り、叙位の文書交付や記録などを扱う官職で道真にとっては願ってもない職種であった。

 申の刻、食膳を前にした道真がいった。

「宣来子、今日、少内記に任じられたぞ」

「おめでとうございます。あなた様にとっては得意なお仕事ではありませんか」

「これを機に早く文章博士になりたいものだ」

「楽しみですね」

 この年から、以前より草案作成に多忙の毎日を送るようになった。

‘前年減ずる所の五位以上の封禄を旧に復する詔’、

‘渤海王に答ふる勅書’

‘左大臣(源融)の職を辞するに答ふる勅’等、

 冬の寒い日も、重ね着をして朝早くから出廷して、同僚より遅くまで業務に専念した。

 

 一方、良房さまの養子になられていた中納言の藤原長良の三男、基経さまは大納言になられました。

 三十四歳の若さでの出世です。

 

 是善は、弾正大弼・刑部卿・近江権守・伊予権守を経て、式部大輔に任命された。

 そして、貞観十四年(八七二)、参議に任じられてとうとう公卿に列するとともに、議政官として勘解由長官・刑部卿などを兼任した。

 この年一月六日、道真は存問渤海客使に任じられた。

 その夜。

 是善の使いが息を切らしてやってきた。

「あなた、お母さまが倒れたそうです」と宣来子が道真の仕事部屋にやってきた。

「すぐ支度だ」

 道真たちが到着したときには、すでに、陰陽師の賀茂忠行が伏せった伴子のそばで祈祷を捧げていた。

 すこし離れたところで、是善がうなだれて座っていた。

「父上、母上は」と道真が恐る恐る声をかけた。

 是善は首を横に振った。

「お師匠様、いかがでしょうか」と道真は祈祷が終わったのを見計らって忠行に問うた。

「怨霊が深く入り込んでしまったようだ」

「母上の昔からの願い、観音菩薩像をきっと、きっと造立します」と道真は伴子の手を握って涙ながらにいった。

 「もう一つ、伴善男さまの無念を・・・」とその言葉を最後に、八日後、菅原家の人たちに囲まれて、伴子は笑みを浮かべながら息を引き取った。

 道真は、母の服喪で客使を辞任した。

 数日後、副使の李興晟さま達が加賀国に到着されました。加賀のさまがお出向かいされました。

 道真の代わりに任命された存問渤海客使の大春日安守さまは四月に加賀に移動され、使節が持参した公文書の内容について審問しました。

 そして、さまに伴われて五月に入京し、参議の源舒さまが朱雀大路のそばに建つにて渤海国王の親書と献上品を受け取られました。

 式部少丞さまと大内記のさまが掌渤海客使に任じられ接待を担当され、また、大学頭のさまと越前大掾さまが饗宴のために鴻臚館へ遣わされました。

 また、詩才のある大使は、さまらと交流されました。

 

 木枯らしが吹き始めた都では高熱と咳がでる咳逆病という病が蔓延しはじめました。

 巷では、渤海使たちが持ち込んだと噂されました。

 

 道真も咳風邪にかかり、寝込んでしまった。

「あなた、お具合はいかがですか」と宣来子が寝込んでいる道真に声をかけた。

「ああ」

「薬をお持ちしました」

「そこにおいておいてくれ」

「まだお熱が下がらないようですね。忠行さまが明日、祈祷に来てくださいます」と宣来子は濡らした布を取り替えながらいった。

「ありがたい」といって、道真は目を閉じた。

 翌日、忠行が祈祷にやってきた。

 道真は眠り続けていた。

「これははやりの病である。もう峠は越えているので奥方ご心配なさらずに。では祈祷を始める、晴明準備を」と、道真のおでこに手を当てて忠行が小声で言った。

「はい、お師匠様」と供の晴明が答えて支度を始めた。

「賀茂さま、よろしくお願いします」と宣来子は祈るようにいった


 道真は思ったほど早く十日後には、仕事に復帰することが出来た。

 

 是善は朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つで、納言に次ぐ参議に任じられた。

 晴れて公卿の仲間入りである。

 元気になった道真は、これを知って、自分のことのように喜んだ。

(これからは、父上が私の強い味方になってくれる。藤原氏一強体制になんとか風穴を開け、理想的な天皇制にしなければ)

 そのような考えを悟られないように道真は仕事に励んでいたが、菅原家の台頭に道真への風当たりが強くなってきていた。

 それにもかかわらず、参議の是善により、道真に敵対意識を持った公卿や学者から道真は守られていた。

 

 この冬、雪の降り続いていた日に、藤原良房さまが、六十九年の歴史に幕を閉じられました。

 文徳天皇と清和天皇の二代にわたって、権勢をほしいままにした良房さまが亡くなられたことは、中央政界にとりましては、大事件でした。

 清和天皇が藤原基経さまを呼んでいわれました。

「基経、太政大臣の死により、騒乱が起きるかもしれぬ。戦闘態勢に入れ」

「承知いたしました」

 基経さまは、天皇の命を公卿たちに伝えられました。

 

 宮廷は、非常の変に備えるために、すぐに六衛府の兵をもちまして、左及び右兵庫また、左及び右馬寮を監護するとともに、また使いを出されて伊勢、近江、美濃などの関所を警護するよう命じたのでした。

 

 道真が仕事を終えた帰りがけに、是善の屋敷を訪ねた。

「殿様はまだかえられていません」と門番が答えた。

「そうか、しばらく待たせてもらおう」といって、邸内に入っていった。

 外は時が闇を運んで来た頃、女中が灯りを持ってきた。

 それからまもなく、

「待たせたようだな」と、是善が部屋に入ってきた。

「お忙しいようですね」

「太政大臣が亡くなった機に乗じて、近江や美濃の農民たちが蜂起すると国司の使者が伝えてきたので

 いろいろ手配に手間取ってしまった。それで、何か用か」

「はい、良房さまが亡くなられてこれからどうなるのか、父上に伺いたくて参りました」

「良房さまの養子となった基経さまはなかなか頭脳明晰で、かつ行動力がある。遠からず、太政大臣になるであろう」

「そうですか」

「道真、基経さまには気をつけて対応するように肝に銘じておけ」と是善は道真の一途な所を心配していった。

 

 貞観十六年(八七四)、二十九歳になっていた道真は、従五位下そして、武官の人事と軍事全般を掌る兵部少輔に叙された。

 屋敷に戻り、宣来子に出世した旨を伝えた。

「それは、おめでとうございます」

「しかし、私に兵部少輔が勤まるであろうか」

「大丈夫ですよ、刀を抜いて戦うわけではないでしょうから」

 それを聞いて、さらに道真はこの職の重さに身震いした。


 数ヶ月後、清和天皇は、道真が武官として適さないと知って、道真を兵部少輔から急遽、租税、財政、そして戸籍・田畑を司る民部少輔に異動させました。

 

 道真は宣来子を伴い、是善の屋敷の門を叩いた。

「久しぶりじゃのう」と是善は笑顔で二人を迎えた。

「父上、この度は、参議及び正四位下のご出世、おめでとうございます」

「お前も従五位下とは、たいしたものだ。わしがなったのは、確か三十三歳であった。伴子もさぞあの世で喜んでいよう」と潤んだ声で言って、手を打ち女中を呼んで酒の支度を命じた。

「道真。今日は、ゆっくりしていけ」


 道真は、左大臣さまや右大臣藤原基経さまら最高の地位の官吏たちから、願文の依頼を多く受け、さらに多忙の日々を送ることになった。

 その仕事から、藤原一門いや基経が政を牛耳っていることを道真は知った。


 夏が過ぎ、秋めいてきた日、道真は右大臣の藤原基経さまの部屋に呼ばれた。

「道真殿、これからいう願文を代作してくれ」と、基経さまが高圧的にいわれました。

「はい」

「右大臣基経のために故太政大臣良房さまの遺教により、水田を以て興福寺に施入する。以上だ」

「承知いたしました。すぐに取りかかります」といって、部屋を出た。

(興福寺も味方に引き入れるのか。良房さまと基経さまはぬかりがないな、手強い相手だ)

 

 貞観十八年(八七六)、道真は三十二歳になった。

 清和天皇が子の陽成天皇(九歳)に譲位され、藤原基経さまが摂政となられました。

 世情は、京、畿内の民心は著しく不安定で、いつ蜂起が起こるかもしれないという状況でした。

 その対応について、基経さまは公卿たちと協議され、官米を売り出して米価の抑制を計るとともに、飢饉が甚だしい河内及び和泉には特使を派遣して、窮民の救護にあたることにされました。


 是善が久しぶりに道真の屋敷にやってきた。

「お父様、良く来てくださいました。さあ、どうぞ」と宣来子が客間に案内した。

 しばらくして、道真が部屋に入ってきた。

「父上、お久しぶりです。」

「道真、元気そうで何よりだ」

「基経さまが摂政になられ、公卿たちは基経さまに忖度するばかりで、政が公平さを欠いています」

「お前のいうとおりだ。基経さまに逆らえば、有無言わずに左遷だ」

「父上、なんとかなりませぬか」

「道真、あせるな。時期を見間違うでないぞ」 

(このような状況では、政は基経さまの好き勝手のやりたい放題になってしまう。帝が元服するまで待たねばならないのか)道真は諦めきれなかった。


 翌年、道真は、文官の人事や朝儀・学校などを掌る式部少輔にそして、それから数ヶ月後、定員二名の文章博士のうち巨勢文雄が左少弁へ異動したことにより、道真が文章博士に任じられた。もう一人の文章博士は道真の試験の策問そして、評価点をつけたあの都良香であった。

 身の丈六尺でがっしりした体の都良香に、道真は威圧感を感じるだけでなく、あの試験の評価にこだわりを未だに持っていた。

「菅原殿が作った策問、ちと難しいと思うのだが」

「都さま、このぐらいでないと受検する人間は勉強をしなくなります」

「皆が菅原殿のような優秀な人間ではないのだ。難しければ良いというものではないぞ」「都さま、そう言っては何ですが、あなたの策問はいつも自己満足の回答を求めています。公平さに欠けるところがあります」

「何を小生意気に」と大声でいい、部屋を出て行った。

(本当に自尊心の強い男だ、かまってはいられん)

 

 翌年の三月、出羽国の蝦夷と俘因が蜂起いたしました。

 基経さまは、左中弁さまを出羽に任じて、討伐の命を与えました。


 元慶三年(八七九)の正月。

 道真は従五位上に叙された。

(十一歳年上の某は、未だに従五位下なのに道真は従五位上とは、上はなにをみているのだ)

 と都良香はこの人事に不満抱き、また嘆いた。

 道真は、ますますとげとげしくなってきた都とは直接話もしなくなった。

 それから一ヶ月後、都良香は突然の死を迎えた。四十六歳であった。

  翌年。

 夜も更けようとしたとき、道真は宣来子に起こされた。

「あなた、お父さまが・・・・」

「なに、落ち着いていえ」

「お父様が倒れたそうです」

「何だって」

 道真は、着の身着のままで是善の屋敷に走った。

「父上、しっかりしてください、お願いですから、死なないでください」と泣きながら、道真は伏せている是善に向かっていった。

 是善がわずかに目を開けていった。

「お〜、道真か。お前にいっておきたいことが・・、これから菅原家をしっかり守って、末代まで繁栄させてくれ。そして、住みよい世にするよう仕事に励んでくれ・・・」と息をはき、そして目を閉じた。是善は二度と目を開けることはなかった。

「父上、父上」

 そして、周りにいた者たちのすすり声が夜明けの空に響き渡った。

 

元慶四年(八八十)八月三十日、是善、薨去。享年六十九歳、最終官位は参議従三位行刑部卿であった。

祖父清公以来の私塾である菅家廊下を主宰し、朝廷における文人社会の頂点となっていた是善を失った道真は、途方に暮れながらも菅家廊下の主宰を引き継いだ。


一方、宮廷では、後ろ盾であった是善を失った道真への風当たりがあからさまに強まった。

 元慶七年の夏、海大使渤ハイテイ一行百五人を朱雀大路にある鴻臚館に、道真は治部大輔として、島田忠臣、門人である文章得業生のの管家の同門が接待するよう任命された。

 宮廷では、道真は文人及び学者として重要人物として認められてはいたが、一方、道真の早い出世に妬みや嫉妬で快く思わない者たちも多くいた。

(もう少しで、藤原氏と対等になれる)と海大使渤の接待を終えた道真は意気盛んに一ヶ月ぶりに屋敷に帰ってきた。

「あなた、大変です。阿満がはやり病に・・・」と宣来子が、道真の顔を見るや否や泣きながらいった。

「なに」と答え、間を置かずに道真は、阿満が伏せている部屋に飛び込んだ。

 祈祷が終わった加茂忠行は、道真の顔を見て、首を横に振った。

 発疹している阿満の顔を見て、一瞬たじろいだが、力を振り絞りながら、阿満に近づき大声で言った。

「阿満、目を覚ませ」

 阿満はその声に何も反応を示さなかった。

「阿満」と宣来子泣き叫んだ。

 道真が特に可愛がっていた阿満、七歳を迎えたばかりの死であった。

 阿満の死から道真は悲嘆に暮れて、夜も眠れずに日を過ごした。たまにうとうとすることもあったが、その時は夢に娘の阿満が出てきた。

 道真、‘阿満を夢見る’の詩を詠う。

 道真、四十歳の元慶八年。

 光孝天皇は基経さまをいかに処遇するかについて、深慮していました。

 五月のある日、天皇は、道真さまとさま、さまそして、さまらの諸道の博士を紫宸殿に呼びつけました。

「太政大臣の職掌の有無と唐のどの官に匹敵するのかについてお前たちの考えを述べよ」と質問されました。

 皆うつむき続けていたので天皇は道真さまの方を向いていいました。

「道真、意見を述べよ」

「いろいろ書物を調べましたところ、太政大臣に職掌はございません」と道真さまは断定しました。

「よく調べたな」

 他の博士たちはどちらとも受け取れるようなことを奏上しました。

 光孝天皇は道真さまの意見を無視し、六月五日の詔はさらに職掌を拡大し事実上将来の関白の任を基経さまに与えられました。

(なぜ某の意見が取り入れられなかったのだ)道真さまは他の博士だけでなく帝までもが基経さまに対して忖度しているのを情けないと思いました。


 一年後、元慶九年真冬の一月二十一日、宮中において例年通り、内宴を開催される旨の書状が、道真さまに届きました。

  道真さまがそれを受け取ったときの喜びように、宣来子が久しぶりに笑顔を見せていいました。

「あなた、内宴とはどのようなものなのですか」

「内宴は、帝が仁寿殿の内廂に公卿や詩文堪能な文人たちを招き、酒宴を開き、女舞、奏楽そして、詩文の披露を楽しむ会なのだ」

「それは雅やかでしょうね」

「楽しみだ」

 当日、酒があまり強くない道真さまは誰ともほとんど会話をせずに女舞に見とれていました。

 道真さまたちの詩文の披露が終わってからしばらくすると優秀者の発表になりました。

 進行役の公卿が重々しく告げました。

「優秀者は菅原道真殿に決まりました。道真殿、前にお進みください」

 道真さまは当然という顔をして、陽成天皇の前に行き一礼して賞品を受け取りまし。その時、耳元で

「道真、宴の後で朕の部屋に来るように」と天皇がささやかれました。

 

 道真さまが陽成天皇の部屋に入りました。

「道真、朕はこの度退位することに決めた」

 道真さまは耳を疑いました。

「基経が朕を貶いれ廃位に、そして従兄弟で年配の光孝天皇を即位させ、権力の座を得ようともくろんでいたのだ。朕と基経の不仲はそちも少なからず知っておろう。それというもの、基経は清和上皇に娘二人を入内させていたが、さらに朕の元服の時に基経の娘の佳美子を入内させようとしたのを、皇太后が拒否したことが発端で、それから基経と皇太后の兄妹間の不仲と権力争いが続いていた。元慶七年十一月の中頃だ、朕の乳母の子の従五位下の源益が殿上で朕に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件を知っておるか」

「はい、噂ぐらいですが」

「そうだ、朕が何らかの関与をしていたのではないかとたわけた噂だ」

「しかし、基経が火のないところに煙は立たないといって、内裏での殺人という未曾有の異常事に、基経が朕を詰問し続け、退位という責任を取らなければ、表沙汰に鳴り罪を問われると脅してきた。そのような理由でこの度退位することにした」

 道真さまの目から涙がこぼれていました。

「お待ちください。お考えなおされてください」

「やむをえないのだ。しかし、道真よ、いつまでも藤原一族の独壇場であってはいけない。よいか道真、お前の力でこれからの政は帝中心で、そして帝中心の世にするのだ」

 陽成の顔に涙が流れていたのを御簾ごしからの道真さまには分かりませんでした。


 二月二十一日、十七歳これからという陽成天皇が突然退位され、五十五歳になる光孝天皇が五十八代として即位されました。

 噂に違うことなく、すぐ、基経さまは関白に就任されました。

 それから数日後、朝出仕したばかりの時に道真さまは基経さまに呼び出されました。

(こんな時間に一体何のようであろう)

 部屋に入ると、そこには、さまとさまがいらっしゃいました。

 正面に座っていらした基経さまに頭を下げてから、道真さまは座った。

それを見て、基経さまが口を開かれました。

「これで皆そろった。実はおぬし達に頼みがあってきてもらった。頼みというのは、一ヶ月後、某の五十回目の誕生日を迎える。そこで、この屏風に巨勢殿が絵を描き、菅原殿に七言律詩を作っていただき、それを能筆の藤原殿に書いていただきたいのだが、お受けしていただけるかな」

「もちろんお受けいたします」と巨勢金岡さまと藤原敏行さまが同時に答えた。

(基経さまは、私事で、我々を呼んだのか)と一、逡巡した道真さまが返答しました。

(道真はためらうたな)基経さまは道真さまの一瞬の心の動きを見逃しませんでした。


 内裏の木々の色づいた葉が散り、冬に入りますとき、関白太政大臣基経さまの五十歳のお誕生日を祝う会が、基経さまのお屋敷で盛大に催されました。

 ここでも道真さまが披露した歌は、基経さまからお褒めの言葉をいただきました。

 道真さまは、帝や太政大臣に認められているとうぬぼれを押さえながら、それを励みに毎日仕事に没頭しそして実績を上げておりました。 

 

 仁和二年(八八六)の正月を迎え、道真さまは近くの神社に宣来子さまと詣でて、四十二歳の厄払いをされました。

 一月十六日の初登庁で、正月の除目で、

「菅原道真、讃岐守を命ず。国司として励むように」と光孝天皇から言い渡されました。

 突然のことで、道真さまは気が動転しました。

(一体なんで、讃岐に左遷されなければならないのだ。なにかの間違いではないか)

「菅原殿、ご返事を」と立ち会いの公卿がいらついていった。

「はっ、ありがたき幸せ。おつとめに励みます」

 さらに道真さまの官職である式部大輔、文章博士、加賀権守の三官が剥奪されました。

 悲痛にくれて、屋敷に戻った。

「お帰りなさいませ」と宣来子が道真さまを玄関で迎えた。

「お食事にしますか、湯船に入りますか」

「湯に入る。宣来子」

「はい」

「この度、讃岐守を命じられた」

「それはおめでとうございます」

「そうではない、任官なのだ」

「えっ、どうして讃岐へ行かなければならないのですか」

「お上の命だ、来月の初めに京を発つ」と悔しさに眼を潤ませていった。

 

 翌日、出廷した道真さまは菅家廊下出身の男から声をかけられ、空いている部屋に導かれた。そして、声を落としていった。

「道真さま、この度はご苦労様です。実は、今回の人事は我々菅家門徒の勢いの増大を恐れて、他校の学者たちが貶いれたのです。讃岐は上国、格が高い国のため、左遷とは受け取られないようにうまく上層部に画策したようです」

「そうか」

(やはり、藤原一族の策謀か)道真さまに焦りとともにやるせなさがこみ上げてきました。


 太政大臣基経さまが道真さまの赴任に先立ち、宮中にて送別の宴を催されました時です。宴も終わりに近づいたとき、基経さまが突然、道真さまの前にお立ちになりました。

 そして、

「明朝風景、何人にか属す」と吟じ、これを道真さまに詠じるように命じたのです。

 道真さまはこれを詠じようとしましたが、一声を発したのみですぐに嗚咽されました。

「どうした、道真」

「申し訳ございません、ご勘弁を」

 基経さまは大声で笑って、いった。

「おぬしは自尊心の強いわりには小心者だな」

 ざわめきがいつの間にか消えていました。

 出席した公卿さまたちの中には、誰も道真さまに同情するものはいませんでした。それどころか、一部始終を胸のすく思いで見ていたのです。

(みておれ)この屈辱を一生忘れまいと道真さまは肝に銘じた。


 道真さま四十四歳の仁和四年(八八八)。

この年、光孝天皇が退位され、藤原氏と血縁の薄い二十一歳の宇多天皇が即位されました。

天皇は、即刻、左大弁さまに命じて、基経さまを関白に任じる詔勅を出されました。

基経さまは先例により一旦ご辞退されました。

天皇は橘広相さまに命じて二度目の詔勅を出されました。

その詔勅に「宜しく(中国古代の官名)の任を以て卿の任とせよ」との一文があったため、これを文章博士さまが「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経さまに告げました。

それを聞いた基経さまは、

(この機会に、橘広相を失墜させてしまおう)とお怒りになったふりをして、屋敷にこもってしまい宮廷に出仕されなくなりました。

そのことにより、基経さまをおそれる多くの官吏がそれに倣って政務が滞ったのでした。

年を越えても、阿衡をめぐる宇多天皇と基経さまの確執は溶けませんでした。

政が滞っていることに危機感を持たれた左大臣源融さまがこの問題に介入され、文章博士や大学の助教に委嘱し阿衡がはたして、職掌がないかを研究させました。

しかし、その結果は、やはり藤原佐世さまの解釈とほとんど変わりませんでした。

それに納得のいかない天皇は藤原佐世さま、三善清行さま、そして、紀長谷雄さまたちにご意見を求めましたが、やはり「阿衡に職掌はありません」とのご返事でした。


その件で、都からの便りを聞きつけた道真さまは一時入京されました。

そして、

(書状を書いて、基経さまに送ろう)道真さまは、基経さまを諌めたり、褒めたりした文章を書き終わり、翌日早朝に宮廷に出仕して、お付きの者に手渡し、讃岐へ帰っていかれました。

 

 基経さまは、道真さまの書状を読み激怒されました。

「道真め、某に偉そうなことを書き付けてくるとは、高慢な男だ。いつかたたきのめしてやる」

 基経さまが屋敷に帰ると時平さまが真っ先に玄関に迎えに出て参りました。

「父上、お顔色が悪いようですが、いかがいたしましたか」

「時平、菅原道真という男には気を許すな」

「・・・」

「奴は我々に取って代わって、帝を騙して政を独り占めにしようとしている。分かったな、時平」

「はい、承知いたしました」


 その後、天皇はやむなく橘広相さまが阿衡を引用したのは自分が本位に背いたので、基経さまに翻意を求められましたが、基経さまは、天皇に橘広相さまの処罰を要求し続けました。

宇多天皇はやむなく、基経さまの女温子さまを入内させて、女御とされました。それにより、基経さまは宮廷に出仕されるようになりました。


 寛平二年(八九〇)、道真さまは国司の任期を終え、任地讃岐国より帰京された翌年、道真さま、四十七歳の寛平三年(八九一)の一月十三日、基経さま薨去、享年五十六歳でした。

(基経殿が亡くなられたか、この機会を逃すな)と道真さまは今後の策を練りました。

 宇多天皇は、基経さまの嫡子の時平さまがまだ若いこともあって、以後関白を置かず、基経さまの息のかかっていない人間を登用することにより宮廷の人事を刷新しようと思案した。

(そうだ、道真を登用して時平を押さえ込むようにしよう)宇多天皇は道真さまのどのような地位を与えようかと考え抜かれました。

 

 朝廷の使者が道真さまの屋敷にやってきた。

「菅原道真、蔵人頭を命ずる」

「それがし、未だその任を全うすることは出来ません」

「承知いたした」

 そして、二度目の使者が翌日道真さまを訪ねてきて、

「菅原道真、蔵人頭を任命する」と口上した。

「謹んでお受けいたします」と道真さまは答えた。

 そして、翌日道真さまは参内して宇多を待った。

「道真、これでよいな。励めよ」と宇多が命じた。

「ありがたき幸せでございます」と道真さまが答えた。

 この任命で、道真さまは式部少輔と左中弁を兼務することになりました。

 (この機会に、藤原一族中心から天皇中心へと強力に推し進めなければならない)道真さまは意を強く持った。

 

 寛平五年(八九三)、正月中頃、

「道真を参議に任命する旨を伝えてこい」と宇多は近習の者に命じた。

 道真さまは参議兼式部大輔に任ぜられ、遂に公卿に列しいたしました。

 そして、まもなく左大弁を兼務されたのでした。

 この機会を捉えて、道真さまは藤原一族中心から天皇中心へと画策されました。

 清涼殿では道真さまが天皇と密議をされていました。

「みかど、この機会を逃がしたら二度と藤原氏を没落させることは出来ません」

「道真、よく分かっておる。策を申してみよ」

「はい、まずは我々の味方を増やしたいので、もう少し力を与えてください」

「分かった。あまり露骨には出来ないが、時を見据える」


 寛平六年(八九四)。

 天皇の使いの者が、道真さまの屋敷にやってきた。

「菅原道真、遣唐使に任命する」

(なぜ、もう唐から学ぶことはないのに、一体誰が建議したのか)道真さまは憤慨しました。

「どうされた」

「お断り申し上げます」

「承知いたした」

 使者はいつものように帰っていた。

 そして、翌日再び使者が道真さまの屋敷を訪れ口上を述べました。

「菅原道真、遣唐使に命ずる」

「謹んでお受けいたします」

「道真はどうでるだろう」と時平さまは、ほくそ笑んでいた。


 唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真さまの建議によりすぐに遣唐使は停止されることになりました。

 ただ、中止ではなく、停止ということで、一件落着したのでした。

 寛平七年(八九五)。

 道真さま、五十一歳で従三位となられました。

 参議在任二年半にして、藤原国経さま、藤原有実さま、そして源直さまの先任者三名を越えて従三位・権中納言に叙任されました。

 宮廷の藤原国経さまの執務室で、藤原有実さまと源直さま三人が話し合われていました

「最近、帝をたぶらかして、道真は天皇の座を独り占めにしようと企んでいるのではないか」と国経が二人に向かっていった。

「寒門のでのくせに、だいそれたことを」と苦々しく有実がいった。

「しかし、帝が道真を厚く信頼しているのでどうしょうもありません」と源直いった。

「我々だけでなく、時平さまも危機感を持っているようです」と有実がいった。

「そうだな、時平さましか道真を排斥できるお人はいないで有ろう。やむを得ないがそれまで待つか」

 残念そうに有実が締めくくった。

 

 翌年、道真さまの長女衍子さまを宇多天皇の女御とし、五十三歳、寛平九年(八九七)。

 道真さまは密かに参内した。

 宇多天皇は人払いして道真さまと対した。

「道真、そなたの三女寧子を皇子の斉世の妃にしたいがよいか」

「そのような光栄、ありがたき幸せに存じます」

(これからは、時平さまを超えて、政を推し進めることができる)

 道真さまはさらに皇族との間で姻戚関係の強化も進めた。

 

 時を同じくして、左大臣の源融さまや藤原良世さま、そして、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真さまとも親交がありました右大臣の源能有さまら大官が相次いで亡くなられました。

 六月、藤原時平さまが大納言兼左近衛大将、また道真さまは権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この二人が太政官の筆頭になる体制となりました。

 七月に入って、突然宇多天皇は醍醐天皇に譲位されました。

(なぜ、帝は譲位を急ぐのか。あれほどご相談にのってきたのに)道真さまは胸騒ぎを覚えた。

 道真さまを引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平さまと道真さまにのみ官奏執奏の特権を許されました。

 朝堂院で合議が行われていました。

「上皇さまが今まで通りに政を進めるようにと帝にいわれ、帝もそうされるとのことです。みなさま、よろしいですね」と時平は皆の顔を見ながらゆっくりと言った。

「時平さま、上皇さまはそうはいわれておりません。帝中心に政を進めるようにといわれたのです」と道真さまが静かさを破った。

「道真殿、それがしに反論されるのか。何をお考えか」と時平が声を荒げた。

「時平さま、私は帝を中心にした政を願っているだけです」

「なにをいう。今までも帝を奉っていたではないか」

 藤原国経さま、藤原有実さま、源直さまの三人が次々と道真さまに反論した。

「道真殿、そなたは帝のお言葉を違えるのですか。不遜な」

「時平殿が偽って言われていると申すのか」

「有実さま、時平さまがいわれていることが真実ならば、上皇さまにご確認したらいかがでしょうか」

「上皇さまにお伺いするその必要はない。帝に承れば良いのではないか、道真殿」

(それがしの意見に賛成する参議はいないのか)

「みなさまのご意見をお伺いしたいのですが」道真さまは間を置いていった。

「道真殿」と時平が割って入った。

「道真殿、出過ぎたまねはするでないぞ」と国経が怒った。

「失礼いたしました」道真さまは悔しさを抑えていった。

 道真さまの主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏たちの有力貴族の反撥が表面化してまいりました。

 現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真さまの進める政の改革に不安を感じられたようで、時平さまの味方につく人たちが増えてきました。

 

 昌泰二年(八九九)、道真さまが右大臣に昇進して、左大臣の時平さまと肩を並べられました。

 そして、道真さまの奥方宣来子さまが従五位下を授かりました。

 このような菅原家への手厚い待遇、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真さまの破格の昇進に対して、多くの廷臣が妬んでおりました。

「成り上がり者の道真が、上皇さまの覚えがよいことにのって、何をしでかすか分からんぞ」

「調子にのって。われわれの生活を脅かすつもりだ」

「時平さまは何をやってんだ」


 道真さまへの反発がます中、昌泰三年(九〇〇)十月。

 文章博士として頭角を現してきた三善清行さまが道真さまに文を送ってきた。

‘道真殿、このような状況では御身にとって良いことはありません。身分を知り、引退されて余生を楽しんではいかがでしょうか’

「三善殿は、私に嫉妬してこのような文をおくってきたのか。なさけない」

 道真さまは、三善さまのご助言を無視されたのでした。


  宇多上皇は後醍醐天皇とのご密談で道真さま一人に政務を委ねられることに決めた。

 朱雀院での詩宴が終わった後に、道真さまをお呼びしていった。

「道真、今後政の決定は、其方一人で決めるように。このことは、天皇も承知している」

「上皇さま、それはご勘弁ください。私にはその能力を持ち合わせてはおりません」道真さまは頭を床につけたまましばらく静止した。

 時平さまはこの機を逃さず、道真さま打倒への秘計を巡らせておりました。

(藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは我が一族を越して太政大臣にもなりかねない)


 大納言源光さまをお味方に引き入れて、天皇に対して道真さま追放の工作を開始いたしました。

「みかど、道真殿は、みかどを廃し皇弟で自分の女婿の斎世親王を天皇にしようと企み、上皇さまのご同意をえています」

「なに、道真がそのような大それたことを企んでいるとは」

「まちがいございません」

(父上が道真一人に政を任せるようにと言われたのは、その企みによるものか)

 天皇は、時平の注進に納得した。

「一時も早く、道真殿を追放しなければみかどのお命が危ういです」

「わかった。すぐに道真の追放の詔を発しよう」

「それがしは、今からみかどを警護いたします」

「頼むぞ」

「承知いたしました」と頭を下げて天皇が退出するのを待った。

 一方、道真さまの屋敷に右近衛中将さまをはじめ中納言さま、そして侍従藤原忠平さまが集まって密談されていました。

「寒いところ、ごくろうさまです。ところで、急なお話とは何でしょうか」

「道真殿、時平殿がなにやら企んでいるようなことを小耳に挟んだが、どのようなことかご存じか」と源希がいった。

「それがしが聞いているのは、道真殿を京より追放させんがためにみかどを抱き込もうとしているとのことです」と源善が答えた。

「そんなことを」道真さまが驚いていった。

「風雲急を告げていますぞ。こちらも早く何らかの手を打たないと」と忠平がいった。

「一体、それがしは何をしたらよいのでしょうか」

「上皇さまに時平殿を左遷させるようお願いしたらいかがでしょうか」と源善が答えた。

 しばらく目を閉じて考えていた道真さまが口を開いた。

「分かりました。年が明けましたら、早速お目にかかってお願いしましょう」

  源善さまたちが帰ろうとされたときには、お屋敷の庭は白く覆われていました。

 

 道真さま、五十七歳の昌泰四年(九〇一)正月七日。

 朝早く、宮廷からの使者が道真さまの屋敷にやってきた。

 いつもと違い、数名の兵士が同行していた。

(一体何事か)

 客間に通された使者は、道真さまの腰を下ろすのを待って、読み上げた。

一、右大臣菅原朝臣は寒門より俄に大臣に取り立てられたが、止足の分を知らずして専権の心有り。

二、侫諂の情をもって宇多上皇を欺き惑わし、廃立を行って父子の志を離間せしめ、兄弟の愛を破ろうとした

三、うわべの詞は誠に穏やかだが、心は逆である。それは天下ことごとくの知るところである。

四、以上により、とうてい大臣の位にあるべきものとはいえず、法に従い罰すべきであるが、特に思うところあるによって、大臣の官を停止し、太宰権師とする。以上」

 使者が宣命をたたみ終わり立ち去ろうとした。

「お待ちくだされ」

「何か」

「納得できませぬ」

「これは宣命でござる。無礼者」

 すでに多くの兵士たちが暖を取りながら、屋敷を取り囲んでいた。

 

 一方、宇多上皇が道真さまの左遷の話を聞いたのは五日後でした。

「道真が謀反。そんなばかな。道真の人柄の確かなことは、我が誰よりも知っておる。帝は誤解されているのじゃ」

 上皇はすぐにわが子醍醐天皇のもとに御輿を走らせました。

 しかし内裏に駆け付けた上皇の乗せたお輿は門の前で行く手を衛士によって阻まれました。

「帝はお会いにならないとおっしゃっています」

「なぜ阻む。これなるは上皇様の御輿であるぞ」

「誰であろうと、門を開けるなと帝の仰せです」

 結局、宇多上皇は引き下がるほかありませんでした。

 道真さまは上皇のもとへ文を書かれました。

 そして、

「流れ行くわれはみくづと成り果てぬ 君しがらみとなりてとどめよ」と嘆き、何もやましいことを企てていないのに無実の罪を被されているこの窮状をお救いくださいとしたためた文を持たせた使者を上皇に送られました。

 しかし、上皇にはその文は届きませんでした。


 一月二十五日、旅装も整える暇もなかった道真さまは、まだ闇の中に、玄関に立ち見送りの人たちの前で詠んだ。

「こちふかばにほひおこせよむめのはな あるじなしとてはるをわするな」

 見送っていた宣来子は嗚咽した。

 後日、流刑に処せられる高視たち子供四人もこれが最後と号泣した。

「道真殿、はやくまいろう」と監視役として左衛門少尉善友益友さまがせき立てた。

 左右兵衛に挟まれて、道真さまと二人の児そして、門弟のは京の屋敷を後にしました。

 道中の国々は食や馬を与えることを禁じられていたため、道真さまたちにとっては非常につらい道のりでした。

 途中の明石の駅で、旧知の駅長が道真さまを見て驚いていいました。

「道真さま、一体どうされたのですか」

「道真殿、答えるな」と監視役がいった。

「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋」と道真さまは詠った。

  駅長は左遷だと悟り、涙を流されました。

 一ヶ月もたちましたでしょうか。

 太宰府に到着いたしました。

 道真さまはもちろん、娘たちの疲れは並大抵のものではありませんでした。


 太宰府の地は官人組織を有する都城で、平野の北の山には大野城、南の山には基肄城、そして博多の津への出口に水城が築かれていました。

 都城は方形に配置され、政庁は北部中央に置かれていました。

 道真さまの住む家は南館と呼ばれる建物で都城の真ん中に位置していました。

「お父さま、竹垣が破れています。ここが私たちの住む家ですか」と姉の紅姫といい、弟の隈麿が泣き出していた。

「そのようだ」

 門をくぐると、荒れ果てた家が道真さまたちの目に入ってきました。

「ここが道真殿の屋敷だ」と監視役がいった。


 隈麿は、毎日泣いてばかりで一日を終えていたが、

 道真さまが、屋敷の屋根壁の修理のために、毎日なれない大工仕事をしているのを見て、紅姫は家事をいつの間にか手伝うようになってた。

 手が空くと、いつも道真さまは考え込んでいた。

(なぜこんな目に遭わなければならないのだ)

 書き留めていた宣命を何度も読み返ししては、いない相手に何度も反論した。

一、右大臣菅原朝臣は寒門より俄に大臣に取り立てられたが、止足の分を知らずして専権の心有り。

二、侫諂の情をもって宇多上皇を欺き惑わし、廃立を行って父子の志を離間せしめ、兄弟の愛を破ろうとした

三、うわべの詞は誠に穏やかだが、心は逆である。それは天下ことごとくの知るところである。

四、以上により、とうてい大臣の位にあるべきものとはいえず、法に従い罰すべきであるが、特に思うところあるによって、大臣の官を停止し、とする」

  

「一でいう、藤原北家と比べれば、寒門といわれてもしかたがあるまいが、学問では圧倒的に菅家が秀逸している。それ故に、大臣にまで取り立てられているのだ。専権の心があるとは侵害だ。北家代々は摂関や関白の地位に作為的につき、帝をないがしろにして、好き勝手に権力を独り占めにしてきたではないか。それを帝中心の政に復するようにしようとしたのが一体どこが悪いのだ。二はなんだ、過去、天子を廃立してきたのは、藤原一族たちではないか。この私が兄弟の愛を破って何を得するのだ。三は天下ことごとくとは誰なのだ。すべて、言いがかりをつけた時平たち北家の陰謀だ、許せぬ」


‘夕されば野にも山にも立つけぶり なげきよりこそ燃えはじめけれ’


「お父さま、今日は近所の方から野菜をいただきましたので、お汁に入れました」とが腕によそりながらいった。

「そうか、礼をいったか」と久しぶりに笑顔で道真さまが口を開いた。

「はい、いいました」

 道真さまがうなずいた。

「おいしい」とがいった。


‘天の下かはけるほどのなければや 着てし濡衣ひるよしもなき’


 数ヶ月もたつと、道真さまの屋敷に学問を学びに数名の男がやってきました。

 監視役は道真さまが乱を起こすことはあり得ないだろうと思い、形だけの見張りとなっていました。

 ただ、最近屋敷の周りを見ず知らずの男がうろうろしていることに気づき、監視役が注意を払っていました。


‘かりがねの秋なくことはことわりぞ 帰る春さへなにか悲しき’


 太宰府にも春が訪れた。


‘つくしにも紫生ふる野辺はあれど なき名悲しむ人ぞ聞えぬ’


「おとうさま、散歩に行きませんか。家にこもってばかりいては、おからだによくありません」と紅姫が詩を詠んでいる道真様に声をかけた。

「わかった、隈麿も連れて行こう」

「はい」

 春の優しい風が三人のからだを包み込んだ。

「おとうさま、魚が」ときらきらと照らされている小川を紅姫が指さしていった。

「めだかだよ、おねえさま」がいったとき、

「、やまめというのだよ」道真さまがやさしくいった。

 その時、

「あぶない」

 近くで大声が聞こえた。

 道真さまは小川に映った影が目に入った瞬間、川に向けて、二人の子の背中を押し、自分も飛び降りた。

「なにやつ」と大声を発した監視人が男の背を打った。

 刃は背を浅く斬った。

「ぎゃ」と男は振り向きざまに持っていた刀で監視人の足を払った。

 それをよけた時によろけたのを見て、男は走り去った。


 それからは、道真さまたちは、ほとんど外へ出なくなったが、道真さまから学問を教えてもらおうという人たちが屋敷を訪ねてきたので、退屈はしなかった。

 ただ、皆が帰ってからの夜二人の子が寝てから、都に残した妻や子らを思いだしながら、毎日、寂しく詩を作り続けていた。


‘足曳のあなたこなたに道はあれど 都へいざといふ人ぞなき’


 梅雨時に入っても詩を詠んでいた。


‘あめの下乾けるほどのなければや きてし濡衣ひるよしもなき’

‘天の下のがるる人のなければや きてし濡衣ひるよしもなき’


 夏が過ぎて秋を迎えても道真さまの心は都を恋うて、詩を詠んだ。


‘草葉には玉と見えつつ佗び人の 袖のなみだの秋の白露’


 そして、厳しい冬をまた迎えた。。


‘谷深み春の光のおそければ 雪につつめる鴬の声’

‘道の辺の朽木の柳春くれば あはれ昔と忍ばれぞする’

 

 妻の宣来子から手紙が届いた。

 走り書きで道真さまと親しかった官僚、陸奥守藤原滋実さまが任地の陸奥で亡くなったことが書かれていた。

 頬に幾筋もの涙が流れた。

「実直で曲がったことが大嫌いで本当に良い奴だったのに、なぜ死んだ」

 

 十月、「生涯無定地 運命在皇天 職豈図西府 名何替左遷 貶降軽自芥」( 生涯やすきところなし、運命は皇天にあり、職あに西府をはかりきや、名いかなれば左遷にかわる、貶くだされ芥より軽し)

「病追衰老到 愁求?居来 比賊逃無処 観音念一廻」


 隈麿が亡くなった。

「なぜ、お前のような若い者がそれがしより先に行くのか。こんな非道なことが」

 道真さまは悲嘆に暮れた毎日をおくって、とうとう寝込むようになた。

 ‘月ごとに流ると思ひし 西の空にもとまらざりけり’

 

 毎日、宣来子たち良き妻たちに出逢い、子供たち殿戯れ、塾生と伴に学美続けた日々を夢見うつろいでいた。

 突然、時平が出てきていった。

(菅原道真様、太宰府の住み心地はいかがですか。上皇さまは仏に仕えるみになりました。もう朝廷のことはご配無用)といって笑った。

(時平殿、なぜこのような仕打ちを、許せぬ」

(上皇さま。なぜ、私を見限ったのですか、あれほどあなたさまに尽くしてきたのに)

(お願いです。早く、都にお戻しください)

「おねがいです、助けてください」 道真さまはうなされた。

「おとうさま、どうされたのですか。しっかりしてください」と紅姫は道真さまの顔をのぞき込みながらいった。

「紅か」

「おとうさま、何か食べないと」

「紅、私はもう長くはない」

「おとうさま。私を残して、行かないで」

「天が呼びに来ている。天命だ。お前に頼みがある。もしお前が、都に返ることができたら、兄たちに私の無念を伝えてくれ」

「はい、確かに」紅姫は嗚咽で次の言葉が出なかった。

 体の弱った道真さまは疱瘡にかかっていた。

 三日後、多くの未練を残して、あの世に旅だった。

 延喜三年(九〇三)二月二十五日の夜半であった。

 一時代を作ってきた道真さま、五十九年の人生の幕を閉じた。。

 

 そして、数日後、道真さまを葬る日。

 多くの監視役がついて、道真さまの亡骸を乗せた牛車の後から残った紅姫がついて行くのを道端の人々たちが涙して見送っていた。

 牛が突然止まった。

 ‘ゴロ、ゴローゴロー’

 陽がいつの間にか雲に覆われ、光が雲を破り、季節外れの雷が鳴った。そして、すぐ雨が地を刺すように降り始めた。

 雲に向かって、そして、雨の中を突き上がっていく竜を見ていった。

「あれは何だ」と沿道の一人が叫んだ。

「祟りだ、たたりだ」皆が叫んだ。

「道真様の祟りだ」

「早く逃げろ、はやく」

  民たちは、家々に我先にと争うようにして去って行った。

‘ドーン’

 呆然としていた監視役の一人に雷が落ちた。

「助けてくれ」

  監視役たちは逃げ惑った。

「入れてくれ」監視役たちは民の家々に怒鳴ったが誰一人戸を開けるものはいなかった。


 それからの太宰府の街には民一人見かけずただ、祈祷師たちが歩雷火斗法を唱え、僧侶たちが経をあげているだけであった。

「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょ」

「がこんるしゃなほうざれんげだい」


 紅姫は海路を使わず、陸路で都に向かった。

 道真さまを慕ってついてきた時遠という従者が、鳥栖に隠れ住んでいた。

 太宰府から道真さまにしたがって来たことのあるその時遠の家を訪ねた。

 時遠夫婦と道真さまから養子をもらった長寿麿も驚いて出迎えた。

「紅姫さま、そのお姿・・・」といって、時遠は言葉を失った。

「姉君、一体どうされたのですか」と長寿麿も驚き声を上げた。

「とにかく、中に入ってください」

 以前通された古びた狭い部屋に三人が入った。

 紅姫は道真が死んだことを泣きながら話した。

 聞いていた三人も涙ぐんだ。

「さぞかし、ご無念でしたでしょうに」時遠がいった。

「その時の遺言を兄たちに伝えようと太宰府から逃げてきました。これから都に向かいます」

 と紅姫が早口で答えた。

「追っ手が来るかもしれませんし、お一人で都までは物騒です。長寿麿、ついて行っておやりなさい」

「父上、承知いたしました」と答えて、準備のために、自分の部屋に戻っていった。

「紅姫様も早く着替えをしてください」と時遠の妻が別の部屋に案内した。

 紅姫は男姿に変わっていた。

「長寿麿、お前も道真様の恨みを晴らしてきなさい。晴らすまで、帰ってくるな、分かったな」

「くれぐれも、二人とも、気をつけて。少ないけど、これを持って行きなさい」と時遠の妻がいって、長寿麿に路銀を渡した。

 二人は頭を下げた。


 追っ手はなく、無事紅姫と長寿麿は京の都に入った。

 道真さまの愛でていた梅の花が咲き誇っていた。

 二人は、都の西外れ三条坊門小路に近くに、職人に小屋を頼んだ。

 掘っ立て小屋は、一日もかからなかった。

「屋敷と違って、なんと粗末な」と長寿麿はなげいた。

「長寿麿、贅沢をいってはいけません。我慢しましょう」

 そこで、二人はこれからどのようにして、道真の遺言を果たそうかと寝食忘れて考えた。

「兄上たちが都に戻ってくるまで待っていますか」と長寿麿がいった。

「いつ戻ってくるか分からないのを待つなんて」と紅姫が悔しそうに答えた。

「そうですね」

「長寿麿、気晴らしに市場へ出かけましょう」

「そうですね、食材も仕入れねばなりませんから」

 二人は、朱雀大路にでて、七条を通って西市に入った。

「賑やかですね、姉上」

「やはり都は違いますね」

 しばらく歩いていたとき、

 野菜売りの店の者と客との話し声に、紅姫ははっとして立ち止まり聞き耳を立てた。

「太宰府じゃ、道真様が悪霊となって、人々を苦しめているそうだ。いつ、こちらにやってくるか分からんぞ」

「儂もそんな噂を聞いている。時平様たちにも恨みがあるだろうから、いつ来てもおかしくはないな」

「くわばら、くわばら」

 空に雲が垂れ込めてきて、急に周りが暗くなった。

「こうしてはいられん。あわを一升もらおうか、早く帰らんと」

 と客は、銭を払って小走りで帰って行った。

「姉上、もう都でも父上の噂が伝わってきているのですね」

「お父上のこと悪霊だなんて」

「姉上、なんとかしないと父上も浮かばれませんよ」

「とにかく、雨が来ないうちに、我々も食材を買って、早く帰りましょう」

「はい」

 二人は、あわと菜っ葉そして、塩を買い求めて、家に戻った。

 家に着くとすぐに、稲光と伴に、雷鳴とどろき、雨が滝のごとく大きな音をたてながら降ってきた。


 六月になると雨の日が多くなった。

 それも地面に突き刺さるような激しい雨だった。

 鴨川はあちらこちらで怒濤のごとく氾濫し、家や田畑は水没、家々は船のごとく流され、人々も悲鳴を上げて溺れ流されていった。

 雨がやみ、水が引くと、多くの死体が場所かまわずに横たわっていた。

 人々が残骸の後片付けを行っているさなかの九月。

 秋には、凄まじい突風が、都を蹂躙し、人々や家屋そして、田畑にまた多くの被害をもたらした。

「姉上、町ではこの大雨はまた父上の祟りだと噂されています」

「そのようですね」

「これじゃ、父上がますます悪者になってしまいます」

「長寿麿、なんとかしなければなりません」

 二人は考えあぐんだ。


 都に、木枯らしが吹き始めた。

 紅姫はの住まい近くに行き、様子をうかがっていた。

(もう、見張りはいないようだわ)

「もしや、紅姫さまでは」

 後ろからの声に、紅姫はびっくりして、懐に手をやり、半歩ほど下がって振り向いた。

 男は、手を横に振りながらいった。

「怪しい者ではありません、のでございます。昔、道真様には大変お世話になった者です」

「時々、お父さまからお話を聞いていましたあの加茂さまですか」

「はい、このたびは道真さまがあのようなことになってしまって残念です。さぞかし、紅姫様もご苦労されましたでしょう。ところで、こんなところで何をなさっているのですか」

 紅姫は、手短に太宰府での道真の暮らしを話した。

「そうですか、それでここに。私も宣来子さまに会いに来たのです。良かったら、一緒に参りませんか」

 紅姫が躊躇しているとさらに加茂が続けた。

「もうここは安全ですから、早くお母さまにお会いになってください」

 

 宣来子は紅姫の顔を見て驚いた。

「あなたは紅姫、良く無事で・・」と宣来子はいって、涙ぐんだ。

「お母さま、お会いしたかった」

「宣来子さま、紅姫さま。某はまたきますので、ここで失礼します」と加茂は玄関であいさつをして、帰って行った。


 紅姫は、長男の菅原高視、そして弟の寧茂、景行たち十人も刑を受けて、それぞれ地方へ流されていることを宣来子から聞いて涙した。

 二人の話が途切れた。

 むなしい時間が過ぎていた。

「お母さま」と紅姫が耐えられなくなって、口を開いた。

「そろそろ、おいとまします。今度来るときは、長寿麿を連れてまいります」といって、紅姫は家に帰っていった。

 紅姫が門を出たところに、加茂忠行が待ち受けていた。

「紅姫さま、物騒ですから家まで送りましょう」と加茂が声をかけてきた。

「加茂さま、今までここで。ありがとうございます」

 延喜五年(九〇五)、太宰府まで付き従った道真さまの門弟のさまが、道真さまの眠られる墓近くに小さなを建て、神託により天満大自在天神と称されました。

 それにもかかわらず、異変は切れ目無く続きました。

 朝堂院で、時平さまを筆頭に大臣、参議、中納言、そして内大臣たちが参集して、評議が行われていた、その時です。

 外はあっという間に真っ暗にそして、稲妻が天空を横切り、庭に突き刺さるかのように光り立ち下がり、建物を揺さぶるほどに雷鳴がとどろきました。

「まただ」

「伏せろ」

 場がざわめき、おののいて震えている者、腰を抜かしている者、逃げようと立ち上がった者たちに向かって、静まれといって、時平は庭に飛び出し、抜刀して天を仰いで叫んだのです。

「道真殿、血迷ったか、正々堂々と姿を現せ」

 そして、何度も刀で空を切り続けました。

 それからというもの、毎夜、時平は、夢を見てはうなされました。

「道真、成仏しろ」と声を荒げた瞬間、時平は目を覚ました。

「また夢か」

 時平は、やつれた顔で政務に就いていたが、とうとう気が狂って屋敷に閉じこもってしまったのです。

 一方、清涼殿では。

「時平は、いかがしたのか」と醍醐天皇が近習の者に問いかけられました。

「時平さまに悪霊が憑いたので座敷に閉じ込められて、毎日祈祷師にお祓いを受けているとのことです」

「そうか、道真の悪霊に取り憑かれてしまったのか。儂も気をつけなければのう」


 翌年、延喜九年(九〇九)四月四日、時平さまは三十九歳で亡くなられました。

 朝廷内では時平さまは、病死で亡くなられたと知らされました。

 しかし、町では、「時平さまは、道真さまの祟りにあったのだ」と公然と噂されていました。

 非官人の呪術師の道摩法師がほくそ笑んでいた。

「やっと、時平をあの世に送ることが出来た。次は、源光だ」

 道摩法師は源光に見立てた藁人形に呪文をかけ、夜になると大木に藁人形を五寸釘で打ち付けた。

「コウマクナマーダラ、ミナモトノヒカル、コウマクナマーダラ、ミナモトノヒカル、コウマクナマーダラ」

 

 延喜一三年(九一三)には道真さまを失脚に追いやった首謀者の一人右大臣源光さまが狩りの最中に泥沼に落ちて溺死されました。

 道摩法師の家では。

「道足、また町民たちに源光の死が道真の祟りだと噂させろ」

「はい、承知しました」弟子の道足が答えた。

「やっと、源光をあの世に送れた。今度は時平の甥か、親王をあの世に送ってやる」と道摩法師が次の標的に狙いをつけていた。

 今日の町々に‘道真さまの祟りだ、源光さまが亡くなられた’と噂が流れた。

「長寿麿、いやですね、またお父様の祟りで源光さまがお亡くなりになったと噂されてますよ」

「ここまで来ると父上は悪者扱いになってしまいます。なんとかしませんと、父上も成仏できません」

「あっ、賀茂さまに相談してみたらどうかしら」

「それはいい。姉上、明日にでも賀茂さまのお屋敷に行きましょう」


 醍醐天皇は、九一九年、祟りを鎮めるため、菅原道真の墓の上に社を造るよう命じられました。


 延喜二三年(九二三)年四月十四日、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王さま(時平の甥)二十一歳で、病死されました。

「世をあげていう。保明親王の死はの霊魂宿念のなすところなり」と醍醐天皇は嘆き、道真さまの罪を赦すと共に、四月二〇日、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈られました。

 また、道真さまの子供たちも流罪を解かれ、京に呼び戻されたのでした。

 九二五年、次いで皇太孫となった慶頼王さま(時平の外孫)が五歳で病死されたのです。

 

 延長八年(九三〇)七月、要人たちが集まって朝堂院で朝議されていたとき、

 外が急に真っ暗になった。それと同時に、空に光が走り、雷鳴がとどろいた。

「ぎゃー」悲鳴が上がった。

 突然、大納言さまが倒れました。

「助けてくれ」と声を発したのさまが火傷を負った顔を押さえて泣きわめいております。

 この突然の天変により、道真さまを貶いれたとされる朝廷要人に多くの死傷者が出ました。

 それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、二ヶ月後に危篤になりますと、幼い後の朱雀天皇へ譲位し、それと合わせて、藤原時平さまの弟の藤原忠平さまを摂政に任じられました。

「これで出家し、道真を弔うことが出来る」といって、醍醐天皇、三十三年の短い幕を閉じました。

 このとき以来、道真さまの怨霊は雷神と結びつけられたのでした。

 道真さまの祟りにより、

 承平六年(九三六)時平さまの長子の大納言藤原保忠さまが四十七年で亡くなったと市井でささやかれた。

 その後も毎年のように都では、天変地異が続き、多くの死体が鴨川に流されていた。

 一方、山陽、南海に藤原純友らの海賊が出没し、東国では平将門が国守らとの戦いに勝ち進んでおり、忠平さまたちを悩ませておりました。

 

 数年後、天慶三年(九四十)。

 時平さまの三子、権中納言藤原敦忠さまが三十八歳で他界しました。

「藤原敦忠さまが亡くなったとそうな。未だ、時平さま一族は悪霊に取り憑かれているのだ。くわばら、くわばら」

 都の雀たちが悪霊になった道真さまの祟りだと噂していた。

 一方、朝廷では、

 摂政藤原忠平が加茂忠行を呼びつけていった。

「いっこうに、道真の祟りがおさまらん。いつになったら、おさまるのじゃ」

「まさか、ここまで祟りが続こうとは思ってもおりませんでした。もうそれがしの力では止めることできませぬ。ご容赦くださいませ」と忠行は身を震わせていった。

「そうか、其方に代わる者はだれかおるか」

「それがしの弟子であった安倍晴明という者がおります」

「そやつは信頼出来る者か」

「確かでございます」

「わかった、下がれ」

 早速、忠平は参議以上を朝堂院に集めていった。

「皆の者、道真の祟りを鎮めることが出来ないと加茂忠行がいって役目を降りた。誰か道真の祟りを鎮めることが出来る者を知らないか」

「畏れ多くも申し上げます。に占いと祈祷に秀でた安倍晴明という若者がおります」

 の参議がいった。

「それがしも安倍晴明がよいかとおもいます。彼は以前加茂忠行の弟子で今では師匠だった忠行を超えるほどの技量を持つという話です」と大納言が付け加えた。

「分かった、安倍晴明という輩に会ってみよう」


 一方、安倍晴明の屋敷では。

「道真さまの祟りだと、ばかな。そのようなわけがあろうはずもない」と、十五歳になった晴明は憤りを隠さず弟子にいった。

「晴明さま、朝廷から使いの者が来ました」と家人が伝えに来た。

「わかった」

 翌日。

 晴明は紫宸殿に昇った。

「安倍晴明、面を上げよ。直答を許す」と忠平さまはいわれました。

「はっ」

 幼さが残っている晴明に忠平さまは驚かれました。

「其方はいくつか」

「十九歳になりました」

「若いのう」

(こんな若者にはたして道真の悪霊を追い払えるのか。しかし、鼻筋が通っていて利発そうな男だ)

「晴明、道真の悪霊を追い払えることが出来るか」

「はい、できます」

「どのようにして鎮めるのか」

「道真さまについている悪霊の正体をあばき、成敗するのです。すべてをお任せください」

「わかった。お前に任せた」といわれて、忠平さまは席をお立ちになりました。

 しかし、数日もたたぬうちに地震が起こった。

 河原にはいくつもの死体が運ばれ流された。

 それを見送る者たちの鳴声やうめきが川面に響き渡った。

 都の人々はまた道真さまの祟りかと震え上がった。

 憤懣を抱く者たちは、内裏の門に石を投げつけ、門番に取り押さえられるという事件が頻繁に起こった。

 晴明は忠平さまに呼ばれました。

「晴明、少しもおさまらないではないか」

「忠平さま、お願いがございます」

「いってみろ」

「北野に道真さまの祠を建てていただけませんか」

「よかろう」

「晴明、巷ではこの先大風が吹いて都が火の海になると噂されているようだが、其方はどう思う」

「それは道摩法師が言いふらしているようですが、確かに大風が近々吹き荒れるかと思われます。下々に火の元にはくれぐれも注意するよう朝廷よりお達しを出すようお願いいたします」

「心得た」


 しかし、数日後に大風が吹き荒れ、道摩法師が予言したとおりに都の南が火の海に襲われた。

 町では道摩法師の予言があたったと評判になり、道摩法師の人気が高まり、占いをしてもらおうと人々が列を作って待ち並んだ。


 紫宸殿では天皇朱雀をもとに参議以上十五人が集まり評議が行われておりました。

「先日の大火だけでなく、いつまでたっても災いがおさまりそうもない。なんとかならんか」

 と天皇が言われました。

「安倍晴明ではこの国難を乗り越えることは難しいのでは」と右大臣藤原定方がいいました。

「では誰が良いと思うのか」と忠平が切り返されました。

「このたびの大火を予言した道摩法師はいかがでしょうか」と答えた。

「あやつは晴明と違い朝廷に使える身ではない。我々にとって、信用に値するか疑わしい」

 と忠平の兄の大納言藤原仲平がいいました。

「わかった。北野に道真の祠ができるのでしばらくは晴明に託してみよう」


 翌九四一年、朱雀天皇が成人すると、忠平さまは摂政の辞表をだされましたが、天皇は改めて忠平さまを関白に任命されました。

 一方、晴明が屋敷の一角で祈祷中に、道摩法師が晴明の前に現われた。

「晴明、それがしの邪魔をするな」

「とうとう正体を現したな」

「何を言うか。それがしは道真さまの恨みを晴らしているまでよ。晴明、あの世に行け」と道摩法師は剣を抜きはなった。

「嘘をつけ。道真さまの祟りだといって、今の朝廷を転覆させようとしているのであろう。征伐してやる、覚悟しろ」というや否や、晴明も剣を抜いて道摩法師に飛びかかった。

‘カチン’晴明の振り下ろした剣を道摩法師が受け、そのぶつかりあった剣から薄暗い部屋の中に火花がとび散った。

 やや推され気味の道摩法師は扉を蹴り打ち破り、飛び跳ね庭に降りた。

 続いて、晴明も剣を片手で上段に持ち道摩法師の前に飛び降りた。

‘エイ’

‘ヤー’

 剣を二度ほど打ち合わせて、晴明を半歩後退させるや否や 道摩法師は土塀を乗り越え去って行った。

「大丈夫ですか」といつの間にか来た弟子が心配顔でいった。

「手強い相手だ」と息を切らせながらいった。 


 数日後、天皇のお住まいであります内裏が焼失いたしました。

 そのことで、翌日、晴明は忠平さまに呼びつけられた。

「晴明、内裏が燃えた。道摩法師は道真の祟りだといい回っているそうだが、お前はどう思う」

「この火事は道真さまの祟りとは関係ないと思います」

「ではなんだ」

「まだはっきりしたことはいえませんので、もうしばらくお時間をください」

「待てば、祟りはおさまるのか」

「はい、きっとおさめてみます」と晴明はいいきった。


 晴明は内裏の焼けた原因を調べた結果、付け火であると断定した。

 さらに、付け火の犯人を徹底的に弟子たちも使って調べ上げたところ、道摩法師が関わっていたのではないかと疑った。

 数日後、道摩法師の住処を弟子の一人が探し当てた。

 晴明は弟子の案内でその住処の前に立ったとき、後ろに殺気を感じた。

「やっ」と気合いの瞬間、晴明は左に飛び跳ねた。

「おまえ、術にかかったか」と晴明は弟子の振り下げた剣を避けていった。

 そして、前のめりになった弟子のうなじを手刀で打った。

「ぎゃー」とうめき声を上げて弟子は膝から地面に沈み込んだ。

 土塀から抜刀した黒装束の輩が飛んできた。

「道摩法師の手の者か」

 晴明は大声で敵をひるませ、剣を抜き払って塀に沿って走った。

(敵は三人か)

「こしゃくな」首領らしき者が塀に飛び上がって、晴明を追った。

 残りの二人は地を走った。

 晴明の足が一瞬止まり、振り返りざま二人に向かって走り二人をなぎ倒した。

 すぐに態勢を立て直し、塀から飛び降りてきた敵を迎え討った。

「ぎゃー」

 晴明は一人を羽交い締めにしていった。

「内裏に火をつけたのはおぬしたちか」

「くるしい、いうから緩めてくれ」

「早くいえ」

「道摩法師の命令でやった」

「道摩法師の目的はなんだ」

「ぎゃー」

 矢が男の胸に突き刺さった。

「しっかりしろ」晴明は揺さぶり起こそうとしたが、男は息を引き取っていた。

 覆面をはいだが見知らぬ男であった。

 すでに、残りの二人は逃げ去っていた。

 晴明は剣を収め、門前に倒れている弟子の前に向かった。

 弟子は目を覚ましたかのようで、不安げな面持ちで座り込んでいた。

「晴明さま」

「気を取り戻したか」

「どうしたのですか」

「お前は道摩法師の術にかかって、それがしを討とうとしたのだ」

「えっ」弟子は下を向いて、無念そうに晴明にわびた。

「帰るぞ」晴明は周囲の気配に神経をとがらせながら屋敷に戻った。


 一方、道摩法師はその一部始終の映った水晶玉を苦々しく見つめていた。

「晴明、覚えていろ」


 翌日、晴明は紅姫たちの住まいを訪ねた。

「晴明さま、このような朝早くからどうされましたか」紅姫は驚いていった。

「紅姫様、長寿麿さま。内裏の火事の原因が分かりました。道真さまの祟りというのは全く根拠のない噂で、付け火による焼失です」

「いったいだれが」長寿麿がいった。

「首謀者は道摩法師という名の陰陽師です」

「なぜそんなことを」紅姫がいった。

「まだ分かりません、屋敷に戻って透視してみます」

 晴明は屋敷に戻り、祈りの部屋に閉じこもり、呪文を唱えながら水晶玉をのぞき続けた。

 三日後の朝。

「やはりそうだったのか」

 晴明はふらつきながら部屋を出て、弟子が支度した食事をとり、紅姫を訪ねた。

「紅姫さま、長寿麿さま。やっと道摩法師の真意が分かりました」

「それは」と紅姫がせかすようにいった。

「道摩法師は道真さまの祟りだといって、民をあおり、朝廷を驚愕させ政府の転覆を謀っているのです」

「まあ、大それたことに、父上さまを利用するなんて」と紅姫は怒っていった。

「それはなぜでしょうか」と長寿麿がいった。

「それは今の政に不満を持っているからだと思います」

 しばらくの間、沈黙の時が過ぎた。

「私はこれから忠平さまにこのことを知らせてきます」

「はい、承知いたしました」と紅姫が答えた。

 晴明殿は政務を執られている忠平さまの部屋を訪ねた。

「あいさつはよい。早う申せ」と忠平さまは執務の手を緩めることなくいわれました。

「先日の内裏の火事の原因ですが、道真さまの祟りではなく道摩法師の付け火であることが分かりました」

「なに」忠平さまは筆を置き、晴明殿の方に向き直られました。

「現政府の転覆をはかろうとしております」

「なんと、国家転覆を」

 忠平さまのお顔が険しくなりました。

「忠平さま、私にお任せください」

「どうするのだ」

「道摩法師を征伐してみます」

「即刻だぞ」

「承知いたしました」

 晴明が朱雀門を出たときには、雨が降っていた。

「梅雨時になったか。道摩法師を討つにはこの時期をのがせぬな」

 晴明は屋敷に戻った。

(一刻も早く道摩法師の屋敷を襲うのだ、先手必勝だ)

 二日ほど部屋に閉じこもり、晴明は道摩法師の屋敷の見取りを透視して、頭に見取りをたたき込んだ。

 

 一方、道摩法師は次の策を練っていた。

「次の太政官会議を狙おう。これですべてが終わり、新しい世を作ることが出来る」

「弟子たちを集めろ」と道摩法師は近習の者に命じた。

 五人の弟子が集まった。

 道摩法師は大内裏のみ取り図を広げた。

「あさって、ここ朝堂院で午後太政官会議が開かれる。これには忠平たち議政官が十数人集まる。このときを狙って皆殺しにする。よいか、我々の世にするためだ」といってから、道摩法師は弟子たちに策を与えた。


 そして、太政官会議が開かれる当日の昼に近い時。

 晴明は忠平さまの執務室を訪れて、今夜道摩法師の屋敷を襲うことを説明した。

「わかった。それでよかろう。ところで、晴明。これから太政官会議が開かれる。其方も出席するが良い」

「承知いたしました」

 朝堂院の広間には誰も来ていなかった。

 入り口の片隅に、晴明は座した。

 しばらくしますと、源兼明さま、藤原忠文さまたち八名の参議が入ってこられました。続いて、権中納言の源高明さま、藤原在衛さまが、そして、中納言の源清蔭さま、藤原顕忠さま、藤原元方さま、右大臣藤原師輔さま、左大臣藤原実頼さまが続き、最後に関白太政大臣の藤原忠平さまが席にお着きになされました。

 その時、天井から黒いものが落ちてきた。

 晴明は見逃さなかった。

「くせ者!」といって、晴明は席をけり飛びあがり、抜刀した黒装束の輩の前に立ちはだかった。

「わー」

「何者だ」

「ここをどこと心得る」

「無礼者」

 公卿たちの叫び声をよそに、晴明と黒装束の輩が剣を構えながら互いに隙をねらっていた。

「道摩法師か」

「またか、安倍晴明。飛んで火に入る夏の虫、ついでだ、お前も成敗してくれる。えいっ」

 道摩法師が振り下げた剣を晴明は軽々と右にかわしながら、

「やぁ」と胴を払った。

‘ヒュー’道摩法師はそれをよけて、庭に飛び跳ねた。

 晴明は追いかけた。

「えっい」と晴明は庭に降り立った。

 すると、すぐに黒装束の輩たちに囲まれた。

 道摩法師は後ろに引き下がっていた。

(五人か)庭を走った。

‘カチン’

‘カチン カチン’

 追いかけてきた五人のうち四人には手傷を負わし、戦意を喪失させた晴明は息を切らせながら残りの一人に対峙した。

 その輩はすでに覆面をはずして、追い詰めた晴明を見下ろして剣を中段に構えた。

「覚悟しろ」といって、上段に振り上げた。

 その瞬間、天は光、雷鳴とどろくとともに上段に構えた剣先に光が吸い込められた。

「わっ」と悲鳴を上げて大男は倒れた。

(道真さまのご加護か)晴明は近くでそのさまを見ていた道摩法師に立ち向かった。

 

(晴明め)道摩法師は庭の小石を掴んで雨に逆らって投げ上げると、雨はやみ風は止まり、数々の小石が鴉に変わった。道摩法師は、鴉の群れの中に舞い上がった。

(道摩法師はどこだ、危ない)

 晴明は咄嗟に池に飛び込んだ。

‘ジャボーン’

「シャ、リン、カイ、ピョウ、トウ、マンダーラ・・・」と晴明は大声で呪文を唱えながら、池の底の小石を掴み鴉の群れに向かって投げつけた。

 鴉はみるみるうちに元の紙切れになって、庭にひらひら舞い落ちた。

 そして、道摩法師も落ちてきた。

 晴明は池から飛び出て、素早く道摩法師の手首をひねりあげた。

‘ゴッキ、ゴッキン’

「助けてくれ」と道摩法師はがっくりと頭を地に落とした。


 天慶九年(九四六)、朱雀天皇が成明親王に譲位され、村上天皇が即位いたしました。

 翌年初春、晴明の進言で、忠平さまは道真さまが祀られていた京都北野の地に北野天満宮をとうとう建立されました。

 晴明は紅姫と長寿麿と伴に、鳥居の前に立ち礼をして社殿に向かった。

 参道の傍らには道真さまの愛した梅の花が咲き誇っていた。

「立派なお社ですね。お父上もきっとお慶びになっていますよ、長寿麿」と紅姫がいった。

「はい」

「道真さまは未来永劫、きっと敬われますよ。必ずそうさせてみせます」と晴明は笑顔を二人に向けていった。


(完)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ