勇者と臆病者
今日の宿は、昨晩泊まった家畜小屋ではない。かといって、彼がここ一週間寝ていた広場の片隅でもない。
屋根があって、隙間のない壁があって、悪臭も鳴き声もない、日貸しの宿だ。
とはいえ、クレイディスたちの手もとに残ったカネは決して多いわけではなく、部屋は狭いし、ベッドもひとつ。ひとりの旅人が寝るためだけに借りるような宿である。
「…………狭いんだが」
「儂もお前さんもチビで助かったの」
ひとり用のベッドの上に、クレイディスとエルザが寝転がれたのは、ふたりの小柄な体躯があってこそ。
普段、自身の背丈をコンプレックスと思っているだけに、なんとも皮肉なものだった。
「大体、俺のカネだぞ」
「尻を触るなアホ!」
「触ってねぇわ! 当たっただけだろ!」
しかし、やはりひとり用の狭いベッド。どちらかが動けばぶつかって、ゆっくりできたものではない。
さらなるイチャモンをつけられる前に、クレイディスはエルザに背を向けた。
「明日も飯屋に行くからの」
「まだ懲りないのかよ」
「まだ占っとらんが、ありゃ相当見込みがあるヤツじゃ。自分でも分かっちょるじゃろうに、何をビビる必要がある」
確かに、言葉だけ聞けばサヴァンナは憶病者だったかもしれない。しかし、クレイディスは彼女のことをそうは思わなかった。
「でも、あの人の言うこと……少しは分かるよ」
「なんじゃ、ビビりが伝染ったんか」
「努力は報われるなんて、成功した人が言うから良い話に聞こえるだけだろ。その陰では、数えきれないほど報われなかった人たちがいる」
挫折を知っているクレイディスだからこそ、理解できたのかもしれない。
「積み重ねてきた努力と時間が、いつか無駄になる。それを恐れてしまうのは臆病なんじゃなくて、賢いんだと思うよ」
「そんなもん、知るか。ビビって何もせんのなら、何にもはじまらんわ」
それもそうだな、と呟き、クレイディスは久しぶりに転がったベッドの上でゆっくりと目を閉じた。
*
「ビビっとるだけじゃろ」。昨晩、エルザに告げられたひと言が、頭から離れない。
眠りにおちるまでも、今朝から飯屋で働く今この瞬間までも、サヴァンナは彼女の言葉を思い出していた。
自分が臆病者だというのは、サヴァンナ自身もよく分かっている。しかし、自分の失敗以上に彼女が恐れていたのは、妹・アイリンの失敗だ。
(アイリンが前に進みつづけるんなら、私は臆病者であるべきだ)
臆病者というものは賢い。常に最悪の事態を想定して怯え、足をすくませ、視野を広くする。
前しか見ず、前にしか進まない勇者を適切に支えられるとすれば、それは臆病者をおいて他ないだろう。
そのことを、サヴァンナは理解している。
(あの子のためなら、私は自分の夢なんて捨てられる)
数年前の夜、寝床でアイリンは初めてサヴァンナに夢を語った。亡くなった父の背に憧れ、冒険者になるという無謀な夢だ。
幸い、アイリンもサヴァンナも魔法適性には恵まれている。しかしそれを生かせるかどうかは鍛錬次第だし、何より冒険者として成功するには『努力』と『才能』と『運』が
必要だと、彼女たちの父は話していた。
三つ目の『運』は非常に重要で、常に危険と隣り合わせの冒険者にとっては必要不可欠である。
母は早くに亡くなり、父は死ぬ間際まで冒険者として【未開拓の地】へ出向き、家にはまともに帰ってこない。
寂しい思いをする妹のアイリンをサヴァンナはいつも可哀想に思い、彼女が喜ぶ顔を見るために何でもした。
彼女が「欲しい」というのであれば父親に頼みこんでおカネをだしてもらったし、彼女が「食べたい」というのであれば露店の主人に教わりながら飯をつくった。
そして彼女が「冒険者になりたい」というのなら、それがどんな結末になったとしても悲しませないようにすることこそ、サヴァンナが自身に課した使命である。
「へへっ、今日は臨時収入があったからな」
サヴァンナが、冒険者を目指すアイリンとオメテオの街に移住してきた頃のことを思い出していると、店のなかに男たちの声が転がりこんだ。
もう昼時を終え、客足が遠のいていく時間に四人の厳つい男たちがゾロゾロ入ってくるのは、そこそこ珍しい光景。
さらにサヴァンナの目をひいたのは、男たちが腕や足に巻いた布に縫われている蜂を象ったエンブレム。アイリンも身につけている、『オメテオ・ホーネッツ』のエンブレムだ。
「炎帝様からのありがたい施しだ」
そう言って席についた男のひとりが、腰巻きから小袋を取りだす。
ジャラッと音をたててテーブルに置いた小袋の赤い紐を解くと、なかから銅貨や銀貨が出るわ出るわ。
げらげら笑いながら、大声で酒と飯を注文する男たち。その姿を見て、サヴァンナは表情を曇らせた。
「俺たちみてぇな下っ端の冒険者にも、こうして施しをくれるんだから炎帝様も大した男だぜ」
「強くて優しくて、マジで憧れるわ」
嬉々として話す男たちのもとへ歩み寄っていくサヴァンナ。彼女の目が捉えているのは、男たちが取りだした赤い紐のついた小袋だ。
「ねぇ、あんたらカネ持ってんね。近頃の冒険者ってのは、そんなに稼げるの?」
「あぁ? なんだ、ねーちゃん、チップでも欲しいのか?」
テーブルの前に立ったサヴァンナに、四人の男たちの視線が集まる。
「チップが欲しけりゃ、相応の接客でもしてもらおうかな」
ひとりの男が言うと、彼らは一斉に下品な笑い声を店のなかに響かせた。
「この小袋の紐、おかしいと思わない?」
「おいおい、人のカネを勝手に触るんじゃ──」
「普通、この手の小袋は同じ麻でできた帯状の紐を使うのに……これ、女物の髪紐だよね? それも先の方がほつれてる」
はぁ? と、首を傾げた男の視線の先で、サヴァンナが自らの黒い髪を後ろで束ねていた赤い髪紐を解く。
「なんでか分かる?」
「そんなの知るわけねぇだろ」
「……だろうね」
サヴァンナの細い手が小袋を持ちあげた途端、過敏に反応した男が手を伸ばした。
自分のカネが入った小袋を、見ず知らずの他人が手に取ろうとしているのだ。当然といえば当然のことである。
手を伸ばした男の巨躯を、サヴァンナが思い切り蹴飛ばした。
「私が妹にあげたカネを、なんであんたらが持ってんのさ」




