もう一度、夢へ
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多くのギルドが軒を連ね、右を見ても左を見ても冒険者が歩いているオメテオの街で生まれ育った少年が冒険者を夢見るのは、至極当然のことだった。
自ら危険な世界に身を投じ、その腕っぷしだけで富と名声を手に入れ、伝説となっていく。そんな姿に憧れない子どもなどいない。
まだ幼いクレイディスとメリルも、例外ではなかった。
あばら家で育ち、世辞にも裕福とはいえないふたりの家庭。病が流行った時には、【治癒系魔法】も受けさせてはもらえない家族の死を見て、ひどく悲しんだ。
何をするにも最後尾、誰から見ても最底辺。幼い頃のクレイディスとメリルには、世界が歪んで見えたに違いない。
「俺、冒険者になる。街で一番の冒険者になって、美味いもんをたらふく食うんだ」
「私も冒険者になって、街で一番のギルドにしてみせる。もう誰にも、見下されないようになる」
それはふたりのかわした約束であり、ふたりが各々の胸に抱いた夢だった。
衰弱した家族の最期を看取って夢を掲げたあの日から、クレイディスとメリルは走りだした。
*
臭い。鼻の奥をつんざくような刺激的な臭いでもなければ、すぐに鼻が曲がってしまいそうなほどでもない。少しずつ不快な気持ちが心を侵食していくような、そんな悪臭。
それから鼓膜にまとわりつくのは、幾つも重なる豚の鳴き声。
「うぅ、もう朝か」
糞から漂う悪臭と豚の鳴き声に包まれる家畜小屋で目を覚ましたクレイディスの目を、壁板の隙間から差す陽の光が照らしつける。
一週間前まではウィザーズの所有している貸家で生活していた彼であるが、ギルドを追放されたのでは貸家なんて使えるはずもない。おまけに元々少なかった貯蓄もあっという間に底をつき、今日にいたるまで路上で生活していたクレイディス。
そんな彼にこの家畜小屋という悪臭漂う家を紹介したのは、占星術師のエルザだった。
「おい、エルザ」
髪や衣類についた藁を手で払いながら脇に視線を向けると、そこには気持ちよさそうな顔で眠るエルザの姿。どうやら彼女は、この劣悪な環境のなかでも熟睡できるタイプらしい。
「ギルドの仲間を探しに行くんだろ」
小さくて軽い体を揺すってみるが、彼女の眠りはかなり深かった。
「こんなギルドマスターで大丈夫なのか……?」
クレイディスの口から、呆れ混じりの深いため息がこぼれる。しかしすぐにその表情は嬉しそうに綻んだ。
「またギルドの冒険者になれるんだよな、俺」
「誰にも見下されない」という夢のために形振り構わなくなったメリルに切り捨てられ、協会で「紹介できるギルドはない」と告げられてからは、目の前が真っ暗になった気分だったクレイディス。
夢へと繋がる道は、自分の非力さのせいで絶たれた。そう思っていた矢先に、このエルザとの出会いである。
クレイディスは、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「まだ【空間系魔法】ってのはイマイチよく分からんが」
昨晩、エルザに【空間系魔法】の適性を見出されてから簡単な説明と練習をしてみたものの、どうもクレイディスにはこの手の難しい話が通用しない。
彼でなくたって、延々と『魔法のしくみ』や『起源』について語るエルザの話を徹頭徹尾理解できるの者は少ないだろう。むしろ、途中で眠りもせずよく最後まで聞いたものだと、クレイディス自身も思う。
「じゃと思うたわ、お前さんアホじゃからの」
「起きてたのかよ」
まだ半開きの目を小さな手でこすりながら、エルザがむっくりと状態を起こした。
「あれだけ説明したじゃろ、儂の貴重な時間返せ」
「その口の悪さをなんとかしろよ」
艶やかな髪についた藁を短い腕で払うエルザ。彼女からクレイディスが学んだ魔法の使い道は、全部で三つ。
一部の空間ごと向きを変えて、矢や魔法を含めた「力の向き」を強引に捻じ曲げるさせる【リフレクション】。
ふたつの切り取った空間の場所を移し替える【エクスチェンジ】。
自分、または別の物体を瞬時に移動させる【テレポート】。
しかし、魔法適性がないと思いこんで十九年間生きてきたクレイディスのことだ。魔力の使い方なんて少しも理解していないし、これではまるで素人に最初から高等技術を叩きこんでいるだけ。
彼が【空間系魔法】を自在に操れる日が遠いというのは、扱う方も教える方も容易く理解できた。
「それで? お前が昨日言ってたアテってのは?」
「そうじゃったそうじゃった、少し前に飯屋でええ魔力持っちょる女子がおっての。仲間にするんなら間違いないで」
「飯屋の女?」
「行きゃ分かるわ、はよぅ面子揃えてオジィのギルド叩きのめしたる」
そう言って立ちあがったエルザが、道端の猫のように思い切り背伸びをした瞬間のこと。先ほどよりも騒がしくなりはじめた豚の鳴き声に混ざって、カタンっと物音が聞こえた。
豚が何かにぶつかったのだろうと思ったりもしたが、クレイディスとエルザの前に恰幅の良い女性が顔を出す。
「えっと……どちら様でしょうか」
「ん? お前、誰じゃ」
女性とエルザの声が重なる。クレイディスとエルザは、女性のことを知らない。当然ながら、女性もふたりのことを知らない。
ただひとつ言えるのは、バケツを持って豚の世話をしにきたであろう女性の方が、この場においては正しいということ。
「いや、俺ら別に怪しいものじゃ……」
状況を察したクレイディスがすっくと立ちあがり、顔面蒼白させる女性に声をかける。
「ぶ、ぶ、ぶ……豚泥棒!」
「誰が豚泥棒じゃアホ!」
女性が大慌てで投げたバケツは、見事にエルザの小さな顔を直撃。どうやらエルザが得意げに案内した家畜小屋は、所有者に無許可で拝借していたものらしく、このままでは本当に豚泥棒として保安官につかまってしまうのも時間の問題だった。
すぐさまクレイディスは、顔面にバケツをくらってよろめくエルザの手を引いて家畜小屋から飛びだす。
「ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
バケツ、鍬、木片。背後から飛んでくる様々なものを見事にかわし、クレイディスとエルザは全力で逃げ去った。