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天井の隅

作者: 墓石太郎

午前三時四分。天井の隅っこ。一際真っ黒なその一画を、ひどく真っ赤な目では捉えることはできなかった。一目で全体を把握できる程のワンルームには、このやたらと厚い台湾製の布団を中心として、壊れかけの時計とスマートフォンが転がっている。

睡眠欲は本当に欲の一種だろうか。時々考える(すぐに忘れるが)。事実、私は眠りたいが、それは知りもしない“明日”のことを考えるから。今日の負債が、明日に持ち越されないように、眠りたい。“たい”とは欲求のそれだろうが、私はすでに、“明日”の為に眠ることを強迫観念に変えてしまっている。もちろん、それは意図的なものではないので、変わってしまったと言う方が正しいが。

眠らなければならないのだろうか?今日、眠らなかったら明日は…、それはひどい明日だろう。


…ビジネスマンの様態。はっきりしない頭の中みたいな都会を疲れ切った体で歩く。曇り空に光が乱反射して砂嵐のよう、猥雑。歩くと言うよりは、ぬめる。全身が鈍く痛い。横目に流行りのスイーツ店。若い女性が、手に甘過ぎる飲み物を持って撮影。その先の段ボールの家、横たわる男性。サラリーマンの視線はスカートの中、吐しゃ物の臭い。欲求不満の街並み。気が付くと手にはスマホ、執着が指紋まみれの液晶として表れている。駅へと下る階段へ入る時、地面に座る誰かと目があった気がした。

朝の癖に薄暗い駅の地下空間。歩を進めることに違和感があった。“都会”はあまりにも広いので、靴の踵はすっかり磨り減っていしまっている。削れた面は思いのほか滑らかで、最初からそうであったよう。毎日が徐々に磨り減らしていった革底。土台がしっかりしていない歪んだ立ち姿。

押しのけられて、壁際の液だまりを踏んでしまった。ビチャリ…(何の液体だろう…)。素足にかなり近いところでその感覚があった。立ち止まり靴の裏を見る。擦りきれてしまった靴底はもういなくなっていて、真っ白な靴下が顔を出していた。

「ドッ」

背後から悪意と正義感のタックルを受けて進まざるを得なくなる。結果として痛いことには変わりがないだろう?黒いスーツは私の顔を見ることもせずに人ごみに消えていった。立ち止まっている私が悪かったのかもしれない。誰にもぶつからないためには歩くしかない。

さらに地下へと下る階段、目に入るのは前を歩く人々の後ろ姿だ。非常に匿名性が高く、そこには全体的な人間があるだけのように感じられた。その動きがあまりにも機械的なので、私はこのシステムのなかに巻き込まれ、粉々になる妄想をしてしまった。脳内で立ち止まる。誰が群れるだろう。この東京の地面の下、歩く誰もが孤独な人間。音の鳴る耳栓と固定された視線。世界はきっとそこにある。

誰かの声が聞こえた。若い青年の声だ。その方向をみると、声の印象よりも老けている男性。顔に見合わぬ幼い服装。私には、彼がいくつであるのか、皆目見当もつかなかった。早口で、句読点のない口調は時折、自虐的な笑みを含んで、知的な風を装っている。彼が何を言っているのかよくは分からなかったが、それに意味がないことは分かった。しかしまあ、ここでは意味のあることのほうが少ない。彼は悪くないと思う。話し相手はどうやら女性。なるほど。高い音で緩急のない相槌は、内容こそ肯定的だが、響きはとても退屈そうだ。意味ありげな笑みにも、意味はない。知っている。私はなぜか、ほかの感覚がおろそかになるほど聴覚を集中させてそれを聞いていたが、反射的に前方が不安になった。視覚に集中すると、すでに改札が見えるところまで来ていたことが分かった。

「ピッ、ピッ、ピッ」

等間隔に聞こえる機械音と心臓の鼓動はごくわずかにずれてやるせない。対抗方向、改札を出ようとする人がいる。痩せた男性だ。少しサイズの大きいスーツはありふれた鼠色だった。彼も、誰かと同じように改札をくぐろうとするが、どうやら具合がおかしい。何かに対する恐怖心が、先を考えることの出来る人間としての自覚が、彼に一抹の不安を与えているようだった。

「ビー…」

ドラマチックでもなんでもない一般的な改札の機械音が、何の意図もなく彼を拒絶した。音は鳴りやまない。彼の表情は、動揺の色そのものだが、私には、彼がこうなることを見越していたように思われて仕方がなかった。むしろそうであってほしいと思っているようにさえ感じた。鳴りやまない音に寄り添って、男性は立ち尽くしている。人々は彼を分岐点として、左右に流れていく。初めは嫌悪を顔に表しておもむろであったその流れも、やがて当然のように滑らかになった。立ち尽くす。機械音は、この地下空間の壁を何回も反響している。何度跳ね返っても、ここを出ることは叶わないのに。


「ビー…」


午前四時十六分。見当はずれのアラーム音でたたき起こされた。壊れた時計は決められた労働をやめ、断末魔を叫ぶことに従事し始めたようだ。枕元に置いてあったそれを、やたらと厚い羽毛布団でくるんで黙らせた。どっと疲れて仰向けに。真っ暗な一画はいつの間にか消えていた。ここのところ、意識は常に不確かで、曖昧な日々だ。壊れた時計のせいで時間もスマートフォンに頼るのみ。当たり前という概念が、屁理屈屋の猜疑心で崩れかけている。

寝返りをうつと、疲労感まで一緒に憑いてきた。目の奥が痛む。ふと、今までの“さっき”を思い出して絶望する。昨日、コーヒーなんて飲まなければ良かったのに。寝る前に下らないニュースなど見なければ良かったのに。彼女に声をかけていれば良かったのに。情熱を傾けた青春を下らない好奇心で捨ててしまわなければ良かったのに。後悔一色の走馬灯。こんなに不毛な時間ならば、いっそのこと早く眠ってしまえば良かったのに。


驚いたことに、私は靴を履いていなかった。それが分かったのは、ジワリと浸透する地面の冷たさを、感覚的に意識したからだ。真っ白い靴下に、真っ黒いスーツ。こんな服、持っていたんだな。私は足の裏が凍り付いてしまったように、ただ立ちつくしている。目の前をまばらに通る人々は、こちらには目もくれないが、彼らがスマートフォンを凝視する、あの冷たい無機質な瞳は、私を強く突き放している。空は見えず、頭上にはコンクリートの天井があった。その上を誰かが歩いているのだろうか。轟音が響いている。

急にうるさくなった。意識すると、ここは駅の地下空間であったし、時刻は昼下がりのいつかであった。

歩かなければ。目的は思い出せないが、義務は私を強く支配している。無意識に歩きだしていた。冷たさはいまだ足に付きまとい、また少しずつ足を重くさせていく。白い靴下もまた、地面にこびりついた汚れを絡めとるようにして、徐々にその色を変えていく。無垢な純粋が、都会の色に染まっていた。肌色の地面は、実は黄ばんだホワイトカラーで。靴下は外を歩くようには出来ていない。守られている間はその自覚はなく、放り出された瞬間に初めて分かる。足を上げて裏を見ると、すっかり真っ黒になってしまっていた。

この地面はやはり、トゲトゲしていて非常に冷たい。足を地面に下ろす度、鈍い痛みを感じるほどだ。私は意志において、未来の預言者。次の一歩もきっと我が身を傷つけるだろう。

未だ迷っている。雑音がすごい。知らない人の意思や、それすら伴わない声がいつの間にか脳内で再生されていた。どこへ行ったらいいのか。考える余裕すら持ち合わせない私は、ただただ足を進めるほかない。すれ違う若い女性。私のことを黒目がちな瞳で睨んでいった。少なくとも彼女には、私が見えていた。


午後零時四十七分。人類は夜に寝て朝起きるが、当方は早朝寝て昼起きる新人類だ。四時間やそこらで思考が冴え渡るわけもなく、ぼんやりとした朝の風景。はっきりとして見渡すまでもなく、見知った退屈な光景。乾燥、鼻とのどは常に不調。意に反して開かない目を、ブルーライトの光で無理矢理こじ開ける。誰からも連絡の来ないSNSは、誰とでも繋がれるということについての、ささやかな矛盾を提供してくれる。可能性は事実ではない。喧噪。悲観的な未来予想図は、頭のデフォルト設定だ。なんとなくスワイプして、最新のニュース。他人の不倫、炎上する、金、結婚、ダメ男の特徴、悪意、ハムスター、殺人事件、死、正しさ、女を落とすテクニック、一年後の自分。世の中には問題が溢れている。次から次へとスワイプして、いつまで経っても終わりが見えない。そりゃそうだ。自己中心が世界の中心。名ばかりの正義と誰も知らない倫理観。システム化された政治と芸能の媒体は権力と欲望。持ち越された不快感は商品紹介や園芸にまで、資本主義的疲労感を付与する。インターネットサーフィン。バランスを崩して溺れた。

思い出したら、目の奥が急に痛み出した。突き刺さるような鋭い痛みだ。何の必要性も必然性もないのに手放せずにいた四角い液晶画面を、少し強めに放り投げた。思いのほか飛距離が長く、何度かバウンドしたあと壁にぶち当たる。鈍く固い音がして、自分の行動を悔いた。かわいそう…。おざなりの瞬き、痛みは強くなった。目を開ける体力はもう無く、まぶたの裏の血管が貼り付いて取れない。じんわりと潤っていくのが救いか。無意識に流れ落ちた涙が布団にしみていくのが分かった。


急にめまいがして、私は座り込んでしまっていたようだ。誰かに蹴り飛ばされぬように、通路の脇まで這って進んだ。確かに人の気配はある。しかし、地べたをぬめっていた私の姿は、誰にも見えていないようだ。当たり前のように人々は、何かに急かされながら歩を進めている。初めて、その様を側面から、普段よりも低い視点から熟視した。濁流のごとき人々の歩み、目の前は一瞬。溺れる。めまいがひどく、息も絶え絶え、どうやって呼吸をするのか、私には分からない。徐々に遠のいていく意識の中で、私が見たのは、終着点の無い長い通路。次へ、また次へと人間が流れ落ちていく。もしかすると、私は迷ってなどいなかったのかもしれない。ただ、この道を歩くことが恐ろしかっただけなのかもしれない。

 足が痛みだした。いや、気になりだしたのかもしれない。親指の爪のあたりに鋭いのが一つと、鈍い倦怠感が全体に。この痛みにやたらと親近感が湧いたのは、それが私の内側から来るものであったからだろうか。痛みというものも意識の一つであり、つまりは虚構にもなりうるのであれば、ちゃんと呼吸ができる気もするのだ。


 真夜中、私はやはり眠れないでいた。こんな夜、時間はいつもより速足で、すぎないでくれとすがったって、立ち止まってはくれない。時計のない部屋は、私のよく知っているところの時間の存在しない所。ここでは、明日は本当に不明確。いつから明日が始まるのか、朝になればか、朝とはいつか、夜の終わりは朝なのか。終電も走らない線路は、今日の終わりか明日の始まりか。境界なんてあるのだろうか。

疲労した身体と冴えわたった精神は、やはり別の何かなんだと、そんな気がする夜だ。こういう夜は不思議で、私は今、自分が何か特別であるような想像をすることが出来る。何か偉大なことが出来るような、今なら世界すら変えられるような。…誇張だ。


改めて、足の裏を見た。先ほどよりも色はどす黒くなっていて、とても歩くことなど出来ない様子だった。私は、歩くための意味を失ってしまったのだ。


こびりつくのは無機質なブザーの断末魔。誰かの、知らない話。どこかであった悲劇。猥雑。物欲、性欲、睡眠欲…。ごちゃごちゃとして、脳内は支離滅裂の街並みそのものだった。それらはただ垂れ流されて、知るというやり方を通り越して、だんだんと私を浸食していく。いずれも私に強迫し、私を歪めていく。もはや、私など存在しないのかも知れない。


人々の流れを作る一要因、時間に追われ、何かしらの義務感を持って足を進めた。ただ、その中で生まれる感情は、これまでの自分が抱いてきた感情より、ずっとちんけで無機質で、どこにでも転がっているような不快感だ。私は、そんな感情を持って、ただただ歩んでいた。どこにいるのか、そんな自覚もないままで。

いや、そもそも私なんて、どこにも居なかったのかも知れない。何をもって、私はこの街が、私を食い殺したと言える。正義感が、自分を正しくする義務感でないことを、何をもって証明する。


段ボールの天井、一際暗いその一画は、東京の空そのものだった。赤くなった目を開いても、捉えることなど不可能だ。


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