スケスケは恥ずかしいのです!
ミリーがもったいつけながら取り出したものを見た瞬間、沙良は口に含んでいた紅茶を吹き出してしまった。
それは、午後のティータイムのときのことだ。
ミリーが持ってきたアスヴィルお手製のショートケーキに舌鼓を打っていた沙良は、瞳をキラキラさせて「プレゼントがあるんですぅ」とミリーに差し出された箱の中身を見て、そこに入っていた、光沢のあるきれいな布に首を傾げた。
薄紫色の、薄い布のように見える。
フォークをおいて、口の中に残ったケーキを紅茶で胃に流し込みながら、沙良はその布をじっと見つめる。
正直、布なのはわかったが、それ以外はよくわからなかった。
「むふふふふ!」
ミリーは怪しげな笑い声をあげると、箱の中にきれいに畳んでおさめられている布を取り出した。
「じゃーん! 沙良様の新しい夜着ですよぉ」
「ぶっ!」
――こんなくだりで、沙良は紅茶を吹き出してしまったのである。
☆ ☆ ☆
沙良はハンカチで口の周りをぬぐうと、ミリーが両手に持ってヒラヒラさせている夜着を指さして、わなわなと震えた。
薄紫色のそれは、ミリーが動かすたび、蝶が羽ばたくように揺れている。
「そんなの服じゃありませんっ!」
「何言ってるんですか、ちゃんと服ですよぉ。ほら、袖も襟もあるでしょ?」
沙良はぶんぶんと首を振った。
「袖と襟があっても、そんな、す、す、す――」
「スケスケ?」
「そう! そんなスケスケな服が服なはずありませんっ」
沙良は全力で叫んだ。
肺活量が乏しいので、叫んでもたいして大声にはならないのだが、それでも沙良にしては頑張った方だ。
ぜーぜーと肩で息をしながら、ミリーがヒラヒラと揺らして見せつけてくる夜着を見て、いやいやと首を振り続ける。
ミリーが持っている夜着は、持っているミリーの姿が透けて見えるほど薄い素材だ。レースカーテンよりも薄い。
「そんなの着たら、全部見えちゃいますっ!」
「だからいいんじゃないんですか」
一生懸命訴えたのに、ミリーはあっけらかんと答えた。
「スケスケ。いい響きですよねぇ。わたし、チラ見せよりスケスケの方が好きなんですよぉ」
意味がわからない。
言葉が通じなさすぎて、沙良は泣きそうになった。
ここできちんと拒否を示しておかないと、ミリーに強引にそのシースルーの夜着を着させられるのは目に見えている。
誰が見るわけでもないとわかっているが、たとえ見る人がいなくとも、そんなほとんど裸に近いような姿にはなりたくない。むしろ裸の方がまだ恥ずかしくない気さえする。
だが、ミリーに言葉で勝てる気がしなくて、沙良は「あうあう」と口を言葉なく開閉させた。
そんな沙良に、ミリーはにっこりと満面の笑顔を浮かべて、一通の手紙を差し出した。
「はい、ミリアム様からですよぉ」
ミリアムとはシヴァの妹である。
沙良がこの世界に来た夜、一度会ったきり顔を合わせていなかったが、そのミリアムからなんの手紙だろう?
沙良は薄いピンクの可愛らしい封筒を開き、同じ色の二つ折りの便せんを広げた。
沙良ちゃんへ、ときれいな文字で手紙ははじまった。
『沙良ちゃんへ
わたしからのプレゼント
気に入ってくれたかしら?
ピンクと紫で悩んだんだけど
うちの旦那が紫って言うから紫にしてみたの。
是非、着てみてほしいわぁ。
透け感も申し分ないし
体のラインもきれいに見せてくれそうなのを選んでみたのよ。
これでうちの朴念仁なお兄様もイチコロね!
また感想聞かせてちょうだいね。
愛をこめて ミリアム』
沙良はたっぷり数十秒は沈黙した。
手紙を持って硬直する沙良の前で、ミリーは相変わらず夜着をひらひらさせている。
「ほらぁ、可愛いですよぉ、沙良様ぁ」
沙良は、油をさし忘れた古びたブリキ人形のように、ぎこちなく首を動かした。
確かに、可愛いか可愛くないかで答えろと言われれば、可愛いと答える。
だが、それは自分が身につけないという前提あっての話だ。
おそらく、ミリアムのように神がかったスタイルの持ち主の女性であれば、このスケスケな夜着でさえ、きっと芸術作品のように着こなせるのだろう。
だが、沙良は、どちらが前かうしろわからないようなペタンコな体型だ。しかも細いせいでシヴァの言葉を借りるなら「貧相」である。
似合うはずがない。
もちろん、たとえスタイルがよかったとしても、沙良は絶対着たくないが。
沙良は手紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻すと、言葉で勝てないなら沈黙で勝てとばかりに黙り込んだ。
ミリーがヒラヒラさせている夜着を見ないよう視線をそらす。
「沙良様ぁ?」
ミリーが顔を覗き込むが、沙良はぎゅっと目をつむって拒絶した。
ミリーのことは大好きだが、それとこれとは話が別なのだ。
そうして沙良は断固として拒絶を示したのだが、ミリーがおとなしくなるまで目を閉じていたため、気がつかなかった。
にんまり、とミリーが人の悪い笑みを浮かべていたことに――
☆ ☆ ☆
――夜。
シヴァはソファに腰掛けて「渋々」本を読んでいた。
今朝、突然やってきたアスヴィルに、延々と愚痴を聞かされた挙句、無理やり手渡された本だった。
――少しは女心を学んでください!
女心とは無縁そうな厳つい顔をしたアスヴィルに女心が何たるかを語られ、手渡された本は恋愛小説だった。
ミリアムの本棚から持ってきたらしい。
どう考えても嫌がらせである。
アスヴィルは、ミリアムとイチャイチャできなかったことが、よほど腹立たしかったようだ。
だが、シヴァに恋愛小説は、無理がありすぎた。
最初の三ページで嫌になったシヴァは、ぽいっと本を放り投げると、ソファにごろんと横になった。
沙良と仲良くしろと言われたが、どう仲良くしろというのだ。
実のところ、沙良をこちらの世界に連れてきてから、シヴァは沙良と数えるほどしか会っていなかった。
数日に一度、アスヴィルから菓子作りを学んでいる沙良が、作った菓子を持ってシヴァの部屋を訪れることが、ここ最近の唯一の接点である。
菓子を持ってきた沙良は、シヴァの部屋で茶を飲んで、二言三言のささやかな会話をし、去っていく。
ミリアムやアスヴィルは不満のようだが、シヴァはそれで十分だと思っていた。
沙良は子供だ。
嫁として連れてきたことは間違いないが、だからと言って沙良に「嫁」であることを求めてはいない。
はあ、とシヴァはため息を落とした。
――そのとき。
ポンッ
ワインのコルクが抜けるような音がした。
なんだ、と億劫そうに起き上がって、部屋の中に視線を走らせ――シヴァはぎょっと目を剥いた。
窓際に沙良が立っていた。
その顔は、ほとんど放心状態のように茫然としている。
それだけならまだいい。
沙良は、服として機能しているのかもどうか怪しいシースルーの夜着を着ていて――
「ぴ、ぴきゃああああああああ!」
一瞬後、シヴァの部屋に沙良の絶叫がこだました。
☆ ☆ ☆
――時刻は、一時間ほど前に遡る。
夕食後、ミリーが煎れてくれたハーブティーを飲んだあと、沙良は夜着に着替えとようして首を傾げた。
いつも着ている、薄ピンクの夜着が、ない。
(あれ?)
くるぶしまである、ふんわりした素材のその夜着は、いつもベッドの上に畳んでおいている。
たぶん、お昼すぎまではベッドの上にあったはずだ。
沙良は念のためベッドの周りに落ちていないかどうか探して、そこにないとわかると、クローゼットを開けた。
クローゼットの中は、お姫様が着るような豪華なドレスがたくさんかかっている。
ミリーが揃えたものだが、日に日に増えていくような気がして、最近、沙良はひそかに怖くなっていた。いつかクローゼットに収まりきらなくなるのではないだろうか。
その、レースたっぷりのかさばるドレスの間もくまなく探し、沙良は困ったように眉尻を下げた。
「ない……」
夜着がない。
沙良は自分の格好を見下ろした。
ミリーによって着せられた、ヒラヒラ、ふわふわしたドレス姿である。こんな格好で眠れるはずがない。
途方に暮れていると、コンコンと軽やかなノックのあと、部屋の扉からミリーが顔をのぞかせた。
「沙良様ぁ、そろそろ着替えますよね?」
最近、この無駄に布面積の広いドレスの脱ぎ方を覚えた沙良だが、ミリーはこうして、よく着替えを手伝いに来てくれる。
沙良はミリーを見て、困った顔で訴えた。
「それが、パジャマがないんです……」
ミリーはにっこり微笑んだ。
「ああ、あの夜着は、洗濯に出してますよぉ」
「え?」
いつの間に洗濯に出したのだろうか。
洗濯するにしても、いつもはかわりの夜着がベッドの上においてあるのだが。
「あの、ミリー。それじゃあ、かわりのパジャマは……?」
「ああ、ちゃんと持ってきましたよぉ。大丈夫です」
沙良はホッとした。
ありがとう、とミリーが持ってきたかわりの夜着を受け取ろうとして、沙良は、ピシィ、と凍りついた。
「はいどうぞー」
にんまり、と笑ってミリーが差し出したのは、例によって、あのスケスケのミリアムからのプレゼントの夜着だったのだ。
「さ、着替えましょ」
「いやですー!」
打てば響くように即答して、沙良は慌てて部屋の隅に逃げた。
「えー? でも沙良様、その格好で眠るんですか? それとも裸で?」
「う……。ミリー、それ以外に、かわりのものってないんですか……?」
「かわりの夜着はこれしかないんですよぉ」
そんなはずはない。
沙良は知っていた。沙良用の夜着は、ちゃんと何着も用意があるのだ。
沙良は半泣きでミリーをちょっと睨んだ。
「嘘です。ちゃんとあるの知ってます」
「いつもはありますけどぉ、今日はこれしかないんですぅ」
わざとだ。沙良は確信した。
ミリーは意地でもそのスケスケの夜着を着せたいらしい。
沙良は部屋の壁に張り付いて、ささやかな抵抗を試みた。
ミリーは沙良のベッドの上に座ると、ひらっと夜着を広げておいた。
「沙良様が、どうしても裸で寝たいって言うなら、わたしは別にいいんですけどぉ。でも、風邪ひいちゃうと大変だし、できれば着てほしいなって思うんですよねぇ」
そんな薄っぺらい夜着が、どれほど暖を取るのに役立つのかはわからないが、裸、と言われて沙良はごくっと唾を飲み下した。
裸は嫌だ。
だけど、そのシースルーの夜着も嫌だ。
せめてガウンか何かがあればいいのに、と部屋の中に視線を彷徨わせるが、それらしいものはどこにもなかった。
「ほらぁ、沙良様、ベッドに入ってしまったら一緒ですよぉ。別に、これを着て城を歩き回るわけじゃないんですからぁ。それにこれ、着心地はすっごくいいはずですよぉ?」
さあさあ、と促されて、沙良はじっとその夜着を凝視する。
薄い。
すごく薄い。
ベッドの布団の小さな花の柄が透けるほど、薄い。
だが、ミリーの言う通り、ベッドに入ってしまえば大丈夫だろう。
恥ずかしいのは、着替えている間だけだ。すぐにベッドにもぐりこめばいいのだ。
このままミリーと押し問答していてもらちが明かないのは沙良もわかっている。
沙良は嘆息して覚悟を決めた。
「わかりました、それに着替えます……。でも! 明日はちゃんと、いつものパジャマを用意してくださいね?」
「はいはい、わかってますよぉ」
沙良が諦めてくれてご満悦のミリーは、うんうん、と何度もうなずいて沙良のドレスを脱がしにかかった。
手慣れたもので、脇のところで編み込むようにクロスされている紐も、するすると外していく。
そうして沙良を下着姿に剥くと、ミリーは薄紫色のシースルーの夜着を沙良の頭からかぶせた。
ばっちり下着が透けるその夜着は、沙良のほっそりした体のラインに沿うように流れて、膝が隠れるくらいまでを覆った。
沙良は顔を真っ赤にした。
想像以上に恥ずかしい。
自分の体を隠すように腕を交差し、背を丸めて、「それじゃあ、おやすみなさい」と慌ててベッドに入ろうとした沙良の手首を、ミリーがやんわりつかんで押しとどめた。
ミリーの満面の笑顔が――怖い。
「せっかくだからぁ……」
ミリーがぎゅうっと沙良の手を握りしめて、言った。
「シヴァ様に、見てもらってきてください!!」
ポンッ
――こうして、沙良はミリーによってシヴァの部屋まで魔法で飛ばされてしまったのだった。
☆ ☆ ☆
「いやああああああ!!」
シヴァの目の前で、沙良は絶叫しながら部屋の中をパタパタと走り回った。
よほど混乱していると見える。
だが、さすがのシヴァも突然現れたシースルーの夜着姿の沙良に軽く混乱していた。
なにがどうなって、沙良がここにこんな姿で現れたのかが、さっぱりわからない。
沙良は叫びながら部屋の中を走り回り、ベッドを発見すると、隠れるところを見つけたとばかりにその中に入り込んだ。
頭から布団をかぶり、まるで雪だるまのように丸くなって、咲良はぷるぷると子ウサギのごとく震えている。
シヴァはその様子をしばらく無言で眺めていたが、ふと、朝にアスヴィルが言っていたことを思いだした。
アスヴィルは、ミリアムが沙良の夜着を選んだと言っていた。
(なるほど、これか……)
シヴァは頭痛を覚えた。
ミリアムの選んだ夜着を着せられた沙良が、そのまま悪戯でこの部屋まで飛ばされた――、おおよそ、こんなところだろう。
シヴァは沙良を怖がらせないようにゆっくりとベッドに近づくと、その淵に腰を下ろして、こんもりと盛り上がった布団をポンポンと叩いた。
「沙良」
「ぴっ」
沙良は変な声を上げて、頭のてっぺんまで布団を引き上げ、ほんの少し覗いていたつむじさえも覆いつくした。完全に布団の塊と化し、どこからも沙良の姿は拝めない。
シヴァは根気よく待ってみたが、いっこうに沙良が布団から頭を出さないと知ると、ため息を吐いてもう一度声をかけた。
「沙良、いつまでもそうしていないで顔くらい出したらどうだ」
ややあって、ごそごそと布団が動いた。
目の部分だけがひょこっと布団から覗いて、シヴァは苦笑する。涙目だ。
シヴァは少し考える。
沙良を、もう一度彼女の自室へ送り返してやってもいい。
そうした方が、沙良も落ち着いて休めるだろう。――だが。
――頼むから、もっと沙良と仲良くしてください。
アスヴィルの言葉を思い出す。
このまま、まんまとミリアムの策にはまるのは面白くないが、もしこのまま沙良を彼女の自室まで返してしまったら、アスヴィルのことだ、また次の日も訳のわからない嘆願書をもって「俺のために沙良と仲良くしてください」と自分勝手な言い分を並べに来るだろう。
それはそれで、面倒くさい。
シヴァは自分の都合と沙良の都合を天秤にかけ、あっさり自分の都合を取った。
無言で沙良から布団をはぎ取ると、
「きゃああああああっ」
と叫んで逃げようとする沙良を捕まえて、ベッドに横たえると、素早く隣に横になり、布団をかぶった。
とりあえず布団で体が隠れたことで叫ぶのをやめた沙良だが、今度はシヴァと同じ布団に入っているという状況に硬直する。
シヴァは沙良が逃げられないよう、腕の中に抱き込んだ。
「寝ろ」
短く告げると、沙良の肩がビクンと跳ねる。
魔法で部屋の中の灯りをすべて消すと、部屋を照らすものは窓から入り込む星明りだけとなる。
腕の中で、沙良が少しだけ動いた。
恐る恐ると言うように頭を上げて、上目遣いにシヴァの顔を見る。
部屋が薄暗いのでしっかり見えないのか、いつもはあまり直視してこないのに、やけにじっと見つめられた。
「あ、あのぅ……」
なぜこんなことになっているのか、と言いたそうだ。
「恨むなら、ミリアムとアスヴィルを恨め」
沙良は首をひねった。
だが、シヴァはそれ以上の説明を放棄して、ゆっくり目を閉じる。
やがて、シヴァの規則正しい寝息が聞こえはじめたが、シヴァの腕に抱き込まれた沙良は、極度の緊張と混乱で、夜遅くまで眠りにつくことができなかったのだった。