アスヴィルの受難
ルンルンルン、と。
夫婦の寝室で、ベッドにうつぶせになり、鼻歌を歌いながらカタログをめくっている妻に、アスヴィルはもの言いたげな視線を送った。
アスヴィルが愛してやまない妻は、かれこれ一時間ほどそうしている。
その間アスヴィルは完全に放置されているのだが、さすがに淋しくなって、そろそろかまってくれないだろうか、という期待を込めて視線を送ったのだ。
だが――
「やぁん、これも可愛い~」
妻はまったく気づかない。
アスヴィルの妻はすごい美人だ。
夫の欲目を抜きにしても、誰もが認める美女だと思う。
癖のない、腰までの真っ赤な艶やかな髪、小さな顔。長いまつ毛に縁どられた、大きいが聡明な瞳。豊かな胸に細い腰。すらりとのびた手足。
そんなミリアムと結婚出来て、冗談ではなく、アスヴィルは世界一の幸せ者だと思っている。
だが、その幸せも最近、少しばかり揺らいできた。
なぜなら、最近、妻は実の兄であるシヴァの新妻がお気に入りで、暇さえあれば彼女のことを考えているのだ。
もちろん、その間アスヴィルは放置される。
「ミリアム――」
女性同士の友情に口を挟む気はないが、さすがに放置され続けていると鬱憤もたまる。
アスヴィルは強硬手段に出ることにして、ミリアムの細い腰に手を伸ばした。
腕の中に抱き込んで、ほっそりとした頬に手を添える。
ゆっくりと顔を近づけて、そのまま唇を奪おうとしたのだが――
がばっと目の前に開いたカタログが突きつけられて、アスヴィルは動きを止めた。
「ねえねえ、どれがいいと思う~?」
ご機嫌のミリアムは、アスヴィルの気持ちにこれっぽっちも気がつかない。
アスヴィルはため息をついた。
カタログには、女性用の夜着が載っている。
だが、妻は自分が着る夜着を選んでいるわけではないのだ。
妻が身に着けるのであれば嬉々として選ぶのだが、そうでないのならばアスヴィルに興味はない。
けれど、アスヴィルが答えないとミリアムは納得しないだろう。
アスヴィルはちらりとカタログに視線をやって、眉を寄せると、もの言いたげな視線を妻に送った。
「……こういうものを着せるのか?」
「そうよ」
あっけらかんと、妻は答える。
アスヴィルはシヴァの新妻の幼さの残る顔を思い浮かべて、心の中で同情した。
ミリアムはキラキラした瞳でこちらを見ている。
アスヴィルが答えなければ、いつまでたっても夫婦の時間は訪れないだろう。
(それは困る……)
アスヴィルはミリアムとイチャイチャしたい。
そのため、アスヴィルは心を鬼にして答えた。
「――この、紫」
☆ ☆ ☆
「これはなんだ」
翌朝。
朝食をすませたばかりのシヴァのもとに、アスヴィルは突然押しかけた。
シヴァの部屋に入るや否や、アスヴィルは無言で一通の嘆願書を差し出した。
怪訝そうな顔をしながらもその嘆願書の中身に目を通したシヴァは、あきれたような顔で友人を見上げた。
「頼むから、もっと沙良と仲良くしてください」
アスヴィルはこの世の終わりともいえるような表情を浮かべて訴えた。
皮張りのソファに腰掛けて、珈琲カップを片手に、アスヴィルは眉間に深い皺を刻み――
「シヴァ様と沙良が仲良くしてくれないと、困るんです。それでなくともミリアムは沙良がお気に入りなのに、あなたたちが仲良くしないから、何とかして仲良くさせようと、四六時中、ええ、俺が隣にいようとお構いなしで、沙良のことばかり考える始末。そのせいで夫婦の時間が極端に減りました。このままでは夫婦生活の危機です。ミリアムがかまってくれません。もし、これ以上夫婦の時間が無くなったら……。ああ、死にたい……」
厳つい顔をしたアスヴィルが、実はかなりの乙女思考であり、ミリアムを溺愛し、ミリアムにデレデレであることを、この世界の住民のどれほどが知っていることだろう。
密かに、クールだとか、硬派だとか言われて城のメイドたちに人気のあるアスヴィルだが、彼女たちがこの姿を見たら、きっと灰になって風に飛ばされていくことだろう。
シヴァは嘆願書の流麗な文字に視線を落とした。
これは嘆願書という名のアスヴィルによるミリアム日記だ。
某月某日、沙良のドレスを考えていてミリアムがかまってくれない。
某月某日、沙良の髪形をもっと愛らしくするため、お抱えの美容師たちを選抜しはじめ、ミリアムがかまってくれない。
某月某日――
シヴァは嘆願書をつき返した。
「こんなこと、俺に言わずミリアム本人に言え」
「言えません!」
「だいたい、ミリアムがお前をかまわないことと、俺と沙良のことは関係ないだろう」
「大いにあります!」
アスヴィルは昨夜のことを思い出した。
☆ ☆ ☆
昨夜――
沙良の夜着を選ぶと言い出したミリアムに意見を聞かれ「紫」と答えたまではよかった。
これで妻も満足し、心行くまでイチャイチャできる――、アスヴィルはそう思っていたのに。
ぱあっと顔を輝かせた妻は、何を思ったのか突然起き上がり、いそいそと部屋の隅に移動した。
「ミリアム……?」
アスヴィルも妻を追いかけようかと悩んで上体を起こしたが、ベッドを出る前に、愛する妻はその細腕に数冊の分厚いカタログを抱えて戻ってきた。
「そうよね、紫も可愛いわよねぇ! でも、重要なのは、ラインよ! そう、いかに体のラインがきれいに出るか! ねえ、そう思わない?」
言われて、アスヴィルは無言で妻の姿を見た。
ミリアムは今、体のラインぴったりの黒のスリップドレス姿だ。大きく開いた胸元と背中のラインが魅力的である。ばっちり見える胸の谷間など、文句のつけどころはどこにもない。――最高だ。今すぐ顔をうずめたい。
そのため、アスヴィルはミリアムの意見にうっかり賛同してしまった。
「そうだな」
そして、すぐさま後悔した。
ベッドの上にばさっとカタログを広げたミリアムは、星をちりばめたかのように瞳を輝かせて、こう言った。
「そうでしょう!? ラインは重要なのよ! これでお兄様と沙良ちゃんの仲も進展するってものよね? 沙良ちゃんのため、最高の夜着を選びましょう!!」
その後、ミリアムにつき合わされたアスヴィルは、延々と女物の夜着やら下着やらが載ったカタログと睨めっこをする羽目となり、途中で眠くなったミリアムがうとうとしはじめ、結局、これっぽっちもイチャイチャできなかったのだった。
☆ ☆ ☆
「『おやすみ』と『おはよう』のキスもできなかったんですよ!? これは由々しき事態です! これもすべて、あなたと沙良が悪いんですよ! わかっていますか!?」
シヴァは拳を握り締めて力説するアスヴィルに冷ややかな視線を送った。
「だから、どうして俺と沙良のせいになるんだ」
「あなたと沙良がもう少し仲良くしていれば、ミリアムもいらない気を起こさないんです。少なくとも、昨日の夜着選びは起こりえませんでした!」
どうやら、ミリアムとイチャイチャできなかったことがよほど悔しかったと見える。
シヴァは嘆息した。
夫婦夫婦と繰り返されるが、シヴァの目には沙良はまだ幼い子供に見える。正直、進展もなくて当然だと思っていた。
だが、ミリアムが「選んだ」という夜着だけは引っかかる。
嫌な予感がしなくもない。
シヴァは恐る恐る訊いてみた。
「それで、その夜着というのは……?」
だが、心がささくれ立っているアスヴィルはふんっと鼻を鳴らしてこう答えた。
「実際に見たらわかるんじゃないですか? 今夜あたり、無理やり着させられるんでしょうから。少しはあなたも懲りればいいんです」
シヴァは頭痛を覚えて、こめかみをもんだ。