後悔 3
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(あの兄上がね……)
クラウスはシヴァの執務室の扉の前で、小さく微笑んだ。
シヴァが誰かに固執するなんて、きっと死ぬまでないのだろうと思っていた。
(沙良、ですか。ちょっと会いたくなりましたね……)
シヴァをそこまで夢中にさせ、セリウスも欲しがった暴挙を起こさせた少女。ミリアムも可愛がっているようだ。
クラウスは少し考え、シヴァへの挨拶は後回しにして、先に沙良を見に行くことにする。ミリアムの話では部屋にいると言っていた。場所はわからないが、その辺を歩いているメイドを捕まえて聞けばわかるだろう。
クラウスはくるりと踵を返すと、歩き去ろうとした―――が。
「お前は何をしているんだ」
それよりも早く、あきれたつぶやきとともに扉が開かれる。
気配に聡い兄は、とっくにクラウスの存在に気がついていたらしい。
クラウスは肩越しに振り返り、悪びれもせずに答えた。
「先日ぶりです、兄上。兄上に挨拶をしに来ました」
「……その割にはどこかに行こうとしていたようだが」
「ちょっと沙良という少女の顔を見に行こうかと」
「……」
シヴァの眉間にぐっと皺が寄ったのを見て、クラウスは「おや」と目を瞬く。
(へえ……、本当に沙良が気に入っているんですね)
長年の勘を頼りに兄の表情を読めば、それは「気に入らない」だ。
クラウスが沙良に会いに行くのが気に入らない。近づくな。そんな顔。
クラウスはますます沙良という存在に興味を持ったが、シヴァが無言で顎をしゃくったので、渋々彼に従って執務室に足を踏み入れた。
「何をしに来たんだ」
ソファに座るや否や、開口一番にそう訊ねられる。
(ここは私の家なんですけど……、なんで咎められるんでしょう?)
クラウスは不満だったが、状況が状況なだけにピリピリしているシヴァには逆らわない方がよさそうだ。
クラウスは父から預かった小瓶をシヴァに差し出した。
「父上からです」
シヴァは怪訝そうにクリスタルの小瓶を受け取ると、中で揺れる透明な液体を見て、クラウスに無言で視線を向ける。
クラウスはシヴァがお茶を出してくれないので、自分で用意することにした。パチンと指を鳴らして目の前に出現させた珈琲を口に運んで、ふう、と息をつくと、父から言われた言葉をそのままシヴァに伝える。
「他人の心の中に入る古代魔法薬だそうです。飲んだ本人は仮死状態になるそうで、魔力の強いものならばその心の中に意識を飛ばすことができます」
「……それで?」
「父上は、覚悟があるならこれを使って沙良の心の中に入ればいいと言っていました。ただし、薬を飲んだ方は心の中が非常に不安定な状況になるそうです。忘れていること、今回のように強引に上書きされた記憶、それらすべてが不安定に体の中に漂っている状態というのでしょうか。飲んだあと、そのまま目覚めれば、無数の記憶や感情の放流によって彼女は壊れます」
「な―――」
「ですから、兄上がきちんと心を導く必要がある。上書きされた記憶ではなく、それ以前の正しい記憶、正しい感情を救い上げて、元に戻さなくてはいけません」
シヴァは小瓶を見下ろして、難しい顔をした。
「失敗すれば?」
「最悪、沙良の心が壊れて、二度と目覚めないか、目覚めても人形のようになるかどちらかでしょうね。おそらく、沙良の心の中に入った兄上も、その巻き添えを食う可能性があります。でも―――、五十年後を待つか、この薬を使うか、方法はこれしかないと父上が」
シヴァはたぷたぷとしばらく小瓶を振っていたが、やがてそれをクラウスにつき返した。
「いらん」
クラウスは驚いた。
「どうしてですか? これで沙良が元に戻るかもしれないのに」
クラウスはつき返された小瓶をぎゅっと握りしめる。
そして、クラウスは少し落胆した。
兄は変わったと思った。沙良という存在が変えたと思った。父ルードヴィッヒは「覚悟」と言ったが、兄にはその覚悟がないのだろう。
(結局、その程度の存在ですか)
だが、「その程度」なのであれば、逆に良かったかもしれない。失敗して、最悪兄まで目覚めないという危険が回避されたのだから―――
そう思うことにして、クラウスが小瓶を胸ポケットに戻したときだった。
「沙良に、そんな危険なことはさせられない」
ハッとすれば、シヴァは苦しそうな顔で虚空を見つめていた。
「兄上?」
「沙良が壊れる可能性があるのなら、今のままの方がよっぽどましだ」
クラウスは息を呑んだ。
(父上の言った覚悟は……、その覚悟だったんですか)
大切な人が壊れてしまうかもしれない「覚悟」。自分自身への危険ではなく、大切な人を危険にさらす「覚悟」。
(父上、……性格、悪いですよ)
兄のこんな苦しそうな表情は見たくなかった。
沙良が戻ってくるかもしれないという淡い期待と、沙良を絶対に危険にさらさないという決意。
結局クラウスがしたことは、兄に、どうする手立てもないのだということを思い知らせただけだった。
クラウスは黙って虚空を睨むシヴァを見つめたまま、しばらく動くこともできなかった。