消えた記憶 6
お気に入り登録、評価などありがとうございます!
シヴァの部屋の前に立つと、回れ右をして帰りたくなる。
綺麗にラッピングされたチョコチップクッキーを片手に、沙良はミリアムと一緒にシヴァの執務室兼自室の前にいた。
隣では、何がそんなに嬉しいのか、ミリアムがずっとニコニコ笑っている。
沙良は心を落ち着けるように深呼吸を繰り返し、意を決して目の前の扉をノックした。
ややして、誰何する声が聞こえると、ミリアムが「沙良ちゃんよ!」と大声で答える。ガチャリと扉が開くと、そこに立っていた沙良を見て、シヴァが驚いたような表情を浮かべた。
シヴァの姿に沙良の体が小刻みに震えはじめる。
「どうした?」
シヴァが訊ねれば、ミリアムが沙良の肩に手をおいた。
沙良は大きく息を吸い込むと、手に持っていた包みをシヴァに差し出した。
「クッキーです。……、チョコチップ、の……」
シヴァが目を丸くする。
シヴァがなかなか受け取ろうとしないので、やっぱり好きじゃなかったんだと、沙良が包みを引っ込めようとしたとき、シヴァが穏やかに微笑んだのを見て、沙良は驚愕した。
「そうか。……ありがとう」
シヴァが沙良の手からクッキーの入った包みを受け取る。
沙良はコクンと小さく頷くと、笑ったシヴァなど見たことないはずなのに、どこかで見たことがあるような気がして、なんだか胸が苦しくなるのを感じていた。
☆
沙良が帰ったあと、シヴァはソファに座って、クッキーの入った包みをじっと見つめていた。
おそらくアスヴィルとミリアムに言いくるめられたのだろうが、あれだけ怯えていたのに、よくシヴァに近づこうとしたものだ。だが、クッキーの包みを渡そうとしたときの沙良の震えた指先や、真っ青な表情を思い出して、シヴァは言いようのない悲しみを覚える。
リボンの端をひっぱり、そっと包みを開けば、沙良お手製のチョコチップクッキーが出てきて思わず微苦笑を浮かべてしまう。
アスヴィルに何を言われたのか知らないが、記憶を失う前の沙良は、このチョコチップクッキーがシヴァの大好物だと信じていた。
もちろん、嫌いではない。ほんのりビターなチョコチップを使っているクッキーは、紅茶にも珈琲にもよく合うし、甘いものの中では好きな部類に入る味だ。
だが、あれば食べるくらいのもので、どうしても食べたいものではない。沙良が作るようになって、格段に口に入れる頻度が上がったが、それは沙良が作ったからであって、おそらく相手が沙良でなければ、毎日のように食べはしなかっただろう。
シヴァは星の形をしたクッキーを一つ口に入れながら、テーブルの上においてある古びた本に視線をやった。アスヴィルがセリウスから回収してきた古代魔法について書かれた本。沙良の記憶を奪った魔法は、古代魔法だと言っていたらしい。
「星降る夜に―――、か」
本の表紙には、古代語で「星降る夜に」と書かれている。
星に関する魔法をまとめてあるようだが、古代語にも古代魔法にも精通していないシヴァにとって、該当箇所を拾うだけでも精いっぱいだった。それでもようやくそれらしい箇所までたどりついたが、発動された魔法の解除方法については何も書かれていなかった。
「星を戻して、記憶を操作する魔法―――、か」
古代魔法は複雑かつ緻密で、自然現象に干渉して行うものも多く、多くの魔力もようする難解な魔法だ。セリウスの双子の弟クラウスは古代魔法を研究しているが、古代魔法を使う才能と言う点ではセリウスに軍配が上がる。生まれ持った素質とでもいうのだろうか、セリウスは誰もがてこずる古代魔法をあっさり読み解き、なおかつ発動させてしまう天才だった。
だが、根っからの研究者体質のクラウスと違い、飽き性で自己の利害を優先させるセリウスは、研究には興味を示さなかったらしい。漁夫の利よろしく、クラウスが集めたり解読した蔵書に目を通して、必要なものだけ拾っていくのが彼だった。
「クラウスも余計な本を城において行ったものだ……」
この本の出所は、クラウスが使っていた部屋の本棚に間違いないだろう。
(気は進まないが、仕方ない……)
シヴァはクッキーをもう一枚口に入れると、本を片手に立ち上がった。
☆
もやもやする。
沙良は心臓の上のあたりを手で押さえて、目の前の皿の上にこんもりとのっているチョコチップクッキーをじっと見つめていた。
チョコチップクッキーを差し入れたときの、シヴァの顔が頭から離れない。
(シヴァ様は怖いはずなのに……、笑った……)
シヴァの笑顔を見たのははじめて―――、のはずだ。
はじめて笑顔を見たから衝撃をうけてもやもやするのだろうか。だが、シヴァの笑顔はどこかで見たことがある気もするのだ。
「沙良ちゃん、どうかした?」
セリウスに心配そうに訊ねられて、沙良はハッと顔をあげる。
セリウスに誘われて、温室で一緒にお茶を飲んでいるのだ。それなのに、一人で考え込んでしまっていた。
沙良は首を振ると、セリウスに向かってクッキーを差し出した。
「はじめて作ったんですよ! お口に合うといいんですけど……」
「クッキー? ……うん、とても美味しいよ!」
チョコチップクッキーを一枚口にいれたセリウスが、にこにこと笑う。その笑顔を見つめながら、何かが違うと、沙良の心が訴えた。セリウスに美味しいと言ってもらえるのはとても嬉しい。でも、何かが違う。
「えっと……、ミリアム、どうしてそんなにお兄ちゃんを睨むのかな?」
モグモグとクッキーを咀嚼しながら、セリウスが沙良の隣に座って優雅に紅茶を口に運んでいるミリアムに視線を投げた。
ミリアムはティーカップをおいて、一転してにっこりと満面の笑顔を浮かべる。
「あら、お兄様。それは自分の胸に手をおいて考えたらいかがかしらぁ?」
「……ミリーちゃんが冷たい」
「お兄様が悪いのよぉ」
セリウスのことが大好きなはずのミリアムが、なぜかツンツンしている。
沙良は笑顔なのにどこか不機嫌そうなミリアムと、弱った表情を浮かべているセリウスを交互に見比べて首を傾げた。
(喧嘩かな?)
セリウスにお茶に誘われたときに、「わたしも行くわ」とついてきたミリアムだが、温室に入ったときからずっとピリピリしているのだ。
沙良が温室に入ったときに「いらっしゃい」と言ってセリウスに抱きしめられたのだが、ミリアムは沙良からセリウスを引きはがすと、「沙良ちゃんの半径五十センチ以内に近づいちゃ駄目よ!」と言い放った。
ミリアムに激甘のセリウスは肩をすくめて「わかったよ」と言っただけだったが、ミリアムが沙良とセリウスを引き離そうとするのがよくわからず、沙良はびっくりしてしまった。
(きっとセリウス様が、またミリアムとアスヴィル様の中をひっかきまわしてるんだろうけど……)
セリウスはミリアムが大好きで、ミリアムとアスヴィルの結婚に大反対だったと聞く。いまだに二人の仲を認めてはいないようで、頻繁に妨害工作をしていることを知っていた。
怒ったミリアムが、仕返しをしているのだろうと勝手に納得して、内心ため息をついた沙良は、リザが煎れてくれた紅茶に口をつけた。蜂蜜とショウガ入りの紅茶で、ほんのりと感じられる蜂蜜とショウガの味がお菓子の味を引き立たせてくれる。
沙良はチョコチップクッキーを口に入れつつ、必死にミリアムの機嫌を取ろうとしているセリウスを盗み見た。
青みがかった銀髪の、王子様然とした柔和な顔立ち。深い青色の瞳は優しい色を宿していることが多く、「沙良ちゃん」と呼ぶ声は砂糖菓子のように甘い。
この世界に連れてこられて、殺されそうになったところを助けられて、それがきっかけでセリウスと結婚した。幸せなはずなのに、やはりどこかもやもやして、沙良は視線を落とす。
もう一枚チョコチップクッキーを手に取って見つめながら、セリウスではない違う誰かと、一緒に食べたことがあるような気がしていた。