星降る夜に 1
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離宮から城へ戻って、三日。
クッキー生地を麺棒で伸ばしながら、沙良はこの三日のシヴァの様子を思い出していた。
ジェイルたちが離宮を占拠し、痴話げんかの大騒ぎをはじめたところでシヴァの堪忍袋の緒が切れて城に戻ることにしたはいいが、どうも戻ってきてからのシヴァはイライラしている。
この二日ほどは、暇さえあれば沙良を執務室に呼びつけて、不機嫌そうな顔で沙良を膝の上に抱っこして仕事をしていた。チョコチップクッキーを作ると逃げてこなければ、おそらく沙良は今もシヴァの膝の上だっただろう。
シヴァとくっついているのは安心するのだが、お人形のように膝の上に抱えられているだけの時間は、何もすることがなくて苦痛だった。我慢して一時間。だが、膝の上から逃げようとすると腹に腕を回されて逃げられなくされるので、退屈を持て余しながら、ミリアムから借りた恋愛小説を読んで時間をつぶすしかない。
クッキー製作が終われば、またシヴァの膝の上に逆戻りだと思うと、ちょっとだけ憂鬱になる。シヴァは大好きだが、仕事の邪魔をしてはいけないので迂闊に話しかけられないし、かといって朝から夜までずっと本を読むのは集中力が切れる。
昨日、気分転換に、シヴァの仕事の合間を縫って中庭に散歩に連れて行ってもらったのだが、そこでセリウスに会ってから、シヴァの機嫌がさらに悪くなって、あれ以来、就寝時以外はずっとシヴァの膝の上だった。
「沙良、どこまで薄く伸ばす気だ?」
沙良の隣で、ミリアムに頼まれたシフォンケーキを作っていたアスヴィルが、怪訝そうに問いかけてきた。
「え?」
沙良がハッとして手元を見ると、紙のように薄く伸ばされたクッキー生地がある。
「あ……、伸ばしすぎちゃいました」
考え事をしていたせいで、ずっと麺棒を転がしていたらしい。
やり直しだ、とクッキー生地を丸めなおしていると、アスヴィルが心配そうに訊ねてきた。
「何か悩み事でもあるのか?」
ふりふりの白いエプロンを着た長身のアスヴィルは、眉間にしわを寄せていた、#厳__いか__#つい顔が心配そうな表情を浮かべているのを見て、彼が黙って立っていれば怖いのに、実は心配症で優しい人だということを再認識させられる。シヴァも黙って立っていれば氷のように冷たくて怖いのに、本当はとても優しいから、アスヴィルといいシヴァといい、顔立ちでかなり損をしているのではないだろうか。
「悩み事というか……」
沙良は眉尻を下げると、クッキー生地をまとめながら、ここ二日のシヴァの様子をアスヴィルに話した。
「最近ずっとシヴァ様の機嫌が悪いんです。べつに、怒られたりとかはないんですけど、こう、ずーっと眉間に皺を寄せて怖い顔をしているんですよ。お仕事中も膝の上から下ろしてくれないし……。何かあったんでしょうか?」
アスヴィルは神妙な顔で沙良の話を聞いていたが、途中から困ったような表情を浮かべはじめ、最後には額をおさえて天井をむいた。
シヴァの不機嫌の原因は、間違いなくセリウスだ。沙良が気に入っていて、ことあるごとに彼女の周りをうろうろしてちょっかいを出している弟に苛立っているのである。けれど、絶滅危惧種――いや、いっそ古代遺産並みに鈍い沙良はそれに全く気付いていないのだから、シヴァは心配で胃が痛くなる思いではないだろうか。
「お膝抱っこ……嫌いじゃないですけど、もしこのまま、ずっとこんな毎日だったらどうしよう……」
沙良が本気で悩みはじめると、ぷっと吹き出すような声がした。
ソファに横になってゴロゴロしながら小説を読んでいたミリアムが、ケタケタ笑いながら顔をあげた。
真っ赤な髪に均整の取れた肢体、くりっと大きなアーモンド形の目は長いまつ毛で縁どられているが、今は三日月のようににんまりと細められている。シヴァの妹でアスヴィルの妻であるミリアムは、絶世の美貌も台無しになるほど、腹を抱えて大笑いをしていた。
「やだぁ、面白いー! お兄様が、あのお兄様が……!」
「ミリアム、あんまり笑うとシヴァ様が怒るぞ」
「だってー」
ミリアムはソファから立ち上がると、改めてクッキー生地を伸ばしはじめた沙良の後ろに回り、ぎゅうっと抱きしめる。小柄な沙良はミリアムに抱きしめられると、ちょうど頭がミリアムの胸のあたりにくるので、正面から抱きしめられると、彼女の豊満な胸に鼻と口が塞がれて窒息しそうになるのだが、幸いなことに今日は後ろからだった。
「ふふっ、可愛い沙良ちゃんにお兄様も気が気じゃないのね。いい傾向だわーっ」
お兄様と沙良ちゃんをもっとラブラブ、いちゃいちゃさせたい――と言って#憚__はばか__#らないミリアムにとって、今のシヴァは願ったりな反応なのだろう。
一度こっぴどく怒られてからは、ミリアムの「ラブラブ大作戦!」なる傍迷惑な計画は頓挫したが、なんとかして兄と沙良を「いちゃいちゃ」させたくてうずうずしているミリアムは、「もっとやれー」と黒い笑顔を浮かべていた。
「あの朴念仁が、こんなになるなんて! 新妻ができると変わるものねー」
ミリアムはものすごく喜んでいるが、沙良は本気で困っている。せめてずっと膝の上に抱きかかえられるのは回避したい。シヴァの部屋の中でおとなしくしておくから、それで許してほしい。
沙良はクッキーを型抜きしながら、むうっと眉を寄せた。
離宮のときのような混浴や#同衾__どうきん__#という心配はなくなったが、朝から晩までシヴァの膝の上、移動するときは抱きかかえられて、ここのところ自分の足で立っている時間が恐ろしく短い。
「いいじゃないの、飽きればそのうち解放してくれるわよぉ」
「飽きる……」
ちらりと沙良はアスヴィルを見上げた。
シヴァほどではないが、アスヴィルもよくミリアムを膝の上に抱っこしている。
「アスヴィル様とミリアムは、結婚してどのくらいですか?」
「ちょうど五年だな」
「……五年」
沙良の顔から血の気が引いた。つまり、五年たっても飽きていないのだ。このままいくと沙良も五年は膝の上である。
「どうして男の人はお膝抱っこが好きなんですか……」
「え……」
沙良が素朴な疑問を口にした途端、アスヴィルが困惑顔で硬直した。
ミリアムがぷはっとまた吹き出して腹を抱えて笑い転げる。
「やあねえ、沙良ちゃん! いちゃいちゃしたいのよー。そうに決まってるじゃないの!」
「いちゃいちゃ……」
いちゃいちゃだろうか、あれが。難しい顔をして、親の仇のように決裁書にバコバコと印璽を叩きつけているシヴァの膝で、人形のように抱きかかえられている、あれが。
(絶対違う……)
沙良は頭を抱えたくなった。
すると、コンコン、と控えめな音がして、アスヴィルの部屋の扉が開かれた。
「作業中、失礼いたします……」
扉から頭だけをのぞかせるように現れたのは、シヴァの従者の一人だった。彼はアスヴィルのふりふりエプロン姿を見て十数秒凍りついたように固まったあと、何か見てはいけないものを見たと言わんばかりに真っ青になりながら、こう言った。
「陛下が、沙良様はまだかとおっしゃっていますが……」
それを聞いた瞬間ミリアムはまた吹き出した。
「やだぁ、お兄様、最っ高!!」
笑いのツボにはまったのだろう、アスヴィルの背中をバシバシ叩きながら大笑いをするミリアムの横で、沙良は眉を八の字にまげて、はあ、とため息をついたのだった。
☆
「お誕生日、ですか?」
シヴァのお膝抱っこから回避する術を見いだせないまま、さらに数日がたったある日のことだった。
ミリアムとお茶会をすると言ってシヴァの膝から抜け出した沙良は、自室にと与えられている部屋で、ミリアムからシヴァの誕生日について聞かされた。
「そ。もうじきお兄様の誕生日なのよ。お兄様ったらいっつも無頓着で、自分の誕生日に気づかないまま当日をすごしてるんだけど、今年は沙良ちゃんを奥さんに迎えてはじめてのお誕生日じゃない? 何かしないかしら?」
面白そうだから、という余計な一言は飲み込んで、ミリアムがにっこりと微笑む。
「シヴァ様、おいくつになるんですか?」
そういえばシヴァの年を知らなかったと思った沙良が何気なく訊ねてみたのだが。
「えっと。いくつだったかしら……。確か……、そう、三百四十六歳よ!」
「ぶーっ!」
沙良はミリアムの答えを聞いて、思わず紅茶を吹き出した。
「さ、さ、三百四十六歳なんですかっ」
「そうよ。だから沙良ちゃんとはぁ……、三百二十九歳差ね! きゃっ、年の差夫婦ね」
ミリアムもアスヴィルとは三百歳以上年が離れているのだが、それを棚に上げてぽっと頬を染めると、楽しそうにふふふっと笑い出す。
「……三百二十九歳差……」
沙良は何かに打ちひしがれたようにつぶやくと、紅茶を吹き出して汚したテーブルを拭きながら、「それは子ども扱いもされるはずだ」としょんぼりする。
「魔族って……、長生きなんですね」
「そうねぇ。千年以上生きる人もいれば、五百歳にもならずに死んじゃう人もいるから、人それぞれなんだけど。王族や七侯の一族は、たいてい長生きねー。きっと死に際がわからないのね」
「死に際がわからない……」
そんな言葉、はじめて聞いた。だが、これ以上知ると頭がパンクするかもしれないので、沙良は追及せずにおく。
それよりも、シヴァの誕生日だ。
「シヴァ様のお誕生日のお祝い、したいです」
沙良は今まで一度も誕生日を祝われたことがない。もちろん他人の誕生日を祝ったこともなく、はじめての誕生日パーティーにドキドキと胸を躍らせる。
シヴァに魔界に連れてこられてから、たくさんの「はじめて」をもらった。あのまま親元で生活していれば、きっと一生、一人ぼっちだっただろう。沙良はシヴァの誕生日に、改めてその感謝を告げたかった。
ミリアムはクッキーを口に運ぶと「どうしようかしらねー」と唸った。
「お兄様のことだから、誕生日パーティーをするって言ったら『余計なことはするな!』って言いだすと思うのよぉ。いっそ、サプライズパーティーにしちゃいましょうかー?」
「サプライズパーティー! シヴァ様をびっくりさせるんですよね?」
「そう。お兄様をびっくり……って、沙良ちゃん、なんだか嬉しそうね」
「シヴァ様がびっくりした顔って見たことがないです!」
「あー……、そうね。確かに。目を丸くしたりとか、微かに表情には出すんだけど、『わあ!』って感じで驚いたところは、わたしも見たことがないわねぇ。……あら、沙良ちゃん、もしかしなくてもお兄様を『わあ!』って言わしたいの?」
「はい!」
キラキラと瞳を輝かせた沙良に、ミリアムが困ったように柳眉を寄せた。
「あらぁ……。それはずいぶんと難易度が高いわよぉ? お兄様が『わあ!』。うぅん……、確かにわたしも見たけど、うまくいくかしら?」
面白がってお菓子に媚薬を仕込んで沙良に食べさせたときも、怒りこそすれ、びっくりはしなかった。沙良にシースルーの夜着を着せて寝室に送り込んだときは驚いたと思うが、それでも沙良が『わあ!』と驚いたのを見たことがないと言うくらいだから、あの凝り固まった表情筋はたいして仕事をしなかったのだろう。
「どうやったら驚きますかね?」
「そうねぇ……」
沙良とミリアムは顔を見合わせて、うーんと首をひねる。
いつしか誕生日を祝うことよりも「驚かせる」ことに重点をおきはじめた二人は、この後、しびれを切らしたシヴァが「まだ終わらないのか!」と沙良を呼びに来るまで、シヴァを驚かせる方法について延々と悩み続けたのだった。