やさしい夜と気づいた想い 1
ミリアムは離宮の一室で、この離宮を管理しているゼノが煎れてくれた紅茶を飲みながら、ほーっと息を吐きだした。
ガーネットと一緒にいるアスヴィルを見た次の日の朝、ミリアムは急に静かなところに逃げたくなって、この離宮を訪れた。
この離宮に住みついているジェイルという名の遠縁の男は少しばかり苦手だが、彼はほとんど地下の一室で過ごしているから、鉢合わせることも少ないだろう――、そう思ってやってきたのだが、どうやらジェイルは実家に呼び出されて離宮から離れているらしい。
ラッキーだった、と内心ほくそえみながら、ミリアムは離宮での静かなひと時を満喫していた。
何よりミリアムの心を落ち着けてくれるのは、アスヴィルの愛の叫びが聞こえないことだ。
ミリアムは疲れていた。
アスヴィルの声に、言葉に、顔に姿に――、彼のすべてに心乱される日々に、どうしようもなく疲弊していたのだ。
幸い、離宮には温泉もあり、心を癒すにはもってこいの場所だった。
ミリアムはティーカップを口に運びながら、ゼノを話し相手に、午後のひと時を楽しんでいた。
ゼノはミリアムが産まれる前からこの離宮を管理しているが、いつも琥珀色の瞳を優しく細めて微笑んでくれて、ミリアムは彼が実の祖父のように大好きだった。
そのため、ゼノを相手にしていると、ついつい話すぎてしまう。
「おやおや、アスヴィル様がそんなことを……」
うっかり城でアスヴィルがミリアムへの愛を叫び続けていることをしゃべってしまい、ミリアムはゼノがくすくす笑うのを見て、内心、余計なことを言ったかしら、と後悔した。
「あのアスヴィル様が叫ぶくらいですから、よほど、ミリアム様のことを愛していらっしゃるんでしょうね」
「そうかしら」
ミリアムは拗ねたように言った。
「わたしからしたら、ふざけているようにしか見えないわ」
そう。毎日毎日「愛しています」と離れたところから叫ばれても、ちっと嬉しくない。城中のさらし者になるし、到底本気のようには思えない。
「だいたい、急に好きだと言い出したのよ。今まで我儘だなんだと小馬鹿にしていたくせに。どこを信じろって言うの?」
「アスヴィル様は不器用な方ですが、嘘は言わない方ですよ」
アスヴィルが好きだというのなら、それは本当のことだから信じてやれとゼノは言う。
けれど、ミリアムはどうしても信じられなかった。信じたら、何かに負けてしまうような気すらする。
「ミリアム様はアスヴィル様がお嫌いですか?」
「大嫌いよ!」
即答するミリアムに、ゼノは苦笑した。
「そうですか? どこがお嫌いなんですか?」
「え?」
どこが――。以前、母からも同じ質問をされたことがある。その時ミリアムは「全部」と答えたのだが、ゼノの質問に同じように「全部」と言いかけて、ふとミリアムは口を閉ざした。
(どこが……)
冷静になって考えれば、どこがという問いに、うまく答えられる自信がない。
アスヴィルの「我儘」というときの声が嫌だった。
所かまわず「愛している」と叫ばれることも嫌だ。
でも、嫌だけど、そこが嫌いなのかと訊かれると、そうでもない。
(嫌い、なはずよ……)
ここにきて、ミリアムは揺らいでしまった。
嫌いなのだ。アスヴィルのことなんて、大嫌いなはずなのだ。
それなのに、具体的に嫌いな箇所があげられない。
押し黙ってしまったミリアムに、ゼノは目じりにしわを浮かべて微笑んだ。
「アスヴィル様は、お優しい方ですよ」
――そうかもしれない。
ミリアムはアスヴィルの顔を思い出しながら、ただ黙ってティーカップに口をつけた。
(でも……、やっぱり、信じられないわ)
五歳の時にはじめて見たアスヴィルの冷たい顔が思い出される。
今はいいかもしれない。ミリアムのことを愛していると本当に思っているのかもしれない彼は、ミリアムに対してあの時のような表情を見せない。
でも、もしも彼がミリアムに飽きてしまって、あの時と同じような視線を向けられたら――
(無理よ。信じられない)
いや、違う。怖いのだ。
ミリアムは、アスヴィルの「愛している」という言葉を信じることが、どうしようもなく怖かったのである――
☆
――ミリアム、愛している。
離宮の一階にある温泉につかりながら、うとうととまどろんでいた時、夢の中に現れたアスヴィルにささやかれて、ミリアムは飛び起きた。
温泉につかっていたことも忘れて飛び上がり、バランスを崩して湯の中に頭から突っ込んでしまう。
「ぷは……!」
慌てて湯から顔を出したミリアムは、温泉の淵に手をついて、はあ、と大きく息を吐きだした。
なんて夢を見たのだろうか。
悔しいやら悲しいやら恥ずかしいやら、いろいろな感情がごちゃ混ぜになってミリアムを襲い、彼女はぐったりと温泉の淵に額をつけた。
離宮に来てから、ミリアムはおかしい。
静かなこの離宮がいけないのか、ぼーっとしていると、アスヴィルの顔ばかりが脳裏をよぎる。
頭の中に現れるアスヴィルは、決まって優しく微笑んで「愛している」とささやくのだ。
ミリアムは泣きたくなってきた。
ようやく「愛している」という叫び声から解放されたのに、今度はアスヴィルの幻影に悩まされるなんて――
「もう、いや……」
いつになったらアスヴィルの顔が離れていくのだろうか。
いっそ、アスヴィルのことだけ、記憶の中からなくなってしまえばいいのにと、ミリアムは本気で考えた。