目に見えない愛 1
アスヴィルが「愛している」と遠くから叫びはじめて、半年がすぎた。
ミリアムはこの半年、アスヴィルの声を無視し続けていた。
聞こえていても聞こえていないふりをして、アスヴィルの姿は極力見ずに、ただ静かに毎日をすごすことに努めた。
アスヴィルから贈られるお菓子にも手をつけなかった。
とにかく、アスヴィルという存在を自分の中から追い出そうとしたのだ。
「ミリアム様、元気がございませんね」
クッションを抱きしめてソファに腰を下ろし、ぼーっとしていると、メイドのリザが心配そうに声をかけてきた。
「気のせいよ」
「そうですか? ……今日はジャスミンティーを煎れてみたんですよ」
リザが務めて明るい声でそう言うと、ミリアムはうっすらと微笑んでティーカップを受け取った。
「ありがと」
「新しい恋愛小説も買ってきたんです」
「うん……」
ミリアムはリザから本を受け取ったが、開くことなくテーブルの上においた。
大好きな恋愛小説が、どうしてだか、最近は読むことができなくなったのだ。
妙なことに、恋愛小説を開くと、ものの数ページで目が潤んできて、先を読むことができないのである。
ミリアムはジャスミンティーに口をつけながら、ちらりと部屋の隅に視線をやった。そこにはつい先日まで箱が山積みになっていた。
アスヴィルからの手紙が入っていた箱だ。
ミリアムはその箱が目に入らないよう、クローゼットの中に押し込んだのだ。
以前と変わらず届けられる手紙はもう、読んでいない。
アスヴィルの愛なんて、必要ない――
☆
何度目かの重たいため息が聞こえた。
シヴァは決裁書類から顔を上げ、ソファに座って暗い顔をしている友人を見やった。
アスヴィルはミリアムにあてた手紙をしたためている途中のようだが、何文字か書いては手を止め、深いため息を吐いている。
最初は仕事の邪魔になるので無視していたのだが、こうも続けてため息をつかれると、気になって仕事の手が止まってしまう。
シヴァは椅子から立ち上がると、アスヴィルの反対側のソファに腰を下ろした。
「今度は何があった」
ここ半年の間、ミリアムへの愛を大声で叫び続けているこの友人は、ふざけているように見えて、かなり繊細で真面目な男だ。
第三者から見れば全く本気度が伝わらない愛の叫びも、本人からしたら大真面目なのである。
つまるところ、アスヴィルは色恋沙汰に恐ろしく不器用な男だった。
「昨日で三十八回目です」
「なにが」
「ミリアムに、大嫌いと言われた回数です……」
「……数えてたのか」
アスヴィルはペンを置き、クッションを胸に抱えると、ソファにごろんと横になった。
「大好きは一度ももらえないのに、大嫌いばかり増えていきます……」
「それは、まぁ……」
この男がいろいろ、頓珍漢なことをしているからである。
面白いからという理由で止めなかったシヴァも悪いが、少し考えれば、毎日毎日大声で「愛している」と叫ばれて、本気にする女がいるだろうか。
だが、この大真面目で、こと恋愛に関しては思考回路が変な方向へぶっ飛んでいるこの男は、おそらくその過ちには気づいていない。
シヴァは書きかけの手紙に視線をやった。この手紙だってそうだ。たまの手紙なら効果もあるだろうが、この十年ほぼ毎日手紙を書き続けているのである。よくもまあ、そんなに手紙のネタがあるものだと思うが、もらった方は、もういい加減にしてくれと言いたいはずだ。
「しかし、お前もあきらめないな」
「絶対あきらめません!」
「まったく進展していないじゃないか」
「千里の道も一歩よりと言うじゃないですか」
それは一歩でも進んでいればの話だ。アスヴィルの場合、一歩も進んでいない。
アスヴィルはクッションに顔をうずめた。
「せめて、大嫌いが、嫌い、くらいまで好感度が上がってくれれば……」
「それは上がっているのか?」
やはりずれている。大嫌いが嫌いになったところで、結局嫌われていることには変わりはない。
(これは、百年後も同じことをしているんじゃないだろうか……)
そう思えるほど、進歩がない。
「アスヴィル、お前、グノーに何と言われた?」
アスヴィルはびくっと肩を揺らして、クッションから顔の半分だけを出した。
「それは……」
「グノーと約束したんだろう?」
「―――」
思い出したくないことだったのだろう。アスヴィルは再びクッションに顔をうずめて聞こえないふりをした。
シヴァは立ち上がり、アスヴィルからクッションを奪い取った。
「十年以内に、結婚しろと、言われなかったか?」
そうなのだ。
グノーは本来、七侯の地位を継ぐ前に結婚するようにアスヴィルに言っていた。しかしアスヴィルがミリアムに片思いをしてしまったがために、息子に甘いグノーはその条件を緩和させたのである。
アスヴィルが七侯を継いで、十年以内に結婚するように、と。
「あと何年だ?」
「……六年です」
アスヴィルはのそりと起き上がると、顔を覆ってまたため息をついた。
「六年、六年……。六年で、ミリアムに結婚の了承を取らなければ、俺はおしまいです」
「それがわかってるなら、もう少し正攻法で攻めたらどうだ」
「今、正攻法で攻めているじゃないですか」
「あれで正攻法のつもりだったのか!?」
シヴァは唖然とした。
アスヴィルはいそいそと書きかけの手紙に向きなおった。最後に「愛している」と一言を添えて完成した手紙を、手ずから作った菓子に添えて、使用人にミリアムに届けるよう言づける。
「今度から、花も添えた方がいいんでしょうか……」
ずれたところで悩みはじめた友人に、シヴァはもう何も言えなかった。
ただ、もしも六年後までにどうにもならなかった場合、グノーにもう少し待ってやるよう口添えだけはしてやろうと、この憐れな友人のため、ひっそりと心に誓ったのだった。