愛してると言わないで 3
「ミリアム、愛しています―――!!」
朝。
目が覚めるとともに聞こえてきたその絶叫に、ミリアムはぎょっとした。
慌てて飛び起きて部屋の窓のカーテンを開けると、庭の迷路のそばに、シルバーグレーの髪の背の高い男が立っている。アスヴィルだった。
彼はミリアムが窓から顔をのぞかせると、嬉しそうに微笑んで手を振ってきた。
「おはようミリアム!」
ミリアムは唖然とした。
確か、城を破壊されて怒ったシヴァが、アスヴィルに「向こう一年間、ミリアムの半径十メートル以内に近づくな」と命じたはずだ。
部屋にいるミリアムと、庭に立っているアスヴィルとの距離は、十メートルよりは離れているだろう。だからと言って、これはどういうことなのだろうか。
アスヴィルは大きく息を吸い、
「俺は、魔界で一番あなたを愛しています―――!」
と、再び大声で叫んだ。
「―――っ」
ミリアムは勢いよく部屋のカーテンを閉ざした。
カーテンを閉めた窓に背中をつき、両手で頬をおさえる。意思に反して顔が赤く染まっていた。
「な、なんなのよ、あいつ……!」
恥ずかしいにもほどがある。
閉ざしたカーテンの向こうでは、まだ「愛している!」という叫びが続いている。
ミリアムはベッドに駆け戻ると、頭から布団をかぶった。
顔を真っ赤に染めたミリアムは、羽毛布団の中で両耳を抑え、丸くなる。
「愛してない愛してない愛してない!」
呪文のようにつぶやいて、アスヴィルの声がやむのをひたすら待った。
「わたしはアスヴィルなんか愛してない! あんなやつ、大っ嫌いよ!」
まるで自分に言い聞かせるように、ミリアムはひたすら「愛していない」と言い続けたのだった。
それからというもの、ミリアムにとっては苦痛の日々がはじまった。
ミリアムがどこで何をしていても、遠くからアスヴィルの「愛している!」という叫び声が聞こえてくる。
例えばティータイムのとき。
リザの入れたお茶を飲みながら、アスヴィルの作ったお菓子――アスヴィル自らミリアムに手渡すことができなくなったため、使用人がかわりに届けるようになった――を食べながら、午後の優雅なひと時を過ごそうとした矢先。
「ミリアム、大好きだ―――!」
城中にアスヴィルの絶叫が響き渡り、ミリアムはローズティーを吹き出した。
今度は気分転換に乗馬を楽しもうとしたとき。
城の裏手の山まで愛馬に乗って遠乗りに出かけていると、
「ミリアム、愛してる―――!」
という声が、やまびこになって反響してきて、ミリアムは危うく落馬しかけた。
さらには夜、眠りにつこうと横になると。
「俺の心は生涯君だけのものだ―――!」
という叫び声が夜の静かな城内に響き渡り、その夜ミリアムは夢の中でうなされた。
ただ、その次の朝はなぜか静かであったのだが、あとから聞いた話によると、安眠妨害されたシヴァが激怒し、朝までアスヴィルを地下牢に閉じ込めたらしい。
とにかく、いつでもどこでもアスヴィルの愛の叫びが聞こえてくる現象に、ミリアムはノイローゼになりそうだった。
アスヴィルが「愛している」と叫びはじめて十日がすぎたころ、とうとう我慢の限界になったミリアムは、長兄シヴァの部屋に乗り込んだ。
「お兄様! アスヴィルをなんとかしてちょうだい!」
しかし、シヴァは涼しい顔で、
「ただ叫んでいるだけだろう。嫌なら耳栓でもしておけ」
と言って相手にしてくれない。
ミリアムは地団太を踏んだ。
「なんでわたしが耳栓なんかしなくちゃいけないのよ! アスヴィルが静かにしていればいいだけでしょう!?」
「誰がどこで自己の感情を吐露しようと、それはそいつの勝手だろう」
「吐露なんてかわいいもんじゃないでしょうが!」
あれは絶叫だ。ミリアムにとっては精神をむしばむ凶器である。
「とにかく俺は知らん」
シヴァは妹の主張をことごとく無視をして、執務机に座って黙々と仕事を続けた。
(なによ! お兄様、絶対に楽しんでるわ!)
悔しくなったミリアムは、シヴァの執務机に山のように積まれている書類に手を伸ばすと、勢いよく机の上から落としてやった。
バサバサバサ――、と音を立てて紙の山が床に散乱する。
「ミリアム!!」
書類をめちゃくちゃにされてシヴァが怒鳴ったが、ミリアムは「ふん」と鼻を鳴らして、苛々しながら部屋をあとにした。
普段なら歩くのを面倒がって自分の部屋まで空間移動でちゃちゃっと戻るのだが、苛々しているミリアムは少し歩きたい気分だった。
カツンカツンと高いヒールを踏み鳴らしながら、憤懣やるかたない、という様子で廊下を歩くミリアムに、使用人たちが壁に張り付いて道を開ける。
(なによなによなによ! ひどいわ! 他人事だと思って!)
アスヴィルもアスヴィルだ。いつでもどこでも「愛してます」なんて、喜劇か! まったく心がこもってない。誠意を感じられない!
(大嫌い大嫌い大嫌い大っ嫌い! アスヴィルなんて、大っ嫌い!)
呪いの言葉のように心の中で繰り返しながら、ミリアムが廊下を進んでいると、前方にその「大嫌い」な相手を見つけて思わず立ち止まった。
相手も青灰色の目を見開いて、ぴたりと止まると、慌てたように踵を返し、猛然と駆け出した。
バタバタバタ、と廊下の端まで走っていくと、くるりとこちらに向き直り、
「今日も愛しています!」
と彼は叫ぶ。
ミリアムはふるふると拳を振るわせて、律儀にも十メートルを保って廊下の端まで離れていったアスヴィルに怒鳴った。
「あんたなんか、大っ嫌いよ―――!」
そうして身を翻すと、ミリアムはパタパタと反対方向へ駆け出した。
庭の迷路の奥まで走っていき、四阿までたどり着くと、そのテーブルに突っ伏して唇をかむ。
――愛している。
アスヴィルの声が、頭の中から消えてくれない。
どうやったって、消えてくれないのだ。
「大嫌いよ……」
ミリアムの大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
泣きたくなんかないのに、それはどうやったって止まらず、ぽろぽろと止めどなく溢れてくる。
「……大嫌い」
嫌いなのだ。アスヴィルなんか、大嫌いなのに――
どうして、こんなに心が苦しいのだろう。
アスヴィルに愛していると言われるたびに、心が壊れそうなほど苦しくなる。
苦しくなって、泣きたくなって、どうしようもなくなるのだ。
「言わないで……」
ミリアムはしゃくりあげながらつぶやいた。
――愛しているなんて、言わないで、と。