初恋は甘いけれど 2
アスヴィルは真っ白な百合の花束を抱えて城を訪れていた。
ミリアムのもとに向かう前にシヴァの部屋に寄ると、シヴァは幽鬼でも目にしたかのように引きつった表情で彼を出迎えた。
「なんだその花束は」
いや、花束だけではない。
目の下に大きなクマを作っているアスヴィルは、なぜか頬を紅潮させ、目をキラキラさせている。
シヴァは不気味なものを見た、とばかりに首を振った。
アスヴィルは花束を大事そうに腕に抱きしめた。
「ミリアムは、百合はお好きでしょうか?」
「は……?」
シヴァは幻聴かと思った。
「嫌いだったら困るので、先に確認してからと思いまして……」
「はあ?」
なぜアスヴィルがミリアムに花束を贈るのだ。ミリアムの誕生日は先月終わったばかりだし、何かを贈るような特別な日ではないはずだ。
アスヴィルは怪訝そうなシヴァの視線にさらされて、目じりを染めてもじもじしはじめた。はっきり言って、気持ち悪い。
シヴァは何やら嫌な予感がした。
この友人がいまだかつてこのような奇怪な行動をとることはなかったが、この妙な雰囲気には覚えがある。シヴァのもとに来る女と同じだ。彼女たちは何か贈り物を片手にシヴァを訪れては、もじもじと歯切れ悪く何かを言って去っていく。決まって頬を染めて。
(まさか……)
シヴァ自身がそう言った感情を抱いたことはないが、シヴァはアスヴィルの身に起こったことを容易に想像することができた。できれば否定してほしかったが――
「お前、まさかミリアムに惚れたのか……?」
「……はい」
肯定された!
シヴァは頭を抱えた。
何がどう転んで、このような事態になるのか、誰か説明してほしい。
母からすればガッツポーズものだろうが、シヴァにしては面倒ごと以外ほかにない。
「お前、ミリアムのことを子供だと言っていただろう!?」
「そうなんですが……」
「なにがどうなって、どこに、あいつに惚れるような部分があるんだ!」
「妖精だったんです」
「はああ?」
「きっとミリアムは妖精だったんです」
「勘弁してくれ……」
シヴァはぐったりとソファに体を投げだした。
アスヴィルはそんなシヴァの様子に気が付かないのか、うっとりした表情を浮かべた。
「俺はいまだかつて、あんなに愛らしい生き物を見たことがありません。愛らしく、きらきらしていて、羽のように軽いんです。妖精以外考えられません」
――いや、お前、昔からミリアム知ってるよな。
いろいろ突っ込みどころが満載だが、言いようのない倦怠感に襲われているシヴァには、もはやそんな気力はなかった。
アスヴィルはシヴァの真向かいに腰を下ろすと、途端に真剣な顔をした。
「ミリアムに好かれるには、どうしたらいいでしょうか?」
「……知るか」
シヴァはため息をついた。
この男は、ミリアムに毛嫌いされているという認識を持っているのだろうか。いや、持っていないはずだ。正直言って、これほどまでに嫌われていて、どこをどうやってその感情を百八十度好転させようというのだ。無理に決まっている。
ここは友人の精神衛生上、早いうちに諦めさせた方がいいのかもしれない。
なぜならあの妹は、人の――特にアスヴィルの――感情の機微になど、いちいちかまったりはしない。その一言がどれほど相手に大ダメージを与えるかなんて、これっぽっちも考慮しないのだ。放っておけばアスヴィルが灰になる。
けれども――
「ああ、ミリアム……」
今まさに恋がはじまったばかりで、うっとりと自分の世界に浸っているアスヴィルを、塩辛い現実世界に引きずり戻すのはいかんせん可哀そうだった。
シヴァは悩んだ。
友人のためを思うなら、ここで現実世界に引き戻し、ミリアムを諦めさせるのが一番いいだろう。しかし、おそらく生まれてはじめて訪れたであろう初恋に、何もしないままに蓋をさせるのは、酷な気もした。
シヴァは小さく訊いてみた。
「ミリアムは、難しいと思うぞ……?」
「覚悟の上です! あんなに愛らしいんです、俺以外にも、きっとたくさん心を寄せている男がいるはずですから、難しいのは当然です」
「いや、そういう意味での難しいじゃないんだが……」
アスヴィルが思うところのライバルの存在は、母と愚弟セリウスの手によって、ことごとくつぶされている。そこのところは、アスヴィルの心配は無用なのだ。
だが、ライバルをつぶしていくよりも、もっと高い山をアスヴィルが昇らないといけないだけで――
「諦める気は……?」
「ありません!」
打てば響くように即答するアスヴィルに、シヴァは「やめておけ」と諭すことを諦めた。
万に一つの可能性をつかみに行きたいというのならば、好きにすればいい。灰になったらかき集めに行ってやろう。
シヴァは友人が大事そうに抱える花束を指さし、ぼそりと言った。
「安心しろ。ミリアムは、百合、好きだぞ」
☆
シヴァから、ミリアムは百合が好きだというお墨付きをもらい、アスヴィルは意気揚々と彼女の部屋へ向かった。
繰り返すようだが、アスヴィルはミリアムに蛇蝎のごとく嫌われているという自覚はない。これっぽっちもない。単にミリアムが怒りっぽい性格なだけであると、非常にポジティブにとらえている。
ゆえにアスヴィルは、ミリアムの部屋を訪れることに何ら抵抗はなく、上機嫌のままミリアムの部屋の扉をノックした。
果たして出迎えたメイドのリザは、そこにアスヴィルが立っているのを見て真っ青になった。
なぜなら、主の天敵がそこにいるのである。リザ自身はアスヴィルのことは嫌いではなく、むしろ硬派でクールなその様子に密かにときめいているファンの一人であるが、それとこれとは話は別だ。
なぜなら、アスヴィルの顔を見たミリアムの機嫌がどれほど悪くなるか――想像するだけで震えあがる。
「あ、あ、あ、アスヴィル様、今日はどうなさったのですか?」
リザは部屋の中には聞こえないような小さな声でアスヴィルに訊ねた。
あわよくば、ミリアムに気づかれることなく、このまま追い返してしまおうという作戦だ。
しかしアスヴィルは、そんなリザの気持ちには全く気づくことなく、勝手に部屋の中を見渡して、窓際で本を読んでいるミリアムを見つけると、これまた勝手に声をかけた。
「ミリアム!」
呼ばれて、ミリアムは首を巡らせて声のする方を見た。そしてそこにアスヴィルの姿を見つけると、ぐっと顔をしかめ、「なぜお前がそこにいるんだ」と言わんばかりに睨みつけた。
しかし盲目になっているアスヴィルは、愛らしい妖精が自分の方を向いてくれたという事実に心躍らせ、一人舞い上がった。
はっきり言って、人一人殺せそうなほどの憎しみの混じったミリアムの今の顔を見て、「愛らしい」とか「妖精」とか思えるのは、視界にフィルターがかかっているアスヴィルくらいなものである。
ミリアムの様子に凍り付いているリザを押しのけて、アスヴィルは部屋に中に足を踏み入れた。
ミリアムは文句を言って叩きだそうと揺り椅子から立ち上がったのだが、見上げたアスヴィルの様子が奇妙すぎて、思わず言葉を呑みこんだ。
目の下に濃い隈を作り、少しやつれていて、けれども頬を赤く染めて、厳つい顔に似合わない可憐な百合の花束を抱えている。――不気味すぎる。
アスヴィルは硬直しているミリアムに、百合の花束を差し出した。
「ミリアム、あなたに」
ミリアムは差し出された花束を、黙って見下ろした。
なぜ花束。
花は嫌いではないが、なぜアスヴィルから花束を差し出されるのか、まったくわからない。
ミリアムが微動だにせず、無言で花束を見つめているので、アスヴィルは少し不安になった。
「百合、好きではなかったか?」
「……百合は、好きだけど」
「そうか。よかった」
「なんで?」
「え?」
「だから、なんで? なんのつもり?」
「いや、だから……」
「あなたに贈り物をしてもらういわれなんて、ないんだけど」
「……」
アスヴィルはここでようやく、ミリアムの視線に冷ややかなものを感じて、ごくりと唾を飲み込んだ。
今まで何度もむけられたことがあるが、全く気にならなかったミリアムの視線だ。それが今、氷の刃のように突き刺さる。
硬直するのは、今度はアスヴィルの番だった。
悲しいかな、恋に落ちた憐れなこの青年は、花束を贈られた女性は、頬を染めて「ありがとう」と言ってくれるものだと信じていた。
ミリアムに愛らしい笑顔を向けられ、「ありがとう」と言ってもらえることを、アスヴィルはこれっぽっちも疑うことなく信じていたのだ。
そこで、はた、とアスヴィルは気づいた。
笑顔を浮かべてありがとう言ってもらえると思ったが、ミリアムに笑顔を向けられたことが一度もない。この十年、一度もだ。
アスヴィルは衝撃を受けた。
シヴァが「犬猿の仲」と称した理由――
アスヴィルにはそんなつもりはこれっぽっちもなかったが、ミリアムはもしかしなくとも、アスヴィルのことが好きではないのかもしれない――
アスヴィルは、心臓がガラス細工のようにひび割れていく音を聞いた。
ミリアムは硬直して動かなくなったアスヴィルに対する興味は失せたらしく、揺り椅子に戻って、小説の続きを読みはじめた。
アスヴィルはミリアムの視界から完全に追い出されて途方に暮れた。そして、なぜ今まで忘れていたのか、十年前にミリアムに言われた一言を思い出してしまった。
――あんたなんか、だいっきらいよ!
アスヴィルはひび割れて壊れた心臓が、今度は粉々に砕け散っていく音を聞いた。
彼はよろよろと踵を返すと、部屋の隅でおろおろしているリザに百合の花束を押しつけて、とぼとぼと部屋を出て行った。
こうして、アスヴィルの初恋のときめきは、一瞬にして砂塵と化したのだった。