降ってきた妖精
五歳の時の一件からというもの、ミリアムにとってアスヴィルは天敵だった。
アスヴィルは、ミリアムの一番上の兄のシヴァと仲がいいらしく、よく城にやってくる。
アスヴィルが来ると聞いた時はミリアムは必ず部屋に引きこもって外には出ず、徹底的にアスヴィルを避けた。
たまに出くわしてしまったときも、完全に視界から追い出し、挨拶一つ交わさなかった。
アスヴィルの方は儀礼的に声をかけてくるのだが、それすらも無視をする。たまに、「返事もできないのか」と厭味を言われた時だけは、もちろん言い返したが。
そうして月日は流れ、ミリアムは十五歳になっていた。
年齢を重ねるにつれ、さすがに幼い時のように分別なく我儘を言うようなことはなくなり、ミリアムは多少周りに配慮できるようになった。
シヴァに言わせればまだまだ充分我儘という評価が下るが、あの兄は思っていても口には出さないし注意もしないので、ミリアムに甘々な両親とデレデレな次兄セリウスの「大人になったねぇ」という評価だけがミリアムの中にある。
ミリアムは今日、水色のドレスを着て、一人で庭の大木の上にいた。
太い枝の上に横になって、昼寝を楽しんでいる。
どうやら今日アスヴィルが城に来るらしいのだが、部屋に籠っている気にはなれず、こうして大木の上で昼寝して時間をつぶそうという魂胆だった。
晩春の暖かい風が通りすぎて、木の上はなかなか快適だった。
昼食を食べたばかりで腹が膨れているので、心地よい風に吹かれて、ミリアムの瞼はすぐに重たくなってくる。
ややして、ミリアムは太い幹の上で、健やかな寝息を立てはじめた。
☆
「まさに犬猿の仲だな」
ミリアムとアスヴィルの仲を、シヴァはそう表現した。
だが、表現された方のアスヴィルは意外そうな表情を浮かべた。
「そうですか?」
「……そこで疑問を持てるお前の感覚を、俺はたまにすごいと思う」
「ミリアムは子供です。俺は道理を諭しているだけですよ」
なるほど、確かに一理あるかもしれない。そして、アスヴィルはミリアムと違い、彼女のことを嫌ってはいないのだろう。我儘なミリアムに注意をしているだけ――、おそらく彼はそういう意識で接しているようだ。
ただ、そのような意見が言えるということは、ミリアムに蛇蝎のごとく嫌われているという自覚は持っていないということである。
ミリアムは兄のシヴァから見ても非常にわかりやすい性格の妹だった。
嫌いなものは嫌い、いやなものはいや、好きなものは好き。そこにある感情や欲求に非常に忠実に行動し公言する、竹を割ったと言えば聞こえはいいが、とても単細胞な性格だ。
心中で思っていても、それを口にすることで面倒ごとを引き起こしそうものなら沈黙を決め込むシヴァとは、真逆の性格と言ってもいいだろう。
「あれも、もう十五になったがな」
五歳のときならいざ知らず、十五歳になったミリアムは、昔と比べて多少の分別はついているようだ。
だが、面白いことに、アスヴィルに対してだけは昔と変わらないように見える。極力会うことを避けているようだが、たまに出くわしたときの、あの蛆虫でも見るような表情は、当事者ではないシヴァからすれば少し面白い。
しかしアスヴィルは。
「十五歳なんて、まだまだ子供じゃないですか」
と言う。
どうやら、アスヴィルの中では、ミリアムは五歳の時と同じ扱いのままらしい。
シヴァはそんなアスヴィルを見て、心の中でこっそり母に同情した。
母はアスヴィルがお気に入りで、密かにミリアムとアスヴィルが結婚してくれればいいなと考えていることをシヴァは知っていた。
だが、この二人を見る限り、それは夢のまた夢だろう。
「そういえば、グノーがそろそろ隠居するらしいな」
シヴァはふと話題を変えた。アスヴィルの父であるグノー侯が隠居するという噂は、シヴァの耳にも届いている。
グノーは齢千五百歳を超え、シヴァの祖父が魔王の座にいたころから七侯の一人だった。魔界の領地を任されている七侯の中でも、グノーは一番長くその座に座っている男だった。
それは、グノーがなかなか結婚しなかったことと、結婚してもすぐに子宝に恵まれなかったこと、さらに言えばアスヴィルが産まれたのちは、まだまだ生まれてすぐの子供には譲れないと言ってその座に座り続けたことによるが、いい加減アスヴィルも三百歳を超え、そろそろ譲る気になったようだった。
「ええ、隠居してのんびりすると言っていました」
「代替わりはいつだ?」
「おそらく、ここ数年の内には」
「そうか。どうやらお前の方が先になりそうだな」
シヴァは小さく笑った。シヴァの父親である魔王も、あわよくばさっさと引退し、田舎で母とともにイチャイチャしてすごしたいと言っているが、ミリアムが産まれたことでもう少し城に居座る気になったらしく、いまだ魔王の代替わりは行われていない。
すると、アスヴィルは顔を曇らせた。
「代替わりはいいのですが……」
「何か心配事か?」
「いえ。心配事ではなく、代替わり前に結婚しろと、父が……」
なんでも、結婚せずに七侯の座に就いたグノーは、結婚せずにその座についたことを後悔していたらしい。結果的にはそれで最愛の妻に巡り合えたからよかったらしいが、息子には代替わり前に結婚し、早めに世継ぎを作っておけというのが彼の希望のようだ。
アスヴィルは友人の心中を察して同情した。
シヴァにしてもそうだが、アスヴィルも、いかんせん女という生き物に心を開かない。もし自分が父親である魔王に、魔王になる前に結婚しろとでも言われようものなら、その座をさっさとセリウスに譲り渡しどこかに逃亡するだろう。
アスヴィルは盛大にため息をついた。
「明日も、お見合いらしいです」
「それは、……大変だな」
シヴァは自分が見合いをさせられる場面を想像して苦い顔をした。
アスヴィルはそのあとシヴァ相手に「結婚したくない」と二言三言愚痴を言って、友人の部屋を辞したのだった。
(なんだって、お見合いなんて……)
アスヴィルは心の中で父親に向かって悪態をついた。
明日の見合いが憂鬱で仕方がない。
アスヴィルは別に女が嫌いなわけではないし、今まで交際した女性は何人かいたが、結婚とは別の話なのだ。
こういう言い方をすれば今まで交際した女性に失礼かもしれないが、誰一人として、アスヴィルの心を動かした女性はいなかった。
嫌いではないが好きにはなれない―――アスヴィルにとって女性とはそういう生き物だった。結婚したところで、その女性を愛せる自信がない。
アスヴィルはとぼとぼと城の庭に降りた。
正直、見合いなんてすっぽかしてしまいたい。
だが、鼻息荒く、「結婚!」とせっついている父が、アスヴィルの逃亡を許すはずはなかった。
「はあ……」
アスヴィルは誰も見ていないのをいいことに、盛大なため息を吐いた。
その時だった。
頭上から、ガサガサガサ、という音が聞こえたかと思えば、
「きゃあああああ!」
という悲鳴とともに、上から何かが降ってきた。
アスヴィルは反射的に顔を上げ、慌てて落ちてきたものを受け止めた。
水色のドレスを着たそれは、ふんわりと軽く、愛らしく、柔らかかった。
――アスヴィルは一瞬、それを妖精だと思った。
☆
ミリアムは爆睡していた。
夢の中では大好きなお菓子に囲まれていて、「うふふふふ」と幸せそうな寝言をこぼす。
だからすっかりと忘れていたのだ。自分が眠っているところが、木の枝の上だということを。
ミリアムは、ごろんと寝返りを打った。
そして、体の半分を支えるものがなくなったことに気がつき、ぼんやりと覚醒する。
しかし、目を開けたときはすでに遅く、バランスを崩したミリアムは、木の枝から見事に落下した。
「きゃあああああ!」
地面に激突することを恐れて、ミリアムはぎゅっと目を閉じた。
けれども、想像した痛みはやってこず、かわりに体がふわりと宙に浮いた感があった。
ミリアムが顔を上げると、そこには至近距離でアスヴィルの顔があった。
「―――!」
天敵の顔を見て、ミリアムの表情が凍りついた。
けれどもその天敵は、何やら呆けた顔でミリアムのことを見下ろしている。
ミリアムは拍子抜けした。
てっきり「淑女が木の上で眠っているなんて、はしたない」というような厭味が飛んでくると思っていたのだ。
(なんなのこいつ。変なものでも食べたのかしら?)
明らかに様子がおかしい。
アスヴィルの顔を見るのは三年くらいぶりだったが、こんな顔をして固まった彼を見たのははじめてだった。
けれども、この体勢のまま硬直されるのは大いに困る。
何が悲しくて天敵の腕に抱き上げられていなくてはいけないのだ。
ミリアムはまなじりをつり上げると、アスヴィルの腕の中で暴れた。
「いい加減、離しなさいよ!」
自分が落ちてきたから悪いという殊勝な考えは、受け止めたのがアスヴィルと知った時点できれいさっぱり消え去っている。
アスヴィルはたった今目が覚めたと言わんばかりに驚いた顔をして、慌ててミリアムを地面に下ろした。
ミリアムはふんっと鼻を鳴らして踵を返す。
「ミリアム……!」
何やら焦った声で呼び止められて、ミリアムは振り返った。
真っ赤な髪が、ふわりと宙を舞う。
アスヴィルは宙に舞った髪が、重力に従ってゆっくり元の位置に戻るのを、魂が抜けたような顔をして見ていた。
「なによ!?」
呼び止めたくせに何も言わないアスヴィルに、ミリアムが苛々とした声を上げる。
「あ、ああ、いや……」
アスヴィルは歯切れ悪くもごもごと何かを言った。だが、ミリアムの耳には届かずに、苛ついたミリアムがさらに言う。
「だから、なによ!?」
「いや……、なんでもない」
「はあ!?」
ミリアムは眉を跳ね上げて、「ばっかじゃないの!」とアスヴィルを罵倒し、そのまま背を向けて歩き出した。
そのまま一度として振り返らずに城の方へと消える彼女を、アスヴィルはただ、放心したように見つめ続けたのだった。