跪かない男
それは、ミリアムが五歳か六歳くらいのころだったはずだ。
魔族は力が強ければ強いほど長生きなのだが、それゆえ、遺伝子を次世代に残すことには非常に無頓着で、なかなか子供を作ろうとはしない。
だが、ミリアムの両親は「子供大好き」と公言している魔族の中では非常に変わった夫婦だった。
そんな中、ミリアムは、ミリアムの両親にとって百年ぶりに授かった子供だった。
一番上の兄であるシヴァとは、三百歳ほど年が離れている。
両親は、初めて授かった女の子に大喜びで、ミリアムのことを目の中に入れても痛くないほどかわいがった。――つまり、めちゃくちゃ甘やかした。
そのため、ミリアムは五歳をすぎるころには、魔界の住人すべてが自分のもとに跪くと信じていたし、どんな我儘でも通ると思っていた。
実際、当代の魔王の娘として、周りからちやほやされていたのだから当然かもしれない。
身内の中も、二番目の兄セリウスはミリアムにものすごく甘かったし、逆に一番上のシヴァは面倒くさがりなので、ミリアムが何を言っても、たいてい聞き流して怒ることはなかった。
つまり、誰もミリアムをとがめるものはおらず、結果ミリアムの我儘な性格は助長を極めたのである。
ある日の午後――
ミリアムは庭の薔薇園のそばで、お気に入りのメイドであるリザを連れてお菓子を食べていた。料理長に大量に焼かせたお菓子が、薔薇園のそばに作らせた簡易的なテーブルの上に、あふれんばかりにおかれている。
ミリアムは真っ赤な髪を背中に流し、白とピンクのフリフリしたドレスと身に着けていた。真っ赤な靴を履いた足が、地面に届かず揺れている。
「これ、イマイチね」
ミリアムは一口かじったタフィーを、ぽいっと背後に放り投げた。
リザが慌ててそれを拾いに行き、ゴミとしてまとめていく。
「これも甘すぎよ!」
ぽい。
次に手に取ったフィナンシェも背後に放る。
「まったく! 子供だと思って、料理長ったら手を抜いてるのかしら? 甘くすればいいってものじゃないのよ!」
幼児らしからぬ大人びた口調で文句を言って、ミリアムはミルクたっぷりのアイスミルクティーのグラスを両手で抱えた。
ちゅう、とストローでミルクティーを飲みながら、じっとお菓子の山を見つめる。
「これも、これも、これも! どれも甘いばっかりで美味しくないわ! 今日のは全部外れよ! もう、誰かいないの? 美味しいお菓子を作れる人!」
子供が偉そうなことを言っていても、メイドのリザは怒らない。「そうですね」と困ったような顔で頷いて、ミリアムが不要と言ったお菓子を片付けていく。
怒ったミリアムが、部屋に戻る、と立ち上がったときだった。
「まったく、しつけのなっていない子供だな」
背後から忌々しげな声が聞こえてきて、ミリアムは眉をつり上げた。
「なんですって!?」
振り返った先にいるのは、一番上の兄と同じくらい身長が高い、厳つい顔をした男だった。
短めのシルバーグレーの髪に青灰色の瞳の、ミリアムが見たことのない男である。
リザが慌てたように膝をついた。
「アスヴィル様、こちらへいらっしゃっていたのですか」
ミリアムは不機嫌な表情のままリザに視線を移した。
「誰よ、こいつ」
リザは顔を青くしながら、ミリアムにこそこそと耳打ちする。
「七侯のお一人である、グノー侯様のご子息様でございます」
グノーなら知っている。立派な髭を蓄えた、優しそうなお爺さんだ。たまに城にやってくるが、ミリアムを見ると必ずお菓子をくれるから、ミリアムはグノーのことが大好きだった。
確か、シヴァとそれほど年の変わらない息子がいると言っていたが、なるほど、この男がそうらしい。
ミリアムはふん、と鼻を鳴らした。
「そう。それで、グノーの息子が何の用よ。あなた、わたしが誰だかわかってるの? 知らなかったのなら、さっきの発言は許してあげるから、跪いて謝りなさい!」
アスヴィルはぐっと眉間にしわを刻んだ。
リザがますます青い顔をして、アスヴィルとミリアムの間に割って入る。
「ミ、ミリアム様。アスヴィル様はお忙しくていらっしゃいますし、きっとミリアム様がお姫様だとご存じなかったのですわ! ええ、ここは寛大なお心で許して差し上げ―――」
「どけ」
空気も凍るような声だった。
リザはヒッと飛び上がって、恐る恐るアスヴィルを見上げる。
もともと厳ついアスヴィルの顔が、より恐ろしくしかめられていた。
「あ、あああ、アスヴィル様、こ、子供の言うことで……」
「どけ」
もう一度言われて、リザは反射的に身を引いた。
アスヴィルは腕を組んでミリアムを見下ろすが、見た人すべての血の気が引きそうなほど恐ろしい表情を浮かべたアスヴィルにも、ミリアムは全く動じなかった。
動じないどころか、さらに不機嫌になって、アスヴィルに向かってぷくぷくした指を突きつける。
「何してるのよ、早く謝りなさい!」
ブチ
そばで見ていたリザは、脳の血管が切れるような音が聞こえた気がした。
アスヴィルはやおら腕を伸ばすと、猫の子を持つようにミリアムの首根っこをつまみ上げた。
「な! なにするの! 離しなさいっ!」
ミリアムが顔を真っ赤にして怒り、足をバタバタさせてアスヴィルを蹴りつける。
「ひいっ! アスヴィル様、お許しください! ミリアム様は、まだ五歳……」
「うるさい」
アスヴィルはミリアムがどれほど蹴飛ばそうと、暴れようと、どこ吹く風で、ミリアムをつまみ上げたまま踵を返す。
そのまま、青を通り越して白くなっているリザを一人残し、城の方へ歩いて行った。
「しつけがなっていません」
ポイ
アスヴィルはシヴァの部屋までやってくると、部屋に入るなり、首根っこをもってつまみ上げていたミリアムを、ぽいっとソファの上に放り出した。
ボスン! とふかふかのソファに投げられて、クッションとクッションの間に体を沈めたミリアムは、キッとアスヴィルを睨みつけた。
「なにするのよ!」
だが、アスヴィルはそんなミリアムを無視して、本に視線を落としていたシヴァに向かって続ける。
「甘やかしすぎですよ」
シヴァはようやく本から顔を上げ、友人を見やった。
「文句はうちの両親に言うんだな」
「あなた、実の兄でしょう」
妹の教育に無関心すぎるシヴァに、アスヴィルはあきれる。
無視されたミリアムはぷうっと頬を膨らませた。
「お兄様! なんなのよ、こいつ!」
「アスヴィルだ」
「名前はさっき聞いたから知っているわよ!」
「……」
シヴァは少し面倒そうな顔をした。子供は苦手なのだ。できるだけ関わり合いになりたくない。ミリアムがどれほど我儘になろうと、口出しをせず静観しているのは、そのためである。
アスヴィルは腕を組むと、仁王立ちでミリアムを見下ろした。
「いいか。まず、食べかけの菓子をそのあたりに放り投げて散らかすな。次に、人が一生懸命作ったものにケチをつけるな。最後に、もう少し周りに配慮して敬意を払うことを覚えろ!」
五歳児相手に難しすぎる内容かもしれないが、ミリアムの我儘を目にして怒っているアスヴィルにはそこまでの配慮はできなかったらしい。
ミリアムはソファからぴょんと飛んで立ち上がると、キッとアスヴィルを睨みつけた。
「うるさいわよ、何様よあんた! 初対面で偉そうに!」
「そういうお前は、初対面の俺に跪けと言っただろう」
「だからなによ!」
目の前で口喧嘩をはじめた二人に、シヴァはこっそりため息をついた。人の平穏をぶち壊して、お前らこそ何様だと言いたいが、口にすると面倒なことになりそうなので黙っておく。
アスヴィルはピクリと眉を動かした。聞き分けのないミリアムに、そろそろ限界のようだ。
彼は両手を伸ばすと、素早くミリアムのふっくらした両頬をつまんで引っ張った。
「いい加減にしろ!」
「―――!」
容赦なく頬を引っ張られて、ミリアムは顔を真っ赤に染めて、大きな目に涙をためた。
だが、彼女の山よりも高いプライドが、泣くことだけは許さなかったらしい。
彼女は大暴れしてアスヴィルの手から逃れると、ソファの上のクッションをつかんで、彼の顔面目がけて投げつけた。
ぽす、と顔面でクッションを受けたアスヴィルが額に青筋を浮かべるが、アスヴィルが雷を落とす前に、ミリアムが大声で怒鳴りつけてきた。
「あんたなんか、あんたなんか―――」
ミリアムは大きく息を吸い込んで、宣言した。
「だいっきらいよ―――!!」
――アスヴィルは、この時ミリアムに嫌われたことを、のちのち死ぬほど後悔する羽目になるのだが、怒り狂っていたこの時は、そんなこと、つゆほどにも思わなかったのだった。