淋しそうな誘拐犯 1
バチン、とヴァイオリンの弦が切れて、バードは顔をしかめた。
しばらく無言で弦の切れたヴァイオリンに視線を落としていた彼は、細く息を吐きだすと、ヴァイオリンをテーブルの上において窓際の揺り椅子に腰かける。
エルザはうまくいっただろうか―――、窓の外を見つめながら、バードは、およそひと月前にエルザが泣きながらこの邸を訪れたときのことを思い出した。
あの日――
バードもとある理由から絶望の淵にいた。
そこへ、エルザが泣きながらやってきたのだ。「ジェイルが裏切った」と。
バードにはエルザが泣いている理由にも、ジェイルの裏切りとやらにも心当たりがあった。
バードを絶望の淵に追いやった理由も、同じだったから――
「リリア……、君はどうして……」
バードはポケットから天鵞絨の小箱を取り出した。
目を閉じれば、瞼の裏にはリリアのまぶしい笑顔が浮かんでくる。
どうしてこんなことになったのか、どれだけ考えてもバードにはわからなかった。
コンコン
扉を叩く音がして、バードは小箱をポケットに戻すと、揺り椅子から立ち上がった。
「誰?」
部屋を横切って、外に問いかけながら扉を開けたバードは目を丸くした。
そこにはエルザと、黒髪の見知らぬ少女が立っていた。
☆
「どういうことだ!?」
シヴァの機嫌は恐ろしく悪かった。
シヴァの、怒りを押し殺しきれない地を這うような低い声に、ジェイルはすくみ上がる。
部屋の隅に控えているゼノまで真っ青になっており、ジェイルの隣に腰を下ろしているリリアはすでに泣きそうになっていた。
「それが、その……、僕にも正直、よくわからな……」
「はあ?」
シヴァが片眉を跳ね上げると、ジェイルは「ひっ」と口の中で小さな悲鳴を上げた。まずい。本当に、まずい。魔王シヴァが本気で怒っている。
この中で一番八つ当たりされやすいジェイルは、何とかシヴァの機嫌を直す方法を考えるが、どれだけ頭を悩ませても、そんな妙案は絞り出せなかった。
無理もない。なぜならジェイルにも、狐につままれたように、さっぱり状況が理解できないからだ。
シヴァはゼノに視線を投げた。
「沙良がいなくなったのはいつからだ」
ゼノは青い顔をしたまま答えた。
「昼……、前でしょうか。エルザの部屋にポタージュを持っていくとおっしゃられて、エルザの部屋に入ったところまではメイドたちも覚えているそうです。けれども、そのまま、部屋から出てくる気配がなく、それならばとエルザの部屋に沙良様の分の昼食も持って部屋に入ったときには、もう、部屋の中には誰もいなかったそうです。沙良様も、エルザも……」
けれど、見張りもかねて部屋の扉の前にいたメイドは、部屋の扉があくのは見ていない、とゼノが言えば、シヴァの眉間にしわが寄った。
エルザを軟禁していた部屋は二階で、窓からは出られないようにしてあった。部屋から出るには廊下へ続く扉を使うしか方法はなく、その扉の前には常にメイドかゼノがいて、エルザが出て行けないようにしていた。
「……どういうことだ」
シヴァは小さく舌打ちする。
エルザはともかく、沙良までいなくなったというのが府に落ちない。というか、シヴァにとってエルザがいなくなろうがどうしようがどうだっていい。問題は沙良がいなくなったということだ。
シヴァはジロリとジェイルを睨んだ。
「探したんだろうな?」
「部屋も地下も、周囲の森もすべて探しました。でも、どこにもいないんです……」
「役立たずめ!」
シヴァは吐き捨てると、大股で部屋を横切って扉を開けた。
「シヴァ様、どちらへ……?」
リリアが小さな声で訊ねる。
シヴァは肩越しに振り返り、
「エルザを閉じ込めていた部屋だ。沙良を最後に見たのはあの部屋なんだろう?」
そのまま、三人を無視して部屋を出て行く。
慌ててジェイルたちもシヴァを追いかけて、エルザを軟禁していた部屋へと入る。
部屋の中は、ゼノがあえて物を動かさないようにと指示を出していたので、沙良とエルザがいなくなったことに気がついた時のままだった。
テーブルの上にティーカップがおいてある。焼き菓子の乗った皿、鍵のかかった窓、からのスープ皿――
一見したところ、特におかしなところはどこにもない。
シヴァは部屋の中を歩き回ると、ふとソファの手前で足を止めた。体をかがめて、ソファの足の下に転がっていたものを拾い上げる。
それは、小さなガラスの小瓶だった。
「……これは?」
小瓶の蓋はなく、中身は空っぽだ。
ジェイルが近寄ってシヴァの手元を見、小さく首を振る。
「なんですかね。僕にはよくわかりませんが……」
シヴァはおもむろに小瓶を鼻に近づけると匂いを嗅ぎ、首をひねる。
「甘いにおいがするな。だが、砂糖や蜂蜜などの類じゃない……。花のようだが、香水でもない……」
「少し、見せていただけませんか?」
リリアはシヴァの手から小瓶を受け取ると、しばらくそれを見つめたのち、「やっぱり」とつぶやいた。
「シヴァ様、これ、バードの屋敷にあったものを似ています。彼はこういう小瓶を何個か持っていて、本棚に並べていましたから……。入っているのは薬だって聞いたことがあります。詳しいことは知りませんけど……」
「バードか……」
シヴァはリリアの手から小瓶と取り戻すと、中を見やって息をついた。
「微かに中身が残っている。先に、この中に入ったものが何だったのかを調べた方がいいな。ジェイル、お前はもうしばらくこの近辺を捜索しろ」
「はい」
シヴァは夜の闇に覆われている窓の外を見やって、ぐっと小瓶を握りしめた。
「……沙良」
半日とはいえ、沙良を一人にするのではなかった。
(沙良に何かあったら……、許さないからな、エルザ)
そんなシヴァを嘲笑うかのように、遠くから梟の鳴き声が聞こえてきた――
☆
沙良は出されたハーブティに口をつけながら、困惑したように視線を上げた。
目の前には難しい顔をした青年と、思いつめたような表情のエルザが座っている。
青年はバードと名乗ったが、彼もエルザも説明らしい説明をしてくれないので、沙良は状況がわかるまでおとなしくしておくことにした。
昼前――
離宮に軟禁されていたエルザの部屋にポタージュを持っていくと、彼女にそのままお茶に誘われた。
他愛ない話をしながらお茶を飲んだことまでは覚えている。
だが、沙良の記憶は途中で途絶え、気がついた時にはバードの屋敷の前だった。
そのまま半ば強引に引きずられるようにしてこの部屋まで連れてこられたというわけだ。
部屋の中には気まずい沈黙が落ちており、沙良は使用人がおいて行った茶菓子に手を伸ばすふりをしながら、バードとエルザの顔を盗み見る。
(バードさんは、エルザさんの恋人で、リリアさんの元恋人。でも、エルザさんが隣にいるのに、にこりともしないし、おかえりも言わないのは……どうして?)
シヴァはめったに笑わないが、それでも沙良が隣にいるときは表情を和らげてくれる。アスヴィルもミリアムア隣にいるときはとても嬉しそうだった。それなのに、バードは厳しい顔をしたままだ。
エルザもだ。恋人のバードがいるのに、表情が硬い。
「エルザ、あれを使ったの……?」
長い沈黙の末、バードがため息交じりに口を開いた。
エルザはティーカップをおいて頷いた。
「はい」
エルザはちらりと沙良を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……睡眠薬とあの薬を使って、この子を連れ出しました」
なるほど、途中から記憶がないのは、睡眠薬で眠らされたからのようだ。
(あの薬……?)
沙良は「あの薬」が何なのかが気になったが、状況が呑み込めない中で迂闊に口を開くのはよくないと思い、黙っておく。
バードは難しい顔のまま額に手を当てた。
「……君の説明によると、この子はシヴァ様の妃じゃないのかな?」
妃。言われ慣れない単語に沙良はびっくりすると同時に照れてしまい、もじもじとティーカップの持ち手をいじった。
「そのようです」
「シヴァ様の妃を誘拐してきて、……どうなるか、わかってるのか」
「それは……。でも、杭も取り上げられて、こうするしかなかったんです。沙良と引き換えにジェイルをおびき寄せられれば……」
「あの杭は一つしかない。もう一つ同じものを作るには時間がかかるよ」
エルザはきゅっと唇をかんだ。
沙良はマドレーヌを咀嚼しながら、変な二人だなと思った。少なくとも、エルザとバードが恋人同士には見えない。
エルザがシヴァに取り上げられた杭も、どうやらただの木製の杭ではなさそうだ。
(心臓がほしいって言ってたけど……)
ジェイルの心臓をほしがるエルザに、バードが協力しているのだろうか。
そうまでしてほしがるジェイルの心臓に、どれほどの価値があるのだろう。
沙良は今度はココア風味のバターケーキに手を伸ばした。昼食を食べ損ねたためお腹がすいているのだ。
部屋の窓から見える外の景色は、闇に覆われていてはっきりと見えない。
もしかしたら夕食の時間かもしれないが、食事が運ばれてくる雰囲気はない。
(……シヴァ様、帰ってきたかな)
シヴァの顔を思い浮かべて、沙良は途端に淋しくなった。
シヴァのことだ、きっと沙良を探しに来てくれると思うが、もしこのまま会えなかったらという不安も頭の中をよぎる。
(チョコチップクッキー……、ないな)
バターケーキを飲み込んだ沙良は、テーブルの上の茶菓子の中にシヴァの好きなチョコチップクッキーがないことに淋しさを覚える。
(シヴァ様……)
次に口に入れたカヌレは、何の味もしなかった。




