沈黙のエルザ
エルザを地下牢に閉じ込めるという案はジェイルの猛反対により却下され、彼女は離宮の二階の空き部屋に軟禁されることになった。
沙良は今、リリアとともにエルザが軟禁されている部屋の中にいる。
ゼノが用意してくれた紅茶とクッキーの山が、部屋のテーブルの上におかれていた。
「エルザさん、今朝、朝ごはん食べなかったそうですけど、クッキーなら食べられますか?」
沙良が言えば、エルザはちらりとクッキーに視線を投げて、ぷいっとそっぽを向いた。
「いらないわ」
「エルザ、少しは食べないとだめよ」
リリアも心配そうに言うが、エルザは首を横に振る。
「ほしくないもの」
エルザの表情は疲労の色が見て取れた。
そこへ、サンドイッチの乗った皿を持って、ジェイルがやってきた。
「エルザ、君の好きなベリーサンドだけど、食べられる?」
ジェイルもエルザが朝食をとらなかったと聞いて心配したらしい。
木の杭はシヴァによって取り上げられているので、エルザは何もできない。ジェイルがそばによっても睨みつけるだけで、座ったまま動かなかった。
どうしてジェイルの心臓を狙っていたのか、エルザは頑として口を割らなかったため、結局のところ、何も状況は解明できていない。
シヴァはエルザを捕まえることには協力したが、彼女を自白させるのに協力する気はないらしい。ジェイルもシヴァにやらせればどんな手段を使うかわかったものではないので、彼が手を出してこないことには内心ほっとしていた。
どうやらあの魔王は、沙良にさえ危害を加えなければいいようだ。
あの偏屈で堅物で、他人に対して関心も持たなければ、愛だの恋だのに完全に無頓着な魔王シヴァに、妻とはいえ、ここまで大事にされている沙良に少し興味が出てくるが、沙良をかまえばシヴァが怒るので、ジェイルはその興味を胸の内にしまい込むことにした。
そもそも、妻というか、愛娘と父親くらいの関係のような気がしているが、それを言えばもっと怒りそうなので、これも口には出さない。
「放っておいて」
エルザは疲れたように言い、ソファから立ち上げるとベッドの中にもぐりこんだ。
沙良はリリアと顔を見合わせ、困ったように眉を下げる。
「エルザ……」
ジェイルはベリーサンドを机の上におくと、ベッドの端に腰かけてエルザの顔を覗き込んだ。
「ねえエルザ、いい加減機嫌を直してくれないか。まだあのことを怒っているんだろう? 前も言ったけど、あれは誤解なんだよ」
「知らないわ」
エルザはそう言うとジェイルの視線から逃れるように横を向いた。
「エルザ、あなたどうしたの? あんなにジェイルと仲が良かったのに……。最近はバードの屋敷にいるみたいだし。何があったの?」
リリアも心配そうにエルザに近寄れば、彼女は視線を上げてリリアを見、薄く笑う。
「何があったの、ね。滑稽なことを聞くのね。わたしがバード様の屋敷にいる理由なんて、考えなくてもわかるでしょうに」
「え?」
エルザは軽く状態を起こすと、嗤笑を浮かべてリリアとジェイルを交互に見た。
「わたしはジェイルを捨てて、バード様と生きていくことにしたの。バード様もリリア、あなたを捨ててわたしを選んでくれたわ」
エルザの言葉に、リリアは目に見えて真っ青になった。
ふらりとよろけたリリアを見て、沙良が慌てて彼女の背中を支えに行く。
「嘘よ……」
リリアが茫然とつぶやいたが、エルザは再びベッドに横になり、ふいっとそっぽを向いた。
「あなたに、傷つく資格なんてないわ」
そうして、エルザは頭から布団をかぶってしまう。
沙良は微かに震えているリリアを支えながら、彼女をソファまで移動させるのを手伝ってもらおうとジェイルを見た。
だが――
「ジェイル、さん?」
ジェイルは目を開いたまま気を失っていた。
☆
「ジェイルさんの言った、あのことってなんでしょうか?」
「あのこと?」
シヴァは沙良の話を聞きながら首を傾げた。
沙良は、シヴァと二人で温泉に入っていた。
もちろん、裸のお付き合いではない。ゼノから手に入れた水着を着こんで、である。シヴァにも絶対に腰にタオルを巻いておくように念を押し、沙良は安心して温泉につかっていた。
「あのことは、誤解なんだって言ってました」
「ふむ。おおかた、あの馬鹿が何かをやらかしたんだろうが……。なるほど、あいつが語りたがらない喧嘩は、どうやらその、あのこと、が原因らしいな」
「やっぱりそうですよねー」
沙良は「あのこと」が気になって仕方がなかった。だが、ジェイルにそれとなく問いただしたくても、彼は今「ジェイルを捨ててバードを選んだ」というエルザの発言に多大なるダメージを受け、意識を飛ばして寝込んでいる。
リリアも気分が悪いと部屋に引きこもったきりだ。
「なんだかいろいろ複雑でよくわからなくなりました。リリアさんとバードさんが恋人同士で、エルザさんとジェイルさんも恋人同士? でも今はエルザさんとバードさんが恋人同士……? でも、エルザさんはあんまり幸せそうな顔をしていませんでしたよ」
沙良は温泉の淵に頭をのせて、難しい顔をして天井を見上げた。
「当人たちのことは、当人たちにしかわからない。あまり深入りはするな」
「はい……」
沙良は頷いたが、まだ納得ができなかった。恋人が去っていったジェイルとリリアが悲しそうなのはわかるが、バードと幸せのはずのエルザの表情も、今日見た限りでは悲しそうだった。
好きな人と一緒にいられたら、幸せなはずだ。
沙良の知る限り、ミリアムとアスヴィルは幸せそうである。
沙良はちらりとシヴァの顔を見上げた。
(わたしも、シヴァ様のそばにいると嬉しい……)
正直なところ沙良はシヴァに対する「好き」がよくわからない。シヴァのことは好きだが、ミリアムがアスヴィルを好きな「好き」と沙良がシヴァを好きな「好き」が同じ種類のものなのか、判別がついていなかった。
けれども、沙良はシヴァのそばにいると安心できるし、嬉しいと思う。
だから、バードが好きなら、エルザも幸せな顔をしているべきだと沙良は思うのだ。
「どうした?」
沙良がじっとシヴァを見つめていると、シヴァが怪訝そうな顔をする。
沙良は小さく首を振ると、「なんでもないです」と言って肩まで温泉に沈み込んだ。
そのあとはしばらく、二人とも無言で湯につかっていたが、ふとシヴァが思い出したように口を開いた。
「沙良、言い忘れていた。明日の午後、俺は一時的に城に戻る。夜には帰るが、いい子にしていろよ」
「わかりました。お仕事ですか?」
「ああ、決裁書類を片付けに行くだけだが」
シヴァは面倒そうにな顔をしてため息をついた。
「セリウスに押し付けられるなら押し付けてやりたいが、あの馬鹿に任せるとろくなことをしないだろうからな……」
「大変ですね……」
「くれぐれも危ないことはするなよ」
「危ないこと?」
「離宮の外に出て森の中に入ったり、高いところに上ったり、火を触ったり……、ああ、それからジェイルと二人きりにもなるな」
「わかりました……?」
(シヴァ様って、心配症……?)
小さい子供じゃないのにな、と心の中で少しあきれながら、沙良はこくりと頷いた。
シヴァは沙良の答えに満足そうな顔をすると、ほめるように沙良の頭を撫でる。
シヴァに頭を撫でられるのは好きなのでされるがままになっていた沙良は、ふと、物音が聞こえた気がして振り返った。
「シヴァ様、今何か音が―――」
音がした、と言いかけた沙良だが、その前に温泉と脱衣所をつなぐガラス戸が開いて、言いかけた言葉を呑みこんだ。
「―――」
時間が止まったように沙良の表情が凍りつく。
緩慢な動作でシヴァが背後を振り返ったのと、ガラス戸を開けた犯人が「あ……」とつぶやくのはほぼ同時だった。
そして――
「きゃああああああああっ」
ハッと我に返った沙良が悲鳴を上げてザバン! と湯の中に頭まで沈み込むのと、近くにあった木桶をシヴァがつかむのも、これまたほぼ同時で。
「ジェイル!」
ガラス戸を開けた犯人――温泉に入りに来たジェイルは、シヴァに容赦なく木桶を投げつけたられたのだった。
☆
次の日――
昨日、エルザが一切食事に手をつけなかったという話をゼノから聞いて、沙良はポタージュの入ったスープ皿を持ってエルザが閉じ込められている部屋を訪れた。
部屋の扉を叩いても返事がなかったので声をかけながら勝手に部屋に入り込むと、彼女はベッドに横になって、頭から布団をかぶっていた。
ゼノによれば、さっきまでジェイルがエルザの部屋にいたらしいのだが、彼女に追い出されたらしい。
エルザさん、と沙良が声をかけると、エルザが布団から小さく顔を出した。
「何の用よ」
「ポタージュを持ってきたんです。ジャガイモの冷たいポタージュなんですけど、とっても美味しいんですよ!」
エルザはそれには何も答えず、じっと沙良の顔を凝視すると、のそのそとベッドの上に上体を起こした。
「あんただけ?」
「え?」
「ジェイルとかリリアとか、一緒じゃないのかって訊いてるの」
「あ、はい。今は、わたし一人です」
「部屋の外にもいない?」
「メイドさんが控えているだけですよ」
「そう……」
エルザは小さくうなずいて、ようやくベッドから抜け出した。
沙良がテーブルの上にスープ皿をおくと、ソファに座ったエルザはしばらくそれを見つめていたが、小さく息をつくとスプーンを手に取った。
「いただくわ。べつに、餓死したいわけじゃないもの」
パっと沙良は顔を輝かせた。
「はい。おかわりがほしかったら言ってくださいね。持ってきます」
にこにこと嬉しそうな沙良に、エルザは口の端を少しだけ持ち上げた。
「あんた、変な子ね。わたしに親切にしても、あんたには何のメリットもないでしょうに」
沙良はエルザの前のソファに腰を下ろして首をひねった。
「メリットってよくわかんないです。あんまりそういうことを考えて生きてこなかったんで。ただ、閉じ込められていると気分が塞いじゃうから、せめてご飯は食べないと」
「……ほんと、変な子」
エルザは苦笑を浮かべるとスープを一口、口に運ぶ。
「美味しいわね」
「そうでしょう? 今日の朝ご飯で食べて美味しかったから、食べてみてほしかったんですー」
エルザはスープを飲みながら沙良の顔をじっと見つめて、スープを半分ほど飲み終えたところで手を止めた。
「……シヴァ様が、やたらあんたに過保護な気がしたけど、なんか、わかった気がするわ」
沙良はパチパチと目を瞬いた。
「あんたって、目を離してると危なそうだもの。小さいころに知らない人からお菓子をもらっちゃいけません、とか言われなかった? ああ、与えてるのはあんただけど」
「えっと……、ごめんなさい、よくわかりません」
小さい頃から人とほとんど接することのなかった沙良には、エルザの言うことがよくわからない。そんな助言は受けたことがなかった。
「つまり、あんまり簡単に人を信じちゃだめよってこと」
エルザはスープを飲み干すと、空いた皿をテーブルの隅においた。
「それはそうと、シヴァ様はどうしたの? あんたみたいな警戒心のない子を一人にしておくとは思えないけど」
「シヴァ様は夜までお城に帰ってますよ。お仕事だそうです」
「そう……。ここに一人で来ちゃダメって言われなかったの?」
沙良は少し考えて、首を横に振った。
「森に入っちゃダメ、火を触っちゃダメ、高いところに上っちゃダメ、あと、ジェイルさんに近づいちゃダメって言われましたけど、エルザさんに会っちゃダメとは言われませんでしたよ」
エルザはそれを聞いて唖然とした。
「……本当に過保護ね。信じられないわ。あのシヴァ様が……」
それから考えこむように視線を落とす。ややして顔を上げると、
「ねえ、メイドに紅茶を用意してもらってくれる? 少し話し相手になってほしいわ」
そう言って、エルザはにっこりと微笑んだ。