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旦那様は魔王様!  作者: 狭山ひびき
離宮の夜は大混乱⁉
16/82

温泉はドキドキです!

 そこは、ひんやりと冷たく、じめじめとした部屋だった。


 隙間風がヒューヒューと女の悲鳴のような音を立てている。

 彼は、こちらへ向かってくる足音を聞き、薄く目を開いた。

 キィという音がして部屋の木戸が開く。

 無断で彼の部屋に入り込んだ男は、彼を見てあきれたように言った。


「相変わらずだな、お前は……」


 彼は薄く開いた眼で男を見た。


 ――その両目は、血のように真っ赤な色をしていた。




     ☆




 温泉。


 その響きに、沙良は瞳を輝かせた。

 なぜなら、沙良は温泉に入るのは生まれてはじめてなのだ。


(温泉! 洋館っぽいのに、温泉! すてきです!)


 沙良は着替えを持って、案内してくれるというゼノのうしろについて行った。

 古びた洋館のような離宮に、お化けが出そうで怖いと思っていたことは、すっかりと頭から抜け落ちた。今は目の前の「温泉」という楽しみでいっぱいだ。

 ゼノに案内されるままに離宮の一階の西の端に到着した沙良は、扉をくぐって感動した。

 脱衣所を兼ねた部屋の奥のガラス戸をくぐれば、そこは全面ガラス張りの部屋で、中は露天風呂のような作りになっていた。

 大きな岩を積み重ねて作られた、丸くて広い温泉の端には、高いところから落ちる、細い滝のようなかけ流しの湯がある。

 硝子戸の外に見えるのは鬱蒼とした森だが、ゼノ曰く、外からは中の様子が一切見えない作りになっているらしい。


「すごいです……!」

「お気に召していただけたのならよかったです。服は先ほどの部屋でお脱ぎになって、どうぞおくつろぎください」

「ありがとうございます!」


 ゼノが一礼して出ていくと、沙良はさっそく服を脱いで温泉の中に入った。

 やや熱めだが熱すぎるということはない、とろりとした乳白色のお湯だ。


(気持ちいい!)


 沙良は温泉の中で大きく伸びをした。

 離宮に来て早々、その不気味な様子に早くも城に帰りたいと思っていた沙良だが、この温泉のおかげで離宮の印象ががらりと変わった。この温泉があるなら、もう少しいてもいい。

 かけ流しの小さな滝があるからか、湯に波が立っているのも面白い。


「お城にも温泉、あればいいのになー」


 すっかり温泉が気に入った沙良が、ぽつんとつぶやいた時だった。

 背後から聞こえてきた微かな物音に気づいて沙良が振り返ったのと、入り口のガラス戸が開いたのはほぼ同時であった。


「―――え?」


 沙良は目を見開いで硬直した。

 そこにはシヴァが立っていた。しかも――裸だ。


「き、きゃああああああっ!」


 一時停止していた脳の回路が状況把握をした瞬間、沙良は悲鳴を上げて温泉の中に頭から潜った。

 ザバン、と湯があふれる。


「沙良!?」


 シヴァが驚いた声を上げて、湯の中に手を入れた。

 しかし、シヴァが温泉から沙良を引きずり出そうとするが、沙良はパニック状態でバタバタと暴れる。


「いや! だめです! はだか! はだかぁ!」


 沙良はシヴァの腕から逃れると、温泉の中で膝を抱えて丸くなり、ぷるぷると震えた。


「な、なんでシヴァ様がここにいるんですかぁ……」


 シヴァの方を見ないようにぎゅっと目を閉じて訴える。


「何故って、あとから行くと言っただろう」


 ――俺は少し用事があるから、あとから行く。


 言われてみれば、シヴァはそんなことを言っていた。

 だが、まさか混浴だとは思っていないので、沙良が温泉に入っているところへ、裸のシヴァが後からやってくるとは想像だにしていない。

 シヴァは沙良が裸でも混浴でも全く気にならないのか、当然のような顔をして温泉に入ってきた。近くにシヴァの気配を感じて、沙良はますます瞼に力を入れる。


「シヴァ様こっち見ちゃダメですからね!」

「風呂が白いんだ、はっきりと見えやしないから、そう硬くなるな」

「それでも恥ずかしいんです!」

「……以前、透けた夜着を着ていなかっ……」

「それを思い出したらダメなんですーっ!」


 沙良はパッと顔を上げて、シヴァの裸の鎖骨が視界に入ると、ボッと顔を真っ赤に染めた。


「いやぁ……」


 沙良は両手で顔を覆った。


(混浴なんて聞いてないですー)


 シヴァもシヴァだ。「入っていいか」の一言もなかった。もちろん、訊かれても「だめです!」以外の答えはなかったが。

 沙良や顔を覆っている指の隙間からチラリとシヴァに視線を投げた。

 シヴァの長めの黒髪の毛先から水滴が滴って、肌を伝って流れていく。緊張して丸まっている沙良とは違い、シヴァは片腕を岩の上に投げだして、ずいぶんとくつろいだ様子だった。

 せめてもう少し距離を取ってくれたら沙良も落ち着いて入浴できるのだが、今、沙良とシヴァの間は人一人分の距離もない。少し動けば腕が当たるだろう。

 沙良は顔を覆っていた手を下ろすと、再び膝を抱えて丸まった。

 緊張は解けないが、じっとしていると徐々に脈拍が落ち着いてくる。

 沙良が少し落ち着いてきたことに気づいたのか、シヴァが小さく笑った。


「温泉は気に入ったか?」


 沙良は小さく頷いた。


「……はい」

「ここにいる間は好きな時に使っていいぞ」


 沙良は少し顔を上げた。


「どうして温泉があるんですか?」

「ああ、ここは昔、俺の親父が作らせたんだ。地下に水脈が通っていて、試しに掘ったら湯が湧いたらしく、そのままこうして温泉にしたらしい」

「へぇー」


 シヴァが父親のことを話すのははじめてで、沙良は少し興味を持った。


「お父さん、今はどうされてるんですか?」

「隠居して田舎に引っ込んでいる」

「お父さんも魔王様だったんですか?」

「元、な」

「シヴァ様に似てますか?」

「いや、俺よりも見た目はセリウスの方に近いと思うぞ」

「セリウス様ですか」


 沙良はシヴァの弟だというセリウスの顔を思い浮かべた。青みがかった銀髪の、華やかな顔立ちの青年だ。シヴァもとても整った顔立ちだが、シヴァとは真反対の印象を受ける。


「セリウス様、面白い人でしたねー」


 人懐っこくて、いろいろぶっ飛んでいて、ちょっと変な人――、沙良がセリウスに抱いた印象はこんな感じだ。

 沙良がシヴァの父親に似ているというセリウスの顔を思い出していると、シヴァがムッとしたように眉を寄せた。


「なんだ、セリウスが気に入ったのか」

「え? 気に入った、というか……、優しい人でしたね」


 シヴァはますますムッとした。


「あれのどこが優しいんだ。傍迷惑なだけだろう」

「そうなんですか?」


 沙良はどうしてシヴァが不機嫌なのかわからずに、目をぱちぱちさせた。


「そうだ。あれに安易に近づくな」

「わかりました……?」


 沙良からセリウスに近づいた覚えはないが、ここは頷いておいた方が賢明そうだ。

 沙良が素直に首を縦に振ると、シヴァの機嫌は直ったようだった。

 そのあとはほぼ無言で二人して温泉を楽しんでいたのだが、ややして、沙良の頭が徐々にぼーっとしはじめた。

 のぼせそうだな、と感じた沙良は、ちらっとシヴァを見る。


「あのぅ……、わたし、そろそろ上がります」

「そうか」

「……」


 返事はされたが、それだけだった。

 湯から上がりたいが、このまま立ち上がったらすべて見えてしまう。

 せめて背を向けてくれるとありがたいのだが、シヴァは沙良の気持には気づいてくれない。


「あのー、シヴァ様、うしろを……」


 向いてください、と言いかけた沙良は、ふと視界の端に何かの影を捕えて、途中で言葉を呑んだ。


(ん……?)


 この温泉には、沙良とシヴァしかいない。

 沙良はふとガラス張りの壁に視線を投げ――、くわっと目を見開いた。

 ガラスの壁の外に、何やら真っ白い影が――


「き、きやあああああああ!」


 沙良は絶叫した。




     ☆




 額にひんやりとした感触を覚えて、沙良はゆっくりと瞼を開けた。

 視界にまず飛び込んできたのは高い天井だ。沙良は視線を巡らせて、どうやら自分は部屋でベッドに横になっているらしいと判断した。


「気がついたか?」


 すぐ近くで話しかけられて、沙良は横を向く。広いベッドの端に腰掛けたシヴァが心配そうに沙良の顔を覗き込んでいた。


「シヴァ様……?」


 状況がよく呑み込めずに、沙良は首を傾げる。


「急に悲鳴を上げて気を失ったんだ。覚えていないのか?」


 シヴァから説明を受けて、沙良はハッとした。

 そうだ。温泉に入っていた時、ガラス張りの壁に白い影を見たのだ。それは、人影のように見えた。


(お化け……)


 沙良の目には、真っ白なワンピースを着た女性の幽霊のように映ったのだ。何かが出そうだと思っていたから見た幻なのかもしれないが――


「シヴァ様、温泉に入っていた時、ガラスの壁の向こうに、何か見えました……?」

「何か?」

「例えば人影とか……」

「外は少し行けば崖だぞ。そんなところを誰かがうろつくはずないだろう」

 つまり、シヴァは何も見ていないということだ。


(やっぱり、お化け……!)


 沙良の顔から血の気が引いた。

 シヴァはぷるぷると震えはじめた沙良を見て怪訝そうな顔をする。


「どうかしたのか?」

「シヴァ様、ここ、ここにはお化けが出るんでしょうか?」

「出るはずないだろう」

「だって……」

「気絶した時、頭でも打ったのか……?」


 シヴァは手を伸ばすと、たんこぶを探すように沙良の頭をぐるりと撫でた。


「こぶは、ないな」

「頭なんて打ってません。……たぶん」


 気絶していたから定かではないが、痛みはないからおそらく打ってはいないはずだ。

 沙良はゆっくり上半身を起こすと、真剣な顔でシヴァに言った。


「わたし、お化けを見たんです!」

「……」


 シヴァは無言でもう一度沙良の頭を撫でた。


「いくら探しても、たんこぶなんてありませんってば!」

「では、夢でも見たのか?」

「夢……」


 夢、と言われて沙良は考えた。夢ではないと思うが、言われると自信はない。

 温泉からこの部屋までの記憶もないし、気絶しているときに見た夢だと言われればそれまでだ。


(確かに、あと少しでのぼせそうだったし……)


 そこまで考えて、沙良はあることに気がついた。

 自分の格好を見下ろして、きちんと服を着ていることを改めて確かめる。


(わたし、裸だったのに……)


 湯に入っていたのだから、当然裸だった。

 沙良はごくりと唾を飲み込み、今にも消え入りそうなほどの小声で訊ねた。


「……シヴァ様。わたしが温泉で気絶した後、ここまで、シヴァ様が運んでくれたんですか?」

「そうだが」


 あっさりと首肯されて、沙良は息を呑んだ。

 青かった沙良の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。

 裸の沙良をシヴァがここまで運んだということは――


(見られた……! 全部、見られた……!)


 沙良は泣きそうになった。

 シヴァは、青くなったり赤くなったり、怯えてみたり、瞳を潤ませてみたりと、百面相をしている沙良を見て、やはりどこか打ったのではないかと心配になったらしい。

 そのあと、沙良は念入りにシヴァに頭を撫でられ、たんこぶがないかの再検査をされるはめになったのだった。




     ☆




「お化け、でございますか?」


 夕食後。

 用事があると言ってシヴァが部屋を出て行くと、部屋に一人取り残されるのが怖かった沙良は、シヴァの寝酒を持ってやって来たゼノを話し相手として捕まえた。

 ゼノは沙良のためにカモミールティーを煎れてくれている。

 沙良がお風呂で白いお化けを見たと言うと、ゼノは琥珀色の目を丸くした。


「残念ながら、長らくこの離宮の管理をしておりますが、お化けに出会ったことはございませんねぇ」


 沙良にカモミールティーを差し出して、ゼノは沙良の真向かいのソファに腰を下ろす。

 沙良が両手でカップを持って、フーフーと息を吹きかけてお茶の温度を冷ましている様子を微笑まげに眺めながら、


「温泉で見られた白い影は、もしかしたら、鳥か何かを見間違えられたのでは?」

「鳥……」


 鳥にしては大きかったと思うが、シヴァに引き続きゼノにまで否定されると、一気に自信がなくなってくる。

 お化けが本当にいたら怖いので、いないならそれに越したことはないのだが、温泉で見たあの白い影が何なのかが引っかかってもやもやした。

 難しい顔をして考え込んでしまった沙良を見て、ゼノは話題を変えた。


「それはそうと、温泉はいかがでしたか?」


 沙良はパッと表情を明るくした。


「すごく気持ちよかったです!」

「それはようございました」

「でも……」

「でも?」

「……混浴なのは、聞いてなかったです」


 眉をハの字にして困った顔をした沙良に、ゼノはくっと吹き出した。


「おやおや」

「シヴァ様がいきなり入ってきて、びっくりしました」

「仲がよろしいことで、いいではありませんか」

「よくないですー」


 沙良は頬を膨らませた。


「シヴァ様も、黙って入ってくるのはひどいと思います! 一緒にお風呂は恥ずかしいです。そのあとだって……」


 沙良が気絶したのが悪いのかもしれないが、裸を見られたのは恥ずかしすぎる。

 赤くなってぷりぷり怒りはじめた沙良を、ゼノはまるで孫娘を見るような優しい目つきで見つめた。


「シヴァ様は女性の心の機微に疎いところがございますからねぇ」

「そうなんです!」


 予期せぬ同意が得られて、沙良は俄然勢いづいた。


「シヴァ様ったら、ひどいんですよ! この前だって、ミリー……ミリアムにちょっとした悪戯をされて、ちょっと大変な服を着せられたんですけど、シヴァ様ったら、逃げたかったのに無理やり捕まえるし。離してくれないし! 数日前だって、いきなり部屋の外から出るなーって言いだすし!」

「おやおやおや」


 ゼノは楽しそうにくすくすと笑う。


「シヴァ様は優しいけど、たまにちょっと意地悪なんです!」


 沙良が胸の前で拳を握りしめてそう締めくくると、ゼノは笑いながら沙良のためにカモミールティーのおかわりを煎れはじめた。

 そうして、沙良のティーカップにカモミールティーを注ぎながら、カモミールの香りのように優しい声で言う。


「シヴァ様の奥方と聞いて、どんな方かと思いましたが、安心しました」

「え?」


 今の話のどこに安心させる要素があったのだろうか。

 首をひねる沙良に、ゼノは小さく頭を下げた。


「シヴァ様を、よろしくお願いいたしますね」


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