魔王様が変なのです
シヴァはこの日、久しぶりに夢を見た。
それは、沙良が産まれる少し前のことだった――
シヴァは、ふと、遠くから誰かが呼ぶ声を聞いた。
その声は小さく、今にも消えてなくなりそうなほど弱かった。
だが、その声にこもっていた感情だけは何よりも強かった。
魔王になって長らくたつが、シヴァの心をここまで動かす声に出会ったのははじめてだった。
――助けて、とその声は言った。
お母さんを、助けて、と。
その声は、まだ生まれる前の胎児のものだった。
自分の命の灯も消えてなくなりそうな状況で、胎児が救いを求めたのは自分ではなく母親の命だった。
その時シヴァの胸に沸き起こった感情を、何と呼べばいいのか――
シヴァは、助けたいと思った。
胎児が求める母親の命ではなく、胎児そのものを。
そのためには、胎児が望むようにその母親も救う必要がある。
シヴァは地上に降りて、胎児の両親の前に立った。
母親は血だらけで、生きていることが不思議なほどの状態だった。おそらく、このまま放置すれば、あと十分も持たないだろう。
シヴァはある交換条件と引き換えに母親の命を救った。もちろん胎児もだ。
驚愕にひきつる胎児の両親に背を向け、その場を去ろうとしたとき――
――ありがとう。
シヴァの耳に胎児の声が届いた。
シヴァは薄く笑い、姿の見えない胎児に答えた。
――お前が大きくなったら、迎えに行く。
なぜその声に惹かれたのかと問われれば、シヴァはわからないと答えるだろう。
シヴァに理由はわからないのだ。感情に突き動かされるまま、動いただけだった。
ただ、一つだけ言えることは――
淡く、儚く、不確かだったが強烈なその感情に名前をつけるならば、それは初恋と呼べるのだろう。
シヴァは、沙良の魂そのものに恋をした。
もちろん沙良は、覚えていないことであろうが――
☆
最近、シヴァの様子が変だ。
沙良はソファの上でクッションを抱えて考え込んでいた。
目の前にはアスヴィルお手製のマドレーヌと、ミリー、もといミリアムが煎れてくれた温かい蜂蜜入りの紅茶があるが、沙良はそれには一口も口をつけないで難しい顔をしている。
「どうしたんですかぁ?」
沙良の真向かいに座っているミリー――いろいろややこしいので、ミリアムが子供の姿をしているときは沙良はミリーと呼ぶことにしている――が、不思議そうな顔をした。
ミリーが実はミリアムだったという衝撃の事実は先週判明したばかりだが、どうやらミリアムは子供の姿になることを気に入ったらしく、相変わらずこの姿で沙良の世話を焼いている。
最初は戸惑った沙良だが、ミリーに「この姿のときは今まで通りミリーとして接して下さねぇ」と言われて、今では沙良の脳内でミリアムとミリーは別人のように処理されていた。
アスヴィル曰く、ミリーはミリアムの子供のころの姿のそのものだそうだが、どうもこの姿のときの方が、性格が破天荒で過激でにぎやからしい。
この前ミリアムの姿で沙良とティータイムをすごした彼女は「子供の姿になると、ついはしゃいじゃうのよね~」と言っていた。
沙良は抱えていたクッションを脇にやって、ずいっと身を乗り出した。
「ミリー、最近、シヴァ様が変なんです!」
ミリーは紅茶を飲みながらケロリと答えた。
「お兄様が変なのはいつものことじゃないですかぁ」
ミリーはわざとらしく眉間にしわを寄せて、その眉間を指さした。
「いっつもこーんなに難しい顔して、生きてて何が楽しいのかさっぱりわかりませんよ。毎日毎日、仕事してるかお茶してるかで、決まったルーティーンばっかりで、それで生きていられるんですから、元からの変人ですよ、あれはぁ」
実の兄に対して、ずいぶんと悪しざまに言うものだ。
だが、沙良が言いたいのはそういうことではない。
「いえ、そういう変じゃなくて……。あ、シヴァ様がいつも変とか、思ってませんよ! だから……」
「無理やりフォローしなくていいんですよぉ。あんな変人の嫁にされて、沙良ちゃんもかわいそうですぅ」
ミリーはマドレーヌに手を伸ばして幸せそうに頬張った。
「ん~、相変わらず顔は厳ついですけど、うちの旦那はいい仕事しますねぇ」
ミリアムの夫がアスヴィルであると言う事実も、沙良はこの前知って仰天したばかりであるが、その厳つい顔をしたアスヴィルが舌もとろけそうなお菓子を作ることは、沙良の中の不思議の一つである。
せっかくだから、七つ不思議を探してみようと、ひそかに沙良が考えていることはみんなには内緒だ。
ミリーはマドレーヌをモグモグと咀嚼して、「それで?」と訊ねた。
「あの変人お兄様が、最近もっと変になったんですか?」
沙良は一つ頷いて、三日前のことを思い出した。
☆
沙良はアスヴィルの部屋でシヴァの好物であるチョコチップクッキーを焼かせてもらい、それを抱えて彼の部屋を訪れていた。
こんこん、とノックをすると、「誰だ」と誰何される。
「沙良です」
答えると、ややして部屋の扉が開いてシヴァに招き入れられた。
どうぞ、とクッキーを差し出すと、当然のようにソファをすすめられ、パチンとシヴァが指を鳴らす。
テーブルの上にティーカップが二セット登場すると、シヴァは沙良から渡された包みを開いてクッキーを一枚手に取った。
数日に一度、沙良がクッキーを差し入れに来ると、シヴァは必ずこうして迎えてくれる。
だが、今日はいつもとシヴァの様子が違った。
クッキーを食べてくれるのも、こうして紅茶を用意してくれるのもいつもと同じだが、シヴァのその表情が苦悶に満ちている。というより不機嫌だ。
眉間に深い皺を刻んだまま、もくもくとクッキーを食べている魔王様を、沙良は不思議そうに見上げた。
「どうかしたんですか?」
訊ねると、シヴァは手を伸ばして、不機嫌そうな表情のまま沙良の頭をぽんぽんと撫でた。
「いや……、お前が気にする必要はない」
「そうですか?」
沙良は素直に頷いたが、シヴァのことが心配だった。きっと何かあったのだ。
けれど、きっとそれは沙良が聞いたところでよくわからないことなのだろうから、あまりしつこく訊ねないほうがいいのだろう。
そう思いながら、持ってきたチョコチップクッキーが次々とシヴァの胃に収まっていくのを見つめていると、コンコンと扉をたたく音がした。
シヴァは顔を上げて、不機嫌な声で誰何する。
「なんだ」
「お手紙が届いております。至急とのことです」
シヴァは小さく嘆息してソファから立ち上がった。
部屋の扉を開けて、従者だろう男から一通の手紙を受け取ると、開封しながらソファに戻ってくる。
沙良の隣で手紙の文面に目を走らせたシヴァは、ぐっと顔をしかめた。
「沙良―――」
シヴァは手紙をぐしゃりと握りつぶし、言った。
「これから、俺が許可するまでは、部屋から出ることを禁止する」
☆
「って言われたんですよ。どう思います?」
沙良は別に、部屋から出て歩き回りたいと思っているわけではないのだ。
そもそも、どこかに行くにしても、ミリーやアスヴィル、シヴァによって空間移動でポンポン飛ばされるので、自分の足で城の中を歩き回ったことはほとんどない。
しかし、部屋から出てはいけない、と言われると、何やら不吉な感じもするわけで――
あれ以来、シヴァとは顔を合わせていないが、シヴァの言い渡した禁止令が解かれる気配はどこにもない。
マドレーヌをもぐもぐと咀嚼しながら沙良が話せば、ミリーは手に持っていた三個目のマドレーヌをぽろっと取り落とした。
なぜだろう。目がキラキラしているような気がする。
ミリーは両手を祈るように組んで、こう宣った。
「軟禁!? 軟禁ですか!? すてきです! グッジョブですお兄様!! 好きな女の子を軟禁する! これは男のロマンですよ沙良ちゃんっ!」
「………」
沙良は悟った。相談する相手を間違えたのだ。
だが時すでに遅し。瞳に星を散りばめたかのようにキラキラさせたミリーは、なぜかポンッと音を立てて大人の――ミリアムの姿に戻った。
ソファから立ち上がると沙良の隣に移動して、沙良の両手をぎゅうっと握りしめる。
「魔王に閉じ込められた可憐な女の子! 素敵だわぁ! 知ってる沙良ちゃん? 魔王に閉じ込められた女の子はね、素敵な王子様に救われるのよぉ!」
沙良は少し顔を引きつらせた。
(あの……、そもそもわたし、その魔王様のお嫁さんらしいんですが……)
王子に救いに来られても困る。
だがテンションがマックス状態のミリアムは今にも踊りだしそうな声で。
「いやぁ~ん、アスヴィルにも教えてあげなきゃ! 軟禁! いい響きねぇ。これは、いろいろ楽しくなりそうな予感!!」
いろいろ思考回路がぶっ飛んでいるミリアムに、沙良はこっそりため息をついたのだった。
☆
「なんだか最近、様子がおかしいですね」
シヴァに、自身の所有する領地に関する報告書を渡しながら、アスヴィルはそう切り出した。
シヴァはアスヴィルから渡された報告書に目を通しながら、
「どこがだ?」
と、いつもと変わらない抑揚の欠いた声で答える。
しかし、シヴァと長年のつき合いであるアスヴィルは騙されなかった。
常に整然と整えられているシヴァの机の上が、いつもより散らかっている。
もっと言えば、ぐしゃぐしゃに握りつぶされた手紙らしきものが机の上においてある。握りつぶしたくせに破棄することができず、とりあえず机の端においている――そんな感じだ。
アスヴィルは無言で机の上の握りつぶされた手紙に視線を注いだ。
長年の勘で、シヴァの様子がおかしいのはその手紙が原因であろうと推測する。
「何かよくない知らせでも?」
シヴァはあきらめたように息を吐きだして、アスヴィルに握りつぶした手紙を差し出した。
アスヴィルは手紙のしわを伸ばし、ざっと文面をなぞり、この世の終わりを見たような顔をした。
「これはまた……」
「あの馬鹿が戻ってくる」
不機嫌を隠すことを諦めたシヴァが吐き捨てた。
「そうですか……。十年ぶりですかね?」
魔界に住む住民は長生きだ。十年前なんてついこの前のように感じる。だが、シヴァにとって本件については「ついこの前」ではなかったらしく。
「十年……、この十年平和だったのに。またうるさいのが戻ってくる……」
渋面を作り、チッと舌打ちしている。
よほどこの十年が安息の時だったのだろう。
だが、今回に関してはアスヴィルにも多分にシヴァの気持ちが分かった。なぜなら、シヴァの言った「あの馬鹿」が戻ってきた場合、アスヴィルも十分に被害を受けることが想定されるからだ。
「閉め出せないんですか」
真顔で言う友人に、シヴァはあきれた。
「お前もなかなか言うな……。それができるならとっくにやっている」
「それもそうですね」
アスヴィルは眉間にしわを刻んだ。
「ミリアムを部屋に閉じ込めなくては……」
アスヴィルの一言に、シヴァはぴたりと手を止めた。なぜならそれは、シヴァが沙良≪さら≫に対して行ったことと同じだったからだ。
(俺もおなじことをしたが、人の口から聞くと破壊力があるな……)
軟禁。監禁。嫌な単語が脳内に閃いて、シヴァは小さく頭を振った。
けれど、こればっかりは自分の判断は正しいはずだ。なぜなら「あの馬鹿」は会う前から沙良に興味を示している。
「最後に嫌なことが書いてありますね」
まさに今、アスヴィルが指摘したとおりだ。
そう、手紙の最後にはこう書いてあった。
追伸
愛とか恋とか無縁そうなあなたが選んだっていう花嫁とは、ぜひ仲良くさせていただきたいですね。絶対紹介してくださいね!
あ、そうそう、愛する僕のミリアムにも一言お伝えください。今度こそ、お兄ちゃんが魔の手から救い出してあげるからねって。
ボッ
突如として、アスヴィルの手の中で手紙が燃えた。
シヴァは沸々とした友人の怒りを感じて、燃える手紙を見、はあ、と嘆息する。
こうなるとは思っていた。
最後の一文を見て、アスヴィルがキレないはずがない。
「ふ、ふふ、魔の手……。言ってくれますね」
笑顔が怖い。
シヴァは手紙を灰までも燃やし尽くした友人にそっと声をかけた。
「頼むから、前のときみたいに城を破壊するなよ」
十年前。
それは、ミリアムがまだアスヴィルと結婚する前の時のことだ。
そのころアスヴィルはミリアムに絶賛求婚中で、ことあるごとにミリアムを追いかけまわしていた。
その時、さんざんアスヴィルを妨害し、あまつさえアスヴィルに関するありもしない噂話を捏造し、とことんまでにミリアムとの仲を裂こうとしたのが「あの馬鹿」である。
それでなくともミリアムに相手にされず、むしろ邪険にされていたアスヴィルにとって、その妨害は脳の神経をぶった切るに十分すぎるほどの行為で――
結果、極限までに精神的に追い込まれたアスヴィルが激怒し、応じた「あの馬鹿」と大喧嘩をはじめ、この城の三分の一が破壊された。
その一件にはさすがのシヴァも黙っておらず、「あの馬鹿」には向こう十年間の城から追放を言い渡し、ある意味被害者であったアスヴィルには、一年ほどミリアムの半径十メートル以内への接近を禁止したのだった。
(あの一年は面白かったがな……)
半径十メートル以内の接近を禁止されたアスヴィルは、離れたところから大声で愛を叫びはじめ、結果、城のいたるところでアスヴィルの「ミリアム愛しています!」の声が響くという、迷惑だが面白い一年になった。
もっとも、夜中に叫びだしたときには睡眠妨害されたシヴァが激怒して、アスヴィルは一晩地下牢に投獄されるはめになったのだが。
「とにかく、前の時のような騒ぎは困るぞ」
「わかっています。さすがに前の時のような騒動は起こしませんよ。なぜなら今幸せの絶頂ですから」
でれ、と一転して笑み崩れたアスヴィルにシヴァは冷ややかな視線を送った。
「ところで――」
シヴァはアスヴィルから受け取っていた領地の報告書の五ページ目を開いて、その文面をトントンと指先で叩いた。
「この、ミリアム記念館計画とは何のことだ?」
アスヴィルは厳つい顔を限界まで輝かせた。
「それは、ミリアムの美しさや愛らしさ、気品、すべての魅力を余すことなく後世に伝えるべく計画している壮大な資料館の――」
「却下だ」
シヴァはアスヴィルの説明を途中で遮ると、にべもなく一刀両断した。
アスヴィルの表情が地獄の底を見たようになる。
「どうしてもだめですか?」
「通ると思っている方がおかしいだろう!」
アスヴィルはシュンとした。まるで大型犬が飼い主に怒られて耳をペタンとさせているようであった。
「じゃあ、ミリアムの魅力を世の中に伝えるためにはどうすれば……」
昔は聡明であったはずのこの男が、ミリアムの存在でどんどん人格破壊を起こしていく事実に、シヴァは半ば本気で嘆きたくなった。