第2色 ”無色透明”な血
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朝日の眩しいほどの光と、楽しそうに歌う小鳥の囀りが天然の目覚まし時計となり、目が覚める。
寝ていた少年――七野・自由は、眦から頬にかけて一直線に伝っている渇いた涙痕を、指でそっとなぞりながら呟く。
「またあの夢か……」
今回でこの夢を見たのは何回目だろう、と降ってきた雨粒の数を数えるような途方も無く、そして無益なことを考えながら顔を洗うべく洗面所へと向かう。
どれだけ蓋をしてもいつの間にか出てきてしまう嫌な記憶によって半強制的に起こされた所為で、未だ覚醒していないぼーっとする頭のまま蛇口から出てくるぬるま湯を手で掬い、顔にはっきりと出来た涙の跡を消そうとする。しかし、思いの外跡が消えず、先ほどよりも指先に力を入れて執拗に顔を洗っていると、突然目の横に鋭い痛みが走った。
「――ッ!!」
痛みの根源を確かめるため急いで顔をタオルで拭き、その場所を目を皿のようにしながら鏡で確認すると、爪で引っ掻いたような切り傷が、まるで存在を潜めるように慎ましやかに目の横にあった。
「――――」
影の薄い傷を注意深く見てみると、そこからは“透明な液体”がたらりと流れていた。大した傷ではないが念のため治療しようと思い、いつも通り慌てること無く救急箱があるリビングに向かい、鏡で充分に確認しながら絆創膏を患部へと貼る。
「――――」
普通の人の傷口からは“色のある”血が流れるため、それこそ血眼になってまで確認せずとも傷口の確認、延いては手当などは容易に出来ると思うが、俺の場合そう簡単にはいかない。
血に色が無いからだ。いや少し表現が違う、正確に言うと――血が“透明”なのだ。
何かの比喩だったり、無彩色という意味ではなく、文字通り血に色が無い。
血が無色透明であることの弊害は、今もそうであったように傷の在処が非常に分かり辛いし、一見すると水のようにも思えるので、鼻から大量に出てきても痛みが無い場合、サラサラとした鼻水だと勘違いしてしまう。
それに傷口がもろに見えるので、大きな怪我をしたときは色々大変だ。
そんな他人が経験してこないような様々な苦労を今までに幾度となくしてきた。だが、こんな体質になってからおよそ7年という決して短くない月日が経ち、今ではそういう身体的なハプニングの対処はお手の物だ。
しかし、今でこそ慣れた手付きで治療を施せるものの、過去には出血に気づかず軽い貧血で倒れたことなどあった。そんな今となっては笑える苦労話を思い出しながら朝ご飯を掻き込み、学校に行くための諸々の準備をする。
寝癖を整え、制服に着替え、家を出る。
――いつも通りで何の変哲も無い日常だ。
「行ってきます」
俺のその声に、当然のことながら反応は返ってこない。
何故ならば、両親は俺が物心付く前の本当に幼い頃に他界したからだ。
その所為かおかげかどちらとは一概には言えないが、ご覧の通り一人暮らしも板に付いている。とは言うもの、もちろん両親が亡くなったとされる幼い頃からずっと一人暮らししていたわけではない。
両親が亡くなった頃はまだ一人で生活することが困難なほど幼かったため、小学校四年生までは親戚に引き取られ、中学校に入学してからは今のように一人暮らしをしているというわけだ。
その亡くなった両親は、どちらとも殉職したと聞いている。父――漆と母――純は相当優秀な中和者だったとも同時に聞き及んでいるが、死んでは才人だろうが、凡人だろうが、何の意味も無い。何の意味も無くなってしまうだろう。
因みに、両親が天職としていた中和者とは、この世界で誰もが一度は夢見るほどの花形の職業だ。
血が物を言う世界で、極々稀に血が暴走を起こし、その結果血能が暴発することがある。その原因は今も学者が挙って解明に勤しんでおり、一説によるとウイルスかその類いの所為ではないかと推測されているが、その実何一つ判明していないのが現状だ。
だが、たった一つだけ長年の研究で分かっていることがある。
暴走を起こした人――暴走者は、血の色が徐々に黒に近づいていく、という不思議な性質がある。それをどの程度黒く染まっているかを見極め、その人本来の色にするために血を適宜調合し、直接体内に注入する。
――言うなれば、血液の色を“中和”してやれば、その人の暴走は治まる、ということだけだ。
しかし、言うは易く行うは難し。
暴走の進行度合いにもよるが、暴走者は血の暴走により脳の箍が外れる。そのため、本当の暴走初期でさえ身体能力が常人の数倍ほどに跳ね上がり、更に物事の分別が付かなくなるので、目に入った物を手当たり次第破壊していくようになってしまうというのだ。
暴走者よりも飢餓状態にある虎の方が手懐け易いとは、こうしたことからよく言われるものだ。
そんな虎よりも凶暴な生きる破壊兵器と化した暴走者の中和は、もちろん困難を極める。
そのため、身体能力と血能の性能を爆発的に上げるため自身も意図的に暴走を起こし、それを意識下に置きながら暴走者を無力化、そして、中和することを主な職業として行うのが、中和者というわけだ。
秀でた中和者は人々を暴走から助け、莫大な富と、絶大な名声と、圧倒的な力を手に入れることが出来る。だから、人気というわけだ。
しばらく嫌というほど見慣れた道を作業的に歩いていると、俺が通っている高校に辿り着いた。この高校や近隣の学校でも、男女問わず中和者を目指している人が多い、と風の噂で聞く。それ程までに憧れの職業ということなのだろう。
朝特有の騒がしさが空間の隅から隅まで木霊する昇降口。そこで室内用の上履きを下駄箱から取り出し、少し屈みながら履いてきた外靴から右足を最初に履き替えていると、
「邪魔だ」
ぶっきらぼうな一言が真上からやけに明瞭に聞こえてきた。そう思った瞬間、身体を唐突に押された。その悪意のある力が原因となり、靴を履き替えるために屈んでいた俺はバランスを崩し、支えを失った棒のように呆気なく倒れてしまう。
「――ッ」
人類にとって切っても切り離せない永遠の鎖とも言える重力に到底逆らえるはずも無く、されるがままに尻餅をついてしまった。ズキズキと痛むお尻を擦りながら、血も涙も、慈悲さえも無い声の主を睨みつける。
「あ!? 何だ、その目は……? もしかして……やんのか?」
「――――」
そこそこ名のある高校であるここの下駄箱は、大人3人が横並びしてもまだ余裕があるほど広々としている。それにも関わらず、他の空いている場所を通らないで態々ぶつかってきた紫髪の少年のその手には、髪色と同じ赤みが強い紫色の毒々しいナイフがこれ見よがしにしっかりと握られていた。
三日月の形に歪ませた唇と、粘つくような嫌な表情から、こちらに対して好戦的なのは火を見るよりも明らかだ。
「あれー? どうしたんだー? 能無しさんよー?」
能無しとは俺のことだ。
他にも色無し、個性無し、と血の色が無く、血能が使えないことで、他人からは馬鹿にされ見下され続けている――俺に色が無いと分かった、あの日から。
紫髪の少年は、手に持ったナイフを誇示し、ひけらかすようにちらつかせ、こちらの神経を逆撫でしてくる。だが、自分はナイフに対抗する手段など持ち合わせていなく、相手に徒手空拳で向かっていっても、1分も経たずして傷だらけになるのが関の山だ。それどころか傷だらけ済めばまだ良いが、下手したらちょっとした傷だらけでは済まないことになる可能性もある。
なので、身体を必要も意味も無く倒されようが、神経を逆撫でするように挑発されようが、結局は泣き寝入りする他無く、悔しさを唇に込めるように噛みしめながら、
「な、何でも無い……」
「はっ、男が情けねー」
執拗に挑発したにも関わらず刃向かってこない俺を見て興が削がれたのか、鼻を大きく鳴らした後、手に持っていたナイフをドロドロの液状にさせ、その液体を何処かへと消し去る。そして、苛立ちをぶつけるように近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばし、散乱したゴミを一瞥もせずに教室がある方へと去って行った。
先ほどまでは楽しげで賑やかな喧噪に包まれていた昇降口だったが、理事長の家系である先ほどの少年が起こした中身のない、そして、不快な音で、辺りはしばらく静けさに包まれた。
「――――」
静寂の原因となった流れの渦中にいた自由の唇からは、透明な血が悔しさを物語るように滴っていた。