第4話 スローな人生の始まり
「スロースって名前は、絶対にみんなの前で言っちゃダメだからね?」
ヴィオラは人差し指をピンと上に立てて、僕に再度念を押すように言った。
彼女は、極めて真剣な表情をしている。
少なくとも冗談の類ではないようである。
「……分かった」
理由は分からなかった。
が、僕はつい、分かったと口走ってしまっていた。
だって、ほんのりとヤバそうな匂いがしていたから。
「う~ん。それじゃあねぇ……」
すると、ヴィオラが顎に手を当てて、なにやら熟考し出した。
その姿も無論、可愛い。ずっと見ていられる。
「スロー……」
「えっ?」
「私、あなたのことスローって呼ぶわ!」
熟考の末に捻り出された名の案は、とても名案とは思えなかった。
名前のお尻に「ス」が付いているか、付いていないか。
スローもスロースも、さしたる違いはないように思える。
こっ、これで、デンジャラスな局面を回避できるのか……?
僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。
いや、信じよう。
聡明そうな彼女のことだ。これが重要な差なんだろう。
きっと掘り下げていけば、意外と奥行きのある名前なはず。
……多分。
「うんうん。我ながらいい名前かも!」
と、名付けの親は、満足そうな表情。
それにしても、スローかぁ……。
ゆっくりのんびりできそうな名前だし、もうそれでいいや。
僕がぼんやりと考えていた代案、ナマケ・モノ太郎よりも随分いい。
「スローと申します。よろしく、ヴィオラ」
そうシンプルに自己紹介をして、僕はようやく重い腰をあげた。
一体どれくらい横になっていたんだろう……。
自主的に絶対安静の診断を下していたのが功を奏したのか。
転生の失敗を由来とする尾骶骨の痛みは、もう感じなくなっていた。
折れてなくてよかった。
「よろしくね、スロー」
こうして僕は、ヴィオラの案内で、みんなのところとやらに連れていかれることになったのだった。
「ちなみに、ここってどこなの?」
「ここは、天界城。天界で一番大きなお城なのよ!」
「へぇ、天界城!」
もし僕のイメージ通りだったとするならば、ここは完全にファンタジーの世界ということになる。
天界城というファンタジーの世界で、スローなライフをエンジョイする。
言葉を換えれば、それはまるで天にも昇るような楽しい生活なはずだ。
しかし、その時、僕は焦っていた。
起立性の低血圧によって引き起こされた立ちくらみの中、再び腹の虫が目覚めた気配を感じ、焦っていたのだ。
今から思い返せば、これから始まるであろう、ワクワク・スローライフへの期待よりも。
空腹でぶっ倒れたりしないか不安で、胸中穏やかでなかったことだけをなんとなく覚えている。
そんなちっぽけな悩みに、残っていた脳内のエネルギーを全て費やしてしまっていたのだ。
彼女の言う、みんなのところというのが――
天界を統べる王との謁見の間を意味しているとは、つゆ知らず。