第144話 船上のカオス
「んっ……。ここは……?」
目が覚めると、僕はふっかふかのベッドの上に横たわっていた。
天井に見覚えのある豪華なシャンデリアが輝いている。
なるほど、ここはロイヤル・スイート。
どうやら気絶している間に、客船サント・セイント号まで運んでもらったらしい。
『堕落』のスキルを使いすぎて意識を失ったのは、クリフサイドでの一件以来になる。
それだけ必死だったとはいえ、スキルを使いすぎないように自分でも気を付けていたというのに、このザマである。
またみんなに迷惑をかけてしまった。
色々なことに関して、重ねてお詫び申し上げたい気分になりながら、僕はむくりと起き上がった。
清潔感がありながらも、美しく煌めくインテリアの数々。
それらに囲まれた、だだっ広い空間。
誰もいないロイヤル・スイートは、少し寂しい感じがした。
「デスクラーケンはどうなったんだろう……」
窓の外は暗く、深い夜であることを示している。
イカ騒動からまだそんなに時間が経っていないのかもしれない。
ベッドから降りると、完全に回復できていなかったのか、軽く目眩がした。
着ている服が新しいものに変わっている。
前まで着ていた服は、イカの粘液で完璧にコーティングされていたから、とても助かる。
下着も新調されているようなので、僕の知らない内にセンシティブな部分が公にされてしまったかもしれないが、仕方がない。
この世界に来てから一度や二度の経験ではないので、もう慣れたものである。
赤面すらせず、堂々たる足取りでリビングへ繋がる廊下を進み、扉を開く。
が、しかし、ここにも誰もいなかった。
みんなはどこへ行ってしまったのだろうか。
分からないことだらけ。
うっすらと不安がよぎる。
「とりあえず、デッキの方に行ってみるか……」
早くみんなの顔が見たいという思いと、人気のない船内はうろつきたくないという思いがせめぎ合い、軽快でも鈍重でもない中途半端な速度で歩く僕。
デッキに続く通路は薄暗く、ぼんやりとした間接照明の光だけを頼りに進んでいく。
船内の至る所に置かれた女神像や、絵画とはなるべく目を合わせないようにした。
船の内と外を分かつ金属製の扉を開くと、生温い風が吹きつけた。
それはじっとりと肌にまとわりつくようで、日が出ていた頃の爽やかな潮風とは何もかもが違っていた。
デッキの中央に視線を向けると、ヘルサがポツンと佇んでいた。
しかし、深く項垂れていて、元気が無いように見える。
一体、どうしたのだろうか。
「やぁ、ヘルサ。みんながどこに行っちゃったのか知らない?」
僕は、彼にそっと声を掛けた。
すると、ヘルサは物凄い勢いで顔を上げ――
「みんなは……。オレが食べちゃったギギ……」
それは、いつもの甲高い声と今までに聞いたことのない野太い声が混じり合ったような、不気味な声だった。
「食べちゃったってどういうこと……? じょっ、冗談だよね……?」
ヘルサは厄災『暴食』かもしれない。
脳裏に浮かぶのは、僕が気絶する前に聞いた、デモーナの告白だった。
ヘルサは僕の問い掛けに、返事をしない。
右目の白い貝ボタン、左目の黒い丸ボタン。
ヘルサの両目が僕をしっかりと捉えている。
僕の首筋に、段々冷や汗が滲んでくる。
「ヘルサ……?」
一言でいいから何か言葉が欲しかった。
そんなことを思っていると、ヘルサの口が開いた。
限界一杯にまで大きく開かれた縫いぐるみの口の中は、深淵を覗き込んでいるかのように黒一色だった。
びっしりと生え揃った鋭い牙。
あんな牙、前まで無かったはずだけど?
僕が得体の知れない恐怖に支配されていると、ヘルサの牙の奥から声が漏れてきた。
「ギギギ……。スローも食べていい……?」
……。
いや、ダメ。
それは困る。
絶対に食べないで欲しい。
そんな至って普通の感想を抱いていると、突然、大きく開いていたヘルサの口が限界を超え、まるで捕食前のハエトリソウのようにガバッと裂けた。
「ギギッ……。ギギギッ……」
デッキに響く、錆切った金属が擦れるような音。
ヘルサの喉から、出てはいけない音が出てしまっている。
「ヘルサ、ほんと急にどうしちゃったの……? それ、顎どうなってるの……?」
鳴り止まない嫌な音に苛まれながら、僕がそう言った、次の瞬間――
原型が崩れたヘルサが飛び掛かってきた。
早過ぎて回避できない。
今、僕の目の前に。
牙、口が――
「どわぁぁぁぁああっ!?」
反射的に飛び起きると、そこはふっかふかのベッドの上だった。
「夢だったのか……?」
リアルな夢だった。もう夢とは思えないくらい感覚が冴えていた。
まだ心臓が激しく脈を打っている。
辺りを見渡してみると、ロイヤル・スイートだった。
清潔感がありながらも、美しく煌めくインテリアの数々。
それらに囲まれた、だだっ広い空間。
誰もいないロイヤル・スイートは、少し寂しい感じがした。
「なんか凄い既視感……」
またしても不安な気持ちが湧いてくる。
窓の外は明るく、朝はすでに迎えているようだった。
すると、リビングの方から足音が聞こえてきた。
「スローくん! どうしましたか!?」
「なんか、すっごい声がしたけど……。あっ! スローが起きてる!」
部屋にコルネットさんが駆け込んできた後、少し遅れてクラリィが入ってきた。
「よかった……。さっきのが夢で……」
二人の顔を見ていると、あの恐ろしかったヘルサの姿が幻となって消えていくような、そんな深い安心感が込み上げてきた。
気が付くと僕は、無意識の内にベッドから降りていた。
「起きてすぐ動くと危ないですよ?」
「まだ寝てなくて大丈夫なの?」
二人が心配そうな顔で僕を見ている中、僕は歩みを進める。
そして――
「ススス!? スローくん!?」
「わわわ!? スローの方から!?」
僕は、隣り合っていたコルネットさんとクラリィを、まとめて一緒にハグしていた。
「みんなが無事でよかった……」
思わず言葉が漏れる。
「どっ、どうしたの? 無事でよかったっていうのは、こっちのセリフなんだけど……」
クラリィは困惑した声色ながらも、大人しく僕の抱擁を受け入れてくれている。
「デスクラーケンはみんなで追い払ったので大丈夫ですよー……」
子供をあやすかのような、コルネットさんの優しい声。
彼女は少しだけ勘違いをしているけれど、悪夢を見て心が弱っていたとは恥ずかしくていえない。
というか……。
頭が覚醒してきたら、今の僕の行動全てが恥ずかしく思えてきた……。
いや、めっちゃハグするやん、自分。
と、自分で自分にツッコミを入れたくなってくる。
女の子二人に突然抱きつき、癒されている場合ではない気もしてくる。
デモーナの告白は? ヘルサの正体は?
あと、デスアイランドについて、ファザレドに聞きたいこともある。
そんな調子で、段々自分の頭が働き始めたのを感じていると――
「あーーーーっ!! スロー、おはよーーーーっ!! ワタシも混ぜてーーーーっ!!」
部屋の様子を見に来たレトが、僕たちの姿を発見するや否や、元気な声。
彼女は興奮に任せて猛然とダッシュしてきた。
そして、どう混ぜてもらおうか考えていたのだろう。
彼女はその勢いを保ったまま、僕たちの周りをグルグル走り回り。
「そうだっ! スローに、おんぶしてもらおうっ!」
「グエッ……!!」
最終的に僕の背中に落ち着いた。
レトに一方的に抱きつかれている僕に、一方的に抱きつかれている天使族の二人。
彼女たちは、この状態に何を思うのだろうか。
客船サント・セイント号のロイヤル・スイートに、四人が織りなす特殊な造形芸術が完成してしまったけれど、大丈夫だろうか。
前衛的すぎて責任問題にならないだろうか。
「わぁ、凄い! 元気そうだね、スロー!」
とてもいいタイミングで、ヴィオラが、僕たちのハグで作るモダン・アートを鑑賞しに来たようだ。
「やぁ、ヴィオラ。とてもモダンで、コンテンポラリーでしょ?」
僕は、言い逃れのできない現状をなんとか誤魔化すために、訳の分からないことを口走る。
「攻めてるのは確かだと思うけど、それは一体何をしてるの?」
ヴィオラの追究の手が、厳しく迫る。
「これはね! 儀式なんだよ?」
僕の代わりに説明しようとしてくれた、アマゾネス族の儀式に強い憧れを持つ幼女レトの一言によって、ここロイヤル・スイートに混沌が訪れる。
もうこれは、ちょっとしたカオスである。ケイオスとも言う。
「えっ、これって儀式なの?」
「儀式……、なんでしょうか……?」
クラリィとコルネットさんも、頭上に見えないクエスチョンマークを浮かべている様子。
向こうでは――
「いいなぁー。楽しそうだなぁー。私もそのモダンでコンテンポラリーな儀式、参加したいなぁー」
と、ヴィオラが持ち前のわがままを炸裂させようとしている。
彼女の表情を見るに、その熱い思いは爆発寸前。
もう現場は、混沌そのもの。
誰か助けて。
すると、そのとき。僕の背中にひっついているレトが一言。
「ダメでしょ! ヴィオラは今、スロー禁止中なんだから!」
……えっ? 何それ? 知らない規制だけど。
船上の一室に、新たなるカオスの燃料が投下されようとしていた。
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
少しでも明るい気持ちになったり、クスっと笑っていただけていたら嬉しく存じます。
次話、『第145話 ヴィオラはスロー禁止中』は、8月8日(土)に投稿する予定です。
これからも、ゆるゆるな異世界コメディーを何卒よろしくお願い致します。
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