第143話 気絶しそう
「しかも、『断食』と『絶食』の重ねがけだ……」
信じられなかった。
それは衝撃の告白だった。
もしかすると、ヘルサはデモーナによって呪いをかけられた魔物かもしれない。
それも二つの強力な呪いである。
そう思えば思う程、「そんなヤバい奴を自分の胸の谷間に保持している」デモーナの恐ろしさが際立ってくるようだった。
「ムギギ……。スロー、タスケテ……」
僕の名を呼び、救助を要請するヘルサの声が、デモーナの胸のクレバスの奥深くから聞こえてくる。
助けてあげたいのは山々ではあるのだが、僕も現在、デスクラーケンの触手に捕らわれており、身動きが取れない状態である。
先程デモーナが放った『断食』という個性的な呪いの効果によって、イカの胃袋に収まる心配はないとはいえ、現状どうしてあげることもできない。
そして、何より――
「百年も前に?」
「あぁ、恐らくそのくらい昔の話になるだろう」
デモーナの推定年齢、百歳以上。
彼女の持ち前の美貌、瑞々しい水色の肌や艶のある紫色の髪から、僕より少し年上――二十歳くらいかなぁ、などと勝手に判断していたけれど、もはや少し年上どころの騒ぎではない。
ちょっとした「グランマ」である。
それか「ひいグランマ」。
いやはや、ここが異世界ということを失念していた。
すっかり人間族を基準に考えてしまっていた。
彼女は、元悪魔族の女性。きっと長命の種族だから、百歳を超えていても、まだ見た目が若いのだろう。
まぁ、しかし。
僕も転生に失敗されて、こちらの世界で暮らし始めてかなり経つので、そこまで驚きはしない。
慣れとは恐ろしいものである。
ただ、そんな僕でさえ、信じられないことだらけだったデモーナの告白に、動揺が隠し切れなかった。
僕は少しでも情報を整理しようと、彼女に質問を続けた。
「もしそれが本当なら、ヘルサは昔、呪いを重ねがけしないといけないような凶悪な魔物だったってこと?」
少しの間、沈黙があった。
その後、デモーナはそっと唇を開くと、「……そうだ」と、一言だけ呟いた。
やっぱりそうなんだ……。
と、僕は一瞬悲観的な気持ちになったが、よくよくヘルサとの出会いを思い返してみると、「凶悪な」という些か穏やかでない形容詞にも心当たりがあった。
光沢のない紫色の革でコーティングされ、その表面にびっしりと黒い呪文のような文字が刻まれていた不気味な箱。
誰かの血の跡のような赤黒い加工さえ施された、一目見ただけでベリーデンジャラスと分かる、封印されし箱を――
「ほいっ、堕落」と、まるで引き出しでも開けるかような気軽さで解除した人物が一人。
そう。
それは僕である。
それは紛うことなく僕ではあるのだが、悪気は無かったので是非許してもらいたい。
「ヘルサは、そのときのこと覚えてるの?」
僕はヘルサに向かって声を掛けた。
すると、デモーナの胸の谷間、豊穣なる水色の大地に延びる地割れの底から――
「ムギギ~! な~んにも覚えてないギギ~!」
気の抜けたヘルサの声が聞こえてきた。
元気そうで何より。
「本人はそう言ってるみたいだけど……?」
「あぁ、そうなんだよ……。もしかすると、こいつは記憶を失っているのかもしれない」
デモーナはヘルサの位置を確かめるかのように、自分の胸元を見下ろしながら、そう言った。
多分、デモーナの推測は正しいのだと思う。
何故なら、僕がヘルサと初めて出会ったとき、彼は自分の名前すらまともに覚えていなかったからである。
僕が名前を聞くたびに、「ヘルサタンキング」やら、「デスキラーゴッド」やら、厳つすぎる名前を、コロコロ変えながら名乗ってくるし。
挙句の果てに「アンデッドオブザデッド」という哲学的な名前を自称し始めたときは、もう何が何やら分からなくなったが。
「記憶喪失ねぇ……」
一応、ヘルサの名付け親ということになっている僕は、この旅の道中――出会ってから今までのヘルサの言動を思い返してみた。
……。
次々にフラッシュバックする、彼に迷惑をかけられ、辛かった思い出の数々。
気付けば、僕の眉間に深い深い皺が寄っていた。
僕は今、とても険しい表情になっているかもしれないし、この眉間の皺で果物でも摺り下ろせてしまうかもしれないが、これはイカの触手に拘束されて苦しがっているからではない。
すると、「スポンッ!」という擬音を声に出しながら、ヘルサの頭がデモーナの胸の谷間から飛び出てきた。
その様子を見ていたら、なんだか無性に腹が立ってきたので、僕がこのイカの触手から解放された暁には、ヘルサのあの頭を半分に折り畳んでやることに決めた。それぐらいは許されるはずだ。
僕がそんな熱い決心をしたことなど知る由もないヘルサは、のんきに頭だけを突き出したまま、「やっぱりオレはスゲーヤツだったギギ!」と、威張り散らしている。
しかし、今の彼の姿を見る限りでは、「スゲーヤツ」感はゼロと言っていい。
ほとんど打ち首である。
それか、地割れに襲われ、ギリギリのところで助かった縫いぐるみ。
ヘルサはどうにも機嫌よく騒いでいるようだが、そんな彼の脳天付近を上から眺めて、デモーナが複雑な顔をしている。
ヘルサが「スゲーヤツ」だった頃の姿を知っているデモーナの目には、今のヘルサの醜態はどう映っているのだろうか。
やはり、晒し首だろうか。
それか、地割れに――
いや、待て、そんなことよりも! 重要なのは百年前のヘルサのことである!
……正直、想像がつかない。
「ねぇ、デモーナ。ちなみにヘルサが魔物だった頃の名前ってなんていうの?」
「いや、実は私も本当の名前を知らないんだ……」
「そうなんだ。でも、ちょっと安心したかも。今からヘルサの呼び方を変えるっていうのも、ちょっとアレだしねぇ」
仮に、本当に名前が「アンデッドオブザデッド」だった場合、彼の名前を呼ぶたび、僕は一々哲学的な思索に耽らなければならなくなる。
そんな末恐ろしいことにならず、僕がホッとしていると、「ただな……」と、デモーナが意味ありげに言葉を詰まらせた。
「ただ?」
「ただ、こいつ……。地上に住む者たちからは、厄災とか、『暴食』とか、呼ばれていたみたいなんだ……」
「はははっ! またまた、デモーナさん。ご冗談を!」
「それが、本当なんだ……」
本当の話?
はははっ、何それ。ヤバすぎて笑える。
カッチカチに固まった僕の表情筋が、必死に笑顔を作ろうとしている。
上手に笑えずに、玩具の兵隊みたいな笑顔を張り付けていると――
「スロー……、大丈夫か……? お前、目が据わっているぞ……?」
「だっ、大丈夫だよ! へへへ、平常通り!」
僕の異変を察したデモーナに対して、僕は少しも平常通りでない、不審極まりない声色で、そう返した。
『暴食』。
それは、地上を騒がせた七つの厄災の一つである。
僕も詳しくは知らないけれど、天界城にいた頃に読んだ資料には、「海に突如出現した命を喰らう魔物」と書かれていた気がする。
それがヘルサ?
俄には信じがたいぞ、そんなの。
「あのさ、デモーナ。これはかなり失礼な質問かもしれないんだけど、もしかしてデモーナって、元英雄って呼ばれてたりする?」
「元英雄? 確か、海賊をやっているときに、何度かそう呼ばれたことがあったな。英雄と呼ばれてみたり、元英雄と呼ばれてみたり……。あぁ、『暴食崩し』なんて長いのもあったか。まぁ、もう好きに呼んでくれって感じだけどな」
『暴食崩し』。
そのネーミングの厳つさは、かつてヘルサが名乗った「ヘルサタンキング」や「デスキラーゴッド」と負けず劣らずのデッドヒートを繰り広げている。
厄災を打ち倒した後、世界中で暴れ回っているという『元英雄』たち。
天界城から地上に降りてきて久しいけれど、こんなに元英雄と出会う機会があるなんて。
あまりの自分の悪運の強さに、なんだか気が遠くなってきそう。
気絶しそうな程のヤバさ。
「おい、スロー。本当に大丈夫なのか? かなり顔色が悪いぞ?」
「えっ? 顔色? 多分、平年並みだと思うけど?」
「嘘をつくな! もうこのイカみたいな白さになっているぞ!?」
いや、それは驚きの白さ。
デモーナは心配してくれているみたいだけど、僕自身は全然元気……。
かと思っていたのだが、スーッと意識が薄れていくような感覚に陥り――
「そっか……。今日、スキル使いすぎたか……」
ひとりで勝手に納得するも、束の間。
僕の視界は真っ暗になった。
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
少しでも明るい気持ちになったり、クスっと笑っていただけていたら嬉しく存じます。
次話、『第144話 船上のカオス』は、明日、8月2日(日)に投稿する予定です。
これからも、ゆるゆるな異世界コメディーを何卒よろしくお願い致します。
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