第112話 基礎的天使学の実践
「ふ~。さっきは取り乱しちゃった」と、僕は額の冷や汗を拭った。
コルネットさんが、女神像を壊してしまったレトとヘルサを連れて、船長のところまで謝りに行ったので、僕は船のデッキへと続く細い通路をクラリィと二人で歩いていた。
「ボクもびっくりしたけど、コルネットさんが一緒だからきっと大丈夫でしょ!」
「大丈夫だといいんだけど……」
高額な修理費を請求されたりしないだろうか……。
またヴィオラのお財布……もとい、天界城の国費で賄われることにならないだろうか……。
そろそろバス王から、「いい加減、お金使いすぎ」と、激怒されてしまわないだろうか……。
などなど、仲間が行った器物損壊の影響をぼんやりと憂慮していると――
「ねぇ、スロー。そう言えば、ヴィオラはどこ行っちゃったんだろうね」
「あぁ、確かミドリが船に飛び乗ったとき、ヴィオラも追いかけるように船の中に入って行ったから、先にデッキで待ってると思うよ」
「そっかぁ、デッキかぁ。デッキにはあの不気味な像が置かれてないといいけど……、怖いから」
「う~ん。流石に船内だけじゃない? 潮風を浴びたら風化しちゃいそうだし」
クラリィを安心させるように、そう言いながら、僕はデッキへ出るための扉に手を掛ける。
金属製の重みを感じながら力一杯に開くと、海鳥の鳴き声と、波の音が聞こえた。
柔らかい海の風が頬に当たる。
すると、扉のすぐそこにヴィオラが立っていた。
「あらあら、スロー、クラリィ、フフフ……」
しかし、どうしたことか。少し様子がおかしい。
彼女の可憐な美少女スマイルが引きつっている。
まるで、何かに取り憑かれたかのような……。
「ほら、クラリィ。やっぱりヴィオラはデッキに――」
「あれ? どうしたのヴィオラ。どこか体調でも――」
そう言いかけた僕たちの視界に入ってきたのは、暖かい日差しを浴び、丸まってスピスピ眠っている緑竜のミドリ。
そして、その足下、身体の周り、尻尾の先端……。
いや、それだけではない。
デッキのあちらこちらに散乱する、もはや原型を留めていない彫刻の破片。
きっとミドリが飛び移ったときに、緑竜の持つ頑強な体躯に巻き込まれたに違いない。
クラリィの危惧していた通り、デッキにも女神像が飾られていたのだろう。
どれくらいの女神像が飾られていたのかは分からないが、目の前の凄惨な事故現場から推測する限り、一度に十数体は天に召されたことだろう。少なくとも。確実に。
痛みを感じることもなく、一瞬で……あ、そうか、これはただの彫像だった。
ただの高そうな女神の彫像……。
高そうな……。
「あらあら、ヴィオラ、フフフ……」と、僕の笑顔も硬直し、ヘンテコな笑みへと変化する。
「あ、あ……」と、クラリィは無表情のまま、その場に佇んでいる。
この場にいるのは、「あらあら、フフフ……」と、微笑んで名前を呼び合う不気味な人間が二名と、茫然自失の天使が一名である。もう笑うしかない。
ほら、デッキの隅にいたおかげで一命を取り留めた女神像たちも、無言で微笑んでいるよ。フフフ……。
すると、そんな僕たちの異常な雰囲気を察したのか、ミドリの目がパチリと開いた。
僕とミドリの視線がぶつかる。
一言物申そうかとも思ったが、今自分の背中には天使の羽がついていることを思い出した。
うむ。怒ってはいけない。天使らしく、慈悲の心をもって対応しなければならない。
ここは早くも、先程勉強させてもらった成果を発揮するところだ。
「ミドリ、大丈夫? どこか怪我してない?」と、僕はミドリに近づき、そう言った。
これはクラリィから学んだ労りの心である。
緑竜の強靭な鱗が、彫刻にぶつかっただけで傷がつくはずがないのは百も承知である。
ミドリは、僕の言っていることが理解できないのか、フンッと一度だけ大きく鼻息を荒げた。
「あらあら。ミドリ、後で一緒に謝りに行けるかな?」
「クロロロン!!」
「……うん、いい子だね!」
大きな返事があったみたいだが、僕もミドリの言っていることは理解できないので、取り敢えず褒めておいた。さっき、コルネットさんがそうしたように。
ミドリにしてみれば、着地した先に邪魔な石ころが転がっていたくらいの感覚に違いない。
蹴飛ばしたって、そこに悪気なんて無いのだ。
芸術は爆発だと言う人もいるくらいだからね。
デッキは悲惨な状態だけれど、きっと許してくれるさ、船長だって。
「……ん? なんだ、これ」
ミドリの身体の下から、何か茶色のフサフサしたものが飛び出ている。
「あれ? ミドリ、急に関節から冬毛生やした? ……今、全く寒くないけど」
今の気候はどちらかと言えば、夏寄りの海水浴日和だけど。
そうじゃないとしたら……。まさか、ストレス!?
ストレス禿げならぬ、ストレス生えしちゃったとか!?
嫌な予感に戦きながら僕がそう問い掛けると、ミドリは面倒臭そうに身体をずらした。
そこには――
気絶してピクリとも動かない女の子がいた。
「ヤバーーーーーーい!!」
何かが口から産み出されそうな程の僕の叫び声が、世紀末の感すら漂う荒れ果てたデッキに轟く。
見知らぬ茶い髪の毛の女の子を前にして、なんだか僕は、これからとても穏やかな船旅が始まりそうな気配を感じた。
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
お気に入りいただけていたら嬉しく存じます。
次話、『第113話 経験則から言って、もうおしまい』は、4月4日(土曜日)に投稿する予定です。
これからも、ゆるゆる異世界コメディーをお楽しみいただけたら幸いに存じます。




