第9話 エロス
「……エロスだ」
謁見の間の空気が一瞬にして凍りついた。
「……バス王さま、今なんとおっしゃいましたか?」
自分の耳が信じられなかったのか、ショナさんが恐る恐る問い質す。
「……エロスだ」
エロス。
それは、数多の研究者たちが、その真理にたどり着こうとして、命を落とし続けた究極の命題。
何故、人々は過ちを犯し、そして赦されていくのか。
罪には罰を、それでも生命は尊貴であり、一人の生命は全地球より重いのである。
ここは天界。
そもそも地球という惑星ですらないかもしれない。
しかし、それでもエロスはエロスとして、僕ら一人一人のエロスにひっそりと、それでいて確実にエロスしているのだ。もう今となっては、エロスは、エロスであると言い切ってしまっても、それは充分にエロスなのである。
僕が、いいや、僕たちが、今まで生きてきた中で、ここまで荘厳な響きの「……エロス」を聞いたことがあっただろうか、いやない。
僕は、見るからに未曾有で無尽蔵な、暴力的わがままバディのセーナさんが繰り広げる、めくるめくショッキングピンクな世界を空想して、鼻から吐血してしまわないように……。
……待て。
もうここは、勢いよく噴出してしまった方が、逆に失礼じゃないかもしれない。
「スロー、大丈夫?」
「はっ!」
隣で一緒に話を聞いていたヴィオラが、こっそりと囁いてきて、ようやく僕は我に返った。
「ありがとう、大丈夫」
僕が思春期を迎えた男子であるからには、これはちっとも大丈夫な案件ではない。
ただ、心配そうに僕の顔色を窺っているヴィオラに、これ以上の心労を与えてはいけない。
すると――
「セーナは、今、許嫁の元にいるらしい……」
地を這うバスボイスが、鼓膜を震わせた。
「い、妹が、申し訳ありません!」
スーナさんが、うやうやしく頭を下げた。
「構わぬ……。それよりスーナよ、もしやお前の身にも何かが起こっていたのではないか……?」
バス王、優しい。
顔は怖いけど、バス王は意外に優しいのかもしれない。顔は怖いけど。
「実は今朝、猛烈な睡魔に襲われまして……。起きようと頑張ったのですが、二度寝、三度寝をしてしまい……」
「本当は?」と、口を挟むショナさん。
「五度寝を……」
五度寝!?
五度寝とは尋常ではない。羨ましい。
が、こうなると、スーナさんの身にも何かがあったと考えるのが妥当なんだろう。
魔法とか呪いとかの影響を……。
「スロー……。これは、もしや、堕落のスキルの影響ではないのか……?」
バス王が怖い顔をして僕を睨んでいる。
……。
えっ?
えっ? えっ?
嘘でしょ?
と、思わぬ嫌疑に焦る僕をよそに――
「実のところ、私もだったんだ……」
ショナさんが驚きの告白をし始めた。
本日も夕方頃に、もう一話投稿する予定です。
楽しんで頂けたら幸いに存じます!




