流れ星の魔法使い
流れ星の夜には魔法使いがやって来て、願い事を一つだけ叶えてくれる。
もうタイトルも覚えていない絵本を読んで、八歳だった私は何の迷いも無くそれを信じた。私の家は首都の住宅地だから、どんなに晴れても流れ星は見えない。だから冬におばあちゃんの家がある田舎に行くのを心待ちにして、長い二学期を家で過ごした。
おばあちゃんの家は、年末年始には親戚一同が集まるとっても大きな家。おじいちゃんが築き上げた会社を継いだ息子の家、別の会社の社長と結婚した娘の家、あとはよく分からない親戚筋の方々。ま、血の繋がりで言ったら殆ど他人らしいんだけどね。
大きな家に住んでいるのは、おばあちゃんとミケ兄さんの二人だけ。
ミケ兄さんは私の十歳上の従兄だったけど、本当は人間じゃなくて化け猫なんだと伯母さんが言っていた。実際殆ど話さないし、いつも可愛くない猫を連れていたし、目付きが悪いし、双子だって言ってるけど翔二郎くんとは全然似てないし…私は怖かったので目を合わせないようにしていて、お姉ちゃんたちが近付こうとしたら割って入ったりしていた。
私にはお姉ちゃんが三人いる。十歳上と九歳上と五歳上。
十歳上のお姉ちゃんは翔二郎くんの事が好き。おばあちゃんの家で何を着ようとか、道で偶然会っちゃったとか、お姉ちゃんが落ち着いてない時は大体そんな感じ。ちょっとだけ気が弱いけど、色んな事を教えてくれる良いお姉ちゃん。
九歳上のお姉ちゃんはミュージシャン志望。音楽の教室が忙しいとかでおばあちゃんの家には殆どついて来ないし、家にいても部屋に篭りきり。気が強くて曲がった事が大嫌い。
五歳上のお姉ちゃんは…優しくて、いつも笑っていて、面倒見のいいお姉ちゃん。私が、一年生の時の遠足でいなくなって、それっきり。
お姉ちゃんは神隠しに遭ったんだろう、というのがテレビで報道されていた見解。
家の会社のライバルがどうとか身代金がどうとか言われるよりずっと分かり易くて、私はそれをすぐに信じた。お姉ちゃんがいなくなる直前に一緒にいたのは私だけど、本当に、ふっと振り返ったらいなくなってたんだもの。
お姉ちゃんを連れて行ったのは神様だから、大人が必死に探しても見つからなかった。
だから、魔法使いにお願いしてお姉ちゃんを探してもらう事にした。
あの頃の私にとってはこれ以上無い名案で、どうして大人がそれを思いつかないのか不思議で仕方が無かった。きっと私は大人よりずっと頭が良いんだと思った。だって、大人が思いつかない解決方法を発案できたんだから。
おばあちゃんに一番星が見える場所を聞いた時、私はとっても冴えてるって思ってた。きっと私がお姉ちゃんを連れて帰ったら驚くだろうって思ったから、星を見に行く事も内緒にした。絵本を読みながら、お姉ちゃんを見て驚くみんなを想像した。
お父さんとお母さんはきっと泣いて喜んで、私とお姉ちゃんを抱きしめる。
お姉ちゃんたちも一緒。九歳上のお姉ちゃんは電話を聞いて飛んでくる。
親戚の人たちは私の事を褒め称えて、参りましたとか言うんだ。
胸が躍る。
もうすぐお姉ちゃんが帰って来るんだ。
宿題の分からない所を教えてくれたりとか、転んだ時に絆創膏を貼ってくれたりとか、面倒見てもらってばっかりだった私が、今度は帰れなくなったお姉ちゃんを探しに行くんだ。
今日はその始まりの日、私の大冒険への一歩を踏み出す日。
晩ご飯を食べ終わって、親戚の人たちが何人か寝始めた頃、私はそっとおばあちゃんの家を抜け出した。広い家だから、少し姿が見えなくても、多分どこかにいるだろうと思われるはず。
場所は山を少し上ったところにあるゴミ捨て場。おばあちゃんはフホートーキ?って言ってたけど詳しくは知らない。山菜取りに行った時に見かけたあの場所を目指した。
山に囲まれた田舎には誰の姿も無かった。
あるのは雪と畑と道路だけ。車も通ってないから、道路のど真ん中を走った。
時々風の音が聞こえる。そこにあった星が、スッと流れた気がした。
早く行かなきゃ。
雪道は走りづらくて何度も転んだけど、すぐに起き上がってまた走る。
早く行かないと、魔法使いが帰っちゃうかもしれない。
明かりの殆ど無い道を、私はひとりで進んだ。
ゴミ捨て場の横には傾いた家があった。
私は山積みになったテレビとか冷蔵庫の上を歩いて、その屋根に上った。
流れ星が見えた。
ずーっと空を睨んで、やっと一回程度だったけど、確かに見た。
魔法使いは来るんだ。そう思うと、それだけで大成功な気がした。ポケットからジュースの缶を出して飲んでいると、全てが上手くいく気がしてきた。
がさ、と音がした。
魔法使いが来たんだと思った。振り返った。
そこには黒くて大きな塊がいた。
私が知ってる魔法使いは、黒い服を着ていたけど、あんなに丸くなかったし、毛深くなかった。
唸り声なんて上げない。
動物園みたいな臭いはしない。
こんなに大きくない。
背伸びしただけで屋根に上ったりなんか――
ぎゃあっ、と甲高い声がした。
何か小さいのが、黒い塊に噛みついていた。
猫だった。
猫が塊から離れて行くと、その先のゴミ山に誰かが立っていた。
目がギラギラ光っていた。伯母さんから聞いた事がある。化け猫の目は暗闇で光るから、見つけたらすぐに逃げなさいって。
動くな、と叫ばれた。
逃げようとした。けどできなかった。
初めて聞いたかもしれないミケ兄さんの声が、あまりにも怖かったから。
ギラギラ光る目を吊り上げて、持っていた鉄パイプを振り上げる姿はその場で一番怖かった。どのくらいかって、黒い塊が一目散に逃げだしちゃうくらいに。
動けなくなった私に猫が擦り寄って来て、やっと時間が動き出した気がした。ミケ兄さんに抱えられて屋根を下りたら、私の冒険はそこでおしまい。おばあちゃんの家まで手を繋いで帰る事になった。
山を下りた所で、私は振り返った。そこには誰もいないまま、来た時よりも不気味な道があった。
魔法使いは最後まで来なかった。
私が何かに襲われていても、助けに来ることはなかった。
願い事も叶ってない。お姉ちゃんはいない。
どこかで誰かが笑ってる気がして、悔しくて、大声で泣いた。
滲んだ目の前には暗い雪道が広がるだけだった。星なんてもう見えない。お姉ちゃんがどこにもいない。
学校の先生が、受け入れなくちゃいけないと言った。
お姉ちゃんが帰って来ないのを乗り越えろと、強くなれと、良い人みたいな事を言った。
良い人じゃないくせに。私が帰り道でお姉ちゃんがいないって言っても信じてくれなかったくせに。何度も何度も言ったのに、お姉ちゃんを探そうとしないで学校に帰ったくせに。
私は小学校に行くのをやめた。
先生の言う通りにしていたら、私もいなくなっちゃうんだと思ったから。
だからずっと家で勉強した。学年が変わっても、先生が別の学校に行っても。
それでやっと見つけた、お姉ちゃんを探す方法。それが全然ダメだって分かってしまった。
お姉ちゃんはどこにいるの。
私を見下ろす、光る目に尋ねた。
魔法使いがいないなら、神様だっているわけない。世界は自分が思っていたより平坦で、狭くて、それなのに私には分からない事だらけなんだって、その時やっと気付いた。
「神様のところ…に、いるかもしれない」
光る目の持ち主は、いつもの無口なミケ兄さんに戻っていた。
私が神様なんていないと叫ぶと、いるかもしれないと答える。
それから十年が過ぎて、私はその時のミケ兄さんと同い年になった。
あの頃は分からなかった事が少しずつ分かるようになってきた。
世界は思ったより広いこと。
お姉ちゃんは遺留品すら見つかっていないこと。
お姉ちゃんを連れ去った人間は全然分かっていないこと。
私があの夜に出会ったのは冬眠しそこなった熊だったこと。
ミケ兄さんは、人と違った目を持つだけの人間だってこと。
母親に化物呼ばわりされて、一人だけおばあちゃんの家に捨てられたのだということ。
あの夜、私に嘘をついたミケ兄さんは、誰よりも強くて優しかったということ。
「いるかもしれない…ほら、化け猫がここにいるから」
神様が本当にいないかどうかは、まだ分からない。