君の一つを覚えてる
正直何を伝えたいのか分からなかった。
あぁ映画の話だ。洋画って時点で文化が違うし、華やかな世界に縁の無い俺には女優志望の女もピアニストの男も遠すぎる。そんな二人がくっ付いたか否かなんて言われても、俺からすればそこらの微生物が分裂する様子より興味の無い話だったんだ。
一体どう解釈するべきだったんだ?
まだ昼間のショッピングモールを歩きながら、俺は安物のスーツの中で海の向こうへ思いを馳せる。途中ガラスに映った俺が疲れきった顔をしている。あぁ俺には一生分からないな。そう思って考えるのを止めた。
「うーんつまらん映画だった」
彼女が全く取り繕ってない感想を述べたのは救いだった。チケット代が俺の財布から出てるとか今この世界で一番人気の映画だとか、その程度の事じゃこのマイペースは崩せない。
なんせ相手は地獄乙女様、全身に地獄絵図の刺青を入れて客を取る花売りだ。
「なぁ、あれは結局何が主題だったんだ」
「私が知るか。そういう情報はお前が取ってこい」
臙脂色のセーラー服を翻らせる彼女の歳は24、俺と同い歳だ。あんな制服、少なくとも俺の情報網ではどこの学校でも採用されてない。客引き用のコスプレだが、休みの日に浮かれた奴がちょっと変わった格好をしている、と見えない事もない。まぁどちらにせよ、俺みたいなサラリーマンと歩くには不自然極まりない格好だ。
「やっぱり流行りだからと選ぶものじゃない、向こうのホラー映画にすれば良かった」
「嫌だよ…サイコ系なんて見慣れてるんだ。今更あんなの見ても眠たくなるだけだろ」
「そうだった、くたびれたサラリーマンにしか見えないけどお前は情報屋だったな」
流れるようにかつ平然とディス、そして情報漏洩。協力者としては最低な部類じゃなかろうか。けど残念ながらこの遠慮無しガール(本人がレディじゃなくてガールと呼べと煩いんだ)、帝都ではかなり評判かつ敷居の低い花売りだからあらゆる情報に通じている。客の中には大企業の重役や警官まで混じってるというのだから、彼女の働きぶりは相当なものだ。
そんな彼女と俺が出会ったのは、俺の上司の命令によるものだった。
訳あって顔と名前を変えて生きる事になった俺は、冴えない社畜のフリして強盗団の逃走補助を担っていた。逃走経路を用意するために情報収集をしていたのが最初だったけど、やってるうちにそれ以外の分野にも首を突っ込み始めてしまった。「冴えない社畜」の部分は割と素なのかもしれない、と気付いた時にはメイク無しで疲れきった顔が完成していた。
聞いた話だと、人間が一番に忘れられるのは声らしい。
という事は、7年も前に顔と名前を変えた俺の正体に気付く奴はもう殆ど残ってないだろう。少し前に両親とすれ違ってしまった事があったが、見事に気付かれなかった。
顔と名前も変える前の俺、御子貝…いや名前まで思い出す必要は無いか。とにかく前の俺を覚えてる奴も、もう少しすれば完全にいなくなるんだろう。そうしたら俺は情報屋の「不知火」になる。ただそれだけの存在に。
「おいシラヌキ、今日の夜は何を食べるんだ」
…こいつだけは名前を間違え続けるけどな。
「何度言ったら俺の名前を覚えるんだよ…いい加減にしないとお前からの情報の信頼性無くなるぞ」
「いいから言え、 今日の飯は何だ!」
「髪を乱すなよ!!」
「どうせボサボサなんだから良いだろう、むしろ男前になったぞ」
「無造作って言え!」
地獄乙女は初めて顔を合わせた時からこんな調子だった。引く手数多の売春婦というから、どんなに気の強い奴が出てくるんだと思っていたが…こういうタイプが出てくるとは思わなかった。無遠慮で自分に自信を持っていて、でも正直全部どうでもいいと思っているような…でも無理難題を押し付けられるよりかは断然良い。地獄乙女はその黒髪や白い肌を褒めなくても、結構高めなレストランで食事してホテルの良い部屋に泊まれば満足してくれるからだ。
「うん、この魚のやつは美味い」
「スズキのムニエルって説明されたろ」
時々、そんなに豪華なもの食べさせなくてもいいんじゃないか? と思う事もあるけど。
最初の頃はぎこちなくて笑われていたけど、何回かすれば俺も高級な店での食事に慣れていった。これ以上豪華なものを食べる機会なんて他に無い。どうせ上司の金だからと調子に乗って美味い物を食べる、それが二人でいる時のお決まりになっていた。
悪友、なんだと思う。
俺たちの間柄を「取引相手」以外の言葉で表すなら。
時々、仕事以外でも呼びつけられて車を出す事がある。大体そういう時は海へ行けだの遊園地に連れて行けだの言われて、俺は財布兼ドライバーになる訳だ。別に奢らされてるんじゃない、ただ何となく俺が払ってる。そんなに贅沢する事も無いし、他に使い道も無いし。
海に行けば冬でもお構い無しに突っ込むし、遊園地では息付く間もなく全制覇しようとする。地獄乙女様の急な思い付きや衝動に俺が振り回されていく、それがいつものパターンだ。仕事の時は俺が無理を言ってしまう事もあるから、その埋め合わせみたいなもんなんだろうか。俺は彼女との悪ふざけは結構楽しいと思ってるから、その程度で満足してもらえて良いのかと感じてしまうけど。
海風って本当に潮の匂いがするんだな。
海の無い県で生まれ育った俺は、車を降りるとそう呟いた。朝の四時に電話で呼び出されて、繁華街で地獄乙女様をお拾い申し上げて、太平洋の夜明けを見に行った時だ。
誰もいないのを良い事に服を脱ぎ始めて、白い肌着だけになって地獄乙女様は砂浜を駆けた。今思えば薬でもキメてたのかもしれないな。その時は放り投げられた服を拾い集めて、人に会う前に彼女を捕まえようと走るので手一杯だった。
人生って割と簡単に終わるんだぜ。
やっとの思いで捕まえた彼女に言おうとして、やめた。そんな事よく知ってるはずだと思い直したからだ。
俺が生まれた時から歩んできた人生が終わったのは、終わりが始まったのは、中学二年生の時だった。
切っ掛けは俺の初恋にあった。小学校の入学式の日に一目惚れして、それから四年間、毎日を一喜一憂しながら見つめてきたクラスメイトの女子がいたんだ。俺は五年生の時に親の仕事のせいで引っ越したけど、その時お別れ会でクラスからの色紙を代表で渡してくれたのがその子だ。どういう経緯でその子が選ばれたのかは知らない。けど、ただそれだけの事が、それから三年間、連絡先も聞けなかったどうしようもない俺の心に、いつまでも初恋の女の子を焼き付けていた。
だから、その子が中学二年生の途中で転校してきた朝、俺はショックで熱を出した。
…あぁ今思い出しても情けない。苗字が変わってたけど名前は一緒で、三年前より大人びたけど全然変わってない。一目で惚れた俺には、彼女が初恋の相手なのだと一目で分かった。けどそれから何をするべきか考えてたら知恵熱を出した。恋をしてから四年間まともに話すらできなかったのはそういう性格のせいだ。
知恵熱、思春期、馬鹿な中坊。
若気の至りっていうのは大体こんな感じの要素から成り立ってる。保健室でウンウン唸っていた俺は、小学校のガキンチョだった俺を卒業しようと息巻いた。それでやった事が
「久しぶり」
なんて言いながら彼女に声を掛ける事だ。しかも正確に文字で表すと
「ひひひひひひひひひひさ、久しぶり」
なんて挙動不審ぶりだ。
うん、冴えないのはやっぱり昔からだ。もしかしたらこれで俺だと気付く奴がいるかもな。ははは…
…俺の最初の人生が終わったのは、俺が何をやってもパッとしない奴だったからだ。
俺はどうしようもなく身の丈に合わない片想いをして、その相手を取り巻く環境がどうしようもない物になっていた。具体的に言うと彼女の両親が事故で他界して、引き取られた先の親戚から虐待を受けていた。
俺は…俺は、何とかできれば良かったんだけどな。上手くいかなかった。
彼女の従兄に当たる男は俺をも憂さ晴らしのターゲットに含めて、毎日放課後にリンチされるようになった。ボロボロになって帰る俺を両親は心配していたけど、何か話せばその矛先は彼女に向かう。それでずっと口を噤んだ。
俺の人生は、その時既にどん詰まりになっていた。逃げる事もできたかもしれないけど、もしそれで逃げていたら俺はずっと置いていった彼女の事を忘れられなかっただろう。でも彼女が受けている仕打ちを大々的に告発する事もできなかった。二人で家出したって連れ戻されるのがオチだ。
それで俺に残された手段は、極めて短絡的なものだった。きっと馬鹿げた手段だと思われるんだろうな。でも、今思い返しても、あの時の俺にはああするしか無かった。誰にも助けを求める事ができない子供は、夜道で待ち伏せして滅多刺しにするしかできなかったんだ。
それで簡単に失敗して、今度こそ殺されると思って逃げていたら、その間に彼女が家を飛び出した。帰る場所が無くなった俺はそのまま失踪、顔と名前を捨てるルートに直行だ。その時俺は17歳、全体的にくたびれた感じになったのは多分その頃だ。
新聞の尋ね人欄に俺の名前を確認するたび、広告を出した両親の事を想う。こんなに親不孝な息子もそうそういないよな。とは思うけど、もはや原型を留めていない顔で何を言えば彼らを解放できるのか、俺には分からない。もう探さないでくれと手紙を出したら生きていると知られてしまう。
代わりの死体でも用意できたら良かったのにな。そこそこ大きな犯罪集団でも、死体の偽装は結構難しいし、莫大な金がかかる。普通に働くよりは良い給料をもらってるけど、それでもかなり厳しい予算だ。あと10年は用意できそうにない。
「よーし先にシャワー浴びてきてやったぞ」
地獄乙女様は海を駆けた時と同じ格好で浴室から出てきた。あれは何て言うんだ? 丈の長い肌着からは全身に彫られた地獄絵図が透けて見えていた。
「で、今夜はどうする?」
俺の隣に座って、地獄乙女は問う。
簡単に人払いできるということで取引はホテルで行っていたが、俺と彼女が関係を持った事は無かった。
「…こんなに良いベッドで寝るなんて滅多に無いし、眠りたい」
「そうかそうか、なら仕方ないな。社畜は休める時に休めば良い。私が隣で寝てやろう」
実際疲れきってる。さっさとシャワーを浴びて戻ると、髪も乾かさないままベッドに倒れ込んだ。
「なぁシラタキ、お前その顔になる前はどんな顔だったんだ」
「不知火だって言ってるだろ」
天井だけだった視界が地獄乙女の顔と髪でいっぱいになる。どうしてだか彼女は俺の前の人生について知りたがった。そういうお前はどうなんだよ、と聞くとスラスラ生い立ちを語り出すんだ。
小学校の終わりがけに両親が亡くなった事。
引き取られた先の親戚から虐待を受けていた事。
ある時耐えきれなくなって家を出た事。
身体に残った傷を隠すために、上から刺青を彫った事。
知ってるんだ、全部。
だって彼女は俺の初恋の人なんだから。
髪型と喋り方と雰囲気と性格が変わっても、何百人の男に抱かれてても、久しぶりに会った時ヤバい薬でキメまくっててすっげーハイテンションでも。
一目で惚れた俺には一目で分かった。
背中に渦巻く紅蓮の炎も、腹を駆ける餓鬼も、全然俺の趣味でも何でもなかったけど、彼女が纏っているから全部美しく見えた。
どんな薬よりもよっぽどキマる。俺はきっと性悪女に人生めちゃくちゃにされた馬鹿みたいに見えるだろうな、でも彼女は性悪でも何でもないんだ。
「カラブキ、お前私の話聞いてないだろう」
「もう聞き飽きたんだよ」
髪型も雰囲気も名前も性格も喋り方も素行も変わってもさ、分かるんだ。
野良犬に襲われて泣いてた俺に駆け寄ってきたあの日と、今日の彼女は全然変わってない。ボロボロの俺をどうにか助けようとしてくれてるんだ。絆創膏渡したり、保健室に付き添ったり、海辺で運動させたり、映画見せたり、良いもの食わせたり、やり方はどんどん変わってるけど。
なぁ、そんな君が好きだって言ったら驚くかな。
君を救う事ができなかった弱虫が目の前にいるなんて知ったら、君はどう思うかな。
…うん、分かってる。
そんな事、弱虫な俺には想像して頭を掻き毟るしかできないんだ。
もしかしたら、君が俺の事を気に病んでくれているかもしれない、なんて思ってしまうから。
君に俺の前の人生を背負わせる事が怖いんだ。
役立たずの自分を無かった事にして君を抱くのも、今でも大好きだって事を伝えるのも。全部、全部、虫が良すぎるだろうって思い留まるだけになっちゃって。
隣に眠る君を抱き寄せるのだって、どうしようもないくらい手が震えて、そのくせ離すのが怖いから一晩中離れられなくて。
君がいなくなったのは俺のせいじゃないか?
君が身体を売るようになったのは俺のせいじゃないか?
君が前みたいに振る舞わなくなったのは俺のせいじゃないか?
俺が失敗したから、もっともっと状況が悪化したんじゃないか?
考えれば考えるほど役立たずの自分が憎くて、でも新しい自分がそれを克服できてるなんて事は絶対に無くて、今もずっと、君が俺の知らない男と歩くのを見てるだけだ。
人生って割と簡単に終わるんだぜ。
でも、その先にいる自分は、そんな事じゃ何も変われないんだよ。
いつまでもいつまでも、俺は君のヒーローになんてなれやしない。
俺が彼女に向かって言うのは嘘ばかりだ。
自由気ままな彼女に振り回されて文句ばかり。そんな男を演じて、正体を隠しながらも彼女が気掛かりで傍に居たがる。そんなどうしようもない男なんだ。
「なぁシラタマ、私はお前の声が好きだぞ」
君がいつも褒めてくれるそれは、君を一番裏切ってる物だ。
喉の奥から込み上げるものを噛み潰して、夜明けを待つ。
きっといつか、何かが手遅れになるんだろう。
でも俺にこれ以上の事はできない。
いつまでもどこまでも、俺は中途半端なままなんだから。