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愛と誠に身を焦がしていた、女は呟く

もしもの話だ。この世に正しく生きる教科書が存在するとしたならば、私はその著者に問うてみたい。

幸せですか?毎日充実してますか?誰も傷付けずに、そして自分も傷付かずに、生きていけてますか?と。

出来ることならば、平和に生きたい。誰かに嫌な思いなどさせたくないし、ましてや他人を捩じ伏せてまで守りたいポリシーなど、私にはない。


老けたな・・・。

帰宅途中の電車の中で窓に写った自分の顔を見て、思わず呟いた。

吊革にだらしなくつかまりながら、流れる景色からまるで逃れられないかのように浮かび上がるそれは、まるで亡霊のようだ。

よく見りゃ他の乗客も、似た表情をしている。

なんだ、みんなこの世界の奴隷じゃないか。

繰り返される面倒事に神経をすり減らし、まるで魂を抜かれたみたいにぼーっと宙を見つめてやがる。

この電車は天国行きか地獄行きか。

いっそのこと、地獄でもいい。私はこの電車から降りたくなかった。

「和葉、今日俺の家来るだろ?」

恋人の祐一にそう言われて、私は彼の家に向かう途中だ。


週2回会うということが、いつの間にか2人の間に定められていた。互いを尊重するためにベストなペースが週2回なんだそうだ。

仕事も趣味も友達も大切にしなきゃいけない。

だけど一番大切なのは、当然何か解るよな?

こうやってきちんとルールを決めとかないと、お互いダメになっていくと思うんだ。

確かこんなことを延々と祐一は語っていたが、その時の彼の表情は覚えていない。

一見正当な主張と思われるお行儀の良い言葉の羅列は、ただの出来事として私の脳内のファイルに仕舞われることとなった。


最寄り駅に着いた。ここから彼の家まで歩いて5分。

現在19時10分。仕事の終業時刻が18時。会社から彼の家、それぞれの最寄り駅は電車で20分程度。概ね自然な時間配分だろう。

そもそも文句を言われる筋合いはないんだと、私は無意味に呟いてみる。

最近祐一と会う時はいつもこうだ。ヘッドホンでロックを聴きながら心に思い浮かんだ言葉を脈略もなく垂れ流す。時々言葉が浮かばず、あーとかうーとかもれてくる。

すれ違う人が、時折怪訝そうに振り返る。

こうでもしないと、気持ちが保てなかった。感情をアウトプット出来る貴重な5分間。これから数時間、果てしなく気遣いながら、慎重に言葉を選びながら、かつ楽しそうに振る舞う時が続くのだ。

今日は泊まらないといけないだろうか?明日の仕事を理由に断ろう。仕事に遅れるといけないし。

俺だって明日仕事なんだと怒られるだろうか。

お互い何かを犠牲にしないと付き合っていけないだろ?恋愛なんてそんなもんなんだよ。俺だってこうしておまえのために時間割いてんだよ。

それは自分の彼女に対する誠意であり、義務だと思っているから。だいたいおまえには誠意ってものが見えないんだよ。

やめりゃいいのに、祐一の私に対するお説教の数々を思い出してしまう。なるべく言葉に温度を持たせず闇に葬り去ろうとしているのに、ふとした時にこうやって出てきては、私の平常心の邪魔をするのだ。


なんとかしてやりたい。俺がそばにいてやらないと。

これが祐一の口癖で、おそらく私に対する気持ちのほぼ全てだ。私は放っておくと何をするかわかったものじゃないらしく、今こうやって表向き人並みの生活を送ることが出来ているのも、祐一のおかげなんだそうだ。

女がさ、1人で生きていけるほど稼ぐなんて出来ないだろ?特に和葉は役職についてるわけじゃないんだし。バリバリ仕事出来るタイプじゃないし。

まるで更生プログラムだ。法律上は罪など犯さず、仕事して税金も収め、月々の支払いだってきちんとし、一応一人暮らしだって出来ているのに、なんだかずっと後ろめたいような気持ちを私は近頃常に感じている。私なんかが生きててごめんなさいと。

あっという間に5分が経ったようで、私は祐一のマンションの前に着いた。大きく息を吸い込み、めまいがするほど吐き出して、部屋番号を押す。


「あー、なんかやだな」

女友達の絵里香と入ったダイニングバーで、私はジョッキでビールを飲み干しながら、重低音のような溜息をこぼした。

「ぐわーっ、やだなって、おっさんか」

「いっそのこと、おっさんになれたら楽かもね」

「いいの?年下の龍くんとやらに抱いてもらえなくなるよー」

怒られも責められもしなかった。さすが私の親友。洗いざらい打ち明けて良かったと私は心から安堵する。

「和葉、誤解しちゃダメだよ。私は別にあんたのすることに否定はしないけど、肯定もしてないからね。自分の行動にちゃんと責任持ちなって話。龍くんとこうなった以上、いつかはどちらかを傷付けないといけなくなるんだからね。そこはちゃんと覚悟しときなよ」


龍と寝たことに対して、不思議と罪悪感なんてものはなかった。遅かれ早かれ、祐一と私の間に何かしらの問題は起こるであろう、それが別れ話なのか、向こうが結婚なんてことを言い出すのか。そうなった時にどう対処するかは決めていなかったので、少し迷いと焦りはあったが。

心の中では、相当燻っていたに違いない。変わらなきゃいけない、抜け出さなきゃいけない。そんな時にちょうど現れたのが龍だったのだ。

ただ私は、龍の若さゆえの真っ直ぐさ加減が怖かった。好きなら好きと、欲しいものは欲しいと、臆することもなく言えてしまうその素直さが。

「なんかね、うまく出来すぎてんのよ。身長182cmのイケメン美容師、そんな男が私のことをさ・・・」

「高身長イケメン美容師ねぇ、そりゃモテるだろうしね」

「そこなの?」

「そこ以外に何があんのよ。だって若干22歳でよ、寂しそうだから抱きしめてやんないとってさ、とんだ色男だよ。彼、けっこう経験あるんじゃない?」

「初体験は14歳だとおっしゃってました」

「へぇ、可愛いとこあんじゃん」

「えっ?早熟なとこが?」

「違う違う。昔の女の話とかして、必死で男ぶりをアピールしてる感じが」

「10代の恋も、やっぱ経験のうちに入るんですかね」

「当たり前でしょ。みんなそこから始まるんだから」

恋が始まるきっかけって、本当は好きだという至って単純な気持ちのはずだ。少なくとも10代の時はそうだった。そばにいたい、触れたい、抱かれたい、それもみんな好きだから。そして自分なりに愛し、傷付き、別れ、心に穴が空き、次の恋でぽっかり空いた穴を埋めようとする。もう失敗はないと誓って、また傷付く。その繰り返し。

祐一と出会ったのは、傷だらけになってもはや恋がトラウマになりかけていた時のことだった。私は当時26歳、妻子持ちの一回り年上の男に、もう既に4年も振り回されていた。

今思うと、トラウマなんて笑わせる。私が勝手に期待しては傷付いてただけの話だ。

当時から遊び慣れていたであろう彼は、妻と別れるなど一切口にしなかったし、和葉を幸せにしてはやれないよと、ずっと言われていた。それでも良いと、彼のそばにいることを選んだのは私の方だ。

愛情表現しすぎては、重荷になってきっと捨てられると思い、あくまで彼の都合に従い、時に軽薄な女を演じたりした。幸か不幸か、そんな私を彼は拒まなかった。


「とりあえずさぁ、和葉が男に振り回されるだけの鈍臭い女じゃないってことだけは評価してるんだけどさ」

「なんの話よ」

「なんの・・・って、あんたの恋愛の話をしてるんでしょうが、さっきからずっと」

「そうかな?結構振り回されて傷付いてきたよ私」

「でも、なんだかんだでちゃんと他の道見つけてんじゃん」

何でもかんでも自分で道を切り拓いていけるほど私は強くない。時には言いなりになったりした。

だけど、そんな鎖に繋がれたような日々の中にも、確固たる自分というものをいつも持っていたような気はしている。形もないし、ましてや言葉にも出来ないけれど、誰にも染めることの出来ない、白い血のようなドロリとした信念が。そして白い血が心の皮膚からじんわりと滲み出てきた頃、私は新しい景色と出会うのだ。


ビールはほぼ飲み干され、白い泡だけが未練がましそうにジョッキの中にへばりついている。なんだか私の心のようだ。信念なんて格好の良いものじゃない。誰にも飲み干されず、消化されず、有耶無耶にされてきた感情の残骸だ。


「絵里香、自分らしさって何だろうね」

「本能と欲望のことだね、きっと」

過去の男達の生々しい指先と共に、リビドーなんて言葉を思い出していた。

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