Seven finger show
ビジターとして訪れるマンションの廊下は、いつも胸躍る気分だ。
喧騒から逃れてきた程よい隔離感と、鉄の扉の向こうに待っているであろう、新しい世界、ほんの少しの罪な思い。
「なんもないけどさ、あがって」
そう言って龍は、私を招き入れる。
今年22歳、私より7つも歳下の彼と会うのは、今日で2度目だ。
立花龍史。新進気鋭のアーティストのような、もしくはトップアイドルのような洒落た名前を、私の舌先と声帯は、まだうまく扱うことができない。
彼とは、たまたまふらりと1人で立ち寄ったバーで知り合った。
一緒に来てた友達、帰っちゃったんだ、と彼は照れくさそうに笑い、私に沿うように立った。
この瞬間から、私の心は奪われ始めていたのかもしれない。
すらりと伸びた長い手足に、端正な顔立ち。重めのバングからのぞく目はくりくりなのに、どこか寂しそうにも見えた。
「背高いね、何センチですか?」
スツールに座ったまま私は、彼の胸にもたれるような素振りを見せる。
「182センチ」
なんだか得意気に微笑みながら、彼は軽く胸を叩いて続ける。
「おいでよ」
促されるまま胸に頬を寄せると、爽やかな柑橘系の香水の匂いがした。
「この体勢なんだか不自然だよね。今度は肩貸したげるから、おれ、お姉さんの隣に座っていい?」
「お姉さんなんてやめてよ。和葉って呼んでください」
「和葉ちゃん!可愛い。おれは、立花龍史って言います。龍でいいよ」
パチッ、という音と共に部屋が明るくなり、龍の日常の一部が浮かび上がる。綺麗に整えられた空間、チェストの向こうにはベッド。
「なんか飲む?コーヒーでいい?適当にそこら辺座ってよ」
「うん、ありがと」
美容師をしているらしい龍の手は、とても魅力的だ。
綺麗に伸びた長い指、骨張った甲。美しさと生々しさのバランスが絶妙だった。
それに包み込まれたマグカップを私は、しばし眺めている。
「手、綺麗だね」
「そうかな?」
龍は目を丸くしておどけ、ほれ、と手のひらを私の前に差し出す。
「触っていいよ」
はい、なんて私は薄く笑いながら。
指の腹をつついてみたり、時々重ね合わせてみたり。
彼の生々しさの方を、しばらく遠慮がちに指先で感じていた。やっぱり男らしくて、大きい手。
この状況を躊躇と呼ぶべきか、逡巡と呼ぶべきか。
いつだって私は何かが起こりそうな瞬間に、揺蕩うように身を任せてしまう。良くも悪くもだ。
こんな性分を、自分がないなんて断罪されてしまえばそれまでなのだが、少なくとも私は今、出会って間もない目の前のこの男にこの身を、言ってしまえば心の一部を、奪って欲しいなんて欲求に駆られている。
「ねぇ、和葉ちゃん。そろそろおれの手、離してくんない?」
おどけている様子にさえ、どこか色気を感じる。
彼を性欲の対象として見てしまっていると、自分が急に恥ずかしくなった。
「あっ、ごめんごめん」
平静を装う、なるべく。決定権は、相手に委ねる。
「だって、すっげぇ焦らすような触り方すんだもんな。先っちょだけとかさ」
「こら、言い方」
あはは、と笑う私の両頬は、彼の男らしい手によって優しく覆われていた。
既視感、マグカップ、溶け合っていくような温度と感触。
一度目は、何もせずにバイバイした。
二度目の今日は、約束して例のバーで落ち合った。
ほんとに来てくれたんだねと微笑む彼に、うん、と小さく頷く私。
「まだ若いのに、こういうとこ似合うって凄いね」
「そう?若いって言ったって、和葉ちゃんとそんなに違わないでしょ?」
「どうだろ?結構違うかもよ」
私は声に出さずに、手で示してみせる。
「あっ、綺麗な指」
龍はおどけながら、私の開いた方の人差し指を優しくつまんだ。
「なんで人差し指なの」
「はじっこでなんか寂しそうだったから。おれが抱きしめてやんないとって」
「じゃあ、別に小指でも良かったんじゃないの?」
「いきなり小指って、なんかやらしいじゃん。こういうのって、順序があるの」
こういうの?お互い作為的に見つめ合いながら、どこかで意見の一致をみる。
7本分の指先の順序なんて、今夜のうちに全部クリアしてしまうのだろう。
はじっこで寂しかった訳じゃない。私は彼に抱きしめて欲しかった、きっとそれだけだ。
「うん?抱きしめるだけでいいの?」
溶け合った手のひらが両頬から離れ、首筋から肩へ移動する。
無邪気に笑っていた彼の瞳が、徐々に鋭くなっていく。
「ベッド行く?」
首筋に顔を埋めながら、龍が囁く。瞳が、再び優しく微笑む。頷こうとした刹那、彼に唇を塞がれた。
「やめろなんて言われても、今更止まんないけどね、おれ」
唇が、私の肌をついばんでいる。身体の隅々まで。
あぁ、彼はこんな丁寧に優しく女の人を抱くんだと一種の感動すら覚えると同時に、触れられた肌が細胞分裂をおこしたかのように、弾けて生まれ変わる。
こんな感覚、しばらく忘れていた。少なくとも今の恋人と出会った時はなかった。恋人なんて便宜上そう呼んでいるけれど、もう恋も愛も、そんな類のものは消え去ってるような気もする。
あるのは、何やら得体の知れない情だけ。
「和葉ちゃんって、彼氏とかいるの?」
抱き合った後、2人してシーツにくるまれている。乱れた私の髪を指で梳いて整えながら、彼は訊ねた。
「もしかして、あんまうまくいってないとか?」
うまく行く術を、今のところ探しているようには思うが、
付き合って3年、お互いを慮る言葉など使いつくして、近頃は、分かり合えない現実に正当な理由をつけようと躍起になっているのかもしれない。
「じゃあ、おれにもチャンスがあるってことだね」
にゃはっ、といたずらっこみたいに笑う龍がたまらなく愛しくなって、彼の裸の胸に顔をうずめた。余分な脂肪のない、細い胸。
この気持ちの出所はどこだろう?恋なのか愛なのか、気の迷いか、もしくは現実逃避か。
はっきりさせないと。後ろ髪ひかれたままでは、先に進んではいけないと思う。
「やっべぇなあ。おれ、また人の女に手出しちゃった」
「経験あるの?」
「うん。中学の時、友達の彼女盗っちゃったことあんの」
「甘酸っぱい青春の1ページだね」
「あ、子供だと思ってバカにしたろ。おれ、その子で女を知ったんだから」
「へぇ、いくつの時?」
「中3。厳密に言えば、誕生日迎える前だから、14の時」
「14歳で初体験って、早くない?」
「そう?その頃の和葉ちゃんって、今のおれと同い年くらいだね。付き合ってる人とか、いた?」
「うん。一回り上の人と付き合ってたな」
「ちぇーっ、大人の男に開拓されてんのなー」
「ごめん、嫌だった?」
「ううん、別に。おれだって和葉ちゃんと出会う前に何人か女の子知ってるもん」
慣れた手つきは、やはり経験のなせる技だったか。
もしかしたら、2人の経験値は、それ程差異ないのかもしれないが、龍より多く生きてしまった7年、これからどうやって埋めようか?
「出会うのが遅かったって、思う?」
「うん、少しね」
「なんで?厄介事抱え込んじゃったから?おれが年下だから?」
「なんか、色々ね」
「おれは、今で良かったと思うな。だって、おれが童貞だったりしたら、和葉ちゃん絶対相手にしてくんなかったでしょ?」
「童貞の龍なんて、想像出来ないよね。だって、すっごい色っぽいもん」
そうかな?って、まんざらでもない様子でおどける表情は、まるで男の子のようなのに、時折低くかすれる彼の声は男そのもので、私はバリトンの調べに乗っかり、ふわふわと異次元に連れ去られてしまうような気持ちになるのだ。
厄介事か。
これから何が始まるのか、当事者であるはずの私が、いちばんよくわからない。




