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空を泳いだ金の翼は

作者: ジョン零壱

 初投稿になります。私の作品はだいたいこんな傾向ですので、少しでもこの物語が心に残れば幸いです。

「秋哉くん、自分を犠牲にするようなことをしてはだめよ」

 斜陽の光が照らす図書室は、アリカ先輩の涼しい声をよりいっそう儚げなものにした。

「貴方は強い人よ。だから決して、勇気を出してはいけない」

 黄昏の光が満ちると、日本人のものではない揺れる金色の髪は、まるで彼女が生まれた国の稲穂畑のようだ。僕は思わず目を細めてその光景に見入った。

「秋哉くんは、自分のためだけに生きて」

 パイプ椅子に膝を抱えて座る彼女は、母のような優しい眼差しと抱擁のような暖かい微笑みを僕に投げかけた。髪と同じ色の瞳は夕をまとう世界の中で、深く深く僕を見透かしている。

「大切なものを見つけて」

 アリカ先輩の隣にいれば、なんにでもなれる気がした。なんにでもめげずに進めると思った。

 アリカ先輩は僕にとって、

「幸いを目指しなさい」


 いっとう大事な、幸いへの道筋だったのだ。



 僕が人に共感できないと気がついたのはいつだろう。

「なぁ、桂。どうよこのグラビアアイドル! よくね?」

「気持ちはわかるけど、教室で広げないでよ」

 気持ちなどわからない。クラスで仲がよいとされている彼が、プールを背景にした水着女性に抱くのが、性欲に準じた何かであることに予想はつく。ただ、同意を得られる解答は、僕の内から湧き出てこない。

 個人的には、背景に咲いている花がえらく原色的で気になるぐらいだ。

「やめろよ、秋哉にはそういうのアレだって」

「いやいや、そんなことないっしょ。高校生男子たるもの、こういうものに興味抱いて何ぼだろ!」

「まぁ、否定はしない」

 おぉ!? という二人の声に、自分がイメージとは違うことを口にしたとわかった。難しい、同意しすぎてはいけないし、かといって否定もまずい。

 大多数が抱く桂秋哉像は、いつのまにか複雑な形に歪んでいた。

「話がわかるじゃねぇか、大将!」

「はー、俺は意外。秋哉って、そういうところもっと淡白だと思ってたわ」

 ならば、今から修正しないと。

「そんなことないさ、僕だって健康な男子高校生だ。まぁ、そういう本の一冊や二冊は……なぁ?」

 意味深な含み笑い。こうすれば、大抵相手は自分に都合のいいように意味を飲み込んでくれる。

 こちらが嘘を口にしない分、楽であることに気がついたのは中学に上がってからだ。高校の二年ともなれば、そのしぐさはすっかり様になっていることだろう。

 二人は何だか尊敬でも混じったような目で、僕を見てきた。

 二人の中で、僕はどのようにランクづけされたのか、僕にはわからない。

 わからない。

 僕には、人の心というものがまったくわからない。

「じゃあじゃあ、このグラビアアイドルの中だったら誰が――」

「悪い。その話も興味深いんだけど、いつものが」

 僕が時計を指すと、二人は納得したように頷いた。

「また図書委員か。大変だな、お前も」

「まぁ、やってみたら割と悪くなかったしね。じゃあ、行くよ」

 話の切り上げ方が露骨ではなかったろうか。僕は自分の行動を省みながら、教室を後にする。

「おう、いってこい。『妾の子』には気をつけろよー」

「お前なんか一飲みだからなー」

 冗談めかす二人のクラスメイトの言葉に、僕は笑って手を振った。

 そして、小さく呟く。

「それは、とっくの昔に手遅れだよ」



 逃げ出せる場所が欲しかった。

 そう正直に告げたら、アリカ先輩はほがらかに笑った。

「私だってそうよ。じゃなきゃ、こんなかび臭いところにいてやらないわ」

 図書館の一番奥、誰も読まない全集が詰まった本棚の窓際が、彼女の特等席だ。

 体重をかけるときぃきぃ鳴くパイプ椅子に、先輩はいつも片足だけ膝を立てる行儀の悪い姿で待っていた。

 持っている本は近くからてきとうに抜き出したものだろう。似合わない宮沢賢治の銘が打ってある。

「なら、他のところにいけばいいじゃないですか。この学校が無駄に広いんですから、探せば人が来ないところだってあると思いますよ? 東校舎の屋上とかどうですか。確か、展望台がありましたよね」

「秋哉くんたらいじわるね、私を凍死させる気? 東校舎の屋上にある天文台は鍵がかかってて空かないのよ」

「試したことあるんですか」

「当たり前よ。空き教室、階段下の倉庫、屋上手前の踊り場に内庭の死角……いろいろ試して、結局ここに落ち着いたんだもの」

「理事長の娘じゃないですか。鍵くらいどうにかなるでしょう」

「よっぽどの事態でもない限り、そんなことしません」

 何故かえらそうにアリカ先輩は胸を張ったが、そのお世辞にも豊満とはいえない地平線に僕は歪な笑いしか浮かべることができなかった。それが気に入らなかったのだろう、彼女はどこか責めるような目で僕に口をすぼめる。

「それより……いけないわ、秋哉くん。今日は図書委員の仕事がある日でしょう」

「その言葉、そのまま返しますよ。アリカ先輩。貴方、ろくすっぽ委員会に顔も出さないじゃないですか」

「私はいいの。幽霊委員だもの」

「何ですか、それ」

 今度は自然と笑いが漏れてしまう。そんな単語、聞いたこともない。しかし、それがさらにアリカ先輩の反感を買ってしまった。

「笑うなんてひどいわ、秋哉くん」

「なら出ましょうよ、委員会」

「遠慮しておくわ。『妾の子』が突然出て見なさい、みんな固まるわよ」

 自虐すらはさまず、先輩は自分の蔑称を平然と口にする。だから僕も、同じように答えた。

「それは……おおいに想像できますね」

 比較的和気あいあいとしている図書委員会だ。固まる空気と時間が、容易に想像できた。

「だから、ほら! 秋哉くんは私の代わりに、がんばって仕事をしなさい」

「うまく誤魔化しましたね。まぁ、どちらにしろ僕は全集の整理を頼まれているので、やることはないのですが」

 僕かアリカ先輩のどちらかが常にいるこの区間は、ほかに誰もこないのをいいことに半分私物化している。今アリカ先輩が座っているパイプ椅子もそうだし、いつも窓枠に置いてある花瓶もそうだ。

「全部片付けますか?」

「うぅ……それは」

 僕の定位置は、ボロボロに腐食した窓枠。コスモスが一輪いけてある花瓶をどかし腰掛けながら、怒ろうか嗜めようか迷っている彼女の表情に笑いを必死に堪えた。

 やがて、アリカ先輩は一つ大きく頷く。

「それじゃあ、仕方ないわね」

「仕方ないですよ」

 僕も同意した。

 耐え切れずふき出す僕に、アリカ先輩は「もぅ」と頬を膨らませたが、それ以上の追求をしてくることはなかった。

 少しだけ、沈黙がおりる。僕は窓から秋の柔らかな日差しを感じながら、彼女に見つからないようにその麦穂色の髪を眺める。

 西洋の血が半分入っているという彼女の髪は、くせが強いらしく、ボブカットほどの長さなのに櫛が通りにくいほど波打っている。雨が降ったときなどとくにひどくて、こんがらがった髪を彼女はなみだ目になりながら櫛を当てていた。汚れも落ちにくく、絵の具がついたときは相当に恥ずかしかったらしい。その日はずっと全集で頭を隠していた。

 その、本人はあまり好きではない目立つ猫っ毛が、僕は好きだった。

 まるで、居心地の良い優しい光が入り込むこの場所を表しているようで――見かけるたびに、温かいため息がこぼれるのだ。

 思わず、その頭にぽすんと手を置いていた。

「なぁに、秋哉くん。先輩の頭に手をおくなんて、失礼よ」

「アリカ先輩の髪が、昔飼っていた猫みたいなのがいけないんです」

「ひどいわ、責任転嫁だわ。昔飼っていた猫ちゃんと私に謝りなさい」

 先輩がめくる全集のページはきばんでいて、今にもページがぼろぼろと崩れていきそうだった。その文章に込められた思いも、読み手の感傷も一緒にただの紙くずにしてしまう気がする。

「きっと家の猫だって、先輩みたら仕方ないなぁって納得しますよ」

「それでも、一緒にされるのはやっぱり心外だわ」

「僕は好きなんですよ、先輩の髪」

「もう。『君はどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのは君がばかだからだ』」

 棒読みのような、罵倒の言葉。聞き覚えがある。

「銀河鉄道の夜ですか」

「あら、よくわかったわね。そんなに有名なセリフでもないのに」

「なんとなく。悪口を言われて憤るけど言い返せないジョバンニに、共感するところがあって」

 内気で、すぐに涙目になって、いじめられているジョバンニ。それが自分と重なって、教科書で習うたびに胸をじくじくと古傷がにじむような痛みを覚えた記憶がある。

「先輩こそ、いつも全集を枕がわりにしている割には綺麗な朗読でしたね」

「嫌味ね、ひどいわ。私、宮沢賢治が好きなの。ここに出てくる話なら、諳んじられる自信があるわ」

「疑わしいですけどね。それアリカ先輩にジョバンニは似合いませんよ」

「そうかしら」

「そうです。どちらかといえば、先輩はカンパネルラですよ」

 ジョバンニを思い、大して仲の良くなかったザネリのために命を落としてしまうお人よし。そしてジョバンニの手を引きながら銀河鉄道に乗って、ともに幸いを探しに行くのだ。

 彼女ほど、その姿にふさわしいものを僕は知らない。

 その言葉をどう受け取ったのか。彼女は楽しげに、でもどこか薄く笑うと、本に目を落としこう続ける。

「みんなはね、ずいぶん走ったけれど遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」

 お尻を半分どけて、小さなスペースを空けたアリカ先輩を見て、僕はその意図をすぐに察する。

 正直、恥ずかしい。

 それでも先輩がせかすような、そしてからかうような目をこちらに向けて手を伸ばしてきたら、もうすっかり観念するしかなかった。

 先輩の隣、椅子半分だけ空いたスペースに腰を下ろすと、頬に毛先が触れてこそばゆい。

「みんなはね、ずいぶん走ったけれど遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」

 同じところを朗読する彼女に、僕は続ける。

「どこかで待っていようか」

「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ」

 アリカ先輩は歌うように、カンパネルラを演じる。本当に銀河鉄道に乗って、星々の間を旅するように軽やかに。

「ああしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える」

 時には配役を変え、駅長や助手たちを演じながら僕たちは銀河鉄道を旅する。

「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」

 僕は、共感することが苦手な人間だ。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。ぼくはおっかさんが、ほんとう幸いになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう」

「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」

 人と同じように笑えなかった。人と同じように泣けなかった。自分の価値観でしか、感情を動かすことができない欠陥品だった。

「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」

「どこまでも行くんです」

「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」

 だから弾かれた。当然だと思った。集団に適さない人間は、誰かと交わることはできない。

「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか」

「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」

「ああ、遠くからですね」

 だから、愛想笑いを覚えた。吐き気がした。逃げるところはどこにもなかった。

 一生、そうして生きていくしかないと思い、でもそんな覚悟はできなかった。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね」

 そんな時、先輩に出会った。彼女はこの学園を設立した白木院の苗字を持っていた。

「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう」

「ああ、僕もそう思っているよ」「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい」

 この場所は、僕にとって奇跡そのものだった。

 不思議と、彼女の近くでは素でいられるのだ。そんなこと、今までだって一度もなかった。そのことに気付いて困惑し、戸惑って、そして彼女が自分と同類項であることに気付いた。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」

 『妾の子』と呼ばれる彼女は、僕とはまた違う形で集団から弾かれた人間だ。僕と彼女の違いは、それを繕えるか繕えないかぐらいで――今こうしているのも、傷の舐めあいに他ならない。

 それでもいいと思えた。

「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから」

 そんなふうに考えた自分に驚いた。他人に対して依存しようとしていたのだ。他人の気持ちが理解できないこの僕が。

 いつの間にか、本当に気付かないうちに。そよ風のように、アリカ先輩は僕の近くで凪いでいた。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんな幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」「うん。僕だってそうだ」

 この人となら、生きていけるのではないかと思った。この人の隣にいて、必要としてくれる日が来るならば、それは変えがたいことではないかと感じた。もしそうなるならば、銀河鉄道の旅に、どこまでもどこまでもついていこうと、そう他人に夢見ることができる。

 その事実が、僕にはうれしくてたまらなかった。僕は、まだ他人に願えるだけの人間としての心を残していたのだ。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」「僕わからない」

 幸いなんてもの、僕にはわからない。他人と同じ幸いなんて、僕は一生理解するときはこないだろう。でも、彼女とならどこにでも行けると……僕は、身勝手にもそう思っていた。「僕たちしっかりやろうねえ」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうの幸いをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」「ああきっと行くよ」

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」

 ジョバンニとカンパネルラが別れたところで、アリカ先輩は最後まで読まず本を閉じた。

 そして、息がかかる距離でこちらを向いて、そのうすく金色に光る瞳でこちらをじっと覗き込む。

 深く深い輝きに、心までおぼれそうになりながら、僕は息継ぎに似た呼吸を漏らす。

 その格好のまま、先輩は僕に言った。

「秋哉くん、自分を犠牲にしては駄目よ」

 それは、いつも別れ際に彼女が口にする僕への約束。

「貴方は強い人よ。だから決して、勇気を出してはいけない」

 アリカ先輩のおでこが、僕のおでこにコツンと触れた。

「秋哉くんは、自分のためだけに生きて」

 近すぎる距離が恥ずかしくて、視線を上げていられない。下にそらした視線は、彼女の唇の動きを追っていた。

「大切なものを見つけて」

 彼女が紡ぐ言葉は一つ。

「幸いを目指しなさい」

 そのつぶやきは、まさにカンパネルラそのもので。

「私は貴方に、幸いへの切符をプレゼントすることはできないのだから」

 そうやっていつも、最後に僕を突き放すのだ。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが、無碍に響いた。

「ほら、秋哉くん。午後の授業が始まるわよ、いってらっしゃい」

 手を振るアリカ先輩に、僕は何も言えず、その場を去るのだ。



 僕にとっての幸せは、夜ベッドに入ったときだ。今日も仮面を壊さず過ごせたと、そう息をつくときだけが僕の平穏だった。

 日常は苦痛だ。

 いつも通り、朝起きて母親と言葉を交わす。着替えて学校に来て、授業を受けてクラスメイトと交流をとる。

 特に、仲がいいと思われているクラスメイトたちと食事をとるこの時間は、たまらない痛みだ。提供する話題も、軽くとる相槌も、皆が抱く桂秋哉像からはみ出ないよう、仮面を被り続ける。この『桂秋哉』は、僕にとって集団に混ざるための唯一だ。他人がわからない僕は、この仮面なしでは人の中では生きていけない。

「あぁ、あのドラマ、泣けたよなー」

 僕は、笑いしかこみ上げてこなかった。

「そういえば、二組の斉藤さん可愛いよなー」

 笑顔が気持ち悪くて怖気が立ったよ。

「新作のCD、いいよな」

 女性の声が、コウモリを思わせたよ。

 そう、本当の気持ちを口にすれば、僕はまた爪弾きだ。

 それはきっと、正しくない。

 だから、僕は無難に桂秋哉を演じる。一般的な人間を演じきるのだ。

 食べるものの味などわからない。そんなものに心をさけるほど、僕の日常に平穏はないのだ。

 たった一箇所を除いて。

「じゃあ、悪い。図書室行くよ」

 いつもどおりに、そう言って別れる。この図書室までの道のりは、いつも心がそわそわして走り出したくなる。

 これが、皆のいう『遠足の前夜』というやつなのかもしれない。僕には経験がなかったけれど、こんな気持ちで寝るのは確かに大変だと、少しだけおかしくなった。

 しかし、その笑顔をすぐに仮面に覆う。

「あ、いた。桂くん桂くん」

 呼び止めたのはクラスの女子だ。なにやら含み笑いで僕を手招きする姿に、どことなくいやな予感がする。だからといって、無視することもできない。クラスにおける桂秋哉という人間は、穏やかで優しい人物なのだから。他人に共感できない僕は、なんとかその体裁を保たなければ生きていられない。

「何かな、後藤さん」

「ちょーっと、こっちに来てほしいんだけど。時間大丈夫だよね」

「図書委員の予定があるんだけど……」

「すぐすむから、ね?」

 いくら否定の言葉を並べたところで、彼女は引かないだろう。そう判断した僕は、彼女にばれないよう浅くため息をつくといつもの笑顔を浮かべた。

「わかったよ、今いく」

「ありがとね」

 手だけお礼のかたちをつくって、後藤さんは僕を誘導する。廊下から階段へ、階段から上階へ。上階から屋上へ……。

「ちょ、ちょっと待って。どこにつれていく気? 屋上には出られないよ?」

 焦った。アリカ先輩はいつも屋上手前の踊り場で一人ご飯を食べている。なぜとそんなところでと問うと、

「だって、図書室は飲食禁止だもの。秋哉くんは図書委員なんだから、知っているでしょ?」

 と常識を疑うような視線を向けられた。先輩にだけは言われたくないですと返したから、よく覚えている。

 昼休みに入ってすでに二十分ほど経っている。先輩がいるかどうかは微妙なところだが、万が一を考えると気が進まない。

「大丈夫だって。もうつくから」

 そんな僕の手をぐいぐいと引っ張って、彼女は3階から屋上への階段を上り始める。

 本当は手をふりほどきたかった。アリカ先輩に今の姿を見られたところで、きっと「仲がいいのね」と後でほがらかに笑われるだけだろう。結果は見えている。でも、それが僕にはのどをかきむしるほどに嫌でしかたがなかった。

 でも、この手をふりほどけば、自分をだまし続けて得た立ち位置を失ってしまうのではないか。そんな恐怖心が、僕にあと一歩の勇気を踏みとどまらせた。

 そして流されるまま、3階と屋上の間の踊り場へと連れてこられる。

「あ、先輩……」

 そこには、一人の女生徒が祈るように手を重ねながら待っていた。

「大森さん……」

 彼女のことは知っている。同じ図書委員で、何度かカウンターに一緒に座って受付をしたことがある。よく手入れされた天使の輪のように光るセミロングの黒髪に、大人しめな彼女の印象と反した赤いフレームのめがねが印象に残っている。

 僕を見つめる彼女の頬は少し上気していて、結んだ手はぎゅっと白んでいた。

「じゃ、あとはがんばってねぇ」

 ひらひらと手を振る彼女の言葉は、どちらに向けたものだったのか。僕は、大森さんの前に立ちながら、ちらりと屋上ドアのほうを覗いた。少なくとも、人がいるような感じはしない。ここからなら、伏せてでもいない限り誰かがいるのはわかるはずだ。

 ひとつ安堵の息を吐いた。これで、懸案の一つは片づいた。なら、後は

「で、何か用かな。大森さん」

 目の前の問題を、適切に処理するだけだ。優しく笑顔で促した僕に、彼女は一度顔をあげてその後、何度か目を泳がせて。

「あ、あの、えと……その」

 そう何度も口ごもりながら、最後にはきっと僕を見上げた。赤いフレームの奥の気弱なままの瞳で、それでしっかりとこちらを見据えて。

「わたし……先輩が好きです!」

 めいいっぱいに、予想通りの問題を口にしてくれた。表情は、予定通りに驚きの形に。口を覆って、万が一にも心の中が読まれないようにする。

 大森さんには、僕が心底驚いているように見えるだろう。単純で、笑みがこぼれてきそうだった。

「驚くのも、無理ないと思います。先輩とわたしは、その……とくに仲がいいというわけではなかったですし」

「そうだね、正直驚いている」

 彼女の愚考に。そこまでわかっていて、なぜ告白なぞしてきたのだろう。何度か話している内に、彼女が僕に好意を持っているのはわかっていた。でも、まさかこんなふうに一足飛びで告白をしてくるとは思わなかったのだ。らしいそぶりをしてきたなら、それとなく気を逸らすことでこんな面倒ごとにはならずにすんだのに。

「わかってます。あくまでわたしと先輩は、図書委員の先輩後輩の間柄だったわけですし」

 否定の言葉が続く内に、僕の中で期待が膨らんでいく。まさかこれは、たまに聞く「気持ちだけ伝えたかった」というたぐいの告白ではないだろうか。普段の大森さんを見ていると、そのほうが突然の告白よりよっぽどしっくりきた。ダメなの最初からわかっていて、記念で告白だけでも……という僕にはいっさい理解できない告白が、この世にはあるという。

 それならば簡単だ。相手が頭からあきらめていてくれるなら、断っても僕の立ち位置が揺らぐことはない。

 心が軽くなった気がした。

「そうだね、君を恋愛対象としては見て――」

「だから、友達からはじめてください!」

「ない……んだけ……ど?」

 こちらのセリフを聞かず、よくわからないことを言い始めた後輩に、僕は一瞬だけ心に隙を作ってしまって、

「わたしは、先輩がいつも隠している本当の笑顔を見てみたいんです」

 杭を、打ち込まれた。

 慌てた顔も、笑顔も、照れた表情も、すべて消し飛んだ。彼女は今、僕になんと言った?

「……どういうこと?」

 声がかすれている。言葉にできただけでも上等だ。声に、顔に、動揺を隠せない。

 大森七香は言う。

「えと、先輩はいっつも笑顔です。すごく穏やかで、優しくて、それもとてもすてきだなって思います。でも一度だけ、図書館の片隅で。先輩が、だれかと話しているのを見ました。その笑顔はどっちかというと子供っぽくて無邪気で……どこか、弱くてはかない笑顔でした」

 アリカ先輩と会っていたのを見られたのだろうか。なんだ? 僕は今脅されているのか? あんな僕を見て、他人がわからず、怖くて、自分を隠し続けてきた浅く醜悪な僕の一端を見て、

「そんな貴方を、私は好きになりました」

 なぜ、この子はこんなことが言えるのだろうか。

「わたしにも、あの笑顔を向けてほしいって……貴方の本当を教えてほしいと思いました」

 心の中がパンドラの箱のようだ。

 一端とは言え自分の本質を知られてしまった恐怖、これからもばれることがあるかもしれないという恐れ、大森さんに言いふらされるかもしれないという畏怖、自分の立ち位置が砂上の上に立っていたことの不安さ。

 そして、彼女なら――。そんな、僕の本当を知りたいと言ってくれた彼女へのほんのわずかに残った希望。

 この子なら、本当の僕を受け止めてくれるのではないだろうか。もしかしたら、僕に「幸いへの切符」を手渡してくれるのは、この子なのかもしれない。

 大森さんは、僕に手を伸ばす。

「だから先輩、いきなり付き合ってくださいとは言いません。今より少し近い位置に……わたしと友達に、なってください」

 その手を僕は、

「うん。君の言いたいことはよくわからないけど、友達としてなら」

 せいいっぱいの虚勢とともに、握り返した。

 照れたように、でも幸せそうに笑う彼女に、僕はうまく笑顔をつくれないまま彼女の手のあたたかさを感じていた。自分の手の冷たさが、心に残った。



 その日、授業をさぼって図書室に向かったのは、昼休みに先輩に会わなかったことが、しこりのように感じたからだ。

 時々貧血だなんだと授業を抜ける僕は、すっかり病弱のイメージがついてしまったらしい。教師にその旨を伝えると、二つ返事で了解をもらえた。

 アリカ先輩以外はいないとわかりながらも、こっそりと扉をあける。

 人の存在がごっそりと抜け落ちた図書室は、僕に空虚さより薄荷を口に含んだときのようなほのかな甘さとなつかしさに似た安心感を心に植え付ける。

 そのままひっそりと足音を忍ばせて、全集のある奥の本棚を目指す。

 アリカ先輩は、今日も変わらずそこにいた。

 窓際で方膝をつき、入ってくる日の光に少しだけ目を細めながら、いつも僕が座っている場所にある花瓶に咲いた花を、ちょんちょんと指でつついている。

 膝には青い装丁の全集が置かれていて、ページ前半のところで黄色い栞が顔を覗かせていた。

「せんぱ――」

 いつもどおり声をかけようとして、息が止まった。

 いつも笑顔を浮かべたりむくれたりと表情のころころかわる先輩が、無表情に近いぼんやりとした表情を花に向けていたから。

 その姿が、ひどく孤独そうで。

 光に透ける麦穂色の髪が、今にも溶けて消えそうに思えて。

 さびしそうなのに、どこか微笑んでいるような嬉しさがかいま見えた気がして。

「――アリカ先輩!」

 すがるように、その肩を掴んでいた。

「え!? 秋哉くん? どうして」

 消え去ってしまいそうな気がして。

 僕は、その言葉を呑みこんだ。

 驚いて目をパチクリするアリカ先輩は、僕がよく知るいつもの先輩だった。

「秋哉くん、痛いわ」

「あ……すいません」

 何をしているんだ、僕は。

 恥ずかしさで染まっているだろう頬を隠しながら、僕はいつの間にか強く握っていた肩を放した。

 先輩は何度か確かめるように腕を振ると、そのまま胸の前で組む。

「さて、もう一度聞くわ。どうして君がここにいるのかしら、秋哉くん」

「え~と……」

 昼休みに顔を合わせていないのがしっくりこなくて。そんな本音がいえるほど、僕は正直な人間ではない。言葉に窮していると、アリカ先輩は仕方ないと言いたげに溜息をひとつ。

「私が言えた義理じゃないけれど、授業には出ておいたほうがいいわよ、秋哉くん」

「本当に言えた義理じゃありませんね」

「生意気」

 痛くないデコピンを喰らって、僕は花瓶にとられた場所の真下、窓際の床に座り込んだ。

「こら、戻りなさい」

「少し、体調がすぐれないんですよ」

「うそつきなさい」

「じゃあ、心がすぐれないんです」

「うそつき」

「いいじゃないですか、そうしないと生きていけないんですから」

「駄目です。戻りなさい」

 立とうとしない僕に、先輩は珍しく強固な姿勢を見せていた。いつもなら、なんだかんだで「仕方ないわね」とあきれたような笑顔を浮かべるはずなのに。

 それが、今まで僕を受け止めてくれる温かい場所だったはずだ。

「秋哉くん、戻りなさい」

 アリカ先輩の目は険しい。今まで僕には一度だってそんな鋭い視線を向けたことはなかったのに。

 本当に先輩のように、彼女は僕をまっすぐ見つめていた。

 拒絶という、初めての意志を宿して。

「せ、先輩?」

「君にはやるべきことがあるでしょう」

 さぼったことを怒っている? でも、それは今まで何度もあったことだ。今さら、この人が怒り出すようなことだろうか。

 彼女はそのまますっと扉を指さす。言いたいことは明白だ。

「……わかりました、すいません。放課後、またお邪魔します」

「――今日の放課後は、用事があるから来ないわ」

「……わかりました、また」

 アリカ先輩の顔を見ることはできなかった。学校で――世界で唯一誰かと笑顔でいられる場所を、なくしたくなかったから。



 授業が終わり、部活へ帰宅へと慌しい教室で、僕はポツンと一人途方にくれていた。

 やることがないのだ。

 今日は図書委員もあたってはいないし、緊急の用事もない。

 いつもなら図書室へ向かうのだが、今日はその選択肢をとることはできない。

 アリカ先輩は、用事があるならいないだろう。それでは、意味がない。それに、もし仮にアリカ先輩がいつものところに座っていたら、いたたまれない。

「あぁ、こんな放課後は久しぶりだ」

 ぽっかりと空いてしまった時間は、きっと以前なら感じることのなかったものだ。寂しいのは当然で、一人でいるのが当たり前だった。感じるまでもなく、つねに傍にい続けた感情だ。

「すっかり毒されてしまった」

 それを悪くないと思う自分に、周りにばれない様に口元を隠して笑った。

 帰ろう。

 このまま学校内にいても、意味はない。むしろ、いろいろなことを考えてしまって、深みに嵌るだけだろう。

 何より僕にも、考えなければならないことがある。大森さんとどう接するべきか、どうやって距離を置くべきか。

 僕の仮面を維持するために、いか様にして彼女を排除するべきか、家でじっくり考えるとしよう。

 そう結論づけ、玄関口で靴を履き替えたところで、

「か、桂先輩!」

 件の女の子が、少し声を上ずらせながらそこにいた。

 とたん、仮面がひび割れる。

「やぁ、大森さん。こんなところで奇遇だね」

 今の自分は、いつもの笑顔を浮かべられているだろうか。本心が、醜い僕が、異端者が顔の覗かせてはいないだろうか。

 彼女には見破られている。もしまた指摘されれば、僕は外を歩けなくなる。

 自信なさげに見上げてくる真っ赤な顔すら、僕には悪鬼のように見えた。

 彼女は、赤いメガネフレームの奥で瞳を揺らしながら、キッと僕を見上げる。

「あの、良ければ一緒に帰りませんか!」

 何故? と口にしようとして、今日彼女から結ばされた約定を思い出す。

「そうだ、友達づきあいをするんだったね」

 一緒に帰るぐらいは許容範囲だ。頷いた僕に、大森さんはうれしそうに頷いて、照れて顔を伏せた。

 その姿を、僕はうらやましく思う。

 彼女の反応はあまりにも真っ直ぐに普通で、裏表がなくて――それは、僕が望んでも手に入らない真っ当だった。

「大森さんは、自転車だっけ? 僕は徒歩なんだけど」

「は、はい知ってます。あの、途中までは押して帰りますから」

 そう言って傍らの自転車を押す彼女に、僕は並んで歩き出した。

 最近はめっきり冬めいてきて、目に入るのは黄昏の輝きと薄い紫のトバリだ。一日の中でもこの時間にしか見られない景色。

「あ、あの! その、えと……き、綺麗な夕焼けですね!」

「ああ、そうだね」

 それが気色悪いと思うのは、きっと普通ではないのだろう。

 だから、僕は『桂秋哉』の仮面を手放せない。彼女のような真っ直ぐな子と向き合うのに、元の僕は醜く過ぎる。

 大森さんの話す内容は、僕も乗りやすいように本や委員会の話が中心だ。彼女はそれを、真っ赤な顔でおっかなびっくり僕に向ける。

 その心遣いはうれしかった。でも、身近である内容だからこそ、僕と彼女に認識のズレが浮き彫りになっていく。

「わたし、思わず笑っちゃいました」

「僕もそこにいたら、笑ってたね」

 それは、まるで拷問のようだった。

 彼女の柔らかい微笑みは、僕の心をゆっくりと削っていく。

「そ、そういえば! 先輩はあの……あの、本読みました?」

「話題の『感動巨編!』って帯のやつだよね。読んだよ、主人公に感情移入して泣きそうになったよ」

 どの口が言うのか。

 感情移入? それができないから、他人がわからないから、僕はこんなに苦しんでいるのに。

 仮面に隠した僕の本音は、かすかに痛みを残して消えていく。

 いつも、いつもそうだ。

 誰も気づいてくれない。

 誰にも気づかれたくない。

 なんて矛盾だ。でも、それが長年かけて築いてしまった、桂秋哉という人間のカタチだった。

 きっと変えられない、変えることなんてできないのだ。

「……」

 そこでふと、大森さんが黙ってこちらを覗き込んでいるのに気が付いた。

「どうかした、大森さん」

 問いかけても、彼女は返事をせず、僕を見つめている。そこに、さっきまでの少し恥ずかしそうに話題を投げかけてくる小さくひ弱な存在はなかった。彼女の目は、夕日を映してかすかに赤く光っていて。

 誰かの、麦穂色に似ている気がした。

「桂先輩、無理に笑ってもらわなくていいんです」

 だから、反応が一瞬遅れた。そのことに気が付いて、慌てて笑顔を取り繕う。

 しかし、それが無駄であることは、大森さんの微笑みを見れば一目瞭然だった。

 それでも、取り繕う。

「なんのことかな?」

 そうしないと、生きていけないから。

「先輩、わたしが告白した言葉を覚えていますか」

 本当に、目の前にいる彼女は大森七香 なのだろうか。いつも照れて顔を伏せ、あわあわと真っ赤になっている小さな女の子。そう思っていた彼女は、ふんわりと優しさに満ちた光で、赤いフレームの奥――僕を映している。

「桂先輩、わたしは先輩の本当の笑顔が見たいです。いえ、笑顔じゃなくてもいいです。つくりものじゃなくて、心から溢れる顔が見たいです」

 それは、数時間前に僕の秘密を暴いた言葉だ。僕の心に、楔を打ち込んだ台詞。

「わたしは、偶然ですけど先輩がずっと本当の心を隠してきたことを知ってしまいました」

 聞きたくない。そう思いながら、胸の奥で彼女の言葉に必至に声を傾けている自分がいる。

「もう知っているんです、先輩。だから、わたしには、そんなにちゃんとしなくていいんです」

 心のどこかにあったのだ。指摘されたかったと。僕の醜い心を、暴いてほしかった。

「いや、別にそんなこないよ」

 でも、口は否定の言葉を発する。その根源を、僕は知っている。ただの恐怖だ。

 だって、理解されたくないんだ。こんな感情は。わかってほしくなんて――

「秋哉先輩、わたしは貴方のことなんてわかりません」

 思わず、彼女の顔を見つめていた。ちょっと困ったように笑う大森さんは、続ける。

「どうして自分の心をそこまで隠さないと駄目なのか、何がそこまでさせるのか。わたしには、わかりません」

 だから、教えてください。

 消え去りそうな声が、それでも確かに僕に届いた。

 彼女の手袋に包まれた手が、僕の手を握る。布ごしでもそこには確かに温かさがあって、僕の笑顔はいつのまにか下手くそになっていた。

「今すぐ、とも。全部、とも言いません。少しずつでいいです。見せられないところは、一生秘密でもかまいません。

 だから、少しだけ。本当の秋哉先輩を教えてください」

 彼女に秘密を暴かれたとき、かすかにあった感情を、僕はやっと理解した。

 認めて欲しかったのだ。人を欺いて生きる、みっともなく愚かな僕を。

 僕の目は、いつの間にか大森さんに釘付けになっていた。それに気がついた彼女は、慌てて包んでいた手を離すと、顔色をぱたぱたと変えるいつもの『大森さん』になった。

「あ、あの! えと、えらそうに言ってすいません。か、帰りましょうか桂先輩!」

 そう駆けていく背中に、僕は声をかける。

「待って、七香さん。少し寒いし、どこかでお茶でもして帰ろう」

 えぇ! とまた顔を赤くする彼女に、僕は微笑む。それはまだまだ仮面をつけた笑顔だったけれど、きっとただ偽物なわけではないと思った。

 その喜びを、少しでも彼女に伝えたかった。

 そして、夢を見たのだ。僕はもしかしたら、真っ当になれるんじゃないかという儚い夢を。



 このささいなきっかけから、僕と七香さんの本当の意味での友達付き合いは始まった。

 毎日、授業が終わると廊下で僕を待つ彼女に、すっかりクラスの友人たちに冷やかされた。そんなんじゃないと否定しても無意味なことはわかっていたから、僕は呆れたような顔と「ちがうよ」という言葉だけを残して彼女のところへ向かう。

 元々図書委員会などで同じコミュニティに属していたからか、共にいる時間は以外にも多かった。

 よほどの用事がない限り、お互いの下校まで図書室で待ち、夕暮れの中を帰る。時々商店街に出かけて、少しお茶をしたり書店をひやかしたりして放課後を楽しむ。

 僕と七香さんは、そんなふうにして自然に時間を重ねていった。七香さんは、いつのまにか僕を「秋哉先輩」と自然と呼べるようになっていた。

 それでも、彼女が恥ずかしがり屋なのは変わっていない。

 隣を歩く距離が半歩でも近づくと、そのたびに体をびくつかせて、一歩離れて、また慌てて距離をつめてくる。

 そして、赤みがさした顔でほのかに笑うのだ。

 その姿はまさに小動物そのもので、思わず笑いがこぼれてしまう。

「な、なんですか秋谷先輩」

「いや、何も」

「先輩!」

「いや、可愛らしいと思ってね」

 そうすると、顔を真っ赤にして「秋哉先輩……」とボソボソつぶやきながら黙ってしまうのだ。

 その姿を、僕は愛しいと思う……ことはなかった。

 本当は、可愛らしいとすら思っていない。生きづらそうだな、というのが感想だ。思っていることがあんなに顔に出てしまったら、僕ならきっと表を歩けない。

 彼女と時間をどれだけ繋いでも、僕が心の中でつぶやく言葉に変化はなかった。

 ずれているのだ、どうしようもなく。

 ただ。

「行きましょう、秋哉先輩」

 そう先を歩きながら微笑む彼女の懸命な姿を見ると、心に違和感を覚えるようになっていた。

 胸ポケットにカイロを入れたような、温かさに少し届かない温い温度。

 彼女の感情は理解できない。ただ、そのひたむきさに、時々見せる強さに、僕の温度は少しずつ上がってきている。

 まるで、ようやく心臓が鼓動し始めたように。ゆっくりとだが確実に、僕の中で何かが始まっているような気がした。

 この気持ちの、感情の正体が僕にはわかららない。ただ、思うのだ。この気持ちを理解することができる日がきたならば、僕はきっと待ち望んだ普通になれるのではないだろうか。

 他人を理解し、心から笑い、一緒に苦しみ泣くことのできる、そんな当たり前を当然のように行える人間になれるのではないか。

 彼女となら、普通に生きていけるのではないだろうか。

「じゃあ、秋哉先輩。ここで」

「ああ、さよなら」

 いつもの交差点でそう別れを告げると、七香さんは僕が見えなくなるまで手を振り続けていた。

 僕も手を振りながら、胸の中に燻る温度を確かめる。

 はやく、これに名前をつけなければいけない。それが、今感じている僕の望みだ。そうすれば、七香さんの心を理解できるかもしれない。きっかけをくれた彼女に、きっとお礼だってできるのだ。

 心のわからなかった僕が、心からの贈り物で誰かを喜ばせる。それは、今は想像できないぐらいの幸福だろう。

「アリカ先輩なら……この答えを教えてくれるだろうか」

 見上げる夕日の橙の世界は、あの麦穂色の髪を思わせた。

 もう、何日あの姿を見ていないだろう。これまでは、二日と空けて話さないことなんてなかった。昼休みや放課後にあの全集に囲まれた狭い場所に行けば、アリカ先輩はパイプ椅子に片膝をついて全集を広げたり、船をこいでいたりする。それが当然で、当たり前の光景だった。だから、僕はこんなに簡単にその『当然』が崩れ去ることなんて考えていなかった。

 アリカ先輩はそれこそ学校で知らない人がいないほどの有名人だ。「妾の子」、そのたった一言と目立つ頭髪や顔立ちは、遠目からでも一目で見分けがつく。

 平穏を得るために仮面を被り続ける僕が、そうやすやすと面とむかっていい人ではないのだ。あの誰も邪魔のはいらない場所が特別で、そこから一歩でも出れば、学内では決して接していい相手ではない。僕にとっても、アリカ先輩にとっても。

 毎日、時間を見つけては全集棚へと足を向けた。

 しかし、そこにあるのは一輪のコスモスを飾りつけた花瓶と、宮沢賢治の全集が置かれたパイプ椅子だけ。

 シートに触れると、かすかに温かみがある。つい先ほどまで、彼女はそこにいたのだろう。なのに、僕が来るとまるでそれが幻であるかのように掻き消えてしまう。

 まるで、今までの全てが幻想だったように、思い出は作り出した妄想と見間違いそうになるほどに。

 めくった全集には、名作が並ぶ。

『双子の星』に『貝の火』、『ひかりの素足』や『よだかの星』……そして、『銀河鉄道の夜』。

 お互い、椅子に半分ずつ座りながら読み合わせたのは、わずか一週間前。そのはずなのに、実感はうつろで本当にあったことかすら自信が持てない。

 ただ、頬をこそばす麦穂色の髪だけが、僕にとってあの時間を証明する感触だった。

 こんなにも、あっけないのだ。

 ただ、アリカ先輩が気まぐれを起こしていなくなるだけで、僕はあの人に声をかけることすらできない。

 絶対だと思っていた関係は、氷上ですらない、雲のようにうつろうものでしかなかった。

 だからこそ、切に願う。

「会いたいです、アリカ先輩」

 伝えたいことがあるんです。

 少しだけ、人の心に近づけた気がするんです。他人に、貴方以外の人にわずかだけでも歩み寄れた気がします。

 この気持ちを伝えられるのは、共有することができるのはアリカ先輩だけです。

「まったく……必要なときにいないんだから、カンパネルラは」

 そう、一人呟いたときだ。

 視界の端に、ふわりと見覚えのある色が通り過ぎた気がした。

 それは、本当に一瞬だ。公園の中に駆けていったように見えたのは、確かに麦穂色。

 追って、駆け出していた。

 僕の思いが生み出した幻想かもしれない。そう考える片隅で、僕があの髪を見間違えるはずがないという確信がある。

 公園に入りあたりを見回すと、少し離れた公園の真ん中あたりで、ずっと探していた後姿を見つけた。

 何も考えずかけつけ、その腕を強く掴む。

「アリカ先輩!」

 振り返ったその西洋の血が混じった容姿は、間違いなく白木院アリカその人だった。驚いて髪と同じ色の眼をまん丸にしている彼女の表情を見て、自然と頬が緩む。あぁ、変わっていない。図書室の片隅での日々は、僕の幻想ではなく確かに刻んだ記録だ。彼女と会うことで、僕はやっとそれを確信する。

「秋哉くん、痛いわ」

「あ……すいません」

 それでも、僕は手を離さない。今離してしまえば、アリカ先輩は風のようにするりと僕から通り抜けてしまうような気がする。

「離して、秋哉くん」

「いやです」

 即答する。

「私はこれから家に帰るのだから、困るわ」

「じゃあ、今日まで僕を避けていた理由を教えてください。納得すれば離します」

「避けてなんかいないわ。ただ、たまたまタイミングが噛み合わなかっただけで」

「じゃあ、どこにいたんです?」

「ええと。ほら、屋上とか」

 目が泳いでいる。とことん嘘のつけない人だ。笑うより先に、心配になってくる。こんなので、彼女の肩にかかる重圧に耐えられるのだろうか。

 だから、僕は優しく指摘する。

「探しに行きましたよ。ご飯のときに使ってるところですよね」

「えーっと、南棟の空き教室とか」

「あそこ、今理学部の発表作品の保管場所になってます」

「そう! 中庭の死角に」

「あそこ自体は死角ですけど、そこに行くまでの道はどうしても僕の教室の窓から見えるんです」

「えーと、あと……」

「――素直に授業に出てた、といえば反論できなかったんですけどね」

 あっ、と顔を上げた彼女は、それ自体が最大の失策であることに気がついて顔をふせる。

「……いじわるね、秋哉くん」

 本当に、この人は。どうしてこうも、無防備でいられるのだろう。どうしてこうも無防備にさせるのだろう。

「説明をお願いします。さすがに納得できません」

 アリカ先輩は、何度か顔を上げたり伏せたりして悩んだ後、つないだ手をゆっくりと眺めて、頷いた。

「わかったわ。降参よ」

 だから……と、先輩は少しだけ顔を朱に染めてポツリと呟く。

「もう少し、人の少ないところに行きましょう。さすがにこの格好はまずいわ」

 慌てて手を離さなかった僕は、褒められていいだろう。

 アリカ先輩は僕の手を引くと、雑木林の茂った方へと向かっていく。スカート姿も気にせずに、ずんずんと奥へ進んでいった先にあったのは、落下防止用の腰ほどまでの柵。山を切り崩して建てられたこの場所からは、町を一望することができた。

「秋哉くん、もう逃げないから手を離してくれないかしら」

「……」

「先輩を信じなさい。ここまできて、ごまかしたりしないわ」

 僕は、ゆっくりと手を離す。アリカ先輩はそれに少しだけ微笑むと、柵に腰かける。遠くに見える町の光と暮れていく日の光が、彼女をどこか遠くに連れ去っていくような気がした。

「危ないですよ」

「大丈夫よ。慣れているもの。でも、秋哉くんは座っちゃ駄目よ」

 どこかおどける彼女はいつもどおりに見える。でも、どこか儚げに揺らめいている瞳は、彼女の拒絶された日の図書室を思わせた。

「まず、嘘をついたことは謝るわ。私は、君を避けていた。秋哉くんの予想は正解」

 何故、と口に出す必要はなかった。僕を見つめる優しい表情が、わかっていると頷いていた。

「理由は簡単よ。彼女に悪いでしょう?」

「彼女って、誰の」

「わかっていることを聞かないで、秋哉くん。大森七香さんのことよ」

 どこでそれを、と口に出そうとして留まる。アリカ先輩が、僕を避けだしたのは告白された日の図書室からだ。

「あの時、先輩はあそこにいたんですね」

「突然大森さんが来たから、思わず掃除ロッカーに隠れちゃったの。フィクションではよくあるけれど、実際にやっては駄目ね。雑巾の臭いがしばらく鼻から離れなかったわ」

 盗み聞きしてごめんなさいね、と謝る彼女に僕は少し語尾を強くする。

「彼女とは! ……七香さんとは付き合っているわけでは」

「知っているわ。私もあの場にいたんだもの。だからこそ、言える。

 秋哉くん、君は大森さんと共にいるべきだわ」

 呼吸をするのを忘れた。アリカ先輩から紡がれるのは、希望だ。

「秋哉くん、君が望んでいたものはなにかしら。秋哉くんの『幸い』は何?」

「そんなの……わからないです」

 僕の本質を唯一ちゃんと知っている彼女は、助言を間違えない。僕にとって正しい道を、違えない。

「いいえ、わかっているはずよ。秋哉くんの望みは『人の気持ちを理解できて、普通の人と同じことを感じる。当たり前の人間』。違う?」

 違わない。間違わない。たしかにそれに焦がれていた。普通ができれば、どれほどいいだろうと。普通に生きることができれば、そう何度自分を恨んだかわからない。

「でも、そんなの無理です。僕には、できません」

 だからこそ、これまでの人生をずっと苦しんできた。そんな苦しさを隠すために、笑顔で作られた仮面を被り続けてきたのだ。

「いいえ、できるわ秋哉くん。君なら……君と彼女なら、できるわ」

「何の確証があるんですか! そんなの、貴方の戯言だ!」

 アリカ先輩に声を荒げたのは初めてだ。自分でも驚くほどに荒く大きい言葉は、それでも夕焼けの向こう側に消えていく。

 僕の叫びは、あまりにも無力だった。

 先輩は、困ったように微笑んでいるだけだ。母親のような笑顔に、心がざわめく。

「秋哉くん」

 先輩の細い指が、僕の胸の中央に触れた。

「ここに芽生えた気持ちに、気がついているでしょう」

 僕は、答えられない。アリカ先輩に会ったら、自分から言おうと思っていたことのはずだ。なのに、言い当てたられた言葉は、深く深く僕の温かだった場所に突き刺さる。

 あぁ、そうだ。

「その気持ちを育てていけば、きっと秋哉くんの『幸い』に手が届く。きっと君は、望んだ誰かになれるわ」

 これは、いつのもの別れの言葉だ。

「僕は……そんなの望みません」

「嘘が下手ね、秋哉くん」

 クスリと、アリカ先輩は笑った。

「……どうして、そう思うんですか」

「私と君は似てるもの。私の希望は君の望みに似ていて、君の希望は私の望みに似ているの。だから、わかるわ。誰よりも、何よりも」

 僕だって、最初からこの人に嘘がつき通せるなんて思っていなかった。

 似ているのだって当然だ。だからこそ僕は、仮面を外してこの人と笑いあうことができた。決して人前では外せない仮初めを、なかったことにできた。

 だから、きっと彼女のいうことは正解なのだ。どれだけ残酷でも、限りなく正しい。

「ただ違うのは、君は崖っぷちに立っていることと、私が君の一歩先にいるということ。

 私では、もうそれを手にすることはできないの」

 アリカ先輩の孤立は、内面的なものより外面的な要因が大きい。例え心が普通になったとしても、妾の子としての立場が彼女の普通を許さない。

「だから、これは私のわがままではあるの。もう、私はその望みを二度と手にすることができない。けれど、君がそれを手にする手伝いができれば、きっと私はすごく嬉しい。私が、君の『幸いへの切符』の橋渡しができたなら、きっとあの場所に意味はあったと思える」

 僕には、僕だけには彼女がどれほどの渇望を抱いているかわかる。僕たちのような人間は、ずっとある一つの思いを胸に抱えている。

 僕が生きていることに意味があるのだろうか、と。

 絶対に答えの出ることがない問いだ。だからこそ、僕らは堂々めぐりを繰り返す。そこにもし答えらしきものを見つけたなら、僕だって迷わず飛びつくだろう。

 そうだ、これは一つの答えなんだ。

 僕が七香さんと共に生きることを選べば、ずっと望んでいたものになれる。アリカ先輩も自分が生きてきた意味を一つだけ見出せる。

 それは、誰も苦しまない綺麗な模範解答だった。

「だから、私はもう君に逢わないわ。どうせ、もうすぐお別れだったのだし。新しく踏み出すのには少し早いけれど、今がその時なのよ」

「そうですね、そうかもしれないです」

 僕は笑った。夕日の光に目を細めると、アリカ先輩は橙の光に呑まれて消える。

 霞がかった視界の中で、アリカ先輩が微笑んだような気がした。

「さようなら、秋哉くん。そう長くない間だったけれど、楽しかったわ」

「……僕もです」

「だから、忘れなさい。君は君の『幸いへの切符』を取りに行きなさい」

「――はい」

 目を開くと、そこに彼女はいなかった。まるで、初めからいなかったように麦穂色の光は消えていた。



 あの人と別れてから、一月が経とうとしている。外の景色は冬の装いを始め、図書室には暖房の音と受験生たちの必死な様子が見られるようになった。

 七香さんとの関係は良好だった。

 まだ告白の返事こそしていなかったが、僕はもう彼女と一緒にいることに苦痛を感じることが少なくなってきていた。

 同級生からのからかいも、もう否定する気にならなかった。

 それでもいい、いや――そうならなければという気持ちのほうが強かった。

 僕も、あの人が言っていたことがなんとなくわかり始めていた。

 きっと僕は、普通になれる。

 最近は、そんな予感がするのだ。それはきっと、彼女の優しさにたくさん触れたからだろう。

 同級生の相談に乗って、話を聞いているうちに彼女が泣いてしまう場面に立ち会った。

 町を歩くとき、困っている様子の人に声をかけた。そのせいで予定がくるってしまったことを、彼女は本当に申し訳なさそうに僕に詫びた。

 僕が嘘で笑おうとすると「いいんです、秋哉先輩は秋哉先輩で」と醜い僕を許してくれた。

 心の中の温かさが、ゆっくりと僕全体を覆っていった。

 これがきっと、普通になるということだ。

 誰かに共感し、思いを同じくし、一緒に泣いて笑うことのできる人間。

 僕は、それに近づいている。

 今は、そう信じることができた。あの人と別れることで、僕は『幸い』に迷わず走ることができていた。

 今日も、図書室の奥の椅子に座りながら彼女を待つ。どちらか片方が図書当番にあたっているときは、そうやって待つのがいつの間にか僕たちのルールになっていた。

 やがて、図書室からシャーペンを走らせす音が消え、人の姿も見えなくなった頃、下校を知らせるチャイムが響く。僕が読みかけの本を閉じると同時、七香さんが僕に小走りで寄ってくる。その手は、重そうに五冊の分厚い本を抱えていた。

「ごめんなさい、秋哉先輩。待たせましたか」

「ううん、読みたい本もあったしね。かまわないよ」

 そう笑顔をつくりながら、彼女の手元を指さす。

「全集?」

「あ、はい。現文の西野先生が使われたみたいで、返却しておいてくれって」

「そっか」

 僕は何も言わずに彼女から、三冊の全集を奪う。女性には重たいだろう。七香さんは何か言いかけたが、僕が歩き出すと背中についてきた。

「ありがとうございます、秋哉先輩」

「かまわないよ。女の子にこんな重い物は持たせられないし。ほら、全集の棚には彼女がいるかもしれないからね」

 照れたように笑う七香さんを見ると、心の温度が少しだけ温かくなる。もしかしたら、これが人を思いやることなのかもしれない。

 間違いない、僕は普通に近づいている。あの人の言うとおり、もう少しで普通に生きられる。

 ずっと望んでいた『幸い』に手が届くのだ。

 ――本当に?

「七香さん、残りも載せて。これは僕が片付けてくるから、帰る用意をしてくるといい。今日は久々にお茶して帰ろうか」

 僕は気を使ってそう告げる。図書委員にとって、あの人の存在は周知の事実だ。だから用事がない限り全集棚には近づかない。

 この学校にとってあの人は、それほどまでに異端なのだ。

「いいえ、大丈夫ですよ」

 しかし、七香さんは首を振ると、僕の後についてきながら、言った。


「あの人は、もういませんから」


 足が止まった。仮面がひび割れていくのがわかる。

 立ち止まった七香さんが不思議そうに覗き込んできても、ひび割れた仮面を元に戻せない。

 今、彼女は何と言った?

「七香さん」

「は、はい?」

「あの人がいないっていうのは……どういうこと?」

 きっと、僕を迎えに来る前に、本棚を覗いたのだろう。だから、今彼女がいつもの場所にいないことを知っている、それだけだ。

 だから、この背筋が凍るような悪寒は気のせいに違いない。

 戸惑いを表情に浮かべながら、七香さんは答える。

「えと、わたしもさっき司書さんに聞いて初めて知ったんですけど」

 大丈夫だ。僕と彼女は、もう関係ない人間だ。だから、どんな答えを聞いたって――

「留学、するらしいですよ」

 仮面が割れて、落ちる音が聞こえた気がした。

 慌てて顔に触れると、そこにあるのは冷え切った頬だけで、いまさらにその心細さに気がつく。

 左手で顔を覆い、必死に無様な仮面を形作る。

「この時期に? もう卒業じゃないか」

「えと。うちは私立で単位制じゃないですか。留学も単位に換算できるはずですから、それで卒業要件を満たすんじゃないでしょうか」

 でも、作れない。形が。思い出せない。外れた仮面を、必死に探す。どこにいった……どこにいったんだ、桂秋哉。

 桂秋哉には、あの人は必要ない。普通に生きることを選んだ。あの人が得られないものだからこそ、手にいれることができる僕は決してそれを見逃さずに生きると決めた。

 だから今、心を揺らすわけにはいかないのだ。僕は平然と、彼女がいなくなることを受け止めなければいけない。

 頬に、温かさ触れた。

「秋哉先輩、大丈夫ですか。つらそうですけど」

 冷え切った僕の頬に、七香さんはおっかなびっくり手を伸ばしていた。恥ずかしいのだろう、顔を赤くしながらも表情は僕を思ってくれている。

 仮面に、指が触れた。急いで手繰り寄せて、貼り付ける。

「……うん、少し立ちくらみしただけ。大丈夫だよ、七香さん。さっさと本を戻して帰ろう」

「秋哉先輩……」

 まだ不安そうな七香さんに、笑顔を向ける。

 そうだ、大丈夫だ。

 僕には今、僕のことを思って一緒にいてくれる人がいる。醜い僕を受け止めてくれる子が、傍にいる。

 普段より薄い仮面で接することのできた、初めての『普通』の女の子がいる。

 だから、僕はきっと大丈夫だ。

 僕は、全集と銘うたれた本棚を曲がる。

 パイプ椅子はなかった。それどころか本棚の間にあった雑誌すらなくなっていて、ここにいた誰かの痕跡は、完全に消えていた。

 揺れそうになる心に、必死に言い聞かせる。

 あれは、幻だったのだ。

 奇跡のように柔らかな時間は、きっと僕が見た夢で、この哀愁は名残にすぎない。

「そっちの本はよろしく」

「は、はい。わかりました」

 重い全集を、一冊一冊戻していく。

 最初は、『志賀直哉全集』。これを枕にして寝ていて、あの人は首を痛めてうんうんうなっていた。

「もう日もだいぶ落ちてきたね。名残惜しいけど、お茶は今度にしようか」

 そして、『太宰治全集』。暗いわ、重いわと言いながら最後まで読みきって、しばらくは口調が古臭くなっていた。

「次はどこに行こうか。紅茶がおいしいお店を探してみるもいいかもね」

 三冊目は『森鴎外全集』。髪に絵の具がついたとき、必死に頭を隠していた本がこれだ。おかしくて笑ったら、頬を膨らませて抗議してきた。

「あと、それに――」

 そして、森鴎外全集の隣に納められた『宮沢賢治全集』。

 パイプ椅子に二人座って、銀河鉄道を旅した。カンパネルラに手を引かれて、輝く世界に導かれた。きらきらと光を吸い込む麦穂色の髪の感触が、頬に残っている。

「それ、に――」

 抜き出して、ページをめくる。

 『双子の星』に『貝の火』、『ひかりの素足』や『よだかの星』――。

 そこで、僕は見つけた。

 夕日の色を受けて光る、麦穂色の細い細い一本の髪。

 それが、栞のように挟まっている。

 アリカ先輩が、確かにここにいたことを証明するように。

「うっ――っ――」

 堪えることができなかった。仮面が跡形もなく砕け散った気がした。後ろに七香さんがいることがわかっているのに、流れ出す涙を止められない。

 本の重さに耐え切れず、僕の手から全集が落ちて、大きな音を立てた。

「せ、先輩? どうしたんですか」

 異変に気がついた七香さんが、僕の背中に手を添えながら優しい声を響かせる。本当に僕を思ってくれていることがわかる、心に染みていくような声だった。

 でも、僕の涙は止まってくれない。

「忘れるなんて――なかったことにするなんて、無理です」

 だって、僕の中に彼女はこんなにあるのだから。彼女をなくすことは、心をなくすことと変わらない。

「――アリカ先輩……」

 落とした本を目で追う。そこにはまだ、あの日々の温かさが残っている気がした。

 落ちた本は、風に吹かれてページをめくっていく。

 ぱらぱらと、中の文章とは対称的に、軽く薄っぺらくばたついていく。

 そして、唐突に止まった。

 銀河鉄道の始まりのページに、何かが挟まっている。あれは手紙だろうか。素っ気ない白の封筒に書かれた文字には、見覚えがある。

「せん、ぱい――」

 手が伸びる。あと十センチで手紙に触れることができる。

「秋哉先輩!」

 背中に衝撃が走った。そして同時に、温かく柔らかい感触が背中全体を覆う。

「秋哉先輩」

 七香さんが、僕の背中に抱き、そう呼ぶ。子どもをあやすように、包み込むように優しさが伝播してくる。

「わたしでは、あの人の代わりになれませんか? そばにいます。ずっと、一緒にいます」

 優しい約束だった。夜眠るときに入った布団のような安息が、僕の中の温かい部分から広がっていく。

「あの人は……僕にとってのカンパネルラだったんだ」

「でも、カンパネルラはジョバンニを置いて行ってしまったじゃないですか。わたしなら、先輩を一人にしません」

 少し前まで、一日の中で一番心を落ち着けることのできた場所。彼女といると、それと同じものを感じることができる。

 きっとこれは、人をわからない僕にとって存外の『幸い』だ。こんな奇跡、そう簡単には起こらないだろう。

 このまま生きていくことができれば、僕はきっと幸せだ。

 でも、

「ごめん」

 小さな力を分けてくれた手を、僕は優しく振り解いた。

「それでも、一人で旅立つカンパネルラを、ジョバンニが見逃す理由にはならない」

 そして、手紙に手を伸ばす。


 名前も知らない誰かへ

 

 そこに書かれた流れるような美しい、でも少しだけハネがつりあがったクセのある文体は、確かにアリカ先輩のものだった。

 糊付けされた封筒の中には、薄い桜色の便箋が2枚入っている。

 僕は、少しだけ躊躇って開いた。


 名前も知らない誰かへ。

 私は、醜く弱い人間でした

 

 手紙は、そう始まっていた。


 この手紙も、本来は残しておいてはいけないものだとわかっています。もし仮にこれを彼に見られれば、全ては無駄になるでしょう。……いえ、それ以上に恥ずかしくて死んでしまうでしょう。

 彼にすべて知られること、それは今私が一番恐れていることです。でも、残さずにはいられなかった。この気持ちを、なかったことになんてしたくなかった。

 だから、こうして形を残したいと思いました。私の『幸い』が溢れていたこの場所に。

 

 彼が誰を指すかなんて、考える必要はなかった。


 私は、実に醜い人間でした。

 みんなが私を嫌いました。

 色のはげた汚い髪だと、一見しては貶めました。

 家の人たちは、私の顔を見ただけで、いやになってしまうという具合で。

「本当に白木院のつらよごしだよ」「ね。まあ、あの目色の醜いこと。きっと、かえるの親類か何かなんだよ」

 こんな調子です。

 学校で話しかけてくる人なんて、いませんでした。

 こんな名前、欲しくはありませんでした。もし、お母さんが生きていて、私が白木院でなければこんな思いをしなければよかったのではないか――そんな恨み言を死人にぶつけようとした私は、自分が本当に醜くなってしまったと自覚しました。

 私は、化け物になってしまいました。


 これは、彼女が蓋をしても止められなかった、心の灰汁だ。


 泣くことが、少なくなりました。

 それは、世界が優しくなったのではなく、人間の私が消えていく証明でした。

 恐ろしく思いながら、もうつらくなくなると考えると、待ち望んでいる私がいました。


 あの笑顔の裏に隠してきた、白木院アリカの仮面の下。


 そんな時、彼に出会いました。

 不思議な人でした。誰も近づかないはずの私の居場所に風のように入ってきて、いつのまにか私の隣で凪のように自然にい続けた人でした。


 決して表に出そうしなかった、たった一人のどこにでもいる少女の姿だ。


 お母さんの髪を、綺麗だと褒めてくれました。その後すぐに生意気な口を利いたので、顔は怒った表情をつくったけれど、私は心では笑っていたと思います。

 いえ、もしかしたら泣いていたかも知れません。


 彼女は、特別でも特異でもなんでもなかった。


 もう誰も、私の髪を褒めてくれる人なんていないと思っていたから。彼の、おそらく何も考えていないような簡単な言葉で、私は救われてしまったのです。

 不意打ちもいいところです。いじわるなのです、彼は。

 でも、私は彼に怒ることができました。ふざけることができました。笑うことができました。

 人間でいられました。


 そう、ならざるを得なかっただけの――本当に、ただのちっぽけな人間だったのだ。


 だから、私は彼を『幸い』へ導こうと決意しました。

 あの子のためなら、私は化け物でもかまいません。皆に疎んじられる醜い存在であり続けたとしても、彼を『幸い』にできたのならそれだけで私は生きていけるでしょう。

 彼を幸せにするのはきっと私ではないけれど、それでもいいです。

 いえ、私であってはいけません。醜い私が彼の傍にいれば、『幸い』から遠ざけてしまうだけでしょう。

 それは何よりも怖く……決して行ってはいけないことだとわかっています。


 これは、傷ついて、苦しんで、逃げ出したくて、それすらも怖かったはずの少女の、たった一つ抱えた勇気の証拠だ。


 だから、ここでだけ。本当のことを残させてください。

 秋哉くん、君を愛しています。

 何よりも深く、誰よりも強く想っています。

 この気持ちだけは、彼女だって決して劣ることはありません。

 秋哉くんが、私の唯一です。

 君以外は、いりません。

 秋哉くんだけの『幸い』を、私はずっと祈り続けます。

 私にこんなにみっともなく、浅はかで、恥ずかしくて、情けない気持ちをくれて、ありがとう。

 私の人生は、それはひどいものだったけれど、秋哉くんに出会えたことで、きっとこれからどんなことがあろうとも私の人生はプラスです。

 本当にありがとう。

 気持ちも心も、全部君にあげます。

 受け取らないでください。

 思い出さないでください。

 『幸いへの切符』を掴んでください。

 つらいけれど、本当につらくて、今も涙を我慢できてはいないけど。

 本当は、今すぐ君に会いにいって抱きしめたいけれど。

 秋哉くんと笑いあう未来が欲しいけれど。

 それでも私は、一生をかけて秋哉くんの『幸い』を願っています。

 大好きです。

 ありがとう。

 さようなら。


 そして、さよならと愛を込めた、精一杯の言葉だった。


「あぁ……僕は、いったい何をしていたんだ」

 彼女の中に渦巻いて吐き出せない気持ちがあることを知っていたはずだ。

 なのに僕は、気づかないふりをして過ごしてきた。あの優しい時間を、壊したくなかったから。

 その弱さが、きっと彼女にこんな決断をさせてしまった。

「……かなきゃ」

 あの人はどこにいる? こんな言葉を残して。誰にも発見されることなく、それこそ何十年後かにひょっとしたら見られて首をかしげられる伝言を残して。

 あの人は、どこに消えようとしている?

「行かなきゃ」

 走れ。心がそう命じる前に体は動いていた。

 しかし、その足はたった三歩で止められる。

 扉の前に、七香さんが立っていた。不安そうな瞳で、今にも涙をこぼしそうなほど顔を真っ赤にして……それでも必死に歯を食いしばって、まっすぐに僕を遮っている。

 その姿に、気高さすら覚えた。

「先輩」

 呼び止められる。

「秋哉先輩」

 この数週間、ずっとそう呼んでくれた。優しく、時には拗ねたように、ずっと心を込めて僕の名を口にしてくれた。

 それが、どれだけ僕の救いになったろう。彼女となら、普通に生きていけると思えるほどに、僕は彼女に救われた。

「わたしは、秋哉先輩が好きです。大好きです。優しい貴方も、時々見せるさびしそうな貴方も愛しています」

 僕を肯定してくれる――好きという言葉を掛けてくれた七香さんに、どれだけのものをもらっただろう。

「わたしと、つきあってください」

 赤いフレームの奥、一筋だけ涙がこぼれる。その雫に込められた思いを、人の心がわからない僕が図ることはできない。

「ごめん」

 だから、嘘だけはつくまいと決めた。

「君の気持ちに、最初はすごくとまどった。僕、人のことなんて全然わからないから。そんな醜い僕の本当を見たと言われた時、脅されているんだと思った」

 醜い自分をここまで他人にさらけ出すのは初めてだ。怖い。真っ直ぐに見つめる彼女の瞳に、心がざわめく。

「その後、七香さんと一緒にいて、わからないことだらけで……ごめん、最後までわかることはできなかった。僕を好きと言ってくれる気持ちも、本当の僕にさえ笑顔を向けてくれる理由も」

 ただ、きっと目の前の小さな女の子は、これ以上の痛みをいつも背負っていたのだ。

「正直、こわかった」

 歯を食いしばる。ここで膝が折れるような醜態をみせるわけにはいかない。それが最低限の、七香さんに対する僕の矜持だ。

「でも……うれしかった」

 ふと気を抜くと、嘘を吐きそうになる自分がおぞましい。

「自分がここにいていいって、初めて認められた気がした。ここにいていいんだって、思えた。居場所を見つけた気がして、泣きそうになった夜もあった」

 ただ、そのおぞましさすら飲み込んで生きていくことを、ほかでもない目の前の彼女から教わった。

「本当にうれしかったんだ」

 醜くても、汚れていても、生きていける。生きていていいんだ。

「でも……僕の幸いは別にある」

 ゆっくりと一歩を踏み出す。別離の一歩を。

「僕は、僕の……本当の幸いのために行くよ」

 俯いた七香さんの顔を窺うことはできない。そしてその資格も、僕にありはしないんだろう。

「僕の『幸いへの切符』を取りに行く」

 今はただ、たった一人のために。僕を認め、許し、共にあり……そして、一人になることすら厭わずに背中を押してくれたあの人のために。

「秋哉先輩は……!」

 すれ違いざま、感情で揺れる枯れた声で、小さくて強い彼女は問うた。

「アリカ先輩が……好きですか!」

 それは、自分に決着をつけるための言葉で。

「ああ、あの人以外の幸いなんていらない」

 僕は、ずっと心の中にあった不確かなものに、名前をつけた。

 七香さんの横を通り過ぎる。今度は、僕を止めることはなかった。

 彼女との暖かな日々は、今日で終わりだ。きっとこの後の人生を含めても、あそこまで心が温まる日々はないだろう。

「ありがとう」

 その一言に万全の思いを込めて、僕は幸いへの道へと走り出した。



 手紙が挟まっていたのは、銀河鉄道の夜の冒頭だ。

 だから僕がまず向かったのは、アリカ先輩がいつも昼食をとるときに使う屋上だった。おそらく、アリカ先輩は銀河鉄道の夜から連想できるところにいるはずだ。彼女は僕の前で何度も『幸い』について語った。カンパネルラとして、ジョバンニを導こうとしていた。ならばきっと、彼女が向かう先は二択。

 ジョパンニとともに渡った星たちを見回せる高いところか、ザネリのかわりに沈んでいった湖か。

「くそ!」

 屋上の鍵は閉まっていた。だからといって、アリカ先輩がいないとは限らない。彼女は白木院の娘だ、鍵を手にいれるくらい造作もないことだろう。

「ごめんなさい、あとで謝ります!」

 だから、躊躇なく蹴破った。もはや、外聞なんてどうでもいい。今まで築き上げた仮面なんて、粉々になったって構わない。

「アリカ先輩!」

 ただ、一人だけが今の僕の望みだ。初めて訪れた学校の屋上は、本や漫画のものとは違い、ただ殺風景なだけだった。唯一、何にも妨げらなれない星空だけが尊いと感じる、寂しい場所。

「アリカ先輩! 先輩! いたら、返事してください!」

 探しながら、必死に声をかける。しかし、それは寒空に吸い込まれるだけで響きもしない。階段の裏や給水タンクの裏を探してみても、あの稲穂色の髪を見つけることはできなかった。

「ここじゃないのか……」

 一番可能性が高いと思っていたところが、つぶれた。

「くそ……あれだけ一緒にいて、僕は全然先輩のことなんて理解できていないじゃないか」

 苛立ちで、金網に手を打ちつける。深く食い込んだ皮膚は、寒さもあいまってそこだけがひどく熱く感じる。

 これが、桂秋哉だ。こんなちっぽけで、余裕なんて全然なくて、弱くて、今にも泣きそうなのが僕だ。

 みんなが思っている、優しくて穏やかで、大人で思慮深い――そんな偶像じゃない。

 仮面をかぶっているときとは違って、冷静な判断なんてできようもなかった。

 そしてここまできて、そんな判断をする必要なんてないのだ。

「後悔は後だ。反省なんて、必要ない。前へ――幸いへ、進むんだ」

 今は、とにかく走る。

 頭に浮かぶのは、高いところと湖のあるところ。町内ならばいける場所は限られている。せいぜい五か所だ。

「ごめんなさい、先輩。約束を破ります」

 制服のボタンを外し、マフラーを捨てる。今の僕には、必要のないものだ。

「今ここで勇気を出さなきゃ、幸いには手が届かないんです」

 駆け出す一歩に、躊躇いなんて欠片もなかった。



 行ってしまった。

 最後に精一杯伸ばした手も、言葉も――結局、秋哉先輩の一番にはならなかったのだ。

「せんぱい――あきや、せんぱい」

 ここにいないあの人を呼ぶのは何度目だろう。わかっているのだ、ここでこうやって泣き続けることが無駄なことくらい。

 あの人は、選んで駆けていった。

 最後に、初めてわたしにあの人に向けていた笑顔を向けて。

「あなたは最低です……ズルイです」

 それが、今のわたしの楔だ。もう無理だ、敵いっこないとわかっていても、心に引っかかったあの笑顔は、わたしから消え去ってくれそうにもなかった。

 メガネのフレームが邪魔だ。視界に映る赤色は、秋哉先輩がいつも愛用していたシャーペンの色を模したものだ。

 少しでもあの人に近づきたくて、身近でいたくて選んだ、普段の自分では絶対に選ばない色。

「こんなの……」

 外して、投げ捨てた。こんなものがあれば、ずっとずっと忘れることなどできないんだから。

 投げた先、フレームの乾いた音と……かすかに別の音が混じる。

 ぼやけた視界の先、映ったのは握りつぶされた紙。

 それは、わたしに決定的な敗北を突き付けた手紙だった。

 何度か迷って、手を伸ばす。

 どうせ負けるなら、徹底的に負けてすっきりしたかった。

「…………っ!」

 そう思うのに、手にした手紙を開くのが怖い。ここに込められた言葉は、必至に外側が繕っていた秋哉先輩の根底を破壊した。それほどまでの思いが、ここにはある。

 それをわたしなんかが勝手に覗いていいのだろうか。

「ううん、違う。そんな綺麗ごとじゃない……」

 わたしはまだ、あきらめきれていないのだ。完璧に、負けたくないんだ。

 心のどこかで、ありもしない希望にすがっていたいんだ。

 そんな弱いのが、わたしだ。

 だから――

「怖くなんて、ないわ」

 わたしは開く。あの人の背中を押したのはわたしだ。なら、こんなところで気持ちに屈していいわけがない。

 きっと、これが……告白をした、わたしの責任。出された答えには、誠実に向き合わなければいけない。

 どれだけつらくても。

 これ以上、胸がえぐられ焼きつきそうになる痛みがあったとしても。

 そうしてわたしは、白木院先輩が見知らぬ誰かに向けた心中を読んだ。

 流れるような美しい字体で書かれるのは、あの綺麗な横顔に沈んでいた気持ち。当たり前に持ち、顔に出てしまうような感情を封じられてきた――弱く、はかなく、それでも誰かのために強くあろうとした女性の姿だった。

「――こんなのっ」

 目をそらさずにはいられない。こんなのを、最後まで一気に読むのは不可能だ。

 伝わってくる。

 白木院先輩の心が、秋哉先輩を思い――その中で、彼にどれだけ自分の心が救われたかが。

 そして、彼のためならどこまでも行こうとはいう決意が、津波のように押し寄せる。

 それでも、わたしは最後まで読み終えた。

「……わたしはいったい、何を見てきたんだ」

 あの笑顔の先にいた人物を知っていた。わたしは、秋哉先輩が白木院先輩に向けて笑っていたことを知っていた。図書館の片隅で話していたことも知っていた。

 白木院先輩は妾の子と呼ばれる、近づきづらくてどこか別世界に住むような人間だ。わたしたちとは、同じ感情なんてないとどこかで考えていた。

 その彼女の中に、これほど人間らしく渦巻いた感情があろうなんて、考えもしなかったのだ。

 気づいておかしくなかった。だって、

「あんな表情を向けられる人が――同じ気持ちを抱いていないはず、ないんだ」

 心が折れそうになる。

「あぁ……本当に、気持ちですら敵ってなかったんだ、わたし」

 こみ上げてくる感覚を、なんと呼べばいいだろう。

 後悔? 敗北感? 無力さだろうか。

 それはどれも正しくて、どれもしっくりこなかった。

 今ならば、秋哉先輩が言った言葉がわかる。

『あの人は……僕にとってのカンパネルラだったんだ』

 だからきっと秋哉先輩は、

『それでも、一人で旅立つカンパネルラを、ジョバンニが見逃す理由にはならない』

 彼女を見つけることができる……

「――カンパネルラ?」

 ふと、わたしの中に違和感が落ちてきた。あんぱんだと思ってかじったら、クリームが口の中に広がったような食い違い。

 何かが、大きくずれている気がした。

 もう一度、現代文のテストを解くように手紙を読み直す。自分の気持ちをなるべく排し、作者の心を読み取るつもりで。

「……あ」

 わたしは、急いで手紙の入っていた全集を拾い上げると、目次に目を通す。

 予想していたものが、そこにはあった。

「――そう、だったんだ。白木院先輩……あなたは」

 この時、わたしは初めて白木院アリカという人間性を見た気がした。

「はやく、先輩に知らせないと!」

 このままでは、秋哉先輩は白木院先輩を変えられない。根本的に間違えているんだ、二人とも。今のままでも秋哉先輩は彼女を見つけることはできるだろうが、止めることはできない。

 だから、はやく――


 秋哉先輩に連絡しなければ、彼は彼女のものにはならない。


 メールを打つ指が止まった。

 自分の中の暗い考えが、今まで絶望的に見えた可能性に光を一筋差し込めた。

 まるで、天使の翼を持った悪魔のささやきのように。

 卑怯な考えだと自身の罵る一方で、それが最愛の人を手にいれる最後のチャンスであると囁く。

 最後にわたしにあの笑顔を見せてくれたのだ。いつか白木院先輩のことなんて忘れて、わたしと生きてくれる時がくるかもしれない。

 少なくとも、あの笑顔でわたしは彼の傍にいることを許されたのだ。

 わたしは……ゆっくりと、つぶやく。

「そうだ……これは、わたしを苦しめた人たちへの復讐だ」

 何を悩むことがあるだろうか。彼らが自分たちのために生きるのならば、わたしがわたしの都合で生きて何が悪い。

 わたしは、わたしだ。

「これが、わたしの復讐です。先輩」



 丘の上にある公園でも、アリカ先輩の姿を見つけることができなかった。

 すでにこの町にちらばる湖のあるところはすべて回った。もう、思い当たるところなんてない。

 どれだけ走っただろう。足もパンンパンで、早鐘を打つ心臓は過負荷にあえいでいる。

「どこにいるんですか、アリカ先輩」

 僕は、立ち止まってしまう。膝をつきそうになるのを堪えるのが限界で、疲労でいっぱいの体は踏み出そうとする一歩を否定する。

 もう進むなと、無駄だと体が訴えているような気がした。

「いやだ」

 折れていないのは、心だけだ。いや、折れかかっているのを、必死に言い訳じみた言葉でごまかしているだけで。

「あきらめるのは……いやだ」

 止まった歩みを向ける先が、僕にはもうわからなかった。

 全部、勘違いだったのだろうか。

 アリカ先輩なら、きっと本当は僕を待ってくれていると。

 追いつけば、きっと何かを変えることができると。

 そんな僕の思いは、ただの一人よがりの傲慢だったのかもしれない。

 それなら、全部無駄だ。

「ちがう……『それでも』って、僕は七香さんの手を振り切って走ってるんじゃないか」

 そう口にする言葉とは裏腹に、心の中ではまた『僕』が甘言を囁く。

 なら、愛してくれる彼女の元へ戻ればいい。きっとあの子は、お前を受けて入れてくれるだろう。

「そんなのは、いやだ」

 みっともないと思うのか。そんな心配はいらないだろう? 彼女は、お前の醜い部分も一緒に愛してくれると言っていたじゃないか。

「それでも――」

 どうせアリカ先輩はお前を待っていてなんかくれないよ。あの人は、結局お前から離れたんだ。去るものは追わず、だろう。そうして『僕』は生きてきたんじゃないか。

「でも!」

 いいだろう、もう疲れたろう。安息の場所は手に入れたんだ。もう、それで妥協しよう。

 なぁに、しばらくすればその胸の痛みだって、過去のものになるさ。


 だから、楽になろう。


 ポケットが震えた。

 日も沈みかけた誰もいない公園に響くのは、七香さんからどうしてもとお願いされた『MOONRIVER』の着信メロディ。

 水面に移った月の幻影は、きっと月までの道なのだと――そこを渡れば、きっとどこまでもゆけると話してくれた笑顔が脳裏に浮かんだ。

「七香、さん?」

 計ったようなタイミングだった。僕は冷え切った手でポケットから、携帯を取り出し、すがるように開いた。

 七香さんからのメールは、短かった。

 件名は『ささやかな復讐』。

『先輩は、カンパネルラなんかじゃありません。

 星になりたいと願った、醜く弱かった鳥です』

 メールの内容は比喩的で、一瞬その意味をわかりかねて、

「――! そう、か」

 自分が、ずっと初めから大きく間違っていることに気がついた。

 この言葉から導き出される場所を、僕は一つだけ知っている。他でもない、あの人の口から教えてもらったのだ。

 足に力が入る。現金なものだ、目的地がわかれば走り出せてしまえるなんて。

「ありがとう……僕は、忘れない」

 携帯に額を押し当てて、届かないであろう彼女に最大の感謝を込める。

 この一通の短い言葉に、彼女の決意と強さをもう一度見せられた気がした。

 もう、決して立ち止まらない。

 押された背中に、温かさがまだ残っている。それを感じていれば、くじけるなんてできるはずもない。

 僕は、駆ける。

 銀河鉄道でもない、月の道でもないただのアスファルトを、ただ必死に。

 道のりで、いつもの彼女が思い浮かんだ。

 橙色の埃くさい図書室の片隅で、先輩が方膝をついて本を読んでいる。

 麦穂色の髪は光に透け、ふわふわと綿毛のように彼女の呼吸とともに揺れる。

 ページをめくる細い指は本を壊さないように、ゆったりと動いていて、その表情は微笑んでいるように見えてどこか寂しかった。

 声をかける。

 そうすると、さっきより目を細めて、今度は寂しさなんて微塵も見えない笑顔で僕を迎えてくれる。

「あぁ、なんで僕はずっと迷っていたんだろう」

 答えなんて、

「ずっと前から……先輩に出会ってから、ずっとこの胸にあったっていうのに」

 校門を飛び越え、階段を駆け上がる。蹴破ろうとした扉は、さっきと違って鍵はかかっていなかった。

 僕はそのまま、半球型のコンクリートの塊へと向かう。

 よく見ると、いつもとは違って半球は割れていて、中から一本の棒が天上へと向かって伸びていた。

「……」

 扉に手をかけて、一つだけ深呼吸。躊躇いは、もうなかった。


 探し続けた麦穂色の髪が、月の光で輝いていた。


 アリカ先輩は、ぽつんと一人でそこにいた。

 開けたドームから降りる一線の光が、彼女の丸まった背中を照らしている。望遠鏡を覗きながら振り向きもしない姿に、僕は胸がつまった。

 時間も場所も違うけれど、僕にはいつもの場所で待っている彼女に見えたからだ。

「……気付かないと思っていたわ」

 いつもどおりの、すっと心に入り込むような声で先輩は呟いた。

「帰宅のチャイムから四十五分……あと五分もしたら、帰るつもりだったのに」

「ギリギリでした。七香さんがいなければ、間に合いませんでした」

「そう、じゃあお礼を言いに戻りなさい。私、今秋哉くんとはお話したくないの」

 あぁ、本当にいつものアリカ先輩だ。何があろうと、最後には僕を拒絶する。

 それが優しさからあることを、僕は知らなかった。

「秋哉くん、自分を犠牲にするようなことをしてはだめよ」

 知ろうとしなかった。

「貴方は強い人よ。だから決して、勇気を出してはいけない」

 その涼やかな声の奥で、いつも寂しそうな笑顔の先に。

「秋哉くんは、自分のためだけに生きて」

 彼女は、どれほどの思いを込めて僕に伝えてくれたのだろう。自分の思いを押し殺してまで、本当の願いをなかったことにしてまで願ってくれたのだろう。

「大切なものを見つけて」

 アリカ先輩の隣にいれば、なんにでもなれる気がしていたのは、僕だけで。なんにでもめげずに進めると思っていたのは、ただの独りよがりで。

「幸いを目指しなさい」

 アリカ先輩は自分が動けなくなることなんて構わずに、その小さく震える背中で――立ち止まろうとする僕の背を必死に押してくれていたのだ。

 僕は、その背中を抱きしめた。

 言葉ではきっと伝わらない、そして伝えることができないものを彼女に渡すために。少しでも、誰かのあたたかさが感じられるように。

「離して、秋哉くん」

「いやです」

 腕に、力を込める。僕の意志が、心が、気持ちが少しでも伝わるように、強く。

「いけないわ。あなたには、大森さんがいるでしょう」

「わかっていることを聞かないでください、アリカ先輩。僕は、ここにいるんです」

 僕は、答えを選び取ったのだ。

「お願い、離して」

「いやだって言ってるでしょう? どうしてもというなら、無理やりどうぞ。全力で抵抗しますけど」

 アリカ先輩は、しばらく身じろぎして、やがてそれが無駄であるとわかったのだろう、肩から力が抜いた。そして、かすかに微笑む気配。

「まったく、いじわるね」

 ふわふわの髪が、僕の頬をかすめた。こそばゆくて、なんだか恥ずかしくなってくる。

 でも今この手を緩めれば、彼女はきっとするりとどこかに行ってしまう。そんな予感がして、離そうとは思わなかった。

「先輩……貴方はカンパネルラじゃなかったんですね」

 ゆっくりと、僕は彼女に語りかける。暴かれたくなかった本当のことを、二人で受け止めるために、ゆっくり。

「貴方は、『よだかの星』のよだかだ」

 アリカ先輩は、ゆっくりと頷いた。

「そう。醜い外見で周りに疎んじられ、いじめられ、鷹には名前を変えろと脅されるよだか――これ以上のはまり役は、ないでしょう?」

 浮かべたのは、自嘲気味の……自傷のような笑みだった。

「私はね、私が大嫌いだったの」

 アリカ先輩は、また望遠鏡を覗きこむ。決して表情を読み取られないようとしているようで、僕は何も言わずにその横顔を眺めていた。

「昔はそうじゃなかったと思う。お母さんと一緒にいた頃は、あまり裕福ではなかったけれど、楽しかった覚えがあるもの」

 それは、彼女が白木院を名乗る前のこと。幼かった頃の記憶だ。

「でも、お母さんが死んでしまって。子どもの私にはよくわからないことが、いろいろあって。気がついたら、私は白木院アリカとして名家の門を叩いていたわ」

 ここまでならシンデレラストーリーねと、アリカ先輩は楽しげに笑った。

「待ち受けていたのは、灰被りのほうだったわけだけれど」

 なんと返すのが正解なのか、僕にはわからなかった。いや、この問いに正解があるのかさえ、僕にはわからない。

 でも、そこから先の展開を僕は知っていた。

「妾の子……この十一年の私の人生は、この言葉で説明がついてしまうわ。それぐらい、薄っぺらい時間だった。具体的には……秋哉くんが思いつくフィクションを並べてくれれば、ほとんど該当すると思うわよ」

 なんでもないように、彼女はつとめて軽い口調で告げる。

 聞いているこちらが苦しみで顔をゆがめそうになるのを、少しだけ困った顔をするだけで受け止めている。

 それが悲しいことだと、彼女は気付いているだろうか。

「だからアリカ先輩は……心を、止めたんですか」

「そうね、自覚はないけれどきっとそう。私、もう生きるのも何もかも煩わしくなってしまったんだわ」

 よくある物語だ。蔑まれ、悪意にさらされた小さな心。傷つくことを嫌い、恐れ、大事なものを守るために大切なことごと封をして鍵をした……そんなかわいそうな少女の物語。

 そして、きっとそんなヒロインたちは口を揃えて言うのだ。

「心を放棄したからっぽな存在を、人間なんて言えないわ」

 自分は、化け物になってしまったのだと。

「だから、私に幸いなんてない」

 呪いを受けた体は、人を不幸にするものでしかなくて。

「幸いになんかなれない」

 守るべきものを履き違えることすら気付かず。

「幸いなんて望めない」

 そう口にすることで、自分を必死に救いから遠ざけて、傷を遠ざけたのだ。

「幸いを、あげることはできない」

 それは、心に治らない深い傷を負った少女の決意だった。

 僕には、何も言えなかった。深い傷も、底知れぬ絶望も。きっと僕には、人とのつながりがわからない僕には共感すらできないことがわかっていた。

 だから、両腕に力を込める。それだけしか、僕にはできない。

 ふと。

 その僕の手に、冷たい指先が触れた。陶磁器のように冷え切った白い指が、僕の赤い手を遠慮がちに掴む。少し動いたら外れてしまいそうなほど弱い力で、それでも確かに。

「ずっとそう思っていたわ。そうして生きていくしかないと、諦めていたの。君に遭うまで」

 体重が預けられた。先輩の細い肩は、その重りからは想像できないほど軽かった。

「ねぇ、秋哉くんは覚えているかしら。どうして私たちが、こんなに心を許して話すようになったのか」

「すいません、全然覚えてません」

 いつの間にかだった。まるで長年そうしてきたかのように、僕は自然に彼女とともにいたのだ。今となっては、始まりがいつだったのかも思い出せない。

「本当に失礼な子ね、秋哉くんは」

「すいません。本当に思い出せなくて」

 もしかしたら、運命的な何かがあったのかもしれない。だとしたら、僕はなんて白状な人間だろう。

 自己嫌悪に陥っていると、

「ふふっ、ごめんなさい秋哉くん」

 先輩が、おかしそうに吹き出した。

「私も覚えていないの。全然、まったく、これっぽっちも」

 指で示すのは、わずか二センチ。でも、その向こうにある笑顔はやっといつもの自然なもので、僕は怒る気になれなかった。

「本当に、いつのまにかだったもの。ずっと押し殺してきたはずのものが、何の違和感もなく君の前では溶け出していた。これって、すごいことよ?」

 そんなこと、もう絶対起こらないと思っていたもの。

「あぁ、ただ一つきっかけがあるとすれば、この髪を褒めてくれたからかしら。もう、お母さんの形見はこれぐらいしか残ってはいないから」

 そう、アリカ先輩は白い息を吐き出した。その言葉に、僕はどれだけの喜びを覚えたかわからない。僕は、彼女をまだ全然理解できていないけれど、小さな救いにはなれたのだ。

 誰かの心を、これほどうれしく思ったことはなかった。

 その言葉が、泣きたいほどに胸を締め付けて、

「それに気付いた私は、君を幸いへ導こうと思ったの」

 だからこそ、彼女の決意の固さが理解できた。

 視線を戻し、望遠鏡を覗きこむ彼女は何を探しているのだろう。よだかの星でも見つけられれば、彼女も未来に希望を見出せるだろうか。

「ちがう」

 そうじゃない。僕は、決めたはずだ。

 彼女が絶望し、希望を見出せないのなら、

「僕では、貴方の傍にいられませんか?」

 僕自身が希望になればいい。居場所になればいい。

 教えてもらったのだ、人は誰かの安息になれることを。

 まっすぐに見つめる僕に、先輩は口元だけ優しく微笑んだ。

「いられないわ」

 それは、明確な拒絶の言葉。言葉を次ごうとしていた僕を躊躇わせるほどの、強い意志だった。

「秋哉くん。私は、貴方のことが好きよ」

 それは、告白の言葉。本当なら涙すら流して喜ぶはずの言葉は、今別れのために紡がれていく。

「貴方と一緒なら、私はカンパネルラになれるかもしれないと思った。この星空を、二人でずーっと、ずーっと歩いていける……そんな気がするほど」

「なら! なら……行けばいいじゃないですか。誰も貴方を傷付けない、星空の向こう側まで」

「それでも、私はよだかなの」

 アリカ先輩は首を振った。そして、僕の手を強く握る。混ざり合った体温とは裏腹に、心は離れていく。

「秋哉くん、自分を犠牲にするようなことをしてはだめよ。私と一緒にいれば、そうしなければならない時が必ず来る」

 ああ、やっとこの言葉の本当の意味を理解した。

「君は強い人よ。だから決して、勇気を出してはいけない。その勇気で、傷つく君を私は絶対に見たくない」

 先輩は、ずっと前から気付いていたのだ。

「秋哉くんは、自分のためだけに生きて」

 こうなるであろう未来を。僕との間に育まれたものを誰よりも早く気付いて。

「大切なものを見つけて」

 僕が、最後の最後で選択を間違えないように。

「幸いを目指しなさい」

 そして、自分が間違えないように、言い聞かせてきたのだ。

「君の幸いは、ここにはないでしょう?」

 ゆっくりと、先輩の体温が離れた。立ち上がり、一歩け僕から距離を離す。つながっていた心ごと、断ち切るように。

 僕は、手を伸ばす。伸ばして、止まる。

 僕の幸い。幸せ……望んでいたもの。

「貴方のいう幸いなんて、僕にはわかりませんよ!」

 共にいたいと思うことは罪なのか。自分の心を理解してくれる唯一の人を求めるのは間違っているのか。

 先輩は僕に視線を向けず、語る。

「君の本当の幸いは、普通に人の中で生きることでしょう。他人がわからない君が、ずっと望んでいたのはそれ。ちがう?」

 それは……違わない。ずっと望んでいたことだ。自分が普通ならと、何度悔やみながら夜を過ごしたか。

「秋哉くん、あの子……大森さんといれば、それはきっといつか叶うわ。たくさんの誰かを願える本当に優しい子だもの。傍にいれば、貴方はずっと望んでいた普通になれる」

 あぁ。本当にそうなれば、それはどれほどの奇跡だろう。そして、きっと嘘ではない。誰よりも底を見てきた彼女が、見誤るとは思えない。

 きっとここで引き返せば、僕はずっと望んでいた自分になれるのだ。

 人の痛みがわかる、当たり前の人間に。

「そこに、よだかはいちゃいけない。よだかが傍にいれば、弟の川せみだって迫害される。せっかく手に入れた幸いを、自らのせいでなくしてしまう」

 そんなの、耐えられないわ。

 先輩がまた一歩、僕から離れる。

 出口に向けて一歩。背中ごしに、遠くなっていくのがわかる。

「だから、私は進むのよ。自らの意志で、その翼を羽ばたかせて飛んでいくの。そのためなら、やけて死んでもかまわない」

 また一歩。靴音が、距離を空ける。

「この気持ちだけは、誰にも否定させない。白木院にも、秋哉くんにも、私自身にも」

 ずっと待ち望んでいたものが手に入る。それは、僕にとって確かにこれ以上ないほどの幸運なのかもしれない。

「私は、きっとあの橙の図書館での思い出だけで、生きていけるわ」

 彼女の意志を変えられるほど、僕に力があるだろうか。いや、ない。そんなものがあるならば、僕はとっくに彼女を救えている。

「だから、秋哉くんは忘れなさい。白木院アリカという存在を。あの図書館に、貴方の居場所はなかったの。作ってくれたのは、大森さん」

 そう思えば。初めからなかったものだと思えば、きっと耐えることができる。そして、いつかは忘れるのだ。

 理想の世界で、普通の人間になった僕は、自分を好きでいてくれる人とともに笑いあって生きるのだ。

 なんて、素晴らしいのだろう。


「さよなら。もうあわないよ。さよなら」


 でも、貴方が僕の幸いを決め付けるな。

「よだかが!」

 立ち上がり、自ら不幸になろうとする愚かな彼女に、僕は大声で呼びかける。

「宮沢賢治の『よだか』が望んだのは、そんなことじゃないでしょう!」

 アリカ先輩は振り向かない。僕には、わかる。

「よだかだって、きっと本当は森で暮らしたかったはずだ! みんなと一緒に、そして大事な弟の川せみと一緒にいたかった! だからよだかは、最後に川せみに会いにいったんでしょう!」

 きっとよだかは、こう言ってほしかったのだ。

「……、です」

 そしてきっと、アリカ先輩も同じだ。

 必死に思いを紡ごうとする。

 涙やいろんなものでぐちゃぐちゃになった喉は、僕が伝えたい言葉を何一つ正しく伝えてやくれない。

「……せ、なんです」

 それでも、声を絞り出す。僕がきっと彼女に伝えてあげられることは一つ。


「幸せ、なんです……!」


 たった一つの勘違いを正すことだけだ。

「アリカ先輩に会ってから、僕は誰かを『待ち望む』ことを知ったんです」

 それまでずっと、一人布団に潜ることだけを目標にして一日を過ごしていた。今日も何事もなかったと、そう安心して一人静かに落ち着く日々を、必至に追いかけてきた。

 それが、いつの間にか図書室に行くことが一番になっていた。

「誰かといたいと、思ったんです」

 一人は苦痛だ。でも、多数は苦悩だった。その中で、ふと麦穂色を見つけるだけで心が緩んだ。仮面を外して、ふっとひとつ息をつけた。

 人の中で、窒息死しなくてすんだ。

「あなたと笑いあうことを、夢にまで見たんです」

 いつも埃がきらきら光る全集の棚で、僕を見つけて笑ってくれたアリカ先輩。網膜を通り越して魂にまで刻まれたその光景を、忘れられるはずなんてないんだ。

 だって、

「貴方が、僕の『幸い』なんです」

 それを僕が、絶対になくしたくないと心に刻んでいるのだから。

 だから、彼女が距離をとろうとするのなら、僕から歩み寄る。

 決意を込めて、一歩。

「だから……お願いです」

 もう一歩。

 アリカ先輩が、振り向いた。その目は透明で、まるで此処ではない何処かを写しているようだ。まるで、目の前の僕を幻想であるかのように見ている。

 でも、その奥に確かに見えた。

 膝を抱え、蹲ったまま光を仰いでいる、小さな少女の姿。

 僕は、アリカ先輩を抱きしめた。

 腕の中にある体は、細かった。今まで重ねてきた重みに耐えられたのが不思議なくらい軽く体を、僕はきつく抱きしめる。

 頬に、柔らかな髪が触れた。その頭ごと抱える。決して、彼女が一人ではないと感じられるように。

「僕から……『幸い』を奪わないでください」

 伝えられるのはこれだけだ。

 仮面をつけて生きてきた僕の人生はほんとうに薄っぺらで、こんなときだってマシな言葉は出てこない。

 でもこれが、今の僕ができる全てだ。

「貴方が大切です。アリカ先輩、貴方だけが僕の『幸い』です」


 すっと。頬が、温かく濡れた。


 ほんの少しの温かい雫が、彼女の頬から麦穂色の髪を伝って、僕の頬に流れた。

 まるで二人で泣いているみたいだ。

「あ……」

 自分が泣いていることが不思議でならない、そんな声が耳元で漏れる。

 そんな彼女は、僕はもう一度強く抱きしめる。溢れるものを受け止めようと、そしてすべてを流れださせるように。

「みんな……みんな、私をいらないって言うの」

 僕の背中に、彼女の指が回される。

「いらない子だって、汚い子だって。お母さんの髪を、薄汚れた証明だって言うの」

 それは、抱きつくことを、誰かに頼ることを恐れている――小さな子どものそれだった。

「私は、誰にも望まれないって――みんなを不幸にするって、言ったの」

「そんなことありません」

 ならば、僕は何度でも繰り返そう。今まで彼女が待ち望んでいた言葉に、幾万の思いを込めて。

「だから、離れなきゃって」

「そばにいてください」

「一人でいなきゃって」

「僕は一緒にいてほしいです」

「私は、みんなを不幸にするから」

「僕は幸せです。それは、貴方といてこそです」

「大事な人を、全部こわしてしまう」

「元々僕は、こわれてます。だから、いいんです」

「秋哉くんに、『幸い』を見つけてほしくて」

「見つけました」

「だから私――」

「僕の隣で生きてください、先輩。そのためなら、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまいません」

 アリカ先輩の手が、僕にぎゅっとしがみついた。爪が食い込むほどの、痕が残るほどの強い力がうれしかった。

 アリカ先輩は、僕の耳元で小さく声を上げながら僕と一緒に頬を濡らした。

 月光をはじく濡れた麦穂色は、僕がこれまで見た中でも一番の輝きを魂に焼き付けた。

 僕は、彼女が泣き止むまで、ずっとその淡い光を心に刻んでいた。

 この先、どれだけつらいことがあったとしても、この日の温かさがずっと胸の奥に篭り続けるように。

 よだかの最後の輝きを、僕だけは忘れないように。



 図書館の一番奥、誰も読まない全集が詰まった本棚の窓際が、僕らの特等席だ。本棚の間には私物が隠されていて、立てかけたパイプ椅子は少し体を揺らすだけでキィキィと音をたてる。

 何も予定のない昼休みの時間、埃がキラキラと舞うその場所を訪れるのは、僕の日課だ。

 今日も、仲がいいと思う友人たちに笑顔で別れ、その場所を目指す。

 入口付近の机には受験で忙しそうな人たちがペンを走らせているが、奥へ行くとその音も遠くなった。

 そして僕は、全集と銘うたれた本棚を曲がる。


 そこに、麦穂色はない。


 ただ、何もない空間に一輪のコスモスが花瓶がさしてあるだけだ。

 僕は、パイプ椅子を組み立てると、本棚から一冊の全集を抜き取り、膝を立てて座る。

 途端大きく軋む音が出て、僕はなんだか申し訳ない気分になりながら、全集を開く。

『宮沢賢治全集』

 掠れた金色の文字で書かれた本のページをめくっていく。

 『双子の星』に『貝の火』、『ひかりの素足』――そして、『よだかの星』に『銀河鉄道の夜』。

「大丈夫かな。ごはんが合わないって泣いそうだ」

 窓から見える雪空を見ながら、僕はそう一人ごちる。

 アリカ先輩は、もうここにはいない。彼女は自分の意志で、自分の決断で、母親の母国へと旅立っていった。

 あの日、アリカ先輩がこれまでの全部を吐き出すように泣いた夜。

 目と鼻頭を真っ赤にした彼女は、僕にこう言った。

「私、言ってくるわ。お母さんの国に」

 傍にいてください、そう言おうとした。離れないでください、そう抱きしめようとした。

 でも、つきものが落ちたようなアリカ先輩の笑顔は月夜のように綺麗で、すべて呑まれてしまった。

 元々留学先は母親の母国で、行きたい気持ちはあったらしい。

「でも、目的のほとんどが逃げることだったから。君と一緒にいたいと思う自分から、逃げるための手段だった」

 でもね、と彼女は笑う。本当に優しく、楽しそうに。

「今は違うの。行って、変わりたい。私はまだ『よだか』だから。変わって、秋哉くんの隣にいたいの」

 ゆっくりと両手を包む指先は、細くか弱く――でも、先ほどとは違い力強さが宿っている。

「そうしなければ、君の幸いにはなれても、幸せにはなれないから。カンパネルラでなかれば、銀河鉄道には乗れないもの。

 だから、私は『カンパネルラ』になる。君を守って、ずっと手をとりあっていけるように強くなってくる。

 秋哉くんが変わったんだもの。先輩の私なら、きっと変われるわ。そうでしょう?」

 僕は、頷く。離れたくない、それは本心だ。それでも止められない。彼女は、前に進むことを選んだ。そしてそれは僕もだ。

「だから……」

 アリカ先輩は赤い顔をさらに赤くしながら、僕の手をぎゅっと握る。汗ばんだ手が、震えているのは気のせいではない。

「だから、もし私が『カンパネルラ』として帰ってきたら。

 私とどこまでもどこまでも、銀河鉄道に乗って一緒に進んでくれますか?」

 それは約束。

 この日が別れではないということ。そして、ずっと共に生きていくための決意だ。

「ああきっと行くよ」

 僕は目一杯の強がりで、笑顔を作って彼女を見送った。

 アリカ先輩は、泣きだす直前のような笑顔で、星空の下別れた。大きく手を振る彼女に、僕もあらん限り大きく手を振る。

 そうすることで、引き止めたいという願望を必死に押さえ込んだ。

 僕たちにとって、ほんとうにつらいことだ。でも、それが本当の意味で幸せになる道を進む中での出来事なら、どれだけ胸が痛んでも、本当の幸福に近づく一あしずつだと、わかっていた。

 だから僕たちは、笑顔で泣いて――大事な誓いを胸に刻んで、道を違えた。

 今でも、一人で全集に囲まれて座っているとどうしても彼女を思う。

 僕はまだ、仮面を外して生活できていない。長年培った生き方は、そう簡単には変わってくれない。彼女も、今頃苦労しているだろう。

 生きることに不安で、寝つけない夜はある。

 人の中にいて、違和感を覚えない日はない。

 僕は、まだ他人を理解することはできない。

「でも、きっと大丈夫だ」

 あの日、頬を伝った彼女の涙も、麦穂色の髪の柔らかさも、誓いの言葉も覚えている。それだけあれば、いくらでも変わっていける。

 今の僕には、そう思える。

 だから僕は銀河鉄道の発車駅で、苦悩したり泣いたりしながら、少しずつでも変わって、乗車時刻を待とう。

 彼女から手渡された、『幸いへの切符』を握りしめながら。

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