そして貴族の青年
「それで、これからどうするんだ」
レース初心者の私には、これからどのように行動するのがセオリーなのか、それ自体がよく分からない。序盤は金策に走るのがベターのようなことを言っていた気もするが。そもそも、開会式もなく知らぬ間に始まった感のあるこのレース、私には実感がトンとしてなかった。異国で知らぬ人と酒を飲む。先ほどしたのはそんなことだ。旅行と何も変わらない。
つまりは、これぞファリジア・レースと形容するような劇的な何かを欲しているのだった。
「そうですね、どうしましょうか」
「おい」
不安になるようなことを言わないでくれ。そんな視線を向けると、挑御川はわりと真剣な表情で答える。
「いえ、何も考えてないわけじゃないですよ。主な行動パターンとして三つの選択肢があるんですよ。
まず一つ目、宿をとること。この街での拠点づくりですね。持ってきた荷物なんかをそこにおいて、これからの行動の自由度を上げることを意味します。これが一番ベターではありますね。どういう選択肢を取るにしても、これは今日中にやることになります。野宿は面倒ですから」
嫌ではなく面倒なのか。まったく感心するほどにアクティブな女史だ。
「二つ目にこの街で買い物をすること。または街をぶらぶらと見て回るのもアリですね。やりたいことは済ませて、その後宿でゆっくりとくつろいで今日の疲れを取る。そんなルートです」
「ふうむ」
実を言うと、私は早くもかなりの疲労を抱えている。朝から飛行機に乗り、何も分からない異国に一人でいて、緊張とともにファリジア・レースに参加しているのだから当然ではあるのだが。その上、環境的にはかなり暑い。肉体的、精神的ストレスともにかなりのものだった。先に宿に泊まるとそこから出たくなくなるかもしれない。
超能力のことを考えると、買い物も済ませておいて損はないわけで。
「三つ目に、いきなり金策に走る、ということも出来ます。これはレースを有利に進めるために早く次の街へ進みたい人の行動ですね」
「早く次の街へ行くと、何がどのように有利なんだ? ゴールが近くなる以外の話だぞ」
「簡単に言えば、メラによってできることが増えるんです。例えばこの街では日用品しか買えませんが、次の街では武器なんかも買えます。
後はシーカーズの使用も解禁されますね。シーカーズというのは文字通り『探す者たち』の意味で、自分が狙うアイテムを、どこの誰が狙っているのかを教えてくれるシステムのことです。端末内の項目にそういうのがあるんですよ。シーカーズの利用によってレースは加速度的に展開を早めます。まあ使用には大量のメラが必要なので、おいそれとは使えないんですけど」
こんなところですね、と話を締めた。なるほど、確かに早くからメラを獲得しているとレースは大分有利になる。たしか街から街への移動手段の確保もメラ必須だったはずだ。ここでどの選択肢を選ぶかでこの先のレース展開が大分変わってくるだろう。
というか、だ。
「私が決めてもいいのか? 選択肢を委ねるということは、そういうことだろう」
「ええ、私はどの選択肢でもいいですよ。どれを選んでも目的のものを手に入れるのに邪魔な人を倒すだけですから。先輩が楽しめるような選択肢を選んでください」
ファリジア・レース経験者の言葉は中々に重かった。けれどある意味軽い言葉でもある。気軽、と言う意味であるが。
ふむ。ならばこうしてみるか。
「だったらまずは目的地を決めよう。そうだな、闘技場にでも行ってみるか」
「と言うことは、三つ目の金策ってことですか?」
当然そう聞いてくるだろう。しかし、
「いいや違う。闘技場はあくまで最終地点だ。そこに行くまでにはいくつか宿があっただろう。前を通るたびにその宿に入って、泊まれるようならばそこに泊まる。
挑御川。今回のレースの参加者は何人だったか」
道行く人々を眺めながら聞く。挑御川はほんの少しだけ考えて、それからスラスラと答えた。
「確か五百人くらいですね。けどそれがどうかしました?」
「いや、大したことではないんだ。辺りを見渡していると、こう、人通りがずいぶん少ないと思ってな。それに先ほどの挑御川の選択肢では、宿に泊まるのが一番ベターだと言っていただろう。ならば人通りが少なくなったのは皆が宿に泊まったから、または闘技場へと向かったからだと思った。
そこで、だ。先ほど見たところによると、この街、宿の数はかなりあるだろう。五百人くらいならば宿は心配しなくてもいい。まあ闘技場に向かうついでに宿屋が見つかれば、そこに荷物だけ預かってもらえばいいくらいに考えてだな。ともかく私は人通りの少ない今、街を回る方がいいと思ったわけだ」
一通り述べると、挑御川は手を顎に置いて少し考える表情を作る。しかしすぐに顔を上げて言う。
「つまり風向先輩はフローチャート的に考えているわけですね。行動をまとめますと、
目的地は闘技場。
もし通り道に宿屋があり泊まれるならば、チェックだけして荷物を預け闘技場へ進む。
もし通り道に宿屋があっても泊まれないならば、そのまま闘技場へ進む。
必要な物品を売っている店があるならば、買い物をしてから闘技場へ進む。
必要な物品を売っている店がなければ、そのまま闘技場へ進む。
闘技場へ到着。
これで合ってます?」
「なるほと、大したまとめ能力だ。あんなとりとめのない説明をこうも分かり易くするとはさすがだな。しかし一つ言っておくことがある」
「なんですか?」
「フローチャートではないよ。よく考えてみろ。こういうのは行き当たりばったりというんだ」
私の無責任な言葉に対して間の抜けた表情を浮かべた挑御川が、非常に印象的だった。
それから、しばらく歩いている。
私の適当に決めた計画を、しかし挑御川は素直に従っていた。
「過程はともかく、理屈としては先輩の言葉は正しいですからね。人通りの多い道を歩くのは嫌いじゃないですけど、少ないほうが落ち着いて見て回れますから」
とのこと。おそらく先ほど言っていた通り、どのように動こうと彼女自身は気にしていないのだ。だからこそ適当な行動指針にもついてきてくれる。
それにしても、と挑御川が少し疲労を込めた言葉をつぶやく。
「宿がこんな早くにいっぱいになるなんて、思いもしなかった……」
敬語でないから独り言だろう。それでも勝手に同意した。
「確かに、そうかもな。指針を立てた私が言うのもなんだが、もっと早い段階で宿が見つかるものだと思っていた」
つまるところ、予想していたよりも宿に泊まる参加者が多かったのだ。かれこれ四つほど宿の前を通り、そのたびに泊まれるかどうかを聞いていたのだが。現状、行った宿はすべて満員だった。
「こんなに早く満員になることなんて、ないはずなんだけど……」
始まりの町、アッシュは結構広い。入口近くにあったバーから闘技場までは地図によると、ゆっくり歩いて二十分ほどかかるようだ。そうして宿があるたびに止まってしまうので、わりと時間を食っている。さらに灼熱の太陽光線と地面が土であることから発生する砂埃が、不快指数を高めているように思える。腕時計を確認すると時刻は三時半を少し過ぎたところ。もうそろそろ日も陰っていい頃間だ。というか、もう闘技場から二百メートルくらいまで来てしまっていた。
そうして何度繰り返したか分からない、額の汗を拭く動作をした時だった。
後ろから突然、野太い男の声が響いた。
「泥棒だー!」
反射的に振り返ると、誰かが走ってくるのが見える。身の丈の二倍ほどの袋を抱えたそいつは、おそらく男だろう。足元を見ると毛深いすね毛が見えたからだ。
そんな大きなものを抱えているにもかかわらず、男はかなりの速さで走っていた。すでにすれ違う寸前まで来ている。暑さとだるさで動き鈍く、突然の出来事に対応できる段階から大きく低下した私の反射神経では、男を引き止めることができなかった。インパルスに体がついて行かない感覚。信号で青になったと分かっていてもその瞬間に動き出せないような。
しかし隣にいる同僚、挑御川女史は違った。とっさに腕を出して男を止めようとする。しかし質量の違いだろう、出した腕は泥棒の勢いに負けてはじかれてしまった。
そうして目の前をドタドタと駆けていく泥棒。こんなのもいるのか、と挑御川に聞こうとしたその瞬間。彼女は大きく息を吐いて言った。
「しょうがないですね。レース内犯罪者は捕まえると、運営からメラがもらえますし」
そんなルールがあったのか、とそう一言考えている間。突然彼女は私が見ても分かるほど、すうっと体から力を抜いた。ガクンと倒れこむようにして地面に片膝をつく。そこで驚いた。その一連の動きで、すでに太ももに取り付けてあったホルダーから銃が抜かれていたのだ。それは最速抜銃の早撃ち技術なのだと、そこでようやく気が付いた。彼女は膝をついて銃を両手に持ち、狙いを澄ませている。
撃つ! そう、確信した時。
風とともに現れた、人影がチラリと見えた。
「————」
その人影の男は銃を構える挑御川に何かを告げて、それから風のように走り出す。彼女はポカンとした表情で男を見つめていた。
「今、何か言われなかったか?」
挑御川は膝の土を払って地面から立ち上がる。銃をホルスターにしまい、それから答えてくれた。
「『僕に任せたまえ、お嬢さん』って」
なるほど言いそうだと、そう思って正面に視線を向けた。
目の前を駆ける男は燕尾服を着ていた。先のカモミールとの出会いを経て私は、男が貴族であることをなんとなく察知できていた。燕尾服を着るのは貴族というのは、非常に連想しやすい。その上そんな男が『任せたまえレディ』と言った暁には、断定せざるを得ないだろう。
従来の貴族イメージを張り付けたような男は、しかし意外な速さで駆けていた。地面を滑るように、重力を感じない動きでみるみる泥棒に追いついていくのだ。ちらりと挑御川を見ると、
「あの人、とんでもなく速いです。もっと上級のレースでもあまり見ないくらい……」
と述べてくれた。その基準がよく分からないが、しかしレース素人の私より肥えた目を持っていることは間違いない。やはり速いのだ。
そうして貴族風の男が、泥棒の背中に手が届きそうな位置まで近づいた、その時。男はテレビで見た体操選手を連想するほど軽やかに跳んだ。自然に体を宙に任せて、走っていた時の速度そのまま。泥棒の真上に、ちょうど逆さまの貴族男がいる。泥棒が頭上に違和感でも覚えたのか上を見上げ、そうして慄く。
瞬間、貴族風の男は腰の剣をするりと抜いて、躊躇ない動きで袋を持つ泥棒の両腕を切りつけた。吹きあがる血しぶき。そんな見慣れぬ光景に私は、叫び声を上げてしまう。ありていに言うと、ビビったのだ。日本ならばまごうことなき事件な光景。すがるように挑御川を見て、思ったままを口にする。
「お、おい! あれはいくら何でもやりすぎではないのか? たっ」
たかが泥棒に——。そう続くはずの言葉を、舌は紡ぐことができなかった。焦ってまくしたてて舌を噛んだのだ。彼女はしかし半分パニックになっている私を見ても、冷静なコメントを述べる。
「いえ、むしろあれくらいがベストですね。先輩は知らないかもですけど、ファリジア王国はアーティファクト出土量世界一です。それらの技術を解析しているので、今や世界一の技術大国なんですよ。特に医療技術は他の国よりも抜きん出ているので、あれくらいの傷ならば五時間で治りますね」
思う存分怪我ができますよ、などと軽口を叩く挑御川。
「誰が好き好んで怪我するんだ」
言い返した言葉は聞き流しているようだ。あまり話したこともなかったはずなのに、彼女は私の扱いに慣れているような気がした。いや、人の扱いに慣れていると、そう表現した方がしっくりくる。
そしてこちらを気にした風もなく、いきなり端末をいじり始めた。
「何をしているんだ」
「通報です。捕まえた泥棒の位置を運営に連絡してます」
そう言って挑御川はポツポツと歩き出す。続いて歩いていくと、貴族風の男がこちらに手を振っていることに気が付いた。血が噴き出た瞬間から視線を背けていたが、どうやらあの一閃で片がついたらしかった。男の足元で血まみれの腕を抱えてうずくまる泥棒がいる。相当な痛がりようで、当分動けそうに見えない。
お互いが手を伸ばせば届く程度。私たちと貴族風の男はすでにそれくらいの距離まで近づいている。貴族風の男は、こう近くで見てみると、その恰好が風味付けでないことがよく分かった。
まず目についたのは、先ほど泥棒の腕を切って見せた血まみれの剣だ。細身で軽そうな、それでいて使いこまれたような鈍い鉄の光沢を放っている。こういうのは確か、レイピアという名称だったはずだ。持ち手の底が柄と婉曲上につながっている形も、それらしく見える。
服装はやはり燕尾服。しかしそれほどきちんとしたものではないように見えた。所々に花のような刺繍が縫っているのは、カモミールのワンピースを連想させる。だがよく見ると生地自体は薄そうであり、見た目よりも動きやすいのかもしれない。色は一般的な黒ではなく、白を基調とした見た目に爽やかなもの。白が流行っているのかそれともこの日差しを意識したコンセプトなのか、私には判断がつかない。髪色は滑らかな質感の黒髪で、日本人の髪質とはまた違う。滑らかと言ってもくせ毛、いやカールと表現した方が正しい髪質だ。
一言で述べるならば、ラフな格好の貴族だと私は思った。
もう会話をしても不自然でない距離だ。とりあえず私は足元でもがく泥棒を見て、一言述べてみる。
「ロープか何かで動きを封じた方がいいと思うのだが」
「いや、これ以上のこの男への行為は暴力だよ。動けない敵へは敬意を払う。それが紳士の振る舞いというものさ」
……日本での日常会話ならば、間違いなく突っ込み待ちのこの言葉。人間を血まみれの芋虫にしておいて、何が紳士なのかと。だがこの惨状は先の挑御川曰く『あれくらい』らしい。ファリジア・レースでは腕から血を吹かせる程度は紳士の行為。これは貴重な情報だ。……主に負の情報だが。
「ああそれと、連絡をしてくれたんだね。ありがたく思うよ」
「いえ、大したことじゃないですよ」
社交辞令然とした会話。それを終えると、男は何故か私を見た。グリーンの瞳が射抜くのは、私の、髪か?
それに気が付いた瞬間、男はなぜか欧米風の大きなリアクションをして言った。
「オー! 君、日本人じゃないか。知っているさ、ニンジャ! カタナ! ニンジャ! だよね? ファリジア王国では日本が人気でね、日本語を主に話すという人も珍しくないくらいなのさ。ファリジア・レースに参加していると日本人はちらちら見るけれど、こうして話すのは初めてで緊張するよ。
僕の名はフランベルジュ=ケンラルー。名を呼ぶ時はベルと呼んでくれ」
ああ、聞いてもいないことをたくさん話してくれた。というか、ファリジア王国では日本がブームときたか。ベルと名乗るこの青年の日本観は、間違ってはいるがあっているという奇妙な感覚を与えてくれる。外国人としてはスタンダードな感じだ。そういう意味でカモミールが持ち出した日本観のとっつきにくさは何だったのか。
いや、この思考はどちらに対しても失礼にあたるのでやめておこう。
「私は挑御川集子といいます。好きなように呼んでいただいて構わないですよ」
それよりも、少しだけハッとしたことがある。それは私を見てベルが日本人だと言ったことだ。そう、挑御川は名前こそ日本人であるものの、見た目はむしろカモミールやベルのようなファリジア人の方に近い。人種的には、間違いなく日本人ではない。
まあどうでもいいか。それよりも、自己紹介の方が重要だ。
「風向緋板だ。私も好きなように読んでもらって構わない」
「集子にヒイタ、そう呼ばせてもらおうかな。それで君たちは、何を目当てに?」
カモミールに比べて、やけにあっさりと聞いてくる。自分ならば戦闘になろうとも勝てるという自信があるのだろう。しかしそれは、自惚れではない。自分の目でしかと見たベルの実力。彼は紛れもない実力者なのだ。
まあ、例によって私から述べておく。
「最新式のパソコンだ。レース初参加なのでな、競争率の低いものを選ばせてもらった」
そう言うと、ベルは少し首をひねる。疑問を浮かべた表情。何か失言をしたのだろうか。いや、していないはずだ。していないはずだが……。ええい、うじうじと考えていても仕方がない。目の前にいるのだから、聞けばいいだろう。
「何かおかしなことを言ったか?」
ベルはその質問に対してすぐに「いや」と言った。しかしそれでも思案顔は変わらない。
「なんだ、はっきりと言えばいいだろう」
少々のいらだちを覚えて、強めの語調で再度聞く。私のことで、私に分からない事柄を悩まれるのはあまり気分のいいものではない。背中に貼られた『バカ』の字を笑われているのと似たような感覚を覚えるのだ。
そうしてベルは、ようやく答えてくれた。至極普通の声色で。
「ヒイタは、それに命を賭けられるのかい?」
顔から血の気が、引いていくのを感じた。同時に心臓の音が、小さく弱くなっていく感覚も。
そして今、自分がどんな感情を抱いているのか気が付いた。
それは強烈なまでの、恥ずかしさだった。心臓の音すら聞いてほしくないと思うほどの。
ここは、この場は、命を懸けた娯楽の場、ファリジア・レース。命を懸けてでも欲しいものを手に入れるための場。そうだ。私が知っている二人だけでも、その二人は真剣だった。真剣に、目的のものを手に入れようとしていた。強烈な感情をその身に宿していたのだ。
それに比べて私はなんだ? パソコン。それも、心底欲しいと思っていない代物だ。
ベルはきっと、こういう意味を込めて言った。
『お前の命は、パソコンと同じなのか?』
自分の器の安っぽさが、知られた。
真剣味のなさが、知られた。
安い。私は安い。私の命は安い。
きっと自分の命をもっと高く見積もっているならば、もっと欲を持ってアイテムを選んだはずだ。それを分相応などという言葉で、自分の命の値段を、安く見積もった。
その事実は、あまりにも悲しくて。
他人に安く見られる。
その事実は、あまりにも悔しくて。
錆びついた心に、強烈な痛みが深々と貫いていく。
そうして、こらえるように返事をする。
「ああ……そうだな」
くしゃりと、へたくそな苦笑いを返すので精いっぱいだった。
ベルはただ、そう、とだけ言葉を述べると挑御川の方へと視線を向けた。
「私は『境界線の消失』ですね。ベルさんは?」
「へえ、それはとんでもないものを狙っているね。まあとにかく、集子のような強い人と被らなくてよかったよ。僕は『デュベルクの魔剣』と呼ばれる剣だ。剣のコレクトをしているのでね、剣がアイテムにある時は大体出場しているのさ」
私は何とか気持ちを切り替える。そうしてベルの言葉を聞いていると、なんというか違和感があった。なんだろうか。どこかで、何かの言葉を聞いたような……。
聞いてみようと思い挑御川を見やると、彼女は目を点にして口を小さくぽかりと空けていた。何かに気が付いたようだ。肘で挑御川の腕を軽く小突き、ハッとしたところで耳打ちする。
「何に気が付いた。教えてくれ」
すると少し逸る口調で耳打ちされる。
「カモミールさんの想い人ですよ、この人」
ユーレカ! という感覚が脳内に走る。なるほどな……じゃない。そんな偶然、あるのか。思わず目の前のベルをまじまじと見てしまう。そうしていると、またも耳打ちをしてくる。
「この件については、後で説明します」
どういうことだ。だがまあ説明してくれると言うならば考える必要はない。突然耳打ちしあって不自然な私たちが、少しでも不自然でなくなるような会話を心掛けよう。
「そういえば、ベルは宿を見つけたか? 私たちは今こうして探しているのだが、中々見つけられない。もしも空いている宿を知っているなら、教えてくれないか」
不自然であっただろう私たちの行動について、ベルは首をかしげるだけで何も追求をしなかった。その上で質問には答ええくれる彼はきっといい奴なのだろう。少し苦手な感は否めないが。やはり初対面の会話は大事である。
「それならば、いい場所を知っているよ」
紛れもない、朗報だった。
「それは運がいい。場所を教えてくれないか」
ポケットに入れていた地図を出して、ベルの目の前に広げる。しかし彼は首を振り私の後ろを指して言った。
「あれだよ」
挑御川と振り返り見てみると、そこはつい先ほど入って、満員だと言われた宿だった。二人同時に肩を落として落ち込む。
「あそこはもう満員でした。ベルさんが入った頃にはまだ空いていたのかもしれませんけど」
するとベルは一瞬戸惑ったような表情を浮かべてから、合点がいったように言った。
「ああ、言葉が悪かったね。僕としてはここで会った縁として貸し切った七部屋のうちの、一部屋をあげるよという意味だったんだ」
そう言われて、私は声を出しそうになった。……待て、待て。どういうことだそれは。その理由を、ベルは聞くまでもなく教えてくれた。
「僕は狭い部屋では眠れないのでね、宿の部屋をいくつか借りて、壁をぶち抜いて一つの部屋にしようと思ったんだ。だが五つ壁を壊した時点で十分な広さになってね。一部屋余っていたんだよ」
それは、貴族的思考なのだろうか。少なくとも庶民派会社員としてはありえない発想だ。というか、そもそもこの男のような人間のせいで宿の部屋が少ないのではないのか。
そう考えていると、挑御川は違うところに驚いているようだった。
「壁をぶち抜いたということは、宿を借りるんじゃくて貸し切ったということですよね。こんな序盤にどうやってそんな大金を……。ああ、そういうことでしたか。
つまり闘技場で一稼ぎしてきたということですね」
ご名答、とベルは朗らかに言った。
「本当はこんなにすぐ挑むつもりはなかったんだけどね。闘技場の剣闘士に一人、弱いものをいびるような闘い方をする気分の悪い輩がいたから、そいつに当たるまで闘い続けていたんだ。七人目で来てくれてよかったよ」
このベルという貴族、泥棒の件といい割と躊躇なく剣を振るうようだ——理由はともかく。私の中で、貴族紳士という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
ともかくとして、私たちはベルのおかげで、拠点としての宿を手に入れることができた。荷物を置いて、途中で挑御川が買ったものも置いて、身軽になった私たち。どうやらベルは宿屋で休んでから、闘技場でできるという賭けごとをするらしく、私たちとは別れることになった。もしかすると闘技場周辺でまた会えるかもしれないな。たとえ出会えなくても宿屋では隣の部屋だが。それでも連絡先は交換して、笑顔の別れ。
そうして闘技場へと歩みを進める。もう、目と鼻の先だ。
「それでだ、挑御川。さっき耳打ちした件、教えてくれるのだろう」
私たちは宿をとれた安心感で、観光よろしく街並みを眺めながらゆっくりと歩いていた。挑御川はこちらを見つつも、先ほど買っていた飲み物をグビッと飲んだ。
時刻は四時を回り、少しずつ日は陰ってきたがまだ暑い。けれどじりじりとした日差しはなく、昼の余熱で地面が暑いだけのような気がする。現に涼しげな風が吹き抜けて、多少の砂埃を巻き上げつつも汗を冷やしてくれるので気持ちがいい。目を細め風を感じていた挑御川は、それが止むと口を開いた。
「確か、カモミールさんとベルさんが偶然にも同じレースに参加して、そのどちらとも私たちが関わっていることについてですよね」
黙って頷く。そうだ。こんな偶然あり得るのかと言われれば、実際に起きている以上あり得るとしか言えない。しかしそれ以上でもそれ以下でもない。偶然は偶然であり、説明の余地などないはず。しかし挑御川は私の目を見てはっきりと言う。
「これはただの偶然です。けど、ファリジア・レースはこういう偶然が結構起こるんですよ。昔友人だった人と再会したり、ずっと恨んでいた人とばったり出会ってしまったり。他にも運命の人と出会ったり、とか。そういう縁が、何故かよく絡むんです。私の母はこの現象を『物語』と呼んでいました。
今回私たちは、カモミールさんとベルさんの物語に巻きこまれてしまったんだと思います。分類するなら、間違いなく恋の物語だと思いますけど」
「ふむ。つまりは面白げな偶然が起こりやすいということか。はっきり言って疑わしい話だと思うがな。人が大勢集まって関わり合うのだから、偶然など起こるべくして起こっているように思える」
まあ、あの二人が同じ場にいることは、単なる偶然だと言いたくない気持ちは分かる。挑御川はかぶりを振って話を続けた。
「私は信じてますよ。ずっとファリジア・レースに参加している両親の話を聞いていると、あるとしか思えないんです。それに両親はファリジア・レースをきっかけに結婚しました」
ほう、それはすごい。さしずめ挑御川はレースの申し子とでも表現できる存在だ。
そして、彼女がレースにこだわる理由が分かった。両親の出会いの場。これを悪く言われて嫌な人間はそうはいまい。しっかりと覚えておかなければ。彼女の人となりを構成するのに重要な役目を果たしているのだから。
「まあ、お前が言うならば信じよう。その方がこのレース、楽しめそうだ」
素直な気持ちを口にすると、挑御川は優しげに笑った。その笑みが何を表しているのかは、私には分からなかったが。




