人生が始まる
何度も頭を下げつつ、私は社長室を後にした。
それから本社を出てタクシーに乗った。これからしなければならないことは数多くある。のんびりしている時間はないのだ。どれだけの期間《《あちらに》》いることになるか分からない、という点を考慮して準備しなければならないわけで。
いや、色々考える前に集子に連絡を入れるべきだろうか。しばらくはこちらで手続きがあるから、ファリジア王国に向かうのは一週間くらい先になる。その間一度も連絡しないのはレース初日に待ちぼうけを食らわせた手前、避けたい事態だ。まあこれからは一緒に仕事をする間柄なのだから、情報共有は早めに済ませておいて損はないだろう。
そう思って、私はポケットに入れていたスマホを取り出した。すると青色のランプがチカチカと光っていて、どうやらメールが来ているようだった。確認すると、差出人はまさかの挑御川重雅だった。今回の件についてお礼が言いたかったのでいいタイミングだと思ったが、しかし件名を見て気を引き締めさせられた。
私はゴクリと唾を飲み込んでから、メールを開いた。
警告
これは俺の独断で送らせてもらった、警告文だ。お前に言わなければならないことがある。覚悟をして読んでほしい。
この先あのような闘い方を続けていけば、遠くても三年以内に風向緋板は死ぬだろう。
これは俺が二十年ファリジア・レースにかかわってきたからこそ導き出した結論であり、世界最高のファリジア王国の医療技術者たちが口をそろえて言ったデータによる推測でもある。
二か月前のファリジア・レースでお前の体は酷く損傷した。その結果、現在のファリジア王国の医療技術ですら治せない大怪我を患うことになった。治らない以上は、その症状と一生付き合っていくことになるだろう。
だからこそ、警告する。
集子とずっと一緒にいたいならば、いてやりたいならば、ファリジア・レースにはもう二度と参加しないことだ。それで娘に同棲でも申し込めばいい。今の奴なら散々悩みはしても、結局はそれを受け入れるはずだ。
それでもレースに参加するというのなら、それは仕方のないことだ。俺は馬鹿だとしか思わないが、お前にはお前の生き方があるからな。それを否定するつもりはない。
しかしお前の場合間違いなく、普通に生きるよりも圧倒的に早く死を迎えることになる。下手をすれば俺よりも、六十近い浩太よりも早くだ。
勝手な意見を言わせてもらえば、お前には長く生きて欲しいと思っている。俺以外にもそう思っている人間は、それなりにいるはずだ。
せいぜい必死に考えて、それから結論を出すといい。しかし一つ、可能性を述べておく。
お前が死ねば、集子はまた深い孤独に落ちるかもしれない。
私はこれを読んで、そうして考える。そして一つ、確実に言えることがある。
重雅には分からないのだろう。三十路になって初めて心から楽しめるものに出会えた感動と、その衝撃を。ファリジア・レースという場所が、光り輝いて見えていたということを。
私は希望で満たされた道を歩み始めた。しかしそのすぐ後ろの道、ファリジア・レースのなかったこれまでの人生という道には、何もない。ただの暗闇だけが続いていた。
もう私は、あの闇に、地獄のような日々には戻れない。たとえこの先、ファリジア・レースの《《闇》》が襲い掛かってきたとしてもきっと後悔しない。そう断言できる。
しかし集子のことを考えると、それは果たして正しいのかという疑問が生まれるのも事実だった。それだけ私の中でファリジア・レースと挑御川集子の存在は大きく、そして釣り合っているのだ。
私はふと背中の痛みと口の中の苦み、そして右手を意識する。何の努力もしてこなかった私がレースに勝利するには、激しい痛みや命を削るという行為ではまだ足りなかったらしい。一生背負い続ける怪我をしてようやく釣り合う勝利。馬鹿なことをした、という気持ちは湧かなかった。しかしながら名誉の負傷だ、という自尊も湧かなかった。これが当然なのだろう、という状況からなる推察しか浮かばない。
ああそうか、今、私は悩んでいるのだ。人生の岐路に立たされているのだ。そして今の気持ちとして、どちらかに傾いているわけではないようだ。
タクシーの中で一人、私は悩んだ。悩んで悩んで、しばらくして窓の外の空が暗くなり、さらにしばらくしてタクシーがアパートに着いて、それから自分の部屋を隔てる鉄扉までゆっくり歩いてから。
ようやく電話をかける決心がついた。相手は当然、集子。私はスーツであることなど気にもせず扉を背にして座り込み、そうして夜空を見上げた。
通話ボタンをタップして、コールを待つ。一回、二回、三回。すると回線はつながったらしく、少しくぐもった集子の声が聞こえてきた。
『あ、先輩! もう連絡遅いですよー。もちろんあのお話、受けたんですよね?』
ああ、と返事をすると狂喜乱舞した集子の声が聞こえてきて、思わず耳からスマホを離した。
それから彼女が落ち着くのを待ってから告げた。悩みぬいた末の結論を。
「集子。私に——」
答えはもう、決まっていた。
「《《闘い方を教えて欲しい》》。ずっとお前といるために、超能力だけに頼らない強さが必要なんだ」
しかしこうやって言葉にすると簡単に思えるこの道は、超能力を全力で用いながらファリジア・レースを選んだ場合よりも圧倒的に過酷だ。自分の強みをできる限り用いないという行為は、ファリジア・レースにおいて無謀と言うほかない。何かしら他の強みを確立できなければ、私の死期はさらに早まるだろう。
——だからこそ挑む価値は、他のどの道とも比べらものにならないほどに高い。それは最も命を賭けるに値する、私の生きる理由。そして心から望んでいることなのだから。
それはファリジア・レースと挑御川集子、その《《どちらも》》を選ぶための道なのだから。
集子は私の言葉を聞いてから数秒ほど間を空けた。電話越しでもよく分かった。様々な感情や言葉が心中を渦巻いているのだと。
それでもすぐに、彼女は言った。
『先輩のことですから、それが茨の道だってことくらい分かってるんですよね』
「当然だ」
『……だったら、分かりました!』
一瞬流れた陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように、集子はどこまでも快活に言った。
『私が先輩をビシバシ鍛えて、鉄号盾人もびっくりのムキムキマッチョにしてあげますから覚悟しておいてください!』
……あそこまでやるのか。冗談だと信じたいが。
「総重量百五十キロを優に超えていそうなあの鉄号を驚かせる筋肉か。おそらく私の今の体重と同じだけの筋肉を搭載しなければならんだろうな」
冷静に告げてみると、集子は笑いながら、
『当然冗談ですよ。心配しなくても色々教えてあげますから、できるだけ早くこっちに来てくださいね』
と優しげな声色で言ってくれた。そうだ、集子のためにも私のためにも、最高速で準備を進めなければならない。
だが今日だけは、そんな煩わしいことを全て、考えないようにしよう。
私は立ち上がりながらスマホを持っていない方の手で尻をはらって、ポケットに突っこんでいた鍵を扉に差し込んだ。ガチャリと回してから取っ手をひねりドアを開くと、そこには久しぶりに見る私の部屋がある。ほんの少しだけ散らかっているのは、集子がスーツやら着替えやらを出したせいだろう。目立つ場所に下げていた首吊りロープが見当たらないが、それも彼女が片づけたようだ。
私は玄関に荷物を置いたまま靴を脱いで、それから適当にスーツの上着を脱ぎ捨ててから電気をつけて、最後にベッドへ飛び込んだ。すると電話越しの集子が心配したように言ってくる。
『どうしたんですか?』
「なんでもない。それよりも集子」
仰向けになって、靴下を脱ぎながら聞くと、集子は不思議そうに聞いてくる。
『なんですか改まって』
埃っぽさを感じたので窓を開けた。外からは涼しげな虫の鳴き声と、雲の切れ間からポツポツと輝く星空が見える。私は小さく深呼吸をして、湧き上がる小さな恥ずかしさを掻き消しつつ言った。
「お前、長話は好きか」
数秒の間。しかし今度の間からは、渦巻く感情など一切感じなかった。
そうして集子は静かに言った。
『シラフだとちょっと……。でも、先輩とでしたら』
私は安心のため息をつく。すると楽しさと嬉しさが混在した気持ちが湧き出てきた。
さあ、何から話してみるか。とりあえず手始めに、三年前のリベンジといこう。
「そうだな……『集子』という名前はどういう意図でつけられたのか、教えてくれないか」




