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  作者: モノノケ
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他愛もない日常へ

「あら、目が覚めたのね。これはあの女の嫉妬が目に浮かぶようだわ」

 目を開く前にそう言われ、そうか起きたのかと自覚して。それから目を開けて辺りを見渡した。するとそこは見慣れない病院の個室で、雰囲気からなんとなく日本ではないような気がした。

 すぐ横に置いてあるテーブルには、少し枯れてはいるが名称の分からない豪華らしい花々が花瓶に挿してある。そして冷房が効いているのか、涼しげな空気が充満していた。窓はカーテンが閉められているが、隙間から刺す太陽光から現在時刻は昼過ぎと予測を立てる。それから、どうやら私は生き永らえたようだとホッと一息。

 そしてあまり聞き覚えのない声と口調に意識をやる。その姿をとらえようと顔を上げると、予想だにしない人物を目にして心臓が止まりそうになった。

 間違いない。忘れようもない。腰まで伸びた艶やかな髪にスラっとした手足。そしてつり目だが非常に整った顔立ち。

 彼女は紛れもなく、逢瀬牧その人だった。

 まさか、信じられん。何故彼女が私の病室に? まさか殺しに来たのか? 心がざわつく。何故病室という安心空間でこんな気持ちにならねばいかんのだ。目が覚めたばかりだぞ。運命よ、少しは自重してもらえないだろうか。

 そう一しきりビビッていると、逢瀬牧はクスッと笑った。美人の笑みは心の保養だ。単純な私の心は、ほんの少しだけ落ち着いた。

「私に勝った男がそこまで怯えないで欲しいわね。負けた方が偉そうにして、馬鹿みたいじゃない」

 その言葉に少しだけ戸惑い、ゴホンと咳をする。どうやら声は出るな。だったら言わせてもらうか。

「あれは偶然の結果だと言っただろう。そしてそのことをこれ以上蒸し返す気はない。とにかく言いたいのはな——」

「何故私がここにいるのか、でしょう? というかあなたこそ、ここがどこだか分かっているの?」

「それはもちろん」

 病院だろう、と言おうとした矢先。

「まさか病院だなんて、幼稚園児みたいなこと言わないわよね」

 年上に幼稚園児とは失礼な奴だ。完全に図星だが。

「その様子じゃ分かっていないようだから教えてあげるけれど、ここは《《ファリジア王国の》》王立病院なのよ。ついでにあなたが知らなそうな情報を言わせてもらうと今は七月十三日。つまりあなたは約二か月眠っていたの。非常に珍しいケースね。ファリジアの医療技術なら大体の怪我は三週間もすれば完治する。治療不可の大怪我なら一週間もせずに死ぬから、病気でもない限り長期入院自体稀ね」

 二か月、か。そこまで長く眠っていられる感覚がよく分からない、などと他人事のような感想を得た。何せ突然そんなことを言われてもピンと来ないのだ。……いいや、それが事実だとすると非常に重大な問題が発生するわけなのだが。不安が無尽蔵に湧き出してきたので、それを解消するために私は思わず尋ねてしまった。

「私は、クビか?」

「……知らないわよ」

 吐き捨てるような口調でそう述べる逢瀬。それはそうだが、私にとっては重大なことなのだ。もう少し労りの気持ちが欲しかった……現実逃避しても仕方がない。二か月以上も会社に連絡せず、のうのうと休み続けた窓際社員に居場所があるのかという問いに、意味はあるまい。いや普通なら病院側が会社もしくは知り合いに連絡を取るはず。そもそも私が大怪我を負ったと知っている集子が伝えていないとは考えづらい。

 だがあまり、希望を抱くのも馬鹿らしい。遊びに行って怪我をしたようなものなのだから。

 そうして急に押し寄せてきた現実に飲み込まれそうになっていると、逢瀬は助け舟のようなタイミングで口を開いた。

「先ほどの質問に答えるわ。私は一か月に一度、仕事ついでに少し顔を見に来ていただけよ。あなたには死んでほしくないとは思っていたから。勝ち逃げされるの、嫌だもの。けれど挑御川集子は一週間に一度来ては一日中看病していたようね。看護師がそんなことを言ってきたわ」

 いい気味ね、と楽しげな笑みをこちらに向けた。どうやら集子と逢瀬はあまり仲良くないらしい。女性同士の《《そういうの》》は聞いているだけで恐ろしくなるのでこれ以上は踏み込まない。

 それよりも集子はかなりの頻度で見舞ってくれていたようだ。嬉しくもあるが、かなり面倒だろうに。感謝しなくてはいけないな。

 考えていると、逢瀬が意外そうな表情で言ってきた。

「へえ、あなた笑えるのね。というか気のせいかしら、少し明るくなったような気がする。あなたを纏っていた陰鬱な……影のような雰囲気がなくなったような感じがするわ」

 笑っていたのか、私は。確かに心に溜まっていた、感情の泥のようなものがなくなっている気がした。気持ち身軽になったような感覚もある。というよりも、私と逢瀬の出会ってからの合計時間は二時間もないはずだ。それなのに病み上がりの人間を見て「明るくなった」とは、前まではどれだけ暗い印象を人に与えていたのだろう。

 しかしそれが解消された理由としては、一つしかない。

「そうだな……。吹っ切れたという表現が正しいのかもしれない。ファリジア・レースでの色々を経て、これまでの私の考えにけりがついたのだろう。ああ、そう考えるとしっくりくるな」

 他人に聞かせるにはあまりに抽象的な言葉の羅列だったが、逢瀬は同意するように頷きながら言った。

「考えが変わったという点は同じよ。あなたのように、強者の雰囲気を持ち合わせていなくとも強い人間がいることが分かったわ」

 どういう意図の発言だろう。嫌味のような文章だが口調自体は素直な感想といったニュアンスだった。考えをまとめている途中に、逢瀬は続けて言った。

「私としては、前の方が底知れない感じがあって好みだったのよね」

 評価されている、のか? いやむしろ評価が下がったような言い方だ。

「だったら今はどうなんだ」

「そうね、煮ても焼いても食えなさそうな異物感があるわ」

 その答えが非常にツボに入ったので、思わず声を出して笑ってしまった。またも意外そうな、目を点にした表情で見つめてくる逢瀬。ひとしきり笑ってから、楽しさを隠さず言ってやった。

「異物感か! それはいい表現だな、気に入ったよ」

「別にあなたを笑わせるために言ったわけではないのよ。端的に表しただけ」

 私の感想に少しだけムスッとした逢瀬は、そう言いながらも少しだけ笑みを見せた。いい表情だなと思って、ハッとする。

 いつの間にか私自身、逢瀬との会話を楽しんでいる事実に。内心驚きだ。いやはやこれも、ファリジア・レースの導きだろうか。


「本音を言わせてもらうとね」

 逢瀬はそれまでの流れを変えるようにして突然、そんな切り出しをした。

「あなたには早く目覚めて欲しかったのよ。私はこの二か月、仕事で様々なファリジア・レースに参加したわ。けれど一番充実感で満たされた相手は、あなただったのよね。

 あの時の戦闘には、先ほどの話ではないけれど考えを変えられた。参加するまでは、ファリジア・レースなんて所詮仕事だと思っていたのよ。でもあなたとの死闘は、これまで経験してきたどの闘いよりも満ち足りた時間だったわ。

 楽しかった——そう言ってもいいくらいに。

 だから早くあなたに復帰してもらいたい。そうしないと、また闘えないものね」

 こちらに視線を合わせて、身を乗り出すようにしながらそう吐露する逢瀬。顔が近い。けれど気にした様子はない。そんな恥ずかしげと飾り気のない言葉に、私は少し気圧された。思わず、ごまかすような言葉を口にする。

「そこまでして闘いたいものなのか。来家と同じ人種だな」

 すると手痛い否定を口にされる。

「あんな《《雑食》》と一緒にしないでちょうだい。私はあなただけを求めているの。あなただけと闘いたいのよ。あなたとなら必ず全身全霊を賭けた闘いが出来ると、身体が覚えてしまったから」

 視線はより強く、射抜くよう。言葉はあまりにも純粋で、それでいて単純だった。思わず唾を飲み込んだ。まるで情熱的な愛の告白。『風向緋板でなければ』などと、これまでの人生で言われたこともない最大の賛辞だ。それをあの逢瀬牧が言うのだから、高揚しないわけがない。

 何か、言わなければ。しかし何をどう言うべきなんだ。パッと思いつかないならば、私の常識に当てはめて考えるしかない。風向緋板は恥も外聞も気にせず、自身の気持ちを訴えかける人間に対してどういう返事をするのか。

 決まっている。同じく自分が本気で抱いた気持ちをぶつけるしか選択肢はない。

「私もあの時、間違いなく同じ気持ちだった。自身の全てを賭けられる気持ちよさに——」

 そうパニックになりかけながらも必死で言葉を紡いでいると、こちらを見つめていた逢瀬がツイと後ろを向いた。その反動で長い髪がふわりと舞う。何かに気が付いたような、そんな表情をしていた気がする。それから小さくため息をして、こちらに向き直ってから言った。

「面倒なのが来たから、もう行くわ。それではさようなら。また戦場で会えることを願っているから」

 は? という素直な戸惑いが脳を支配する間に、逢瀬は閉めていたカーテンをシャッと開いて、ガラリと窓を開けたかと思うとそのまま躊躇なく外へ飛び出して行ってしまった。

 私は状況が呑み込めず、ポカンとするしかなかった。逢瀬が出て行った窓からは夏の割に涼しげな風が吹き抜けて、熱くなった心と頭をゆっくりと冷やしてくれた。

 そうして落ち着くと、部屋の外からこちらに近づいてくる革靴特有の足音に気が付いた。ああ、彼女はこれに気が付いたのか。そしてあれがわざわざ逃げ出すような面倒な相手といえば、一人しか連想できない。

 淑女のように落ち着いた足音は、私の病室の前で止まった。それからゆっくりとドアが開かれる音がして——、そうして目が合った。

 挑御川集子は目を見開いたかと思うと、両腕に抱えていた豪華な花束を危うく落としかける。視線を花束へと落とした彼女は、それをすぐ横のテーブルに無造作に置いてこちらに視線を戻した。瞬間、一筋の涙を流し、キュッと結んでいた口が開かれて、震える唇で彼女は言った。

「緋板、先輩……っ」

 もはや目に新しくすらある、スーツ姿に後ろで結んだだけの長いブロンド髪。そんな仕事姿の集子はパタパタと足音を気にする様子もなくこちらに駆け寄り、そして腰元に飛び込んできた。もはや先ほどまでの落ち着いた佇まいの淑女はどこにもいない。

 そこには私を心から心配してくれた、大人びた姿をしただけの少女がいた。

「お帰りなさい先輩。心配しました、本当に……」

 想像以上に落ち着いた言葉とは裏腹に抱きしめる力は強く、痛いくらいだった。まるで私の存在を確かめているような、そんな行為。とりあえず、丁寧にセットしてきたらしい頭を崩さないよう、丁寧に撫でて——ある違和感に気が付く。しかしそれはいったん置いておいて、私は返事をした。

「ああ、ただいま集子。面倒をかけたようだな。外国の病院に週一度の見舞いは、疲れただろう」

 集子は顔をうずめながら、すり寄るように頭を振って答えた。

「いいえそんなことは……。私がしたくてしたことなんですから、先輩が気に病む必要なんてないんです。ああ……ずっとこうしたかった。あの時カモミールさんに先を越されて、悔しいやら羨ましいやらで悶々としてたんですから。はあ、落ち着くなあ……あれ?」

 私を置いてけぼりにしてテンションを上げ続ける集子だったが、しかし急に疑問形を口にした。それからスンスンと鼻を鳴らしてウーンと唸ってから、体勢はそのまま視線だけを私に向ける。目覚めたばかりの病人にはあまり向けないようなジトッとした視線だ。

「どうした」

「いえですね、そういえば先輩はいつ頃目を覚まされたのかなーなんて思いまして」

 考えるまでもない。

「ついさっきだが」

「看護師さんも、先輩が目を覚ましていることは知らないはずですよね。面会の旨を伝えた看護師さんはそんなこと言ってませんでしたし」

「看護師には会っていないから当然だろう」

「だったらなんで、私が週一度ここの病室に来ているってことを知ってたんですか? それとこの布団から、先輩以外の匂いがします。看護師じゃない人間の匂いが」

 浮気調査の探偵ではあるまいし、そんなことに頭を使って人を疑わないで欲しいものだ。私は大したことではない、という口調を心掛けて事実を口にした。

「目覚めた時、そこの椅子に逢瀬牧が腰かけていてな。ついでに知らないことを色々と教えてもらったわけだ」

 スラスラ打ち明けると、集子は盛大にため息をついた。なんだその『期待外れ』みたいな反応は。彼女はじめり気のある視線そのままに口を開く。

「ちょっとは狼狽えてくれるような可愛げが欲しかったですね。でもひた隠しにしないというか、先輩の包み隠さない性格、私好きですよ」

 そう言って、この病室で初めて私に笑顔を見せた。朗らかで安心したような表情だ。目元にはまだ少し涙が浮かんでいる。それを見て、私は少しだけドキリとした。ここまで私に感情豊かでいてくれるその事実が、たまらなく嬉しかった。言葉だけではない、集子が本気で私を思ってくれているのだと、強く実感できるから。

「まあ逢瀬牧は許さないですけどね。目覚めた先輩が最初に私を見て、信頼度をさらに高めるチャンスだったのにー」

「お前も大概隠さないな」

 というかその、生まれた動物が最初に見た生き物を親と認識するみたいな理論を私に適応するのはどうなんだ……まあいい。憤慨する集子をヨイショしながらどうどうとなだめていると、そのうちまんざらでない表情になり落ち着いた。


「それにしても初めてのファリジア・レース、お疲れ様でした。あと、一番言いたかったことなんですけど……本当に、ありがとうございました」

 逢瀬が座っていた椅子に腰かけている集子は、深々とお辞儀をして言った。お礼に関しては十中八九、手に入れたアーティファクトのことだろう。

「礼はいい。最後の最後で諦めかけた人間がもらっていい言葉ではないからな。私をゴールに押し込んだ重雅と浩太に言ってくれ」

「あの二人には散々言いましたよ。それと、ただの善意で手伝ってくれたカモミールさんとラダル君とか、興味本位でも一生懸命動いてくれたベルさんと来家にも。お礼を言えていないのは先輩だけなので、おとなしく受け取ってください。そもそも先輩のアイテム変更の結果なんですからね」

 そういうことなら受け取らないわけにはいかない。分かった、とだけ言って私も深々と頭を下げた。すると集子は分かればいいんです、とおちゃらけて笑った。そう、それくらいでいい。真に迫るような感謝は必要ない。

 それよりも、気になることがある。

「それで、手に入れたアーティファクト……『境界線の消失』だったか。あれはもう使ったのか? どうだったんだ」

 聞くと、案外あっさりとした様子で教えてくれた。

「はい、本当にお母さんと話すことが出来ました。十五年ぶりでしたからとっても嬉しかったですよ。でも第一声が『死人にいつまでも囚われてちゃ駄目でしょう』だったのは心にズキッときましたけど。ああ、緋板先輩のことも話しました。お母さん、先輩とも話したがってましたよ」

 気になるニュアンスだ。まるでもう話せないみたいではないか。

「『境界線の消失』は確か電話機型のアーティファクトだった気がするのだが。何度も使えるようなものではないのか」

 聞くと、集子は申し訳ないように目元を少し伏せて言った。

「実はアレ、レプリカだったんですよ。だからなんですかね、一回しか効果を発揮してくれませんでした」

「そう、か。それは残念だったな」

「少しはショックですけどね。完全な偽物じゃなくてよかったと、そう思うようにしてます」

 集子の心中を察する。当然彼女はずっと使えるものだと思って手に入れようとしたわけだから、落胆は大きいだろう。しかし十五年前に死んだ母親と話すという奇跡を得たわけで、彼女の気持ちとしては一区切りついたのではないか。表情を見るに、そんな気がするのだ。

「まあレプリカがあるってことは本物もあるってことですし、これからまた頑張っていきますよ」

「そうだな。私も無茶しない程度には手伝わせてもらおう。ずっと一緒にいると、約束したからな」

 言うと、集子は大きく目を見開いて私を見た。それから真剣な表情を、おそらく意識して作った。何か言うつもりなのだろう、こちらも覚悟を決めて身構える。

 数秒の後、口を開いた。

「……緋板先輩に、ずっと聞きたかったことがあるんです」

 一瞬目を伏せた集子の表情は、緊張しているように見えた。今更二人の間で行われる会話で、緊張する話題などあるのだろうか。……邪推はすまい。ただ大人しく、紡がれる言葉に耳を傾けよう。

 そうして小さく深呼吸をした集子は、やはり緊張した面持ちで口を開いた。

「……ファリジア・レースは、楽しかったですか?」

 溢れる感情を抑えきれないようにして、言葉を続ける。

「参加してよかったって、思ってますか?」

 それから決意したような表情に涙をためて、言った。

「本当に、私とずっと一緒にいてくれるんですか?」

 膝の上で固めていた握り拳が、小さく震えている。今、俯いている集子は言った。ずっと聞きたかったと。これらの言葉はいつか私に聞こうと心に溜めておいた、挑御川集子という人間の真意だ。言葉にするのにどれだけの勇気が必要だったのかは、考えるまでもなく伝わった。ずっと一緒にいてくれるか、なんて。子供じみた質問ということは彼女自身分かっているはずだ。

 それでも知りたかったのだ、集子は。私がファリジア・レースに対して、どれだけ本気なのかを。相手に信頼されていないのではないかと思われる可能性を秘めた言葉であったとしても、聞かないわけにはいかなかった。その根底にある感情を、子供っぽいと吐き捨てる真似はしない。

 私は集子に救われた。人生そのものを変えてもらった。ならば集子を深い孤独から救ってやるのは当然であり、人としての筋の通し方だ。

 そして今の私は、そんな理屈に感情を乗せることができる。一緒にいたいから。《《私が》》一緒にいたいという、集子へ向けた私自身の感情を。

「質問は全て肯定だ。ファリジア・レースは計り知れないほどの楽しさを私に与えてくれた。それはこれまで歩んできた人生では《《なかった》》ことで、参加してよかったと心から思えたんだ。

 だから私は、そう思わせてくれる場所を教えてくれた集子と一緒にいたい。これは本心だ」

 震える拳に寄り添う形で、そっと手を置いた。するとゆっくりと顔を上げた集子はこちらを見て、それから涙を流して笑った。戸惑う私は思わず問うた。

「お、おい。どうしたんだ一体」

 集子は笑顔を崩さないまま袖で涙を拭いつつ、えへへと照れをごまかすようにしてから言った。

「だって、先輩が私のことでそんなに楽しそうに話すの、初めて見ましたから……」


 手元に鏡がないことを、これほど後悔した日はなかった。

 ともかく集子が泣き止むのを待って。そして目覚めてからずっと気になっていたことをいよいよ聞く段階になった。それは当然——

「私はクビか」

 ほとんど諦めたような声になってしまったのは仕方がない。しかし集子はそれほど気にした風もなく簡単に言った。

「今は処分保留になってますね。まあお父さんと来家が掛け合ってくれたおかげなんですけど」

 ほう、それは中々の朗報だ。すぐに処分を下さないだけ、考慮の余地ありと判断されたのかもしれない。少しだけ気分を盛り上げつつ口を開いた。

「確か重雅がハヤミ貿易会社にコネがあるんだったか。それで集子はうちに入れた、とか言っていたな。それと来家は最初にフルネームを聞いた時から思っていたが、うちの社長の血縁か何かか」

「ええ、お父さんとハヤミ貿易会社の社長、速見蹴斗(ケルト)は十年来の戦友だったみたいです。それと来家は社長の孫になりますね。手の付けられない娘を一度レースに連れて行ってくれーということを社長がお父さんに頼む形で、私はあの子とかかわることになったんですよ」

 うちの社長と重雅が元戦友、ということは社長はファリジア・レースの参加者だったのか。それだけで驚きの事実だが、長く重雅と一緒にいた社長はおそらくかなりの実力者だったはずだが、そんな彼が手に負えない来家は一体何をしでかしたのだろうか。気になるが、それは話の本筋ではない。今最も気になるのは、処分の話だ。

「保留というのは、私が眠っていたからだろう。目覚めた場合の指示を社長から受けているのではないか?」

 ニヤッと笑って集子は答える。

「さすが頭が回りますね。その通りです。起きたらすぐ本社の社長室に来てもらうように、との命令です。ファリジア・レース参加者の退院手続きはお父さんが後からどうにかするみたいなので、今から向かっちゃってください。服は先輩の賃貸から持ってきたスーツがそこのロッカーに掛けてあるので、それでお願いします。とにかく起きたらすぐに話したいそうなので」

 待て、待て。話が恐ろしく早く進むし気になる点がいくつもあるのだが。退院手続き……私の部屋にどうやって……準備がよすぎる……何故こうも急かす……すべてが気になる。 とりあえず何か聞かなければ整理も何もできんわけだが。しかしそれを許さない後輩が一人。

「ほらほらとっとと着替えてください! 脱がないんなら脱がしちゃいますよーむしろ《《右手が半分不自由》》なんですから、これって正当な親切ですよね」

 本気だか嘘だか判別つかない視線と笑みを向けてくる集子に、恐怖を覚えつつ。

「待て、せめて一つだけ聞かせてくれ。一つだけでいい!」

「しょうがないですね、じゃあ一つだけいいですよ」

 考えろ。今この瞬間に聞いておく必要のある事柄を。パニックになるな。冷静さを取り戻せ。どうでもいいことをごちゃごちゃと考えるな——。

 そうして考えついた一つの問いを、私はよく考えもせずにぶちまけた。

「家賃を二か月払っていないのだが、追い出されていないのだろうか?」

 何故こんなことを聞いたのだろう。鉄号盾人との最後の闘い時には、もう少し冷静だったはずなのだが。それはもっともですね、と妙に納得したような集子はまるでベルのようにペラペラと舌を回した。

「先輩はあのファリジア・レースで、最も盛り上げてくれた人物として特別賞金をもらったんです。家賃はその時のメラを日本円に替えて払わせてもらいました。実を言いますと二百万ミラあったんですが、二か月という異例の入院期間のせいでファリジア・レース運営が個人に対して払える医療費の限度額を超えてしまいまして。それにファリジア王国の医療は特殊なために日本の保険がきかないんですよね。当然ファリジアの保険に入っていない先輩は医療費を割引なしでそのまま払うことになりました。なので手元に残ったお金は、ほぼゼロです」

 現実を、突きつけられた。聞いていないことまで包み隠さず突きつけられ、私の精神は割とショックを受けていた。それなりに身に入ると思っていたのだが……。当然根岸への土産は《《なし》》だ。

「そんなに落ち込まないでください。先輩はお金よりも大事なものをたくさん手に入れたじゃないですか」

「確かにその通りだが、今この瞬間に私以外の人間がそれを言う権利はないだろう」

 勝利の目覚めの、はずだった。しかし突きつけられた現実はあまりに重く、得た銭はなしという無常の結末が待っていた。

 そして今現在、病み上がりの私は後輩に鞭を打たれつつ着替えを急かされている。もう少しゆっくりしたい。目をつむって眠りたい。だがもう、そんな望みは抱くまい。だからせめて……

「一人で着替えるから、集子、部屋から出て行ってくれないか……」

 割ときつめに、そう言った。

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