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  作者: モノノケ
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風向緋板

 暗い通路を突き進んでいく。普段ならば肌に当たる風が涼しく感じるのだろうが、今は何も感じない。これだけでも異常事態だがその上、頭は突き破るような痛みがある。体にはもうほとんど力が入らず、気を抜くと意識が遠のいていくようだ。鼻をすすると自分から漂うむせ返るような血の匂いで、吐きそうになった。

 それでもまだ正気を保っていられるのは、もうすぐそこにゴールが迫っているからだ。意識のない状態でゴール門をくぐったとしても、アイテムは得られない。だから意識だけは絶対に途切れさせない。どれだけ苦しくとも、眠たくとも我慢する。皆が繋いでくれたバトンだ、絶対に落とすものか。そう自分を鼓舞した。

 などと思考を途切れさせないためにごちゃごちゃと考えていると、私を背負うラダル君が、興奮した声を上げた。

「勝負なんて関係ねえ! 逃げ切れりゃ勝ちなんだっての! あースカッとするぜ。おい、作戦通りになったな。すげえぜアンタ。尊敬しちまいそうだ」

 作戦、と言うほど大仰なものではない。鉄号の足を削り続けていれば、いずれ走れなくなるほどのダメージを受けることは明白だった。それでも鉄号が戦闘可能な状態だった場合、体力を蓄えたラダル君で逃げ切るつもりだという旨を事前に伝えていただけの話だ。だが、それをわざわざ口にする体力はもうない。無駄な言葉は極力省かなければならないわけで。

「ホントにすげえよ。いや正直舐めてたぜ、アンタのこと。あんなにすげえ能力だとは思わなかったっつーか。そりゃ逢瀬の姐さんも倒せるわけよ。

 いやいやそれ以上に、男気っつーの? ボロボロボロ雑巾状態で挑御川集子をかばったのは真似出来ねえわマジで。

 だから俺は——」

 さすがに、何か一言反論しようかと思った瞬間だった。ラダルはいきなり、それまでの興奮した声色ではなく、冷静な、それでいて覚悟を決めたような強い言葉を紡いだ。

「俺は、アンタに命一回分賭ける気になったんだよ」

「命……?」

 私は察しながらも、疑問として返事をした。

「とぼけんなよ風向。分かってんだよ俺は。最後の目くらまし爆発の時点で、鉄号盾人がまだ走れる状態にあったってことくらいはなあ。あの時俺を呼んだのは、作戦決行じゃなくてああするしかなかったんだろ?」

 ラダル君はそもそも頭が回るし、あの場で最も冷静な判断を下せる人間だった。それくらいは気づけて当然か。私は驚きもせずにああ、とだけ言った。ラダル君は続けて述べる。

「そうなると、どうなるのかは猿でも分かる。いくら体力を温存してたっつっても、アンタを背負っている俺と鉄号じゃあっちのほうが速い。いくら脚に怪我を負っててもあの耐久力だ、現状の怪我じゃまだ追ってくると考えんのが自然だ」

 隅から隅までお見通し、か。本当に状況判断能力は高いな。だからこそ、分かっていても私を背負って走ってくれる彼には感謝しかない。

 しかし口から漏れたのは、謝罪の言葉だった。

「すまん……ラダル……」

 へっ、と私の言葉を鼻で笑ってから、三度彼は口を開いた。

「気にしちゃいねえ。言ったろ? 命一回はアンタにくれてやるさ。頭さえ無事なら俺は再生できるんだからそれほど重くねえのさ、俺の命はなあ。

 だから俺の体がどうなっても臆するな。もう返事もしなくていい。だからアンタは考えろ、逆転の一手をな。ここまで来たんだ、ゴールしなきゃ嘘だぜ」

 格好いいな、ラダルは。私よりもよほど格好いいセリフを述べている事実に彼は気が付いているだろうか。……いや、今は余計な考えは抱くまい。とにかく考える必要がある。

 どうやって鉄号に血液を付着させるか。

 そして、《《どのようにして》》爆発させるのか。


 そもそもの問題として、今の私には、それこそ鉄号を一撃でダウンさせる程の血液を付着させられない。付着可能なのはせいぜい掌ですくえるような量の血液だが、それではあの驚異的なタフネスを誇る奴を倒すには全く足りない。

 しかし先の鉄号戦で、能力発動に関するヒントを得ていた。それは遠距離にある自分の血を、鉄号が踏んだと知覚した瞬間に爆破させるという経験を得たからこそ抱けたヒントであり、疑問だった。

 あの時私は確実に、《《一度爆発させた血液をもう一度爆発させていた》》。正確には血液を爆発させた時に爆発しないで飛び散った血液を爆発させた、という意味だ。

 つまりはこれまで、『あの血液を爆発させる』という曖昧な認識で能力を使っていたのだ。だからこそ、爆発せずに飛び散った血液があったわけで。まあ、そもそも蒸発した血液を利用した技を思いついている時点で、それに気が付いていてもよかったのだが。

 ——つまりは、《《血液の量に対する爆発回数の設定》》。

 そこまで考えた瞬間。後ろから、地響きのような足音が聞こえてきた。ラダルは大げさな舌打ちをかますと、呆れたような口調で言った。

「もう来たのかよ。速すぎんぜいくらなんでも」

 もう時間は十秒もない。あっという間に鉄号は私たちに追いつき、そして——。

「まあいっちょやってやる。俺は鉄号の姿が見えた瞬間に、アンタをゴール方向に投げ飛ばす。受け身とれねえだろうが勘弁してくれや」

 早口でまくしたてるラダル。彼は返事をする間も与えずに言葉を続けた。

「そんで、後のことは任せた。ああ後、俺との約束忘れんなよ。それと——」

 その時。ひときわ大きな足音と体躯が存在感をありありと示した瞬間。ラダルの言葉を遮る声が、耳に響いた。

「ようやく追いついたか。ギリギリと——」

 しかし瞬間、さらに声が上乗せられた。遮るは決意の言葉。ラダルが紡ぐ、頼りがいに満ちた若々しき怒声だった。

「《《条件は》》、満たしといてやるからよおッ!」

 頭に疑問符が浮かんだ、次の瞬間。私の身体はラダルの予告通り前方へと投げ出されてしまった。体にのしかかる重力と、ぐるりと回る視界。そうして見えたのは、もうすぐそこまで来ていたゴールの扉。傷だらけで煤けた鉄号盾人。そして素早く右手に鉈を握って翻りつつ臨戦態勢を整えた、ラダルの姿だった。

「負けねえぞオラッ!」

 ラダルはそう口にして、鉄号へ突撃を敢行する。分厚い鉈に込められた両断の意志。それが鉄号の大剣とぶつかり、金属音が激しく響き——

 あっけなく鉈は砕かれ、金属片が飛び散った。わずかな光源に照らされたそれらが鈍く光る中。鉄号の剣がラダルを切り裂き、大量の血飛沫が輝きを遮った。

 しかし、

「分かってんだよそんなことは……っ」

 鉄号の剣圧にすら物怖じしないラダルは傷をかばいもせず、歩みを止める様子もなく地面に流れ落ちる程の血液を踏み越えていく。鉄号は先ほどの戦闘の通り、次撃までのわずかな隙をさらけ出していた。

「——ッ」

 そのわずかな隙は、いくらラダルでも二メートルない程の鉄号との距離を埋めるのに、十分な時間だった。

「食らいやがれバケモンが」

 ラダルは先ほど鉈を握っていなかった方の、何故か真っ赤に染まっている左手を鉄号の胸あたりに押し当てる。その動きは明らかに攻撃ではなかった。一体何を? 疑問が生まれ、しかしすぐさま閃いた次の瞬間。

 ラダルは糸が切れたように崩れ落ち、私は無造作に地面へ落下した。痛みは感じなかった。だが衝撃はしっかりと体に伝わっているようで、肺が圧迫された苦しみで激しくせき込んでしまった。

 それから必死で顔を上げた、目の前には。もう見慣れた大剣の切っ先が私を引き裂こうと鈍い光沢を放っていた。

 息を呑む。しかしその切っ先は微動だにしないので、それから目を離して鉄号へと視線を向ける。彼は、手に持つ大剣と遜色ない鋭い視線でこちらを見つめていた。肌の感覚はないはずだ。しかし彼から向けられる重圧は、心臓から血管を伝って全身を刺し貫く。痛い。息が浅い。苦しい。肺が圧迫されたからではない、これは緊張だ。ただでさえ痛む心臓が、おびえるように鼓動を早める。一刻も早くこの感覚から解放されたい。そんな率直な感情が脳を侵食していく。

 そうして鉄号は、重々しく口を開いた。

「何故そこまでして闘う。そこまで傷つきながら戦闘を続けるメリットが、俺には分からない」

 ああ、最終局面だ。もう体力温存などと言っている場合ではない。隠していた気持ちをさらけ出すような心持ちで、彼の問いに答える。

「……好きだと、気が付いたからだ」

 怪訝な表情で彼は言う。

「挑御川集子をか?」

「……そういう話じゃない。私はどうやら、目立つことが好きだったらしい。そうして誰かに語られる存在に……なりたかったんだ」

「名声欲か、くだらんな。言っておくがこんな低レベルのレースでどれだけ戦果を挙げようが、大した名誉にはならない」

 鉄号の勘違いに、ほんの少しだけ笑って。それから出来るだけ大きく息を吸ってから口を開いた。

「そうじゃないんだ。私はな、自分よりも……圧倒的に優れた誰かの、度肝を抜くような行動をしたい。勝ち負けはどうでもいい。そうして、そいつの記憶に、風向緋板という存在を深く刻みたいんだ。

 億の人間に『凄かったらしい』と語られたいわけじゃない。数人でもいい。私など及びもつかないような人間に『風向緋板は間違いなく凄かった』と、言われたいんだ。

 鉄号盾人。お前も、そんな及びもつかない人間の一人だから。だから……」

 この男の脳髄に存在を刻みつける術を、必死になって考えた。

「なるほどな。下らないという感想は撤回しないが、しかしつまらない理由でもないようだ。その動機、むしろ面白くすらある」

 鉄号がほんのわずか、表情に笑みを宿したがすぐに引っ込んだ。見間違いだったのかもしれない。しかし気にしない。彼も気にしている様子はなかった。

「だがこれ以上の会話は必要ない。終わりにしよう」

 唐突なる冷徹な一言。聞きたいことも知りたいことも全て把握して、後は用済みか。なるほど私は、この男にとって取るに足らない存在だと思われているようだ。

 鉄号、お前は分かっていてそう言っているのか。それとも分からずに、ただ見下しているのか。先ほどの言葉には《《こういう意味》》も含まれているんだ。

『私が及びもつかなないような人間に、大したことのない奴だと思われたくない』

『そんな優れた人間の、記憶に残らないようなつまらない存在になりたくない』

 簡単にどうにかなると思うな。見下すな。最大級の警戒を怠るな。《《お前たち》》に見くびられるのが、私は一番嫌なんだ。

 鉄号は、何も言わない私の思考を先読みしているかのような口調で言う。

「貴様の目的は分かっている。先ほどの小僧が俺の胸につけた血液は、十中八九貴様のものだろう。それを爆発させるつもりだろうが、今更掌ですくえるような量の血液で俺を戦闘不能にするなど無理な話だ」

 そんなことは分かっている。だからずっと考えている。

 そうだ、今こそ思い出せ。五年間堆積し続けたヘドロのような憧憬を。五年間、無為に過ごした無味乾燥の時間を。そして五年間、何もしようとしなかった癖にそんな感情を抱く自分自身の罪深さを、心に刻め。

 思い出して、刻み付けて、燃料にしろ。この世全ての事象は強さの理由になりうる。集子への罪悪感を燃料にして超能力を開発した、あの時と同じだ。今度は自分自身に抱く、やましさを燃やせ。そうして思考を回すんだ。それが私の力になる。

 力がいる。絶大な力が。求めなければ、鉄号盾人の度肝を抜けないのだから。

 発想を飛躍しろ。自分自身の。そして鉄号盾人の。そうして組み上げろ。ここに来るまでに考え抜いた思考の部品を、一つのプログラムに——

「どうした。リタイアならさっさと宣言した方がいい」

 雑音が耳に入る。

「黙っていろ」

 告げたと同時に、もう馴染んだ言葉を口にする。廃品寸前の思考回路がどれだけ軋み、焼き切れそうでも。

 もう関係ない。《《使い潰す》》。

爆発の手順エクスプロージョンプロトコル——」

——条件設定開始

——能力発動条件『プログラム名を口にした瞬間』

——能力発動範囲『直径一センチメートル』と『鉄号盾人』

——能力発動回数『千八百二十六回』

——威力『十段階設定の十』

——認識血液関数『無限』

——このプロトコルをパターン四としてショートカット化

——プログラム名——

 俯いていた顔を鉄号へと向けて、同時に右掌も正面に掲げる。すると鉄号はこちらに向けていた剣を少し下げてから言う。

「悪いが出血量を増やすわけにはいかない」

 どうやら私が、右手で剣に触れようとしたと思ったらしい。またもや勘違いだ。しかしそんな彼を馬鹿になどしない。そう考えるのが自然であり、そうしなければこちらの勝ち筋がないと考えるのが当然だからだ。だが同時に感じ取った。

 今この瞬間、彼の思考を凌駕しているという明確な事実に。

 先ほどの一瞬で組み上げたこのプログラムが、鉄号に届きうるかどうかは分からない。しかし、それでも放つしか道はない。これが今の限界点。鉄号盾人の度肝を抜き、無為なる五年間を焼き尽くす意思を注ぎ込んで作り上げた、まさに私の心が生み出した邪悪なる仕組みだ。

 鉄号を見る。その表情には覚えがあった。いつかどこかで、そう見られた覚えがあった。幼い頃の親の視線。もしくは無謀な行動を眺める小学校教師の経験則。または、部活動入りたての人間を品定めする上級生の思い込み。最近ならば上司や後輩の態度がそうだ。

『どうせできやしない』

『どうせ何も、できやしない』

 間を置かず攻撃を加えれば簡単に打倒できる気もかかわらず、舐めるという実力相応の常識的行動にふけっている理由が、それだ。

 そんな想像を凌駕したいから私は。

 突きつけるような気持ちで言うのだ。

「待たせてすまなかったな鉄号盾人。最後の足掻きだ、受け取ってくれ」

 鉄号が不信感をあらわにした表情を浮かべた、瞬間。彼の胸から滴る血液を、穿つような心持ちで凝視した。


 このプログラムに必要不可欠なのは、一つの液体として存在する血液を、分割して認識することだ。それこそが血液を何度も爆発させる仕掛け。鉄号盾人にダメージを与えるための第一段階。しかしそんなこと、少なくとも私にはとても無理だ。一個しかない石ころを見て、それが数百個の石の粒でできていると考えるのとは訳が違う。液体を分割認識するのは人間にはどうあがいても不可能。

 だが、『爆発の手順』は人間の能力を利用したコンピュータのようなものだ。事実『自爆壁』は速見来家との戦闘時、目に見えない速度の攻撃に対しても爆発している。つまり私の生体が気づき反応できれば、意識や脳が認識しなくとも超能力は発動できるわけだ。

 そう。プログラムさえ組んだならば、それがどれだけ私に負荷を強いる行動だったとしても、実行することが可能になる理屈。まさに自爆的発想だった。

 

 もう後悔しても遅い。そら受け取れ鉄号盾人。風向緋板の心そのものを——

 そして己に内在する非情さを総動員して、プログラム名を述べた。

重血感染パンデミック——」

 その瞬間から鉄号に付着していた血液が、まるで沸きだつようにして無数の小さな爆発を引き起こした。しかし彼は、その光景を見てもまだ余裕を保っている。

「これがどうした」

 予想していたものと違っていたからか、辛辣なニュアンスを含んだ言葉。そう、重血感染は大規模な爆発を引き起こすようなものではない。彼からすれば拍子抜けに思える——いや、「つまらない」技に思えるのかもしれない。

 しかしこのプログラムはどこまでも非情に作り上げた。使われた人間のことなど一切考えていないという点で、もはやウイルスのような代物だった。

 小さな爆発が何度も何度も、鉄号の胸あたりを文字通り小さく焼いていく。相当に痛むだろうが、その程度で彼がどうにかなるなどという希望的観測など抱いていない。彼の強大さは、これまでで嫌というほど分かっている。

 少しして、脳が熱を宿した。負荷が上がったようだ。つまりそれは鉄号の《《症状》》が第二フェーズに移行したことを意味している。

 爆発によって飛び散った無数の血液——その中でも鉄号の体に付着したものが、同じようにして小さな爆発を引き起こし始めた。人体が焼ける時独特の臭気が鼻を掠め、生々しい焼音が耳を汚す。さすがの彼も、驚きを含んだ言葉を吐く。

「なんだ、これは——」

 鉄号の右腕や腹回り、太ももから同じような爆発が発生するのを確認するようにして、体中を見回す鉄号。そして瞬く間にその場所は、侵食するようにして爆発を繰り返していく。

 同時に脳が負荷を訴え、激痛を発し始める。こらえるために無意識的に体勢を四つん這いに変えていた。そして歯を食いしばり、小さく唸りながらもなんとか痛みに耐える。鼻の辺りも熱を持っていて、何かが流れ出てきた。そうして上唇が濡れたような感触。まるで脳みそだけを焼却炉に投げ込んだような熱すぎる痛みは、しかしまだ序章だ。

 《《そして無限に繰り返される》》。

「くそっこれは! まずい、まずい——」

 鉄号の叫び声が、意識が遠のく私を引き留めるように高く響いた。もう彼を眺めていられるような余裕はない。おそらくは新たに増えた爆発箇所から飛び散った血液が、同じような爆発を引き起こしたのだろう。いい加減彼も気が付いたはずだ、このプログラムの仕組みを。

 単純であり非情なるプログラム『重血感染パンデミック』。その効果は、何度も引き起こされる極小規模の爆発。さらには飛び散った血液にも同じ効果を付加しただけのもの。

 つまり解除されるまで、対象に付着した血液は体表面に《《感染》》し続け、爆発を引き起こし続ける。爆発はいずれ対象者の全身を焼き尽くし、それでも血液は飛び散り続け、感染を繰り返し人体を焼き続ける。血液一滴に対する爆発回数は千八百二十六回。それが飛び散った血液の数だけ爆発するわけで、実質無限に近い回数となる。

 そう。これは一人の人間を焼死体に作り替えるという、ただそれだけのプログラムだった。

 しかしそれが故に、飛び散る血液が多くなり爆発回数が多くなればなるほど、私の負担が桁外れに大きくなる。

 さあ勝負だ鉄号盾人。お前が地面に倒れ伏せるのが先か、こちらの脳が焼き切れるのが先か——

 いよいよ脳の発する痛みは、尋常でないものへとなっていた。もはや脳を巨大な《《はんだごて》》で溶かれているような錯覚すら覚える。痛みによる叫びを抑えられない。それに呼応するようにして鼻から流れ出る血液もとめどない。だがそんなものを気に出来るような余裕はなかった。遠く薄れゆく意識と、赤いフィルターがかかり霞む視界。このまま意識が途切れればどれだけ楽だろうと、何度も何度も考えた。

 だがその度に思い出されて私を現世に引き留めるのは、ファリジアレースでの思い出だった。ベルの得意げなおしゃべり。カモミールの優しげな言葉と微笑み。来家や逢瀬牧との命を賭けた死闘。ここまで背負ってくれたラダルの勇姿。

 そして集子の浮かべた様々な表情だ。注意したり叱咤する時の悲しそうな表情。戦闘時の高揚した表情。そしてすぐ隣で一番見せてくれた、楽しそうにこちらを見つめる表情——。

 私は、歯肉を突き破るほどの力で食いしばる。石畳をひっかき、血まみれの傷だらけになった指先を地面に突き立てる。そうしてもうほとんど力の入らない全身に喝を入れて、叫び声をあげながら上半身を起こし上げた。そして左手で鼻からあふれる血液を隠すようにして受け止めつつ、『重血感染』に戸惑い苦しむ鉄号を痛みのままに睨み付けた。

『勘違いするな。いま攻撃しているのは私だ。隙があると思うな。こちらはいつまでもお前を爆発させ続けられるんだ』

 そんな強がりを、鉄号に見せつけてやる。私が苦しみ続けていれば、彼の心に勝機を抱かせるかもしれない。つけ入る隙を与えるな。弱みを見せるな。こちらが完全に優勢なのだと、相手に印象付けろ。自分が倒れるまでこの爆発は続くのではないか、そんな錯覚を相手に与えろ。

 無数の爆発がとうとう鉄号の全身を覆い尽くした。未だ苦しみの怒号を上げ続ける彼の表情はもう見えない。もうすぐ、もうすぐ倒れるはずだ。皆があれだけ傷を負わせたのだから、通常よりも激しい痛みに襲われているはず——

 そしてあまりに唐突に、視界がぐにゃりと歪んだ。この感覚には覚えがある。ああそうだ、いつも私を沼の底へと引きずり込む、圧倒的なまでに深い眠気。もはやナイフでかき混ぜられているような痛みを発する脳と、一緒になって意識を途切れさせようとしている。そんな状況が、最悪の予感を与えた。

 このまま意識が途切れて、そのまま一生目を覚まさないという予感だ。死ぬかもしれないと、その時になって私は初めて、本気でそう思ったのかもしれない。

 ——だからこそ、今この瞬間、眠るわけにはいかないんだ。

 そんな必死さに拍車をかけるような決意を胸に宿した、まさにその時。

 鉄号と、目があった。表情は見えない。ただ、目があった。そして気が付いた。もう彼の叫び声が聞こえていないことに。そして彼の瞳が、私を捉えて離さないことに。

 刻み込めたのだろうか。そう思った矢先、鉄号は膝から力なく崩れ落ち、その衝撃はまるで地響きのようで。

 そしてそのまま彼の体はドスンと地面に倒れ伏して動かなくなる。膝をついた鉄号を見て、《《絶対にそうなるだろうと思った》》。

 しかしその考えはどうしようもなく甘かった。そう頭で描いた景色を、しかし上回ってくる鉄号盾人はまさに及びもつかない男だった。これが現実だ、とそう私に刻み付けるように、彼は圧倒的な強者を演じて見せたのだ。

 膝をついたまま私から一切視線を逸らさない鉄号は、《《重血爆発を受け続けてなお手放さない大剣を》》無我夢中で放った。そう、私から目を逸らさず——

 ——私にしっかりと狙いを定めて。

 目の前に飛来してくるそれは、朦朧とした意識の中でも緊急メーデーを鳴らすほどの圧倒的な『死』そのものだった。全長二メートル以上、想定重量数百キロの鋼鉄の刃。当たればぐちゃぐちゃの死体になって死ぬ、そんな明確すぎる代物が回転して襲い掛かってくる。自身の心から湧き出る死の恐怖が全身を舐めつくしていき、凍えるような寒さを感じた。飛んでくる大剣の硬質さと鋭さが視覚からありありと伝わってきて、もうすでに体は痛みを発していた。

 ——だがそれが、どうした。もう疲労困憊も極まっていて爆発の手順を使える状態にないことは分かっていた。それでも体には活が入っていて、全力で回避出来ると確信していた。それは死を前にしようとも闘えるのだという経験則。そして私自身が心の底から死ぬわけにはいかないと思えるような、確かな理由。ああそうだな集子。今この瞬間、私はお前の言葉を実感している。恐怖それ自体で人は死なず、ただ体と心が鈍るだけ。鈍った自分を弱いと決めつけ負けを認めるのは、己の勝手な判断なのだ。

 そうだ恐怖には、どうしようもない現実には——落ち着いて、どこまでも落ち着いて普段の自分を取り戻せ。焦って目の前の困難な事象に対処しようとするのではなく、普段の自分ならば出来ることなのだと思って動け。


 ああ、これはデジャヴだ。私はすでに恐怖に対抗する術を知っていた。しかし、いつの間にか仕事の慣れの中で、それを置き去りにして年をとった。

 集子が、思い出させてくれたのだ。自分と向き合う機会をくれた。だから今こうして応用できる。絶対的な死の恐怖が心を犯したとしても、自分でい続けることで鈍らず行動するという理論プログラムに則って動ける——


 ハッと気が付いた。意識が思考の奥深くに沈んでいたと、そう自覚したのだ。状況把握……などと言っている場合ではなかった。鉄号の大剣が、もうすぐそこまで迫っていた。その絶対的な凶器をしかと見つめ、そうして全力で回避行動に移る。体には不思議と力がみなぎっていて、感覚が研ぎ澄まされていた。無我夢中の火事場力が全身を炎のように熱くたぎらせる。そうして私は全力で跳んだ——はずだった。

 しかし視界は何故かほとんど動いていなかった。は? と自分の状況に対して理解が及ばない。体に力はある。だから跳んだのだ。無意識に体の力が抜けたとか、そういう話ではない。何故だと考えて、しかしすぐに答えは出た。

 無様に地面に伏している事実からも明らかだ。《《自らの血液が潤滑油となって》》最低の場面で効果を発揮したという、あまりにも間抜けな現実。

 瞬間、私の右側に鉄号の大剣が掠めた。避けられた? いや違う、彼の狙いが甘かった。さすがに重傷が過ぎたのだ。その事実を把握した瞬間、体中から鳥肌が立つのを感じた。とんでもない圧力が右側を過ぎていった、その感覚が脳みそでリフレインしている。右腕の二の腕から手にかけて、未だに圧迫感がある。それだけ凄まじかったのだろう。思わず鉄号のほうを見やると、いつの間にか地面に倒れ伏して動かなくなっていた。重血感染も発動していない。どうやら無意識で解除していたらしい。

 そうか、勝ったのか。一つため息をついてから、未だに圧迫感のある右腕を押さえながらそう感慨にふけった。

 そうして押さえる手から伝わる感触の違和感に気が付く。何だ、と思って左手を見やると血まみれだった。そうだな、私は全身血まみれだった。体中が負傷だらけなのだから、当然だろう。

 そうしてなんとなく右手を見ると、《《何故か薬指と小指がなかった》》。それどころか、右掌の左側が削ぎ落ちたかのようになくなっていた。あれ、と思う。視界が霞んでいるのか。それとも夢か? 分からないままに右腕を確認して、ああそうかと納得した。

 鉄号の大剣がわずかに掠めた右腕の半分が潰れて肉塊と化しており、血がドクドクとまるで噴水のようにあふれ出していた。

 その光景を見た瞬間、意識はグラリと遠ざかる。仰向けで地面に——自分の肉片が散らばった地面へと崩れ落ちた。先ほど過去を思い出したのは走馬燈……だったのか。心がもう、何度目か……恐れを、じわじわ、じわじわと宿していく。

 散々な惨状だ。まだ脳を酷使したことによる痛みは消えておらず、鼻血も止まらない。体中にある怪我の痛みはそこまで感じないのが不幸中の幸いなのか、その症状自体が普通に不幸なのかは分からない。しかし体の負担も相当なはずだ。精神も摩耗しきっている。

 視界が赤い。いくら瞬きしても変わらない。そして、先ほどよりもより霞んでいるようだ。無茶、しすぎたな。集子にこっぴどく怒られそうだ。

 ああ、疲れ切った心からじわりと滲み出る暖かな欲望が脳みそに……染み渡っていく。皆に会いたい。ベルに。カモミールに。来家に。ラダルに。そして、集子に。無性に会いたい。今すぐにでも、体が少しでも動けば走っていきたいくらいに。全力で抱きしめて、お礼を言いたい。皆ときちんと連絡先を交換して、それから……

 皆は私のことを、よくやったと褒めてくれるだろうか。皆の心に、風向緋板という人間は刻まれたのだろうか。忘れないでいてくれるだろうか。

 そんなことばかりが頭に浮かぶ。分かっていた。今の体調では深い思考が出来ない。さっぱり頭が回らないから、ごちゃごちゃと頭の浅い所で考えているのだと。鉄号盾人に勝利した感慨がさっぱり湧かないのはきっと、皆で倒したという感覚が強くあるからだ。だから私は、皆のことばかり考えて、それ以外のことに頭が回らないんだ……

 もう満足だ。これ以上を、望めない。これ以上、どうしようもない。もう全てを投げ出して、眠ろう。よくやった。微睡に身をまかせて、ゆっくり休もう。きっとしばらく目が覚めないだろうが、それでも今度起きた時には、新しい世界が広がっているはずだ。

 そうしてゆっくりと目をつむった。これまでとは比べ物にならないほどの眠気。しかしそれに安心して任せられるという安心感は極上の快楽に思える。

 私の意識はそこでプツリと途切れた。




 はずだった。しかし私はありえないような衝撃で、再び目を覚ました。

 その感覚とは、《《背中を蹴り上げられた》》、だ。驚いて目を開くと私の体は宙にある。さらにはおそらくぐちゃぐちゃに負傷している背中は鋭い痛みを発していた。痛いわ訳が分からないわで、もう頭はパニックだった。

 そして、髪が風に吹かれているかのように暴れている。ここは城内部の通路であると同時に最終地点でもある。風などどうやっても届かないはず。何がどうなっている?  蹴り上げたのが仮に鉄号だとしても、この風は? 

 そんな疑問はしかしすぐに解消された。聞き慣れた、安心できる声が耳に届いたからだ。そういえばすっかり存在を忘れていた《《二人》》の存在を、私は思い出したのだった。

「お前はやっぱり馬鹿野郎だな。ゴールしてこそのファリジアレースだろうが」

 我こそが真打ちだといわんばかりの雰囲気を纏い現れるは、自身の血と汗にまみれた姿を気にも留めない挑御川重雅と。

「そら、開けてやっからさっさと入れや」

 風で髪が乱れて今にも消し飛びそうな様子が心をざわつかせる、同じく血まみれ汗だくの浩太だった。いや、それにしても『入れ』とは一体。

 いや考えるまでもない、決まっているではないか。私のすぐ背後には——

 重雅の蹴りと浩太の風に押されるようにして、蹴り上げられた私の体が流れていく。そうして後ろから、バタンと扉の開くような音がして。

 そのまま落下するようにして、ゴールの扉をくぐった。瞬間けたたましいスピーカー音が鳴り響き、まばゆいばかりの照明が目をくらませた。

「鉄号盾人との死闘を見事制したった今ゴールしたのは、なんと驚き今大会が初参加という三十歳、風向緋板さんです!」

 突然の状況の変化に、先ほど整理された頭がまたもパニックを起こしかける。私は今この瞬間に、ゴールした……のだろう。実感はないが事実は認識できる。だがこれは一体何だ? まるでお祭り騒ぎではないか。死ぬ寸前までいった死闘を経て、まだこの明るいテンションに精神がついていかないのは、さすがに年のせいだけではないはずだ。

 とまで考えて、ああそういえばと思い直す。私が参加しているのはファリジアレース。命を賭けて全力で遊ぶ、最高の娯楽だったなこれは……。

 辺りを見渡すと、霞んだ視界でもゴール地点の様子が何となく把握できる。そう、この場所はまさしく玉座の間と表現するのが正しい。なぜこんな場所に、とは思わない。私たちはここまで城を駆け抜けてきたのだから、最終地点がこの場所だというのは理屈には適っているからだ。玉座の間は多少古めかしさを感じるも、きれいに掃除されているようでその言葉通りの気品を宿している。天井を見上げると何とも分かりやすく、煌びやかなシャンデリアがいくつも下げてあった。部屋の隅にもああこれは高級品だろうと見てすぐ分かるような赤を基調とした調度品が飾ってある。今までとは全く異なる雰囲気をじわじわと感じ始めて、ほんの少しだけゴールの実感がわいてきた。

 ボーっと辺りを眺めていると、インタビュアーらしい女性がすぐ横の耳元からベルもびっくりの早口でまくし立ててくる。

「いやはやおめでとうございます風向さん! 今回が初参加ということでしたが感想などは! それにしても激戦の連続でしたがどの闘いが最も印象に残っていますか! 爆発を引き起こす超能力ということで、どのようなことを意識されて闘っていたのでしょうか! あの有名な『挑御川』と係わりを持っているようですが、どのようなことがきっかけで知り合ったのでしょうか!」

 ……もう興奮していて、私の言葉を待つ気配が微塵もない。そうだ、サッカーボールよろしく無理やり私をゴールに押し込んだ二人はどうしている? もうゴールしているのだろうか。寝た瞬間に起こされると目がさえる法則なのか単純に興奮しているのか分からんが、先ほどよりも体が動く私は体中の痛みをこらえながらも後ろ——皆で進んできた暗い通路へ振り返ろうとする。すると金属同士がぶつかり合う物騒な音がして、身をちぢこませながらも何が起きているのかと見やった。

 ……何故か、集子と重雅が折れた刀と銃でギャリギャリと鍔迫り合いをしていた。

「ちょっとお父さん、重傷の緋板先輩を蹴り上げるとかほんっと信じられない! 頭おかしいんじゃないの?」

「おいおい本気で切れんなよ。あれが最速だったんだからしょうがねえだろ」

「他のやり方もあったでしょって言ってんの! というかあんなに雑にするんだったら私が優しく——」

「お前だったら重傷の風向を見ても、駆け寄って泣くくらいしかしないだろうが! ゆっくりしてたらその前に気絶してたんだよ! ほらあっちを見ろ、結果的に風向も目がさえてんだろう?」

「でもそれって結果論でしょ? って、あ……先輩。すみません、見苦しいところを見せてしまって。——って、その右腕、とんでもない怪我じゃないですか! 早く医療スタッフに来てもらって治療してもらわないと!」

 相当に焦った表情でそう言う集子はこちらに駆け寄ろうとして、しかし悔しげに足元、ゴールと通路の境目を見つめてから視線を私に戻して、それから息を吐くようにして言った。

「本当なら近くに寄りたいんですけど、まだ私はゴール条件を満たしていないので入れないんです。悔しいですけど、またすぐに会えますから気にしません」

 そうして集子は、ふいと後ろを向いた。そこにはカモミールが不安そうな表情で、黒焦げの鉄号を見つめている。集子はそんな彼女の肩に優しく手を置きながら言った。

「……カモミールさんは確か、もうゴール出来るんでしたよね」

 突然の問いに、不意を突かれたような表情を浮かべたカモミール。しかしすぐに表情を切り替えて、返事を口にした。

「ええ、その通りですわ」

「だったら緋板先輩のこと、どうかよろしくお願いします。勇気付けたり見守ったり……とにかく色々と、緋板先輩を見ていて欲しいんです」

 まるで私をさみしがり屋のじいさんみたいに言う集子。何か言ってやろうかと考えていると、カモミールは気にした風もなく言った。

「承りましたわ。集子さんの代わりに、しっかり見ていますから」

 それからヒョイと飛び越えるようにして、開かれていたゴール門を跨いだカモミール。再び耳にうるさい実況が聞こえてきた。

「おおっと続いてゴールしたのはこれまた初参加という二十歳、気品ある雰囲気で一部からすでに人気のあったカモミールさんです!」

 なんだその紹介は。だったら私は人気がなかったのだろうか。知らなくてもいい事実を聞いて、不必要に傷ついてしまったが気にしない。カモミールは私の方へ歩みを進めて、一瞬右腕に視線を向けるもすぐに逸らして、それからサッとしゃがみこむ。それから私を正面から優しく抱きしめてくれた。戸惑う気持ちと、ほのかに感じる暖かな体温で密かな癒しを覚えていると、耳元に声が届いた。

「無事で……本当に良かったですわ」

 囁くような、それでいて感情を絞り出したような声。それが私に向けられている事実に目元が熱くなった。私には価値があるのだと、そう言われているようで。そんなことが私にはたまらなく嬉しいのだ。

 そうして抱きしめ返してお礼の言葉を言おうと、体に力を込めた。しかし先ほど起き上れたにもかかわらず、今この瞬間にはもう力が入らなかった。この体は今、カモミールに支えられているような形になっている。さらに気が付いた。私はそのことを、伝えられない状況になるということに。唇が動かない。喉を振動させられない。空気がスムーズに体内に入ってこない。

 つまり私は言葉を発せないほど酷い体調に陥っていた。

「やあ、ゴールおめでとう。君には初日から随分と楽しませてもらったよ。物語の結末も非常にスペクタクルで、いやはや満足だね。まさか鉄号盾人を倒してしまうなんて、想像の上をいかれてしまったよ」

 ひょっこり現れたのはベル。そしてついでのようにして、私が最も言って欲しかった言葉を口にした。二人には申し訳ないが私の心は、心配よりも賞賛を欲していたようだ。

 けれど一つ訂正したい。鉄号を倒したのは私だけではない。皆がつないだ最大のチャンスを生かせる場にいただけのことだ。おそらくこちらに追いついた時点で、奴はもう限界に近かったはずだ。私がしたのは最後の一押しだけで、貢献度で言えば私よりも皆の方がきっと高い。

 そう言いたい。しかしそれを言う体力がもう残っていなかった。

「おい集子。とっとと残ったグロリアスデモンズの連中を倒しに行くぞ。ついでにお前は一から鍛え直しだ。大分鈍っていたのを実感したはずだから、異存はねえな?」

「別に異存はないけどね、鈍ってるのは身に沁みて分かったし。いやでも待って。ついでにそこで血まみれになってるラダル君を担いで行ってくれない? その子は身を挺して先輩を守ってくれたからさ。治療はしなくてもいいからいいでしょ」

「まあしゃあねえな。後そこに転がした来家も持っていこう。置いていけばうるさいからな」

 意識はわりとハッキリしている。集子たちの会話も頭に入る。だが自分の意志で体を動かすことの出来ないという、奇妙な感覚だった。

「あれ、そういえばさっきから全然喋らないねヒイタ。これは——」

「まずいですわ! タンカー、タンカーを呼んでくださいまし! このままでは緋板さんが!」

「油槽船を呼んでどうするんだい。ちょっとそこの綺麗なインタビュアーさん、彼の治療体制を整えてもらえるかい?」

「もうすでに呼んでありますので少々お待ちを! 現在怪我人が大勢リタイア宣言しておりまして、治療班の人数が足りていない状況なのです! 特に先ほど運ばれた黒焦げの女性に——」

 ……何故彼女はスポーツ実況のような返事の仕方をするのだろう。いいや気にするまい。それよりも私を心配してくれる仲間——戦友たちの騒がしい声が耳に届き、楽しげな気持ちになった。どことなく安心を覚えてゆっくりと目をつむる。

「気絶したようだよ」

「ああ緋板さん! 目を覚ましてくださいまし! 眠ってはいけませんわ!」

「ここで風向緋板さんが意識を混濁とした——! これは大丈夫なのでしょうか! 一刻も早い治療班の到着を切に願います!」

「え、先輩が昏睡状態ってそれちょっと見に行かないと」

「さっさと来い集子! いつまでもうじうじ未練がましくしてたらきりがねえだろうが!」

 ……本当に初めてかもしれない。周りがこんなにも騒がしく、そして暖かなのは。瞼の裏に浮かぶのは、皆の表情。きっと私の想像通りの顔をしているだろう。同時に思うのは、祭りが終わりを迎える時特有の感情。苦しくも楽しかったファリジアレースが、私の挑戦が終わってしまう。心から何かが剥がれ落ちるような感覚を、噛み締めて。

 そうして思った。これで終わりではないのだと。皆とはまた会えるのだと。ファリジアレースという舞台は終幕を迎えたのではなく、むしろ私はようやく壇上に上がれる資格を得たのだと。ファリジアレースという舞台の、登場人物になれたのだと。

 今日くらいは自分を褒めよう。よくやった。頑張ったよお前は。

 自覚せずに遠ざかる意識。私が覚えていた最後の思考は、こんな馬鹿みたいな《《自己肯定》》だった。

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