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  作者: モノノケ
33/37

集子の物語

 しかし数分間の後、誰の頭にも思い浮かぶような、分かりやすい予兆が私たちの意識を引き締めた。

「……揺れてますね、地面。水も、血も揺らめいてます」

 そう言ってからすぐに、私たちの耳にはドドドドドとうるさいくらいの足音が聞こえてくる。ハッキリ言って、拍子抜けした。きっと私の意識の外からヌッと現れるような、そんな急襲を予想していたからだ。先輩もそう考えていたからこそ泥棒対策云々の回りくどい話をしたと思うんだけど。

 しかし私たちの予想とは裏腹に、鉄号盾人は一切の隠匿動作を行わず、正面から走りこんできたらしかった。正面の暗闇を見つめていると、バッと視界から勢いよく、鉄号の巨体が現れた。やはりあの大きさは驚異的だ。ことパワーにおいて、ノーマルで彼に勝てる人間が生誕する気がしない。それでも戦闘においてお父さんに劣るというのは不思議というか、ある意味ファリジアレースの面白い所だと思う。

 鉄号は、私たちを見つけると同時に急激に速度を落として、そして止まった。そこは丁度、私が水を撒いた辺り。つまり緋板先輩が血液を撒いた辺りの、ぎりぎり手前くらいだった。さすがに無警戒で不自然な場所へ足を入れることはしないか。

 私は血を撒いたその中心で、待ち構えるようにして立っていた。来家もそう。先輩だけは私たちの後ろに、隠れるようにして座っていた。正体がばれないように、ベルさんからもらった仮面をつけている。そうして私は、再び視線を鉄号に戻して素早く観察をした。想像よりも長くベルさんに捉まっていた割に、負傷箇所はそんなに見当たらなかった。お父さんと浩太さんに攻撃されたポケット周辺くらいか。

 けれど先ほどから変化した箇所が二つ。左腕にはめていた小手がなくなっている点と、あの分厚い鉄剣の中心部に穴が空いている点だ。電動ドリルでも使わないとあれに穴なんて空きようもないと思うんだけど。その割に無理やりこじ開けたような不自然さの残る穿たれ方だ。ベルさんはどうやったんだろう。すごく気になる。

 けど今、そのことは関係ない。この場で最も不自然なのはもちろん、鉄号が今この瞬間に攻撃してこないというその一点のみだ。警戒しているのもあるだろうが、それにしたって止まる必要はないはずだ。私は心を落ち着かせるために唾を飲み込んで、乾いた唇を舐めてから口を開いた。

「お父さんたちを倒した、あのアーティファクトを使わないんだ。私たちには必要ないってこと?」

 暗に、舐めてんのか? というニュアンスを含めた私の言葉を、しかし鉄号は無視するようにして言った。

「なるほどな。血液がまき散らされたこの状況を《《速見来家が原因だと勘違いさせる》》作戦か。中々の良案だとは思うが、しかし詰めが甘い。そいつの自傷行為によって出来上がる血だまりは局地的だが、今眼前に広がる血だまりはあまりにも均等だ。これでは作為しか感じんな」

 つまらなそうにそう告げる鉄号に、私は思わず声が出そうなほど驚いた。ちらりと辺りを一瞥した程度で私たちの作戦が見抜かれた——? いや、違和感を覚えたにしても結論が早すぎる。この思考の素早さは、ある仮定を元に組み立てられた可能性が極めて高い。そう、それはつまり——

「そのあたりはどう考えているんだ、風向緋板」

 心臓が射抜かれたような衝撃を覚えた。緊張で一瞬顔が固まり、何か反論しようにも言葉がうまく出てこない。私たちが立てた作戦は全て看破されて、立てた対策は意味をなさなかった。この状況は非常にまずい。でも、それよりももっとまずい状況に立たされている先輩をちらりと見やる瞬間——。

 先輩は、本当に何でもなさそうな声色で口を開いた。

「作為を感じようが関係ない。お前が目的を達成するためには私たちを排除する必要があるわけだが、そうするには私が作ったこの地雷原に足を踏み入れなければならない。入らなければ私は、そこで指をくわえて待っているお前を見送りつつゴールする。それだけの話だ。

 私はこう言っているんだ。分の悪い勝負に乗れ、とな。そしてそれを犯罪ギルドの人間である鉄号盾人。お前には断るという選択肢はないはずだろう?」

 まるで悪役のような、明らかな挑発を込めた先輩の言葉。……なんというかそんなに口が悪かった覚えがないので多少驚いたけれど、それでも鉄号の様子は変わらず冷静だった。

「その通りだ。俺は厄介な勝負を挑まれている。だがそれでも、貴様らの方が分の悪い事実は消えはしない。有利な局面で、勝てる場面で、引く理由が俺にはない。……任務は遂行する。だがその過程、楽しませてもらおう」

 来る! 文脈からそう確信した私。けれど鉄号は言葉とは裏腹に、担いでいた大剣を構え直すのかと思いきや、その切っ先を地面に向けてから杖のように体重をかけた。その体勢は、明らかに戦闘には向いていない。これはチャンスだろうか。今飛びかかれば多少なりとも隙を突けるんじゃ——。

 そう欲をかいて一瞬ピクリと動いた私の右手を、鉄号は鋭い眼光で制した。

「待て。戦闘を始める前に聞いておきたいことがある。終わってからでは聞くに聞けないだろうからな。

 風向緋板。貴様どうやって俺の弟子、逢瀬牧を倒した」

 鉄号の隙のなさに内心驚愕すると同時に、先輩が口を開く。

「……それを、今この瞬間に聞くのか」

 すると鉄号はさも当然といった声色と態度で言う。

「貴様が気絶したまま話せるならば別だ。……牧を倒した術は、《《それ》》ではないのだろう」

 均等にまかれた血液を一瞥してから、言葉を続ける。

「牧は移動中の貴様らを急襲したはずだ。ならこのような待ち伏せを前提とした策を、牧との戦闘には用いていない。これではないなら、一体何を用いて倒したのか。俺は純粋に興味がある」

「だったら本人に聞けばいい。彼女はリタイアしたが、死んではいない」

「当然牧にも聞くが、それは奴の主観でしかない。貴様から語られる情報が欲しい。そうすれば俺は弟子をより強靭に出来る。牧にはいずれは俺以上の怪物になってもらう予定だからな」

 話にならん、と先輩はすぐさま否定を口にした。

「分かっているだろうがあえて言わせてもらう。私はな、鉄号盾人。お前に一矢報いるためだけにここにいる。それをわざわざ戦闘前に手の内をさらすことを言うわけがない。お前の言葉は独りよがりで手前勝手な戯言にすぎん。私がこの場で口を割るなど、絶対にない」

「……まあ、そうだろう」

 鉄号は大きく息を吐き出した。そうして杖代わりにしていた大剣を担ぎ直して言う。

「ならば貴様らに用はない。殲滅する」

 無骨で素っ気の限りなく欠けた、単純な言葉。でも奴はそれを本気で実行するつもりだ。

 言葉を発した瞬間からだ。表情が、纏う雰囲気が、極限までに研ぎ澄まされた殺気を宿した。もうその様子からは、言葉を知らぬ獣のような容赦のなさ。言葉を戦場に持ち込まぬ戦士の意識。それらが対峙しているだけで肌に刻まれる。

 けど、それがどうしたという話だ。殺気で人は殺せない。実力で人は殺せない。戦歴で人は殺せないんだ。それらはただの要素であり、ただの力の塊だ。行使されていない力は路傍の石と一緒。そんなものに委縮するだけ、損だ。私はホルダーから銃を引き抜き鉄号に銃口を向けた。来家は奴が殺気を放つ前から折れた打刀を握っている。緋板先輩は、どうなんだろう。見えないけれど、見るわけにはいかない。視線を逸らしたコンマ数秒の間に戦闘不能に陥りかねない相手なんだから。

 敵が動き出す前に私たちが動かなければならない。鉄号は間違いなく、地形効果を発動してくる先輩から狙うはず。そして私たちはきっと、一直線に踏込み突撃してくる鉄号を止められない。圧倒的な膂力の差。だからこそ、敵が速度に乗る前に足を止める必要がある。それは相手も分かっているにもかかわらず、猛進してこないのは先輩が撒いた血の影響だ。最も血液を踏まなくてもよいルートを考えているのだろう。

 そう、今この瞬間に動けば私たちが有利だ! そう確信した私は心を戦闘モードに切り替えて、一歩を踏み出した——

 ——瞬間。どこからか、身の毛もよだつような極大の殺気を感じて、私はその一歩を踏みとどまった。鉄号の放っていた殺気すらも飲み込みかねないそれに、私の体は一瞬だけ凍った。先輩にあんな風に説教垂れた私が、恐怖を感じて一瞬動けなくなった。油断した。もう敵は鉄号だけだと、そう思っていたから。こんなにも直情的に『標的を殺す』意思の込められた殺気。私は新たな敵の存在を、最大限に警戒した。

 空気を裂くような音が耳に入って、その方向へ視線を向けた、瞬間。

 閃光のようにすら見えた一本の槍が鉄号へ一直線に飛来した。その勢いは凄まじく、私たちに向けて恐ろしき形相を浮かべていた鉄号の表情すらも吹き飛ばし、戸惑いと恐怖に染めた。鉄号はその槍を弾くために大剣を持った右腕をピクリと動かすも、しかしより近い左手を用いることを選択。左側から振り返り、槍へと左手を伸ばして——、それを掴んで見せた。

 けれど、鉄号の顔の一部が、どこからか飛んできた鮮血に染まった。一瞬先輩が何かしたのかと思ったけれど違った。あれは自分の血だ。鉄号は小手をつけていない左手で槍を掴んだから、左掌から多量の出血をしているようだ。滴った血が腕や地面を染めている。

 そんな決定的な隙を、私たちが見逃すわけがない。圧倒的な反射速度で飛び出した来家に遅れる形で、私も走り出した。けれど背後からしたガランッという何かが落下した音に驚いて、鉄号を警戒しつつも振り返った。

 そこには何故か、ベルさんの持っていた折れない剣が落ちていて。その意味に私は一瞬で思い至ってから、思わず笑った。

 ——本当にベルさん、色々タイミング良すぎですよ。

 私は両手に握っていた銃を太腿のホルダーにしまってから速度を落とさず剣を拾って、最高速度の切り返しで鉄号へと駆け出した。

 来家と二人で一気に責め立てるつもりだったけど、私が遅れたことで不意をつけたのが来家だけになってしまったのは多少痛い。それでも私がこの剣を持てる利点の方が大きいはず。やはり銃で鉄号に挑むのは石を割るのに爪楊枝を用いるようなもので、用意した特殊弾以外ではまともなダメージが入らないだろうし。来家は正面では鉄号の大剣をかい潜りつつ小さな切り傷を与えられているようだ。相性の良さはまだ生きている。

 今この瞬間、状況は私たちに有利! 私は流れに乗るようにして鉄号へと踏み込んで——そうして斬る。地面に一瞬刃の切っ先を引っかけてタメを作り、その瞬間に全力を乗せることで通常よりも大きい速度と威力を生み出した剣を鉄号へと向けた。

 しかし、金属同士がぶつかる鈍い音と手の痺れが攻撃の失敗を意味していた。鉄号は片手で握った大剣で私の剣を軽々と止めて見せたのだ。一瞬絶対的な力の差を感じるも、いやこれは当然だと思い直す。膂力において私はこの男に敵わないのだから。

 鉄号は、私を見下すような視線を向けてから言う。

「散花流剣術『れつとまりぎり』か。数年前よりもキレ威力ともに落ちているが、表の会社に入ったというのは真実らしい」

「……そんなの、私が一番分かってるから」

 当然だ。私は先輩に『私たちは日常に住んでいる』云々と言ったけれど、数年前まで私はほとんどの日をファリジアレース内で過ごしていた。しかし今は数か月に一度参加している程度。この男が知る私に比べて戦闘勘やスタミナ、技のキレは明らかに衰えている。鍛える暇も、環境も不足してたんだから仕方がない。

 それよりも警戒すべきは、鉄号が私の繰り出した技を見てその技名を答えたことだ。つまり奴は私が母さんから教えを受けた技を、それなりに知っていることになる。

 私が教えたわけじゃない。ということは、奴が知っている散花流剣術は私が使えるそれなど比べ物にならない代物のはずだ。つまり——

「所詮は挑御川桜菜の劣化コピーか。つまらん」

 瞬間、鉄号は大剣を用いて薙ぎ払いを繰り出した。剣を合わせていた私をまるで小石のような容易さで、軽々と吹き飛ばした。勢いで体が浮き上がり、五メートルほど後退しつつ態勢を崩される。来家も避けるために数メートルの後退を余儀なくされた。

 本来ならば決定的な隙。来家はともかく、私や緋板先輩を倒す絶好の機会。しかしそれを、鉄号が生かすことは出来なかった。

 私が切り上げたと同時に巻き上げて鉄号に付着した《《先輩の血液》》が、爆発を引き起こしたからだ。

「さすがオジサン、グッドタイミング」

 言いながら、来家は折れた刀二本を握り直す。私は黒煙にまかれた鉄号の様子をうかがいつつ、一瞬余計な考えに囚われた。

 私が母さんから学んだ剣術全てが、この相手には通じないのではないのか——?

 考えて、しかし振り払った。そんなことは考えてもどうしようもないからだ。結局私が今鉄号相手に最も有効なのは剣による攻めであり、特殊弾による一撃だ。それは変わらない。だったら、攻め続けるしかない!

 私は今度こそ来家と視線を合わせて、同時に走り出した。黒煙が完全に晴れきる前に攻めなければならない。あれしきの爆発で鉄号が立ち止まる、そんな予感は全くしなかった。

 そして案の定、黒煙から体を乗り出した鉄号は先ほどと変わらない様子で私に剣をふるう。激流のような威圧感だ。恐ろしきはその耐久力と単純なる腕力。そして剣の攻撃範囲。二メートル以上ある大剣は奴自身の巨大な体躯も相まって、近接武器を相手にしている気にさせない。体は全力で剣から避けつつ、しかしギリギリ避けきれない刃の部分をベルさんの剣で受け流す。ただそれだけの行為でも、一撃で真っ二つにされかねない恐怖が常に心を侵して、汗がぶわっと噴き出た。同時に風圧で体が冷やされる。

 そしてまた、今度は鉄号の足元から爆発が引き起こされた。鉄が千切れるような耳触りのよくない音が響いて、きっと奴が装備していた脚甲が吹き飛んだ音だろうと予測する。先ほど爆発した時よりも近い場所にいた私の体に、生暖かい黒煙が掠めていく。

 それでも鉄号は止まらなかった。最初の爆発は胸あたり、今度は脚。やっぱり一か所に集中的にダメージを与えなければ致命的な傷にならないか。大剣の相手はほとんど私がしているおかげで余裕のあるらしい来家からの攻撃を、手甲や傷ついて空いている左腕で防御する鉄号は防戦一方。それでも来家の与える傷が浅い切り傷なのは、彼女に踏み込んだ攻撃をさせていないということ。

 だから私が、深い切り傷を与えなければならないんだけど——

 私は黒煙に太刀筋を紛れさせるようにして技を放つ。ただの上段切りに見せかけて、体重移動とひじ関節の動きを利用して剣筋を九十度変える。正面からではガードされる恐れがあるけれど、この技だったら——

 しかし剣と掌に固い衝撃を感じて、私は思わず顔を見上げた。黒煙が晴れて、そうして目に映る。私の剣は正面から、鉄号に受けられていた。そして心底つまらなそうな奴の表情が私を見下していた。

「『てんれつまがりぎり』か。たとえ見えなくとも空気の流れから太刀筋など簡単に見切れる。俺が何度、挑御川桜菜に負けたと思っている」

 淡々とした言葉の中に、私は見た。濃密に煮詰められた戦闘経験と敗者の激情。きっと鉄号は、お母さんに勝つためにその太刀筋を瞼が擦り切れるほどに焼き付かせていたんだ。ああダメだ、きっと劣化コピーの私の太刀筋では一撃も届かない。散花流剣術を学んだ私よりも、奴の方がそれを知っている。年季が違うという言葉以上に、この状況を表せるものはない。

 それでも。私の剣が全て見切られていたとしても、闘い続けなければならない。勝たなければならない。心の奥からどろりと流れ出る生暖かい敗北感を、噛み締めて前を向く。燃やし尽くして勝気を抱く。負けられない。負けるわけにはいかない! 一矢報いると言った先輩のために。誰よりも自分のために。

 私はこの闘いに、命よりも重たい想いを賭けているんだから。

「ちょっと集子先輩、働いてくださいよー」

「言われなくても!」

 交差していた剣を離して後退する。出来る最大限の無駄を省いた動き、『和紙薄氷の舞』だ。本当に私の動きは、両親から受け継いだものばかりだと今更に思う。

しかし鉄号はそれすらも読んだかのように、追撃の一歩を踏み出しだ。

 その瞬間に三度目の爆発が正面で起こされて 黒煙が私の視界を覆った。発生源は鉄号の足元。いよいよ生身の脚が爆発に巻き込まれたはずだ。

 それでも私はすぐに分かった。鉄号の歩みは、止まっていない。これまで三回の爆発は、いずれも全く生易しいものではない。私ならば一撃で意識を奪われかねない威力の爆発だ。それなのに、肉を焼きせしめられる痛みが意識を深く侵しているはずなのに、奴は止まらない。タフネスなんてものじゃない、もはやベルセルクだ。身体行動を超越した戦闘継続力には狂気すら覚える。

 黒く覆われた視界から、大剣が薙ぎ払われた。瞬間私は、その攻撃が避けられないことを悟った。でも鉄号が歩みを止めていないことが、私にその攻撃が来ることを察知させた。

 だから私は備えた。息を止めて、恐れを噛み潰すようにして食いしばり、右手で柄を左手で峰を支えて、左側から迫り来る大剣を出来る限り正面から受けられるようにした。

そして敵の刃が私の刃に触れた瞬間。

私の体はまるで野球ボールのようなあっけなさで弾け飛んだ。体全身で感じる衝撃と重力が、凄まじいなんてものじゃない。肌が恐怖で痛みを発している。腕の筋肉にかかる許容量以上の負荷は、一瞬にして私の体から力を奪った。体が宙を舞い、力の入らない手から剣がこぼれる。そうして刹那、私の背中が衝撃に襲われて、頭の中が一瞬で真っ白になった。分からない。私は一体何にぶつかった? 衝撃が背中を伝い内臓をシェイクする気持ち悪さすらも凌駕した、単純な疑問。それにハッと気が付いた時、私は死ぬほど痛く苦しい状況にもかかわらず、苦笑いを浮かべてしまう。

 天井だ。天井に、ぶつかったんだ。地面から四メートルくらいあったはずなんだけど……。

 そうして私の体は一秒にも満たない自由落下を経験して、受け身も取れないまま地面にたたきつけられた。体からゴシャッなんて音を聞くのは、いつぶりだろうか。

 意識が、朦朧とする。全身に力が入らないせいで、ものすごく痛いのに我慢が出来ない。脳に直接痛みを流し込まれている感覚。久しぶりだ、この感覚は。数日前に腹を裂かれて死にかけた時とはまた違った痛み。そう、死が迫るというよりも、世界から意識が剥がれていくような——

 気がついて、ハッとした。そう、私は全然死にかけていないんだ。だったら動かなければ。闘わなきゃ! 数秒も無駄にした。馬鹿だ私は。鈍っているのは体だけじゃない、心もだったんだ。

 そうして必死で体を起き上がらせようと、腕をつっかえ棒のようにして全身に力を入れた。そして頬や肌に奇妙な違和感を覚えた。痛み……はあるけどそっちじゃない。確かめるために、私は拭ってそれを見た。

 赤いものが目に入り、瞬間、私の体に活が入った。なんてことはない、これは《《緋板先輩の血》》だ。素人なのに、命を削って闘った、今も闘っている大好きな先輩の血だ。

 ああそうだ、こんな程度で「もうだめだ」なんて、よりによって先輩の前で、言えるわけがない!

 私は勢いよく立ち上がり、急いで鉄号を探す……までもなく正面に奴はいた。けれど少しだけ遠い。私とは七、八メートルくらい間がある。どうやら来家がなんとか奴を引き留めているようだけど、明らかに劣勢。けれど私が引き受けていた大剣が来家を襲うようになったおかげでリスクが上がって、あの子の速度はさらに上がったように見える。

 けれどそれが長くはもたないことはよく分かっている。あの子の超能力はリスクに応じて身体機能を上げるけど、上がれば上がるほど体の限界は早く訪れる。早く、私も応戦しないと——

 するとその時、見覚えのある槍が私の後方から飛んで行った。それはかなりの速度で一直線に鉄号へと向かうも、奴は気が付いていたらしく大剣で簡単に弾いた。槍はクルクルと回転しながら宙を舞い、石壁に当たり地面を転がる。そして背後にある気配に、今更ながら気が付いた。そこには、

「やあシューコ、無事かい?」

 縮れた黒髪を揺らしながら気楽そうに声をかけてくるベルさんと、

「やっぱりこの距離からでは弾かれますわね。助走がほしいですわ」

 鉄号を一点に見つめて呟く、前よりも凛々しさを宿したように見えるカモミールさんがいた。私は体の調子を確認しながら返事をする。

「ええ……なんとか無事です。少々戦闘に支障のある個所はありそうですが」

 天井にぶつかった背中は、痛むが気にするほどではない。踏ん張りの利かなかった脚も今は力も入るし大丈夫。問題は、右腕だ。剣の峰に添わせていた左腕もあまり力が入らないが、それ以上にあの大剣の衝撃をモロに受けた右腕は、削ぎ落とされたように感覚がなくなっていた。自分よりも力の強い相手と闘うとままある現象とはいえ、ここはで酷いのは初めてだ。もうこの戦闘中に、右手で剣は握れまい。

 けれどそんなの関係ないんだ。例え両腕両脚が動かなくなっても、必死で首元を噛みついてやる。それくらいの気持ちで私は、今戦場にいるんだから。

「行かなきゃ……」

 一歩踏み出すと、ベルさんが声をかけてくれる。

「ああ、僕は闘わないから。さすがにリスクが高いし、そもそもその剣がないとどうしようもないからね。僕が拾ってきた刀で闘っても、一瞬で砕かれちゃうだろうし。それは単純に嫌だからさ」

 そもそも参戦を期待してなかった私は、頷くだけの返事をする。あの時一人で闘うと彼が言った時点で、集団で闘うのを避けるタイプだと分かっていた。まあ気持ちは分かる。ファリジアレースの場では情報は重要だ。特に戦闘スタイルや技なんかをあまり大っぴらにしたくない参加者はかなりいる。まあ中継されてるんだけど、戦闘スタイルはともかく技なんかは生で見ないとよく分からないことも多いし。

 そうして頭を切り替えて、さあ行くぞと気持ちを高ぶらせた瞬間。

「鉄号のアーティファクトは僕が壊したから、気にしなくていいよ」

 本気で重要な情報をさらっと口にして。思わず見やると、どこに持っていたのか手には私が落とした細剣を握っていて。

「……本当に、頼りになりすぎですよベルさん」

 これで、アーティファクトの警戒に注いでいた神経を全て、戦闘行為に向けられる。

 私は奪うようにして笑顔のベルさんの手から剣を受け取り、そして一直線に駆け出した。

 そして私に気が付いた鉄号は、半身を返しつつ私の動きを先読みしたかのような振る舞いで、再び横薙ぎの剣を振るった。


 さっきまでの戦闘を経て分かったことがある。それは、鉄号が負傷した左手では剣を握らず右手だけでそれを振るうこと。そのおかげで攻撃範囲は両手よりも若干広くなっているけど、威力は明らかに下がっている。正面から攻撃を受けた私がまだ戦闘が行えるのもそのおかげだ。その上、攻撃後の隙も非常に大きい。片手で振るってるせいもあるけれど、緋板先輩が鉄号の脚を削ってくれているおかげで、体重移動を用いての切り返しがうまく出来ていない。一回振るうと次の剣が来るまで。この瞬間が大きな隙だ。

 でも、もう私にはまともな受け流しは出来ない。両手で剣を握らなければ威力を殺せない。ならば、どうするか。

 正面から受けるしかない。そう、《《普通》》だったら。

 緋板先輩の無茶無謀がうつったのだろうか。今この瞬間、私は普段ならあり得ないような行動に出た。鉄号へと向かう速度を維持したまま、私に迫り来る横薙ぎの大剣の前で強く右足を踏み抜いた。瞬間、迫る刃に背を向けて——高跳びの要領で、私は跳んだ。

 鉄号の大剣は私の胸あたりを狙っていたから、跳び越えること自体はたやすい。でもそれじゃあ、無防備な体を奴にさらすだけだ。だから私は左手に握っていた剣を自らの背中に沿わせるようにして、ほとんど跳び越えていた奴の大剣を受け流すようにした。

 剣が一瞬触れた。金属がこすれる音がして、左手が少しだけ痺れる。そして圧倒的な膂力を誇る鉄号の横薙ぎは、それだけで私の体を縦にグルンと回転させた。

 視界が回る。見慣れない景色の中にいる。しかし私は、一瞬見えた鉄号の驚愕した表情と。

 その後に見えた、私を回転させた大剣を見逃さなかった。

 私がちょうど一回転したところで脚を必死で伸ばして、鉄号の幅広い大剣に踏み乗った。その直後に私はしゃがみこみながら左腕に握っていた剣を、ベルさんによって穿たれたらしい穴に向けて勢いよく突き刺した。すると大剣は割と簡単に貫けて、改めてベルさんの凄さに感嘆を覚える。

 でもそこで私は止まらない。鉄号の振るう大剣に乗っただけでは意味がない。

 この状況は私が死線を越えて作り出した、価値のあるものだ。失敗すれば間違いなく真っ二つだった。だからこそ、もう精神は疲弊しきっていた。全身から冷や汗があふれ出ている。

 ——それが、どうした! そう、必死で鼓舞する。私自身が作り出したこの最大限の隙に、全力を叩き込む。ただそれだけを頭に刻み込んで自動化するんだ——

 突き刺した剣を支えにしてさっさとと立ち上がる。そして大剣を地面に見立て、私が拡げた穴に剣の切っ先を引っ掛けて——

 散華流剣術『地裂止斬』

 私の全体重が乗った剣撃が、鉄号の左肩を深々と切り裂いた。左掌には確かな感触。けれど、片腕での一撃だから先ほどよりも威力が低いはず。まだだ! これで終わらせるつもりは一切ない!

 今度は大剣を踏み台にして、再び跳んだ。今度は鉄号の頭上を越えた高さからの振り下ろしで、奴の右肩から左腰まで斬りつけようとする——

 その瞬間、鉄号は分かっていたかのように後退を選択。攻撃の威力を少しでも減らそうという狙いだ。目が合う。先ほどの一撃を食らった癖に、驚くほど涼しげな表情。奴はどこまでも冷静だった。

 だからこそ私にもその後退は簡単に予測できた。悪手だ、それは。本当に頭の芯まで冷静だったのなら、ここまで安直な回避行動はとらなかったはず。つまり一見冷静に見える鉄号は、内心焦っているのだ。

 そうした心の隙をさらにこじ開けるような心持ちで、振るう剣筋を九十度曲げる。自分でも驚くほどのキレだ。今この瞬間の私は、全盛期かそれ以上に調子がいい。普段よりも動きの鈍い鉄号は、急に良くなった私の動きについてこれない。うまく体重の乗った散華流剣術『天裂曲斬』が、鉄号の左わきを切り裂く——

 そこで終わる、はずだった。けれどここで私はもう一つの選択をする。どこまでも欲張ってやる。

 私は鉄号の左わきを切り裂いた後すぐに地面に着地。そして一分の無駄も排した動きで、左手で握る剣を奴の左わき下に沿わせた。

 『天裂曲斬』からの連華れんか接続技、『じんれつてらすぎり』。人体の反射時の速度を乗せた剣撃を対象へ零距離で放ち、一切の初動を生まない回避不可にして軽々と骨を断つほどの殺人技。それを——

 一切の躊躇なく、鉄号へと放った。

「見事」

 そんな言葉が耳に入る、瞬間。そんな一瞬で私の斬撃は鉄号の左わき下を切り裂いていた。とんでもない量の血が噴き出て、それは私の顔にも降りかかる。いくら殺人技でも、異様な耐久力を誇る鉄号相手に片腕では、本来のように骨を断つことは出来なかった。それでも、左胸近くまで刃は入っただけあって手ごたえは十二分にあった。

 しかし私は攻撃の手を緩める気はなかった。握っていた剣を捨て、太もものホルダーに入れていた特殊銃を取り出して、鉄号へと振り返りながら銃口を向けた。

 眼前に映るは、ありえない光景。あれだけの攻撃を受けながらも、一瞬動きを止めただけで私に大剣を振りかぶる鉄号盾人の姿だ。でも、それは見越していた。

 私は、後退しながら引き金を引いた。射出されるのは人間の英知。どれだけ巨大でも、強大な力を持った獣であろうとも、その力を無効化できるという網。つまりはネット弾——

「重雅に似てアナログだな。そんなものが俺に効くか」

 ——に、緋板先輩の血液を多量に含ませた、広範囲に広がり回避の難しく、その上身体に絡みつく性質を宿した、

 ただの爆弾だ。

「先輩っ!」

 言った瞬間、全力で後退する私や来家をギリギリ巻き込まないナイスタイミングで、鉄号は耳がつんざくような爆発に巻き込まれた。

「ぐおおおおおおっ!」

 初めて耳にする鉄号の叫び声。その真剣な声色に、私は確かな達成感を得た。奴の全身に広がる灼熱と、身体そのものに響く衝撃は先程までとは比べ物にならないはずだ。じきに奴は地面に倒れ伏し、動かなくなる。そう確信出来る程に、人間に対して過剰で強烈な爆発だった。

 私がぼうっとそんな光景を眺めていると、いつの間にか隣にいた来家が関心したように言った。

「やったね集子先輩。けどビックリしたよ。アイツの攻撃を軽業師みたいに避けてからさ、スイッチが入ったみたいに動きよくなったし。うーん、違うか。スイッチが壊れたみたいにって感じだったかな。なんか吹っ切ってぶちぎれた感じ」

 そんな風に言われて、少し恥ずかしさを覚えながら言い返す。

「私、そんな風に見えてた? いつものアンタみたいになってたってことでしょ? 少しショック」

 しかし私の軽口に、来家は一切反応を示さなかった。

「でもま、勝ててよかったじゃん。あーでも少し心配だから、もう何度か切り刻んでくる」

 スーパーに買い忘れがあったから——みたいな気軽さで、来家は鉄号の元へ駆けていった。そうだ、先輩は——? 達成感で忘れていた。とどめは先輩の爆発だったから、いくら重傷と貧血でも意識がないことはないと思うけど。

 視界に入った先輩は、こちらを見ていた。戦闘前と同じように座り込んでいて、体は明らかにぐったりとしていた。顔の青白さが増していて、息がしづらいのか細かく呼吸しているようだ。

 でももう、先輩のゴールを遮る人間はいない。先輩の勇気ある決断がアーティファクトを持っていないとはいえ、鉄号盾人打倒という大金星を成し遂げたのだ。 それを伝えたくて、私は大手を振りながら、最高の笑顔で口を開いた。

 しかし私が声を出す前に、緋板先輩は苦しげな表情で叫びを上げた。

「集子後ろだ! 鉄号はまだ——」

 え、まさか、けど、ああそれでも奴なら——。先輩の言葉の意味を一瞬で理解した私の背中に、何か大きなものがぶつかった。その衝撃は予想以上に大きく、まるで自動車にはねられたような錯覚が脳内を巡り、同時にたやすく体勢を崩した。脚が地面から強制的に剥がされて、私は無理やりに地面に転がされる。何が飛んできたのかと、戸惑いながらも確認して、すぐに驚愕する。ぶつけられたそれは、すでに意識のなくなった来家だったから。

「見事、だった」

 私の正面には未だに全身を焼かれパチパチと音を立てる、しかしまだ悠然と歩めるだけの力を宿し、私を見据える鉄号盾人が悠然とそびえたっていた。

「なんで……どうしてまだ立てるのよ……っ!」

 投げ捨てられた来家を抱きつつ、涙をこらえて尋ねる。注意を怠った自らのふがいなさと、自身の攻撃が通じていなかった身も焼くような悔しさが心を侵していく。

「素晴らしい一撃……いや、三連撃だった。あの一瞬はお前に桜菜の面影を見たほどにな。その後の爆発にも、一瞬意識が飛んだ。凄まじかったの一言だ。

 だが簡単な話だ。お前たちの攻撃は、俺に膝をつかせる水準になかったという、それだけの話。「なんで」と言ったな挑御川集子。俺は立てるから立っているだけで、何の工夫も隠し玉もない。俺が強く、貴様らが弱かっただけの話だ」

 言って、鉄号は大剣を大きく振りかぶる。負けた。盛大に。私の全力をぶつけても届かなかった。絶望が心の底から湧きだす。それが涙になって、私の頬から流れ出た。何が「格好いいところを見せます」だ。結局私は口だけで、先輩に結果を示せなかった。

 私には、緋板先輩と一緒にいる資格なんてないんだ……!

 ふと大剣から目をそらすと、悔しそうに鉄号を睨み付けるカモミールさんがいた。槍が尽きたんだと思う。その横には無表情で私と鉄号に視線を注ぐベルさんもいる。行く末が見たいと言っていた。きっと期待外れの結果だろう。つまらなそうな表情が何よりの証拠だ。

 緋板先輩は、どんな顔をしているんだろう。気になるけれど、もう見られない。だから、先ほどの先輩を頭に浮かべた。ぼろぼろで、傷だらけで、それでも闘う意思を強く持ち、自分よりも圧倒的に強い相手に挑む気持ちを絶やさない。

 私よりもずっと、ずっとつらい闘いをしていたのに——

 その時、一瞬、私の心に残っていた燃えカスに火が付いた。ほんの小さな火の粉だ。指でつまむだけで消えてしまいそうな程に小さく儚い。

 それが刹那で消え失せる、一間。

 私は無意識に、手元に転がっていた来家の刀を手に取って。

 衝動的に、鉄号の胸へと全力で突き立てた。しかしプシュッと小さく出血して、それが私の顔にかかる程度の小さな傷しか作れない。

 ああそうだ、切っ先は折れてるんだった。馬鹿だなあ、最後の一太刀くらい、格好良く決めたかったのになあ。せっかく振りかぶりの隙を狙えたのに、これじゃ台無しだ。

 鉄号は動きを止めた。そうして、呆れたような、つまらなそうな声色で言った。

「……なぜ、また立ち上がった。貴様の負けはもう確定だと、貴様自身が最もよく分かっているはずだが」

 そんな言葉が耳に入った。聞いた瞬間、私は笑った。あんまりに馬鹿馬鹿しかったから。そんなの、決まってる……!

 私は鉄号の胸に突き立てる刀に一層の力を込めながら、必死に奴を見上げた。憮然とした態度の奴に、心の刃を突きつける。

「……もうだめだ、負けだ、あきらめるしかないなんて、緋板先輩の前だけでは言っちゃいけないの。そんなの言えるわけ、ないってのよ!」

 自分自身の耳が破けそうなほどの怒声。空気が、ひび割れたような気がした。しかし、

「そうか。さらばだ」

 無常なる鉄号の声。奴は私の体を軽々と突き飛ばし、そして再びその大剣を振り下ろした。

 その瞬間、後方から聞こえてきた爆発音。そして視界の端に映る小さな火の粉。まとわりつくような熱気。そして——

「なるほど、牧を倒した技は《《それ》》か」

 私を突き飛ばす、もう見慣れた腕と体。そして頼りになるとは口が裂けても言えないような、酷く爛れた真っ赤な背中に、思わず目を奪われる。

 瞬間地面に大剣がぶつかり、とてつもない衝撃が地震のように駆け巡った。私は紙一重、その剣撃を避けていた。

 そして私を助けたのは、もう立てないほどに困憊したはずの緋板先輩だった。私はたまらず、涙をこぼしながら言う。

「ごめんなさい先輩……。でも、無茶しすぎですよ。これ以上はもう……っ」

 言ってから、今の状況に気が付いた。先輩は背中を爆発させるというありえない方法で加速し、私を突き飛ばすことで大剣から救ってくれたんだ。そしてこれが、先輩が逢瀬牧に勝てた理由。

 失礼なのは分かってる。私のためにやってくれたのも、ちゃんと分かってる。でもやっぱり、この先輩が本当に馬鹿だと思ってしまった。死にそうなほどの重傷で、やるような行為じゃない。もう負けてもいいという状況からでも諦めないその心は、鉄号とは違うベクトルで規格外だ。ある意味、空気が読めていない。けれどきっと、先輩にとってそんなの関係ないんだ。

 どんな展開だろうと、どんな状況だろうとも勝ちに行く。それが私の先輩、風向緋板なんだ。

「確かに凄まじい技だが、その様子ではもう使えないか?」

 鉄号の言葉で先輩の違和感に気が付いた。私の言葉にも、奴の言葉にも反応していない。うつ伏せだから意識があるのかどうかも分からない。いや、意識はある。つらそうな小さい息切れが聞こえてくるから。

 そして先輩に話しかけようとした、その瞬間。

 突然だった。私は、懐かしいような気すらする先輩の声を聞いた。

「来てくれ、頼むラダル!」

 血の混じったようなしゃがれた声で、先輩は何故かラダル君を呼んだ。そしてドタドタと騒がしい足音が鳴る。

「了解ってなもんよ!」

 暗い通路横から飛び出し、同時に鉄号がラダル君へと視線を向けた瞬間。

 もう何度目か分からない地面からの爆発で、衝撃と黒々とした煙が通路全体を覆った。見えはしないが、迫る足音と気配。そうして私にのしかかる形になっていた先輩を、おそらくラダル君がどかしてくれた。

 そうして耳元に先輩の声が届く。

「後は任せてくれ。それと集子……凄かった。格好良かったよ」

 足音と気配が、段々と遠くなっていく。すると頭上から風圧のようなものが掠めた。それが何度か続き、少ししてその風が鉄号の大剣が巻き起こしているものだと気が付いた。あっという間に黒煙は晴れ、そして足音が耳の奥にも届かないほど小さくなったその時にはもう。

 緋板先輩とラダル君、二人の姿はもうここにはなかった。

「やられたな……」

 大剣を担いでいた鉄号はそれを一度地面に置き、しゃがみこんだ。それから自分の足の状態を確認しているようだ。覗き見ると、表面の皮は痛々しくも黒焼けになっていた。皮はめくれ上がり、所々見える赤い肉が蠢いている。足裏はきっとこれ以上に酷い状態だろう。

「まあ大丈夫か。さて、最後の楽しみだ」

 どういう基準なのか分からないが、この火傷は奴にとって大丈夫な部類らしい。どういう体の構造をしているんだか。

 そうして鉄号は私に一瞥くれてから、先輩たちを追いかけて行った。あっという間だった。止める間もないほどに。しまったと思い、立ち上がろうとするも体に力が入らない。ガクンと崩れて、私は情けなくも突っ伏すようにしてこけてしまった。思いがけない痛みで頭がいっぱいになり、鉄号を目で追うのに少々の時間を要してしまう。私は正面、先輩とラダル君、さらには鉄号が向かった先に視線をやるも——

 そこにはすでに、鉄号の姿はなかった。

 そうして私の闘いは、過ぎ去るようにして終わってしまった。突然の展開と状況に意識が置いて行かれて、いまいち実感がない。鉄号が駆けていく時に生まれた風が、頬を撫でて消えていく。わずかに聞こえていた奴の足音もだんだんと消えて行って——静寂。この場にはポツリと、私だけがいるような気がした。そうして置いて行かれた哀愁に身も心も任せようとしていると、

「後は任せようじゃないか。君はよくやったと思うよ」

 気楽そうなベルさんの言葉で、現実世界に戻ってきた。そう、私は一人じゃない。ここには来家やベルさん、そしてカモミールさんがいるんだから。そんな当たり前が、何故か無性に嬉しくなって。数泊遅れて、ベルさんの言葉に頷いた。

「さて、だったら行こうか。ライカは僕が背負っていこう」

 ベルさんが、よく分からないことを爽やかに言った。

「え? っと、もう任せるんですよね。だったら行く必要なんて——」

「今回の物語の行く末。僕たちは特等席で見てもバチは当たらないと思うけど?」

 楽しげに話すベルさんの言葉。そして続けるようにして、

「そうですわね。緋板さんの初ゴール、戦友として見届けなければいけませんわ」

 確信したように強気なカモミールさん。なんか、城に入る前とキャラが違っているような気がするんだけど……。

 まあいいか。どっちの言葉も、私の気持ちに含まれてる。行かなきゃ、もったいないにも程がある。

「そうですね。行きましょう」

 カモミールさんの手を借りて立ち上がり、先を見つめる。通路の先は真っ暗で、何も見えはしない。今の私には地獄の門にすら見える。闇は絶望の象徴。そこに吸い込まれたようにいなくなった先輩。駄目だ、嫌な言葉ばかりが連想される。強すぎた鉄号盾人が、負の感情を心に巣食わせる。私はかぶりを振って、ネガティブな思いを振り切った。

 これが緋板先輩の物語だったら、あれだけ頑張った先輩が報われないなんてありえない。そう、信じてる。

……いや、そうじゃない。私は先輩に報われて欲しいだけだ。先の理屈は、そんな気持ちの言い訳に過ぎない。先輩は多分、今回のレースの誰よりも命を賭けた。誰よりも血を流した。誰よりも必死に闘って、そして誰よりも苦しんだ。いいでしょ神様、いるんなら。今回くらい、いい思いをしたって……。

 私は目の前に広がる闇に、立ち向かうような気持ちでそう願った。

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