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  作者: モノノケ
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集子の物語①

 私が緋板先輩と最初に出会ったのは、三年前の入社日。でもハッキリと風向緋板という人間を意識したのはその翌日、入社二日目の給湯室でのことだった。彼は悪目立ちしていてまともに会話もしてもらえない私に、緊張の一切含まれない何気ない声色で訪ねてきた。

「集子という名前は変わっているな。どういう意図でつけられたのか分かるか?」

 その時私は、ああこの人はいろいろと気にしない人なんだと気が楽になったのを覚えている。けれど、その時は。《《母親が死んだばかりの私には》》その言葉は禁句だった。

「……あなたの名前の方がずっと珍しいと思うんですけど。確か下の名前……緋板、でしたっけ」

 ほとんど初対面にもかかわらずそっけない突き放すような態度を取った私は、思わず緋板先輩の顔を見た。しかしその表情に不満や怒りなどの感情は浮かんでおらず、無表情のままだった。

「なんだ、私の名の由来が聞きたいのか。言っておくが相当つまらんぞ」

 いや別によく知らないオジサンの身の上話なんて聞きたくないんだけど。そう思うも、確かに自分の言葉はそう取られてもおかしくはないし、先ほどの突き放すような態度を取った手前、否定の言葉は言いづらかった。なので素直に頷くことにする。先輩は言葉通り、至極つまらなそうな表情と声色で言った。

「……実家が店をやっていてな。その屋根が赤色なんだ。だから緋色の板で緋板」

 どうだつまらんだろう、そんなニュアンスの込められた視線をこちらに向けてくる先輩。私は話の想像以上の短さに肩透かしを食らったが、しかしつまらないという感情は抱かなかった。

「それって……なんか嫌です。鬱陶しいというか。暗に実家を継ぐことを強制してるような感じがします」

 ひねくれてるかな、と言ってから気づくも先輩は無表情のまま首肯した。

「その通り。つまらん話だ。小さい頃はそうでもなかったが、高校に入学した頃から家を継げとしつこく言われ続けてな。それが嫌で必死で勉強した結果、逃げるように遠くの大学に入学した。それまでつまらん人生だったが、親から逃げ出せたことで、楽しい人生が待っていると思っていたのだが……」

 その時の緋板先輩の表情に、酷くぞっとしたことを覚えている。何故なら先輩の言葉から感じていた感覚を、端的に表していたから。

 やる気なんてものが根こそぎ消え失せた、醜悪なまでにつまらなそうな表情をしていたから。その瞳は過去も未来も見据えていない。ただつらく苦しい今この瞬間しか見えていなくて、それが世界の全てだと諦めているような、そんな表情だったから。

 入社二日目の私はその瞬間に、緋板先輩の周りに人が近寄らない理由を察した。生気の薄さはまるで亡者を連想してしまい、そのつらそうな表情が哀愁を誘い同情を誘う。しかし先輩に同情すると、関係ないはずの自分の人生すらもつまらないもののように思わされてしまうような——。そして会社の人に話を聞くと、緋板先輩への印象は人それぞれだったけれど、皆、私が感じたものと大差ない何かを感じ取っていたらしかった。

 同時に、その表情が私に与えた衝撃は大きかった。会社では見せない素の自分。鏡にふと映り込む私の表情は、そんな先輩の表情にとてもよく似ていたのだ。まあだからどうしたという話で、結局私は一年以上も落ち込んだままだったけれど。

 結局、緋板先輩はすぐに部署移動を命じられて私とはそれっきりになった。いや、話す機会を作ろうと思えば作れたはずだけど、そんな行動に出なかった。少し気になった人とはいえほんの数分会話したくらいの間柄でしかないし、初めての会社勤務や母親の死など自分の問題で手いっぱいになっていて、はっきり言って緋板先輩のことなんて数日後には忘れていた。

 思い出したのは一年くらい前。自分の問題にある程度のけりをつけ、ファリジアレースにも復帰して自分を取り戻した頃。ふと先輩を見かけたのだ。

 そして一目見て分かった。先輩の問題は何一つ解決しておらず、その表情は以前よりもさらに酷いものになっていた。亡者どころではない、まるで幽霊だと思った。生気なんてまるでなかった。ふとしたきっかけですぐに死んでしまいそうな、そんな危うさすら宿していて。

 だからこそ、酒場でたまたま緋板先輩に出会えた時は嬉しかったのと同じくらい安堵もした。話せてよかった。絶対にレースに誘おう。私を救ってくれたレースなら、きっと先輩も救われるはずだと。

 だけど私は緋板先輩を連れてきたことが本当に正しかったのか、今でも確信が持てていない。口では楽しい、嬉しい、感謝しているという先輩は、しかし分かりやすい笑顔をあまり浮かべないのだ。だから言葉自体に、どこか空虚さを覚えてしまう。

 そして極め付けは、緋板先輩の戦闘スタイル。血液を爆破するという凶悪な超能力は戦場において圧倒的な初見殺し性能を誇る。しかしそれを、先輩は何故か自分が最も傷つく方法でしか使わないのだ。まともな精神の持ち主があの超能力を持っていれば、まず間違いなく自傷行為を最小限にする闘い方を選ぶ。例えば銃弾に自分の血液を仕込んだり、投げナイフにほんの少し塗ったり、ペットボトルの飲み物に少量混ぜ込んでステルス爆弾にしたり、色々方法はあるはずなのに。先輩は自爆したり、自分を切った武器ごと自爆したり、とにかく自爆しかしない。それらを軸にして闘うから、体はボロボロになって死にかける。もっと安全な闘い方があるのに、それを選ぼうともしない。

 そもそもファリジアレースの戦闘において標準ベットである『命を賭ける』という行為に、あまりにも躊躇がなさすぎるのだ。一度も戦闘訓練を積んでいない素人にもかかわらず。それは狂っているとしか言えないほどの、擁護できない異常行動だ。

 私は酒場での言い合いを経て、さらに初日に闘技場での戦闘を見て思ったことがあった。普段の先輩を見ているから、当たり前の発想として浮かんできたことだ。違うと思いたかったけれど、そうとしか考えられなかったのだ。

 緋板先輩は、自分のことをこれっぽっちも大事に思っていない。それどころか自分を追い込み続けている姿は、死に場所を探してるかのようだ。だからこそ命を賭けることに躊躇せず、レースの素人とは思えないほど大胆な行動に出られる。

 私は緋板先輩に知ってほしかった。自分に大きな価値があることを。ファリジアレースで関わった誰もがもう先輩を低く見ていない、むしろ高く評価していることを。私を含めて、風向緋板を好いている人間がいる事実を。先輩を大事に思っていて、傷つくたびに心配して不安を抱く人間が確かに存在していることを。

 もう私たちと緋板先輩は対等で同等な、戦友であるということを——




「同じって、どういうことですか先輩。教えてください」

 先ほどから緋板先輩の様子が明らかにおかしくなった。でも私にはそのきっかけが分からなかった。鉄号盾人が襲ってきた時? いや、むしろベルさんの介入後は活力にあふれているくらいだった。

 だったら余計に分からない。普段から何を考えているのか分かりづらい人だ。でもいつも、先輩の思考は道筋に沿って考えられていて、それなりに理に適っている。

 しかしそれは結果を見てようやく、ああ先輩はこう考えていたんだと分かるという程度のもの。先輩の行動の真意を確かめたいのならば、やはり直接聞くのが早いはず。話してくれるなら、理解は出来るはずだ。

 先輩は普段よりもしわがれた声で言った。

「……この状況は、逢瀬牧と最初に出会った夜と同じだ。集子を傷つけ、血まみれにした彼女を相手に何も出来ないどころか足を引っ張ってしまったあの時と。

 だから私は誓ったんだ。強くなると。集子たちの傍にいても足手まといにならない強さを得ると。自分よりも強い相手に、せめて立ち向かえるだけの強さを得ると。そして、今度集子が危険にさらされた時、守ってやれる強さを得ると。結果として私はほとんど運とはいえ逢瀬牧を倒した。それなりに強くなれたと、そう思った」

 そこで先輩は強く歯ぎしりをして、泣き出しそうな声色で吐き出した。

「だが、私は鉄号盾人を前にして、《《同じ過ちを犯した》》。恐怖におびえて何も出来なかったんだ! 逢瀬牧の時にあれだけ苦悩して、忘れるものかと心に刻み込んで、繰り返すものかと魂にまで誓った! あの時の後悔を簡単に忘却して、私はまた繰り返したんだ。

 ……もう、自分自身を許せない。こんなにも脆弱な意志ではきっとまた繰り返す。自分を信用出来ない。……私は私を、殺してやりたいっ……」

 暗い石造りの通路に、地鳴りのような声が響いた。淡々と燃え続ける松明の炎が、風もないのに揺らめいたような気がする。込められた感情は、まるで重さを宿した闇だ。聞く者に恐れすら抱かせるこの声は、緋板先輩の異常性をありありと表している。

 私が逢瀬牧に負けた。その原因として挙げられる一パーセントあるかどうかの先輩の責任を、とんでもなく重く考えていることがよく分かった。全てが、自分の責任のように考えているんだ。

 そして同時に勘違いをしている。先輩は私やベルさん、お父さんや浩太さんの傍にいられるだけの強さを欲した。それはいい。けれどその後に先輩が述べた『強さ』のイメージ、これが問題だ。

 緋板先輩の目指す強さは、もはや人間じゃない。自分よりどれだけ強い相手だろうと絶対に恐怖せず立ち向かう、逃げない、なんて無謀どころの騒ぎじゃない。  ファリジアレースの場においてそれは、馬鹿で命知らずの行動だ。勝ち目がないなら逃げればいい。その後作戦を立てて再度挑む。普通の行動なはずなのに。もしも恐怖しない逃げない人間が馬鹿でも命知らずでもないなら、それは意思なき怪物かもしくはフィクションの勇者だけだ。

 でも緋板先輩は、そんなありえないくらい強靭な精神を構築出来ない自分を責めて、殺したいくらい憎んでいる。そしてそんな精神性を、私たちが当然のように持っていると思っているんだ。

「先輩。誰に入れ知恵されたのか知りませんけど、逢瀬牧に負けたのは別に先輩のせいじゃないですよ。ただ相性が悪かったってだけで、どんな格好してても不利な闘いでしたから」

「私がどんな形で集子の足を引っ張ったのか言っていない。にもかかわらず、すぐに格好の話が出たということは、お前の中であの時の服装は重要な要因だったという証拠だ」

 ……ぐうの音も出ない。気にしない程度の不利な要素にしても、確かに私が負けた理由の一つなんだから。

 話を変えよう。

「……緋板先輩の求める強さはもう、人の域にないんです。自分よりも強い敵を相手にすれば、誰だって動揺しますしミスもします。先輩の言う強さを持った人間なんていないんです」

「だが、集子や皆は恐怖に侵されて闘えなくなることはないだろう」

「それはただの慣れです。強さなんて大仰なものじゃありません。死の恐怖とか信じられないような痛みとか、そういうものに臆さない人はいません。もしもいるとするなら、それは死という感情にさらされた経験があまりない人です。全身の肌をなぞり心を鷲掴みにするような冷たい恐怖を、自分が積み上げてきた大切な人生を瞬きの間で蹂躙するような圧倒的で暴力を、知らないからそう言えるんです」

 そうか。先輩は、だからそんな風に考えて——。私は頭に浮かんだ言葉を整理して、それから言った。

「先輩は、知ったんですよ。そういった『本当の死の恐怖』を。だから体が動かないんです。まだ慣れていないでしょうから。いえ、いくら先輩が物事に慣れやすい性格だとしても、ずっと慣れないと思いますよ。

 何故なら私たちは日本という日常に住んでいますから。戦場に住んでいませんから。私もそうです。いつだって怖いんです。でもどれだけ恐怖に侵されたとしても闘えるんだって、私は知っています。当然それは私の心が強いからではなくて、そういう状況において必死に生き残ってきた私の経験から来る教訓です。それか、そういった恐怖すらも薙ぎ倒せるほどに欲しいものがあるからです。他にも、先輩とずっと一緒にいたいから死ぬわけにはいかない、というのもありますね」 

 私はゴホンと咳をする。最後のは言わなくていい理由だった。けれど先輩は真っ黒な瞳でこちらを向くだけで返事をしない。まったく、少しは動揺してくれてもいいのに。まあいい。とにかく、今本当に伝えたいことを言わなくては。

「だからですね、緋板先輩。恐怖に立ち向かうための武器は別に心の強さだけじゃないんですよ。なんだっていいんです。自分が心の底から、生きたい! 死ぬわけにはいかない! と思える何かがあれば、どれだけ恐怖に心を侵されようとも、立ち向かえるんです。

 ……きついこと言いますけど、先輩には生きたい理由も、自分が心からやりたいこともないんじゃないですか?」

 陰鬱で黒々とした瞳が、見開かれた。図星、だったのだろうか。本当はこんなこと言いたくない。でも、私にはそうとしか思えない。

 私には風向緋板という人間の心が弱いだなんて、到底思えないのだ。三年前から、本当に心が弱いならとっくに自殺をしてもおかしくないような瞳をしていた。ファリジアレースでも、あきらめるような場面は何度もあった。でもそんな時、すぐに先輩は立ち直り、その恐怖に挑もうとする。どれだけ敵が強かろうと、同じ相手には臆さない。そんな人の心が弱い? ちゃんちゃらおかしい話だ。

 緋板先輩自身は自身が求める次元になくとも、十分に強い心を持っているんだ。けれど突然の恐怖に負けてしまう理由は一点。自分自身を奮い立たせるはずの様々な欲望がないからだ。自分自身のための望みがないからだ。

 このファリジアレースでの先輩は、ほとんど私のためにしか行動していない。それは狂おしいほどに嬉しくて、同時に悲痛なまでの後悔を与えてくれる。先輩を無理やり誘ったのは私。世界は広くて、楽しいことはたくさんあるのだと教えたのも私。でも先輩に大したことのないアイテムを求めさせて気軽に参加させたのも私。レースの表面的な楽しさをとりあえず与えて、満足させようとしたのが私だ。レースの深淵を教えたら、逃げられるかもしれないと怖がったんだ。それはレースを冒涜するような行為であると同時に、先輩の気持ちを無視する最低な行為だったのに。

 そんな甘ちゃんな気持ちが油断を呼んで、逢瀬牧に付け入る隙を与えた。そして旅行気分で楽しくやっていた先輩に、ファリジアレースの負の……いえ。真の一面を見せてしまった。

 それは先輩にとって、あまりに突然だったはずだ。一切心の準備をしていない先輩に見せるにはあまりに衝撃的に映ったと思う。私が、私だけが道しるべだったのに。何も分からないファリジアレースの場で、私だけが先輩を知っている人間だったのに。そんな人間が目の前で血まみれになって死にかける。一人取り残された先輩は、いったい何を思ったのか……。先ほどの言葉を聞けば、分かるというものだ。

 私が先輩を、こんな風に考えさせてしまった。私のふがいなさが先輩を追い込んで、狂わせて。

 私が先輩から、自分自身の望みを考える機会を奪ってしまったんだ。

 そんなことを考えながらも、時は進む。先輩を乗せたラダル君は走り続けながら苦い表情を浮かべている。負担としては彼が一番だ。さらには自分が背負っている人間が私と言い合いしているわけだから、精神的な疲労も少なからずあるはずだ。一方同じように一言も話さないライカは、つまらなそうな表情で二本の日本刀を弄んでいる。

 そして先輩は——。うつむき、いつの間にか瞳を閉じて考えるような表情をしていた。が、パッとその目は開かれた。しかしその瞳には変わらない暗さを宿しているような気がした。

 そんな先輩は、いきなり口を開いた。

「ラダル君。すまないが止まってもらえないだろうか」

 は? と思わず口に出しそうになる言葉をこらえる。まただ、私には先輩の行為が理解出来ない。そして私以外の二人の表情は対照的だった。ライカは何故かつまらなそうな表情から一転、期待に満ちた笑みを浮かべている。そしてラダル君は、これまた分かりやすい驚愕の表情を浮かべて言った。

「ああ!? 何言ってんだよ。こんなとこで止まってる暇はねーぞ!」

 概ね私と同意見。すると先輩は、懇願するような声色で言う。

「お願いだラダル。私は止まらなければならない。頼むよ、頼む……」

 瞬間、大きな舌打ちをしたラダル君は、急激にその速度を落とした。私は戸惑いながらも足を緩める。ライカは楽しそうにきびきびと止まった。そうして四人全員の速度が完全に停止してから、ラダル君は「なんだってんだよ」と先輩に尋ねた。私も聞きたい。先輩が、この状況について分かっていない訳がない。鉄号盾人に追いつかれたら私たちは全員負け必至のデスレース真っ最中なんだから——

 だが先輩は、度肝を抜くような言葉を繰り出した。

「私は、鉄号盾人に一矢報いたい。そうしなければならないんだ。でなければ私は、自分を許せそうにない」

 やった! と無邪気にはしゃぐライカをよそに。その言葉を聞いて愕然とした。先輩は私の言葉を聞いていたのだろうか。私は確かに言った。先輩自身に落ち度はないと。自分自身を責める必要はないという気持ちを込めた私の言葉は、一切届かなかったのだろうか。

「おいてめえ、まじで頭イカレてんのかよ。てめえじゃ勝てるわけねえだろうが! そもそも今はファリジアレース、レースだ! 逃げきれりゃ勝ちのこの状況で、よりによって何で今! あんたが! 闘わなきゃならねえんだよ。 もっと言ってやろうか。自分を許せないなんて理由で、わざわざ死にに行くことねえってんだよ!」

 ラダル君は、自分が背負っている先輩に対して常識をぶつける。その言葉のほぼ全ては、私が先輩に言いたかったことだ。しかし、私はその言葉に何か違和感を覚えた。一体何に? 分からないまま考えて、そのせいで先輩に言うつもりだった言葉が頭から消えてしまっていた。

「もううるさいなあラダル君は。ファリジアレースでどんな風に動こうと人の勝手じゃん。何を考えるのも、何をするのも、誰と一緒に行動するのも、誰と闘うのも、ルールに乗っ取れば全てが自由。それがファリジアレースなんだからさー」

「馬鹿か? 勝てる時に勝たねえで何がレース大会だってんだ!」

 来家とラダル君の言い合いをよそに、私は先ほどから感じている違和感について考えていた。この感覚は、さっきと突然降って湧いたものじゃない。どこかの瞬間から、ずっと引っかかっていた気持ちだ。一体いつから——

 その時。緋板先輩は、私が抱いていた疑問を解消する一言を口にした。

「すまない集子。あれだけ必死で手に入れようとしていた境界線の消失を、手放す可能性を増やしてしまうかもしれない」

 本当に申し訳なさそうに、先輩はそう言ったのだ。

 私のためじゃない、《《自分のために行動してすまない》》と、そう言ったのだ。

『私は鉄号盾人に一矢報いたい』

 明確な自分の意志と欲望をさらけ出すような言葉を、あの風向緋板が言ったのだ。

 だったら私は——

「……いいえ先輩。いいんです。はっきり言って、逢瀬牧に負けた時点であきらめてたんですから。それを先輩が代わりに取ってくれると聞いた時は本当に嬉しかったんですけど、そのせいで先輩のやりたいことが出来ないんだったら、捨てちゃってください。お母さんの声が聴きたいのも本当ですけど、今、私にとって一番大事なのは先輩ですから。ですが——」

 緋板先輩が逢瀬牧を倒したと聞いた時から、ずっと抱いてきた気持ちがあった。私は先輩をこの自由な世界へ連れてきた。でも私は先輩を縛り付けるようなことしかしなかった。あまつさえ、この世界の道しるべを買って出た私が、無様な負け姿を晒した。そんな私の方こそ、先輩と一緒にいてもいいんだろうか、と。

 こんな私でも、先輩は一緒にいたいと言ってくれる。でも、今はその資格がない。先輩の前で、まだ格好の悪いところしか見せていない。違うの、先輩。このままじゃ、私が先輩と一緒にいられない。足を引っ張って、情けない姿をさらして。

先輩は私と一緒にいたいと思ってくれて、その証を、実力ではるか上にいたはずの逢瀬牧打倒という圧倒的な成果で示してくれた。だったら私も、先輩と一緒にいるために、行動で示さなければ!

「この挑御川集子も鉄号と闘います。そして、勝って見せます。当然一人じゃ勝てないですけど……。それでも私はまだ、先輩に格好いい所を見せてないので。

 挑御川集子はすごいんだって見せつけます。そうして私はようやく、先輩と一緒にいてもいいんだって思えるんです。自分を許せるんです」

 こみあげてきた快活な気持ちを笑顔に乗せて、先輩に見せつけた。すると先輩は一瞬驚きの表情を浮かべた後、小さく微笑んで

「分かった。一緒に闘おう」

 と、そう言ってくれた。私の気持ちをなんとなく察したのだろうか。普段見せてくれる微笑みよりも優しげに見えた。

「あたしもいるけどねー」

 そう言葉を挟む来家の頭をなんとなく撫でながら言った。

「頼りにしてるから」

 すると来家はいたずらっぽい笑みを浮かべた。そうだ、この子は以前から鉄号盾人と闘いたがっていた。というか、来家の能力は鉄号に対して非常に有利だ。闘うという選択、それだけで多大な《《リスク》》を伴うのだから——。

 鉄号盾人と相性のいい来家と、イレギュラーの塊みたいな緋板先輩、その上私が死ぬ気で頑張れば、もしかすればもしかするかもしれない。

 なんてことを考えていると、ラダル君と、彼に下されて地面に座り込む緋板先輩が何やらひそひそ話をしていた。耳を澄ましてみるが、その瞬間に会話は終わってしまった。それから確認するようにラダル君が口を開く。

「……だったらいいけどよ。本当にそんな展開になるのか? いくらおめーらが強いっても」

「してみせるさ。だからラダル、その時は思い切って頼む」

「アイアイサー、やってやるぜ」

 するとラダル君は私の視線に気が付いたようで、

「俺は闘わねえぞ。死にたくねえからな——ってその前の段階か。俺じゃどうしたって足を引っ張るからよお。まあせいぜい頑張れ」

 なんだか適当な激励を言うと彼は、壁の端、松明と松明の間の暗闇に座り込んだ。何をする気だろうか。先ほどまで戦闘自体に否定的だったとは思えないくらい殊勝な面持ちなのはどういう理由だろうかと訝しんでいると、後ろから先輩が声を上げた。

「おい集子と来家、こっちに来てくれ」

 なんだろう、作戦会議かな。そそくさと先輩の元へ駆け足して、到着する。来家は面倒臭そうにのそのそと歩いてきた。私たちが集まると、先輩はゴホンと咳をしてから口を開いた。

「……いくら自分のため云々と言っても、性格自体は変わらん。どうやら私は考えなしに物事を決めることが出来ない性格のようだ」

「なんですか先輩、改まって」

「まあつまり、私には鉄号盾人を打倒する——とまではいかなくとも、こちらが有利になるような作戦がある。……などと大仰に言ったが、別に今から言う作戦は先ほど考えた対鉄号用の作戦ではない。元々逢瀬牧と闘うにあたって立てていた作戦がいくつかあってな。その一つを使おうということなんだ。元々私は逢瀬牧を、色々と準備した場所に誘い込んで闘うつもりだったのだが——」

「ああそっか、奇襲されちゃってたねそういえば」

 興味なさそうな声で来家が説明してくれた。つまり先輩は、今この状況なら逢瀬牧を相手に使うつもりだった作戦がはまり易いと考えているんだ。だったら、不利な状況に引きずり込まれたのに勝利を納めた先輩は結構すごいんじゃあ……。いや、むしろどれだけの無茶を繰り返せばそんな状況で勝てるんだろう。そう、私は今でも先輩がどうやって逢瀬牧に勝ったのか知らない。きっと、酷い無茶をしたんだろうけど。先輩から漂う濃い血の匂いがそれを如実に物語っている。

 ……あんまり、無茶させないようにしないとな。

「それで作戦なんだが——おい集子。聞いているか?」

「すみません。気にしないでどんどん話しちゃってください。しっかり聞いてますんで」

「そうか。だったら時間も限られているだろうしさっさと話そう。端的に言うと、私の血液をこの辺りにたっぷりとばらまく」

 その言葉に反射的に、私の背筋が咳をしたように飛び上がった。あんまり驚いたのでセクハラされたみたいな勢いでまくし立ててしまう。

「ちょっと先輩、少しは自分の体のことも考えてください! これ以上は本当に死んじゃいますから!」

 あまりに自分を捨てた言葉に思わず泣きたくなるも、先輩は意に反した風もなく、

「心配いらん。痛みの感覚が麻痺しているからな、出血の痛みで死ぬことはないだろう。その上、さすがに失血死するまでばらまく気はないさ」

「痛みがないって……そんなの体の異常だって分かってますよね!? そこまでする必要なんて——」

「集子先輩ちょっとうるさいって。いちいち茶々いれると話が進まないったらないからさ。オジサンが心配でヒスってるのはもう分かったから、さっさと話を進めようよ。ほらオジサン、レッツスピーク」

 アンタがそれを言うの、という言葉を必死で飲み込む。確かに時間がないんだから邪魔ばっかりしてるわけにはいかない。でも、それで先輩が死ぬかもしれないんだったら話は別だ。

 だけど先輩は私を見つめて、優しげにこう言うのた。

「これが私のしたいことなんだ。今回だけは目をつむってくれないだろうか」

 ……絶対に逆らえないずるい言葉だ。しかもこれを先輩は天然ではなく、おそらく計算で言っているんだから手に負えない。でも、それが分かっていても、私はこの言葉に逆らうことは出来ない。

 だからせめて抵抗するような言葉を紡いだ。

「……分かりました。ここからはもう何も言いません。ですがこのレースが終わったら私に心配かけた分だけ、たっくさん貢いでもらいますから。覚悟していてください」

 頑張って作った笑顔でにこやかにそう告げると、虚を突かれたような先輩の表情が見られて、私は少しだけ満足した。

「まあ、それだけなら……それだけがどれだけか分からないのが非常に恐怖を煽るが、許してくれるならば手を打とう。それでは作戦の続きだが——」

 先輩の作戦は、非常に簡潔だった。先ほど述べたようにこの辺りに血をばらまいて、地雷原を作っておく。本当にただそれだけだ。

「本当ならばこういった広い建物内に逢瀬牧を誘い込んで、さっさと足を爆破して機動力を削いでから一方的に攻撃するハメ殺し戦法だったんだ」

 相変わらず思考がぶっ飛んだ素人だなあ先輩は。しかし機動力を削ぐという点はこの状況——つまり追われている状況からすれば、非常に有用だ。足に負傷を負わせておけば、最悪逃げ切りも選択肢に入るわけで。そして当然、機動力を削っておけば私たちの戦闘も有利に進む。動けなくなるまでになれば、それこそ私たちで鉄号盾人をハメ殺しにできる環境が出来上がるわけだ。

「しかしながらこの作戦は、未だに相手にばれていない『私が風向緋板』であるという真実を明らかにしやすくなる。それは当然、私が血液を武器にしているからだな。血液まみれの地面を見れば、ここに風向緋板がいると気がつきやすくなるのだが……。実はまあ、それほど気にしていない」

「と、言いますと?」

「要は戦闘が始まるまで鉄号に気づかれなければいい。この作戦の性質上、血液の爆破は避けられないわけで、私の存在は確実にバレる。だがバレた時は、鉄号の足を焼いた時、となるならばそれでいいわけだ。

 そして敵にバレる最大の要因だろう辺りが血まみれな状況を、納得させられる少女がここにいる」

 その言葉で、私と緋板先輩は同時にその少女——速見来家へ視線を向けた。来家は感心したような表情を浮かべて言う。

「へえ、面白いこと考えるねオジサン」

 急に嬉々とした態度に変わった来家。するといきなり、杖のようにしていた抜身の刀を二本、両手にしっかりと握った。それから小走りを始めて、一体どこへ行くのかと思っていると、その勢いのままで高くジャンプした。助走だったんだ、と私が思っている瞬間、両手に持つ刀の腹を石畳の地面に着地しそうな足裏にくっつけて——。

 そのまま、踏み抜いた。同時に刀の中腹が甲高い音を立ててボキッと折れてしまった。うお! と緋板先輩が声を上げたので、同じく声を出しそうになったのをすんでで呑み込んた。来家の各手には、刃部分の上半分が折れて小太刀くらいの長さになった打刀が握られている。

来家は自身の行為を気にする様子もなく、あっさりと言ってのけた。

「テンション上がっちゃった」

 高揚した時に時折見せる妖艶な笑みを見せつけるようにして。私はなんというか、呆れ果てた。相変わらず気分のままに行動する子だ。けれどその行為がただ衝動を表に出すためだけの無駄な行動ではない。そもそもこの子本来の獲物は短剣であり、大人用に量産化された日本刀では長すぎるのだ。その余剰分は戦闘、特に鉄号盾人クラスの手練れ相手では致命的。来家の長所である機動性と小回りが阻害されてしまうことで生まれる隙を、奴は簡単に突いてくるだろうから。

 そして最も重要なのは、一般的な剣または刀では鉄号盾人の持つ膂力と常軌を逸した大剣から繰り出される重撃を、《《たった一撃すらも》》受けられない点だ。私程度の技術があれば先ほどの剣でも、受けられはしなくとも数回は受け流せる。しかしそれでも数回だ。つまり鉄号相手の接近戦など、本来ならば愚の骨頂。それを挑めるのは、小回りと機動力に特化してそもそも攻撃を受けることを考慮しない来家。そして折れない魔剣を持ち、その上高い技術力を誇るベルさんくらいだ。私は当然、二丁拳銃で挑む。この方が緋板先輩とのシナジー効果も得られるし。そういったシナジー的特殊弾はもう装填済みだ。これならば鉄号相手にも致命傷を与えられるはず……。

 まあ最大の問題は、二丁拳銃だとほとんどの攻撃を鉄号の幅広い大剣に防がれてしまう点だ。そして用意した特殊弾は、敵の間合いギリギリからじゃないと簡単に避けられてしまう点も。そのあたりはまあ、状況に応じて適当に。

 そうして緋板先輩は来家の行動に苦笑いを浮かべてから、作戦を遂行した。とは言っても血をばらまくわけなんだけど。

 来家の自傷行為を見るのはあまり気分のいいものではないが、緋板先輩のも相当に嫌だ。あの子は本当にためらいなくスパッとやるのでその躊躇のなさが狂気的に映るのだが、先輩は自傷行為に及ぶ時、深呼吸をして歯を食いしばり苦虫をかみつぶしたような、あまりに悲痛な表情なのだ。見てるこっちにも感情が伝わるから、私も顔を歪ませてしまう。

 しかしそんな二人が並んで血をばらまいていると、悪趣味な狂気的サスペンスホラーにしか見えない。もっと言うと娘の奇行に無理やり従わされている親、みたいな感じだ。呪いだか悪魔召喚だかを信じる娘が儀式に足りない血を補うために親を脅している——ようなストーリーが頭に浮かんだ。私も、少し疲れてるのかな。まあレース終盤で体調万全なんてことはほとんどないし、当然といえば当然だ。

 でも緋板先輩があれだけ頑張って、今も頑張り続けているんだから、彼の目の前で弱音なんて絶対に吐くものか。格好いいところを見せ付けて、先輩にすごいって思ってほしいから。

 そうして先輩に褒めてもらう妄想に思考を費やして精神回復にふけっていると、不意に笑い声が聞こえてきた。それは先輩のもので、どうやら来家との会話中に漏れたらしかった。じっと二人を見やると、あれこれ話しながら二人とも楽しげにしている。……血を撒きながら。

 けれどそんな二人に、狂気的な何かを感じるよりもむしろ小さな嫉妬が渦巻いてくる。いいな、先輩とあんな風に話せて。先輩は私がボケてもまともな突っ込みしかしてくれないからなあ。時々見せてくれる優しい笑顔も、真剣な話をしている時とか私を慰めてくれる時に、一瞬しか見せてくれなかったのに。

 なんてことを考えていると、二人がこちらに歩いてきた。先輩の表情からすでに笑顔は失せていて、真剣さがにじみ出ていた。……なんで私の近くに寄るとそんな表情をするんだろう、などと妙な邪推をしてしまう。そんなことはないんだって、分かってるんだけどな。こんな時自分の性格が恨めしくなって、来家やカモミールさんのようなスッキリとした明るさが羨ましくなる。

 かぶりを振ってそんな思考を彼方へ飛ばすと、二人はもうすぐ傍まで来ていた。慌てて二人の表情を見やると、その片方、先輩の顔色が明らかに違っていた。酷く青ざめていて、肌の色彩が薄くなっているような気がする。息も切れ切れで、体がひどくだるそうに見えた。間違いない、貧血だ。

「……緋板先輩。大丈夫なんですよね?」

 聞くと、頭をガクンと崩れるようにして頷いた。全然大丈夫そうじゃないけど、頷いたってことは「いける」という意思表示だ。もう、いちいち心配なんてしない。私は話を進めるために、心を殺して話し始めた。

「作戦は滞りなく準備出来たんですね。だったら最後の話し合いというか、確認をしなければいけません。時間が後どれくらいあるか分からないので手短に話しますが、つまりお父さんや浩太さんに不意打ちを食らわせられた、その原因についてです」

「あれは……暗闇からの単純な不意打ちではないのか?」

 緋板先輩のその問いに、私は断言するようにして言った。

「それだけは、間違いなく違います。それならお父さんが絶対に気が付きますからね。あんなんでも一応、地力は鉄号盾人よりもありますから。……そもそもあの奇襲で何が一番おかしいかっていう話なんですが、第一にはそれです。第二に、不意打ちという行為が二度、それも局地的に成功しているという点なんです。万が一、あれが普通の不意打ちだったなら、二回目の浩太さんが間違いなくお父さんの受けた攻撃に気が付きます。あんな頼りなさげな風貌ですけど、歴戦の猛者ですからね」

 すると先輩は、疲れたような表情から鋭い眼光で私を見つつ口を開いた。

「……つまり集子は、あの不意打ちがアーティファクトの仕業ではないかと思っているわけだ」

 さすが先輩、察しが良すぎるくらいだ。私は首肯して話を続ける。

「そうです。これはもう確定として考えてもいいと思います。となると、鉄号はどのような特性のアーティファクトを使用しているのか、という点なんですが——」

 そこで先輩が口をはさんだ。

「まて。重雅や集子は鉄号との戦闘は初めてではないのだろう。その時使っていたアーティファクトと今回のそれが違うというのなら、奴は現状、二つのアーティファクトを持っていることになると思うのだが……」

 先輩の問いに私はすぐさま答えた。

「ええ、別物です。ですがアーティファクトの所持数はレースのランクによって制限されているんです。今回のランクのレースでは一つと決められているので、今議題に挙がっているアーティファクト以外は持っていないはずです。

 付け足して言いますと、普段鉄号が所持しているアーティファクトはゴリゴリの攻撃系、振った勢いによって剣の大きさが変化する『ストライクファルシオン』という代物でして。私もお父さんも鉄号がそれを持っていると思っていたからこそ、五対一で互角という評価を下していたんです。だから——」

「ああそっか、あの不意打ちをなんとかすればアレに勝てるかもってことね」

 ……なんでアンタが言うのよ、という言葉を必死で飲み込んだ。先輩の選択が決して悪手じゃないんだって伝えて、優しい言葉をかけてもらう私の作戦が台無しだった。

 ゴホン、と咳をして場を仕切り直す。ついでに私の邪な心も。

「つまりは鉄号のアーティファクトの性質がどんなものかを推理して、対策を講じなければならないわけです」

「だったら透明になる、というのはどうだ。そんな代物があるのかは知らんが」

「それだとやはり、浩太さんが二回目の不意打ちに気づけないことはないと思うんです。浩太さんの近くでお父さんが斬られた瞬間に、何かしらの違和感があってしかるべきです。それをきっと、浩太さんは見逃しません。

 今の先輩の説から考えるに、二回目の不意打ちを受けた浩太さんが、お父さんが受けた一回目の不意打ちに気が付けない状況を作り出せるアーティファクト、ということになりますね」

「だったらそれはこういうものか。透明になれて、気配も消せて、自分の行動による音も全て相手に聞こえなくするという……」

「それってもう、幽霊の仕業だよね」

「いや待て、私は鉄号が重雅や浩太を斬りつけた時の音が聞こえていたぞ」

「私もです。だったら気づけないのはおかしいと思うんですけど、その音を聞いた時、別にそこまで気にならなかったんです。普段ならすぐに反応するような音だったはずなんですけど」

「だったらもう、行動を悟らせないアーティファクトってことでいいんじゃない? 面倒臭いしもうそれでいいでしょ」

 来家の言葉に、議論が止んだ。乱暴な推論だったが、確かにそうとしか考えられないのだ。

「仕方がないですね。時間が後どれだけあるのかも分かりませんし、『行動を悟らせない』アーティファクトと仮定しましょう。だったらその対策は——ええと、どうすればいいんでしょうか」

 言いながら、私も分からなくなってしまったのだ。行動を悟らせないんじゃあ、相手が何をしようともこちらは気が付けないわけで。対策の施しようなんてあるのだろうか。

 静寂がこの場を支配した。松明の燃える音だけが心地よく耳に入るだけで、誰も口を開かない。時間がじりじりと進んでいく感覚に肌がざわめき、心が焦りを加速させる。

 そうして突然、私たちが走ってきた方向から聞こえる奇妙な金属音が耳に響いた瞬間——。

 思考がぶっ飛んだ素人、緋板先輩がつぶやいた。

「見えないわけじゃない。行動が分からないだけだ。あの時、私は確かに鉄号を見たのだから。だったら……」

「先輩?」

 その呟きの意味がよく分からなかったので聞き返すと、先輩はやっぱりよく分からないことを口走った。

「泥棒対策だ」

「はいオジサン説明頂戴。よく分かんないから」

 私も頭にハテナを浮かべながら頷くと、先輩は説明を始めた。

「広い庭付きの家を想像してくれ。そこに泥棒が侵入している。だが家にいる人間はそれに気が付けない。当然だ、家の中にいるのだから。

 しかしだ、泥棒対策とはそういった気が付いていない人間に気づかせるための仕掛けや泥棒を思いとどまらせる仕掛けを用いている。前者なら庭に撒いて使う音の出る砂利、侵入者センサー。後者なら——」

 ハッと気が付いた私は声を上げる。

「そっか! つまり先輩は、撒かれた血液が不意打ちを防ぐ対策になると考えているんですね」

「そうだ。その上さらに、これを使う」

 そう言ってダサい黒コートのポケットから取り出したのは、飲みかけの水が入った五百ミリペットボトルだった。確か城に侵入する前、カモミールさんから貰っていたはず。その光景を見て、ああ私も先輩にポイント稼ぎすればよかったって後悔したのを覚えているから。

「これを血液よりも手前に撒いておけば、水音や波紋などから敵の接近が分かる……かもしれん。少なくとも何かしらの違和感を感じ取りやすくなるだろうから、重雅たちが受けたような完全なる不意打ちは避けられる……はずだ」

 先輩の言葉の語尾が弱い。一瞬体調のせいかな? と思ったけれど、それは違うとすぐに分かった。単に自信がないんだ。

「そんな簡単なので大丈夫な気がしないけどねー。仮にもアーティファクトだし」

「まあな。だが何もしないよりはいいはずだ」

 他に対策のしようもないしな、という言葉に私は首肯した。来家も、まあねーと言って納得したようだ。そうして先輩は手に持つペットボトルを撒くために歩き出そうとする。しかし明らかに足元がおぼつかない様子だったので、それをひったくってから私は告げた。

「先輩は座っててください。超能力行使のための体力だけは残しておいてもらわないと、私たちも困りますし」

 私は先輩の顔も見ずに駆け足で、とっととキャップをひねって水を撒いた。そうして空になったペットボトルを壁の方へと適当に投げる。

 そうして私たちは鉄号盾人と闘うにあたって、作戦と対策の両方を講じたわけだ。後は鉄号が来て、それから今回のレース最大級の闘いが始まる。ぶるりと、武者震いがこみ上げてきた。さあ来い、鉄号盾人。お前を相手にする用意はすでに出来上がった。私の全霊でもってお前という敵を黒焦げの蜂の巣にしてやる。強く硬く、心に結び付けるようにして誓った。

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