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  作者: モノノケ
31/37

カモミールの物語

 わたくしが緋板さんと最初に出会ったあの時、彼はとっても紳士的な態度で接してくれました。

 絢爛煌びやかな屋敷で一人、こっそりとファリジアレースの申し込みをしていた時から抱いていた不安な気持ちをたった一言で解き放ってくれたあの声を、わたくしはきっと、ずっと記憶に留め続けるでしょう。自分もレース初心者だったにもかかわらず声をかけてくれる緋板さんは本当に優しく芯の強い人なのだと、心の底からそう思ったのです。

 それから少しして、緋板さんへと向ける感情が少し変化した出来事がありました。それは彼が闘技場で闘っている姿を見た時でした。彼の強大な超能力を目の当たりにして、わたくしの内から冷たい感情が沸き上がってきました。それは超能力に対する嫉妬のようなもので、幼いころから抱いてきた感情です。

 どの貴族にも当たり前のしきたりとして教えられる、武術の作法。体つきも貧弱で背も小さかったわたくしにはその修業はとても過酷でしたが、それでも自分の身に確かな『強さ』が宿っていく過程は本当に楽しかったのです。こんな自分でも強くなれるのだと、必死になってお父様に教えを乞いていました。

 だからこそ、生まれながらに強大な力を持って生まれる超能力者を妬んでいたのです。何の努力もせず、ただそれを持って生まれただけで強いなんて反則だ、と。超能力は誰の目にも明確な優劣で、体が大きいだとか武術の覚えがいいなんていう人間としての才能をまるで問題にしません。

 貴族の子供同士で強さを競う場が定期的に設けられていました。そこでは才能に恵まれ武術の努力も惜しまないノーマルの少年が、戦闘中でも玩具を手放さないような六歳の女の子に死ぬ寸前まで痛みつけられる、なんてこともありました。その女の子は体中から電気を出せる、つまりは超能力者でした。

 超能力者は強くて当然、だってズルをしているんだから。幼い頃のわたくしはそう結論付けて、お父様が教えてくれる技術やコツを覚えることに没頭しました。卑屈で醜いそんな考えをずっと内に抱いて生きてきたのです。

 けれど緋板さんが一般的な超能力者とは違うのだと、そう気が付いたのは六日目の夕方。彼が三狂人の一人、ライカさんと戦闘している時でした。そこで血まみれになって、必死に闘う姿を見てハッと思い直したのです。

 確かにわたくしは超能力を羨んできました。自分にも超能力があれば、今よりもっとずっと強くなれるのに、と。

 ですが緋板さんの超能力にはそんな感情を、ほんの少しも抱けなかったのです。自らの血液を爆破できるというあまりに強大な力は、しかしその強さ故に自らの身を焼き殺しかねない代物でした。それでも緋板さんは痛みをこらえながら、泣きそうになりながらもその力を行使し続けていました。すごいという感嘆と、どうして? という畏怖で胸が満たされていたのです。

 もしもあの能力をポンと渡されたり生まれ持っていたとしても、わたくしはその力をあんな風に使えるのでしょうか。……考えなくても分かります。あんなに酷い自傷が前提の、痛々しい能力などきっと怖くて使うこともできないでしょう。

 だから、緋板さんはすごい人なのだと思いました。優しくて芯の強い、それでいて壮絶な痛みにも耐えうる心の強さを持っている人なのだと。戦闘訓練を積んでいなくとも闘える意志を持つ、稀有な人なのだと。

 ……それがまたもや間違いだったのは、我ながら人を見る目がないと思います。どうやらわたくしは他者に対して願望というか幻想を押し付けて接する癖があるようだと、このレースの中で知りました。ひどい話です。勝手に自分の理想を押し付けて、その人が何を思っているのかを察しようともしないのですから。

 今なら分かります。緋板さんはきっと、自分のことを——




 本当にいきなりでした。最後尾としての役割、不意打ちの警戒をしていたわたくしの意識を縫うようにして、鉄号盾人は現れたのですから。重雅さんや集子さんから聞いていた通りの巨躯。しかしそれに宿る威圧感は想像なんかよりもずっと重厚で、恥ずかしいことに一目見ただけで小さく悲鳴を上げてしまいました。

 でもそれ以上に衝撃的な出来事が、一切の間を置かず訪れたのです。

 挑御川重雅さん。集子さんの父親にして、かつてファリジアレースで最強の一角を誇ったという古強者。わたくしはその途方もない実力を、しっかりと味わわされました。今回のファリジアレース四日目に、わたくしの考えられる最高の準備と全霊を込めた投擲を、明らかに手を抜いた状態で受け止められた瞬間に。ああ世界は広くて、想像もつかない強さの人間がいるのだ、と。果てのない世界の存在に思わずほころんでしまったのです。

 あの時の、重雅さんの言葉が記憶から甦ります。


『ようお嬢ちゃん。あんた、見た目よりもずっと強かったよ。いやはや楽しませてもらった。見た目も好みだ……どうだろう、俺と踊らないか?』

『でしたら交換条件でお願いいたしますわ。どうやったらそんなにも強くなれるのか、教えていただけませんこと?』

『ほう、強くなる術をご所望とは中々に威勢がいいな。だが俺の強さは今のお嬢さんには参考にならん。しいて言うならばファリジアレースに参加し続けることだ。そこで勝ち続け、生き残り続ければいずれ強くなるさ。すぐに強くなる必要はない』

『それでしたら、ダンスのお誘いは断らせて——』

『待った待った、本当に見た目よりも強気な嬢ちゃんだな。だったら参考までに一つ教えておこうか。もしも俺を倒したかったら、俺を攻撃するつもりで投げるんじゃなく、殺すつもりで投げなきゃ話にならん。そこまでしてようやく嬢ちゃんの投擲を攻撃だと認識するってレベルだ。首やら心臓やらを狙うのはいいが、相手を生かすつもりで投げてりゃ、格下にしか勝てんぞ』

『……殺す気だなんて、そんなの出来っこありませんわ』


 本当に、重雅さんには様々なことを教えていただきました。今のわたくしでは何においても絶対に勝てない存在。そんな彼はきっと誰にも負けないのだろうと、勝手ながらに思っていました。悪い癖です。勝手に自分の理想を押し付けて、勝手に納得するなんて。

 そんな風に考えていたからこそ、目の前であっという間に地に付した重雅さんを見た瞬間、プッツリと途切れてしまったのでしょう。鉄号盾人の一挙手一投足に宿る非情なまでの暴力性に、わたくしは心の底から恐怖したのです。言葉の通り、心をえぐられてしまったのです。

 そうしてハッと意識を取り戻したのは、聞き覚えのある声がわたくしを呼んだ時でした。

「と、いうわけなんだ。君が怖がっていた男はもういなくなったし、もうそろそろ話せるんじゃないかな、カモミール?」

 言われてから、ガチガチに固まっていた眼球や唇に血が通っていきました。そうしてぎこちなく視線を動かすと、声の通り鉄号盾人はもうこの場にいないことを悟りました。瞬間、心の底から安堵します。もう殺されることはないのだ、と。全身を凍てつかせるような死の恐怖にさらされなくて済むのだ、と。

「すみません……でした。まさか重雅さんがあんなにも簡単に倒されるなんて、思ってもいなくて……」

 正直な気持ちを述べます。するとベルさんは特に気にする風もなく、

「まあ、それだけ敵も強かったんだよ。アーティファクトがあるのとないのとでは、それくらい実力に差が生まれるのさ」

 なぜかその言葉には、自嘲が含まれているような気がしました。理由は分かりません。本当に、なんとなくそう思ったのです。じっとベルさんを見ても特に反応もないので、気のせいなのでしょう。それにしても彼はわたくしとは違い、首筋や額にじっとりと汗をかいているようでした。ここは薄暗く、当然日陰なので肌寒いくらいに感じていたわたくしは不思議に思うも、それを口に出すことはしませんでした。

 それよりもずっと気になることがあったのです。わたくしはまるで気絶していたかのように、鉄号盾人が重雅さんを襲った瞬間からの記憶が抜け落ちていました。情けない話ですが、今目の前に広がる状況が何一つとして呑み込めないのです。

 ベルさんに聞くべきは彼の汗についてではなく——

「緋板さんたちは、ここにいない人たちは皆、どこに行ってしまったのですか?」

 聞くと、ベルさんは怪訝な表情をします。なぜでしょうか。しかし理由についてお尋ねする前に、彼は答えてくれました。

「ええと、彼らは僕が鉄号盾人を止めている間に先に行ってもらったんだよ。僕自身はまあ……奴に負けて、命を取られる前にリタイアしたんだ」

 ヘラッとそう述べるベルさん。その言葉にわたくしはビックリしてしまいました。強いだろうとは思っていましたが、まさか鉄号盾人と闘えるだなんて! 彼の戦闘イメージは初日によそ見をしていた様子が鮮明に刻まれていたせいでしょうか、どこか低く見ていたのかもしれません。失礼な話です、出会って数分で印象を決めてしまうなど。人の性格など、時間をかけて徐々に知っていくものだというのに。この人が頼りがいのあるいい人だってことくらい、四日目の酒の席で十分に分かっていたはずなのに。わたくしは本当に、勝手です。


 そこでふと思い出しました。そうですわ、重雅さん! 鉄号盾人のあんなにも分厚い剣で斬られた彼らを忘れるなんて。勝手もここまでくると非情です。すぐそこで倒れている二人よりも自分の心配をしていたなんて。

「あの、二人は——」

 チラリと血だまりに視線を向けると、しかし被せるようにベルさんが言います。

「彼らの心配はいらないよ。そのうち起きて走り出すと思うからほっといていい。

 ……熟練のレース参加者はね、《《死んでないなら闘える》》。そういう次元の違う生き物なんだよ」

 なんというか、普通の調子でそう言われてしまうと返答に困ってしまいます。冗談なのかと思いきや、ベルさんはそれ以上言葉を続けるつもりはないようでした。そんな馬鹿なとは思いますが、確かに二人の方を見やると——不思議な期待感を抱いてしまいます。今この瞬間に、何事もなかったかのように動き出してもおかしくはないような——。

 わたくしはレース初心者です。ここは経験者の言葉を信じましょう。


 ……えっと、随分と話を脱線してしまいました。 ああそうです。ベルさんが、わたくしの質問に答えてくれたところでした。そう、この場にいない四人は先にゴールへと向かったとのこと。今思えば、なぜそんな質問をしたのか分かりません。恐怖で固まっていたわたくしや足止めをしていたベルさんが入り口近くにいる時点で、四人の行方はここより先に決まっているではありませんか。まだ頭がキチンと回っていないのでしょうか、もっと頭を働かせなければ!

 ベルさんが質問に答えてくれてから随分間を空けて、わたくしは返事をします。

「だったらこれからわたくしたち……いえ。わたくしは、ゴールに向かうべきなのでしょうね」

 ここでの目的は集子さんと緋板さんの手助けをすることでした。けれどその相対者である鉄号盾人が先に行ってしまった以上、わたくしにはもうなす術がありません。ならばもう、本来の目的であるゴールを目指して進むしか選択肢はないはずです。

 幸いわたくしの求めるアイテムを狙う参加者は重雅さんが序盤に一掃されたようで、境界線の消失と同じく『暗黙の了解』でそれをわざわざ狙おうとする人は、もういない状態なのですから。

 そう、目的としてはゴールへ向かうこと……あれ? でしたら結局、鉄号盾人の向かった方へと進まなければならないということなのでは——

「その通り。僕はゴールできないけど、君はゴールに向かう必要があるよね。だからさ、カモミールに一つやってほしいことがあるんだよ。それは、この先にいるはずの鉄号盾人に向かって、君の槍を投げて気を引き付けてほしいんだ。その上で僕のこの剣をシューコに投げ渡してほしい」

 早口でまくしたてられて、その言葉の意味をかみ砕くのに少々時間を要しました。けれどようやく頭が理解しました。にもかかわらず、わたくしはベルさんに聞き返してしまいます。

「……今、なんて言いましたの?」

 聞いたことをもう一度聞き直すのが失礼にあたることは分かっています。ですが、それでも聞き返さずにはいられませんでした。そのまま飲みこむには、その言葉はあまりにも苦かったのです。……日本風に言うのなら、わたくしは鉄号盾人にビビってしまっていましたから。

 ベルさんはそんなわたくしの気持ちを射抜くような視線を向けて、そうして言ってきます。

「もう一度言わなくても分かってるよね。僕の行く道はもう途切れてしまったけど、君の行く道には目的地のゴールと、鉄号盾人がいる。そして彼はヒイタを狙っているわけだ。まあ、《《戦力差は想定よりも少ない》》けどそれでも厳しい。その状況を少しでも改善できる可能性があるのは、カモミール。君だけなんだ。

 ま、彼をどうにかしないと君もゴール出来ないんだけどね」

 そうでした。すっぽりと、抜け落ちていました。わたくしはベルさんが闘っている時に何もせず、緋板さんを狙っている敵を前にしてただ恐怖に震えていたのです。ひどい話です。だってわたくしは、緋板さんと集子さんの役に立ちたいと思ってついてきたのですから。なにもしていない今のままでは、お二人に合わせる顔がありません。少しでも何かしなければ! 

「それでは、急いで追いかけないといけませんわね。急ぎましょう!」

 逸る気持ちをこらえ切れずに言うと、ベルさんは何故か苦笑しています。理由が分かりません。しかし口の早いベルさんは、わたくしが尋ねる前に教えてくれました。

「いやさ、さっきまで君は鉄号盾人に怯えていたんだよね。それなのに、あっさりと克服しているみたいだからさ」

 言われてしかし、それは違います! という言葉がハッキリと浮かんできました。克服なんて、全然出来ていません。今だって鉄号盾人のいる方へ向かうのはとても嫌です。それこそ一瞬、ファリジアレースや緋板さんたちを見捨てて逃げ出したいと思ってしまうくらいには。でももっと嫌なのは——

「わたくしは鉄号盾人よりも、目の前の怖いことから逃げ出すような弱い自分の方がずっと嫌なんですの。強さを欠いたわたくしは、社交界で微笑むだけしか価値のない人形になってしまいますわ。そんなの、耐えられません。

 それに今なら——」

 ここで、重雅さんの言葉が浮かびます。わたくしの積み上げてきた強さを、あっさりと受け止めた重雅さん。そんな彼を不意打ちとはいえ一撃で仕留めた鉄号盾人が相手ならば。わたくしが殺す気で投げようとも、きっとびくともしないでしょうから。

「——最高の一撃が、投げられそうな気がしますの」

 わたくしは、弱いです。だからこそ強くなるチャンスが目の前にあるのなら、それに躊躇なく飛び込むのです。そうしないとわたくしはいつまで経っても弱いままですから。今までもそうやって、少しずつ強さを蓄えてきたのですから。

「そうかい。だったらすぐに向かおう。僕が随分時間を稼いだから、もしかするとゴール近くまで行っているかもしれないからね。それでもゴールするには早すぎるから、僕らが間に合わないことはないと思うんだけど」

 ベルさんはそう言って、同時に視線で先を見据えます。四人が、そして鉄号盾人が進んだ暗がりの道を。先ほどのわたくしが回避した、恐怖の根源が必ずこの先にいるという圧迫感が心にのしかかってきます。

 しかしもう気にしません。そういうことをいつまでも考えていては、先に進めませんから。もう心の内に秘める言葉は、ただ一言。

『わたくしの一撃で、状況を一変させる』

 ただ、それだけ。他は要りません。その言葉を何度も頭で復唱して、そうして心に生まれる熱い気持ちをエネルギーにして、わたくしは進みます。一歩、強く地面を踏みしめて。暗がりに体を投げ出すような気持ちで駆け出しました。


 ですが、わたくしたちの知らないところで、状況は変化を続けていたのです。ものの三分も走らないうちに、わたくしとベルさんの耳に反響して聞こえてくる集子さんと、鉄号盾人の声が届いたのですから。

「————」

 これは、集子さんの声です。しかし何を言っているのかまでは分かりません。わたくしは反射的にベルさんの顔を見ると、彼は心底驚いたような表情を浮かべていました。

「いやいや、流石に追いつくの早すぎるよ。どうなってるんだ?」

 ベルさんは声量を抑えた独り言をつぶやきます。なるほど、あちらの声が聞こえるということはこちらの声も聞こえるかもしれないということでしょう。

「鉄号盾人が、ということですか?」

 わたくしもベルさんに倣ってトーンを下げた声で、彼の言葉の意味を確認するように尋ねます。しかしわたくしの想像とは違って否定の言葉が返ってきました。

「というよりもね、《《僕たちと鉄号が》》、《《ヒイタたちに追いつくのが》》

早すぎるってことだよ。つまり「どうなってる」っていうのは、先に行った四人に言ってるんだ。僕が稼いだ時間の割に、進んでいなさすぎる。後ろから敵が向かっているにしてはモタモタしすぎ。まああっちに集子がいることを考えると、モタモタしてるとか判断ミスとかの可能性は低いと思うんだけど……」

 これはさすがに、ベルさんの言いたいことが分かりました。

「つまり四人にアクシデントがあったかもしれない、と」

 そういうことだね、と少し険しい表情を浮かべます。心配しているのでしょう。わたくしも心配です。しかしだからこそ、これから行う介入が生きてくる可能性がぐっと増したとも言えるはずです。

 不謹慎ながら、モチベーションが上がりましたわ。

「……もう少し先に進もうか。ここからはゆっくりと、あまり物音を立てないように。どうせ投げる時には音で気づかれるだろうし、そこまで注意しなくてもいいはずだけど一応ね」

 頷いて、了解の意思表示。わたくしはベルさんの言うとおりソロソロと歩いていきます。そして同時に背負っていた筒の中から一本、鉄の槍をそっと取り出しておきます。なじみの武器とはいえ、手に慣れさせる時間は長い方がいいからです。感触を確かめるように持ち手を何度も握りしめると、思わず笑みがこぼれます。少しだけ、安心しました。

 武器の方はもう大丈夫。そう判断したわたくしは暗がりの先にいるはずの鉄号盾人と、戦友たる四人の姿を探しました。まだ見えません。しかし声はだんだんと近くなっている気がします。ゆっくりと、歩みを進めていきます。

 そうしてそれから一分も経たない内に、暗がりに浮かぶようにうっすらと鉄号盾人の後ろ姿が目に映りました。

「見えましたわ。気づかれないように、もう少し後ろから投げますの」

 そう言って肩をぐるぐると回しながら踵を返そうとした時、ベルさんはギョッとした表情を浮かべました。いい加減そういう反応にも既視感が生まれます。けれど今回は、おかしなことを言った覚えはありません。

「今度はなんですの?」

 出来るだけベルさんに近づいて、耳に顔を近づけながら言いました。すると彼も同じように耳元に唇を持ってきて言います。

「僕にはまだ全然見えてないんだけど。君には見えているのかい?」

 一瞬何のことかと首をひねりますが、今ベルさんがわざわざ言う『見えていないもの』は、鉄号盾人しかいないでしょう。ですが余計に、わたくしは首をひねって返事をします。

「見えないんですの? ほらあちらに、少し暗がりのせいでぼやけてはいますが、確かに見えますわ」

 そう言って視線を投げるようにして鉄号盾人の方へと向けます。指で示そうかと考えましたが、その行為の意味のなさには早々に気が付いたのでやりませんでした。わたくしの言葉にベルさんは目を凝らして暗がりの先を見つめていたようですが、すぐに諦めたようです。フフッ、とこみあげたような笑い声を出してから、彼はわたくしに向き直って言います。

「様子はどうなっているんだい? アクシデントの原因なんかは分かる?」

 わたくしは目を凝らしながら答えました。

「えっと、戦闘はしていませんの。わたくしには鉄号盾人が言葉を投げかけているように見えますわ。けれどその言葉を投げかけられている相手までは見えません。おそらく先に行った四人は鉄号よりも奥にいるのでしょうね。わたくしには本当にうっすらと鉄号の姿が見えているだけですから、これ以上の詳しい情報は分かりませんの」

 なるほどね、とベルさんは呟いてから、何やら楽しそうな思案顔を浮かべます。やはりわたくしには彼が何を考えているのか分かりません。危機的状況を目の前にして、笑える心境が理解不能です。その表情をいつまでも眺めていても仕方がないので、わたくしはやるべきことをに努めます。

「準備しますわ。例の剣は、この位置に置いてもらって構いませんこと?」

 例の剣、という回りくどい言い方をしたのは、彼がアーティファクトの剣以外にも数本の刀を抱えていたからです。置いてくればいいのに、とは思いますがコレクターとしてはそうもいかないのでしょう。

 そうしてわたくしが指差した場所は、わたくしが今立っている場所その地点です。その剣は後で集子さんに投げなければならないものですが、しかしながら攻撃に用いるわけではありません。ですから、鉄号盾人を狙えるギリギリの位置を示してくれる目印として活用します。

 つまり、わたくしが鉄号に向かって鉄槍を投げ込んだ瞬間に、その剣を掴んで集子さんへと投げ渡す、という流れです。集子さんの詳しい位置は分かりませんが、仕方がありません。一番大事なのは鉄号にわたくしの行為がさとられないことなのですから。それに集子さんなら、わたくしの作る隙の間に落下した剣を拾うことくらい朝飯前……だと思います。ええきっとそうでしょう。信じますわ。

 考えていると、不意にベルさんが声をかけてきます。もう考えごとはやめたようで、笑みももう浮かべていません。

「この状況でそんなに楽しそうなのは、僕は素晴らしいと思うよ」

 ああこの人は鏡を見て独り言をつぶやいているのか、と思いましたがその視線がわたくしに向けられていると気が付きます。その事実にほんの少しだけビックリしてから、彼が剣を差し出しているのに気が付いてそれを受け取りました。けれど今気になるのは——

「わたくし、笑っていましたの?」

「笑っている、というよりもワクワクしてるって感じに見えるけど。僕の勘違いかな?」

 見透かしたような視線と言葉。そして表情をこちらに向けてきます。けれどわたくしはその言葉に一切の反論も肯定もしません。するつもりもありませんでした。わたくしは変わってしまったのです。このファリジアレースで。緋板さんや重雅さん、そして鉄号盾人と出会ったことで。貴族の世界に生きるわたくしが二十年の間、本当の自分だと思っていた高貴さや清楚さ。そんなものよりもさらに深くから湧き上がる獣じみた攻撃性を、わたくしは自覚していたのですから。

 この場では貴族の仮面を被ることに、何の意味もありません。ようやくわたくしは、そのことに気が付きました。

「——いいえ。わたくし今、とっても興奮していますわ」

 受け取った剣を地面に突き刺しながらそう答えます。思わず漏れた満面の笑み。ベルさんに向けるには少しもったいない気がしました。どうせなら緋板さんに見て欲しかったです。ベルさんは一瞬だけ目を見開くもそれはすぐになりを潜めます。それから今度は素直な笑みをわたくしに向けて言いました。

「やっぱり今回のファリジアレースは面白いよ。ヒイタや逢瀬牧もそうだけど、君も二人に劣らず魅力的だ」

「褒め方が下手ですわね。貴族ならば、話している相手を一番だと言って持ち上げなければいけないのでは?」

「ここは社交界の場じゃあ——」

「ありませんわね。失礼を申しましたわ」

 クルリと踵を返して、わたくしは準備に戻ります。助走の幅を大股の歩数で一歩二歩と数え、それが十歩まで来たところで歩みを止めました。再び踵を返します。すると視界には遅れてこちらに歩いてくるベルさんと、圧迫感を与える程に覆い尽くされた暗がり、そして大人しく燃え続ける松明とその明かりが映りました。そこでわたくしは気が付きます。ベルさんのわずかな足音だけが、静まり返ったこの場に響いていたのですから。鉄号の声がたった今、止んだのです。

 急がなければ——。そんなわたくしの焦りをしかし邪魔するようにして、傍まで歩いてきたベルさんは言いました。

「一つアドバイスをしてあげるよ。鉄号は後ろを向いてるんだよね。だったら狙うのは右寄りじゃなくて、左寄りにした方がいい」

「何故ですの?」

「いいから。ほら、急いだ方がいいよ」

 あなたが止めたんでしょうに。まあいいです。

「ではそのように」

「楽しみにしてるよ。君の長距離投擲」

 ハッパをかけてきます。けれどわたくしは澄ました顔で、その声掛けをスルーしました。だっておよそ七十メートルのこの距離を、長距離だなんて言いませんから。その言葉に頷いてしまうと、自分が弱くなってしまいそうでしたから。……神経質になりすぎですわね。いえ、それくらいでちょうどいいのかもしれません。

 何故ならわたくしは、鉄号盾人を殺す気で鉄槍を投げるのですから。

 暗がりに覆われた正面を、しっかと見据えて心に意識を持っていきます。目をつむり、得意の思い込みで念じ続けました。

 わたくしは、鉄号盾人を殺します。

 わたくしは、鉄号盾人を殺します。

 わたくしは、鉄号盾人を殺します。

 心の中で唱える度に、緊張で肌がざわつきました。手が震えて、掌からは汗がとめどなく滲んできます。そして同時に、罪悪感のような感情で心が凍っていくような気がしました。人を殺す。ファリジアレースの場においてさえギリギリ許容されない行為。それをわたくしは、全力で行うのですから当然です。

 しかし、わたくしはまだ《《あれ》》を忘れてはいません。重雅さんとの圧倒的な力の差。真剣にアドバイスをしてくれた、その声色。そしてその重雅さんを倒した鉄号盾人。わたくしの目の前に突然出現して、抗いようのない恐怖を刻み付けた男。あれがこの先にいるという事実だけで、私は発狂しそうなのです。怖くて怖くて、肌が凍りつきそうなほどに寒気を覚えます。体の芯が、この場から逃げ出そうと反射的に動こうとするのです。

 ですがその理不尽なまでの暴力が、再びわたくしの大切な方々に向けられようとしているのならば。そう思うと——

 自分の中の黒々とした攻撃性が正常な精神を侵食するようにして、爆発的に肥大化していきました。……いえ、もっと簡単に言えます。もっと単純な、激昂なのですから。

「そんなことは絶対に許しませんわ。その前にわたくしが殺してみせますの」

 自分でも驚くようなドスの利いた声。狂い猛る自分に酔いしれながら、わたくしは駆け出しました。頭の中が沸騰しそうなくらい熱くて、思考なんてあっという間に溶けていきます。ですが殺意だけは。それだけは一切形を欠くことなくわたくしに命令し続けるのです。

 殺せ、殺せ、殺せ! とけたたましく、まさしく狂人のように。

 わたくしは鉄号がいた辺りのただ一点だけをしっかと見つめ、いつものフォームを作ります。右肩甲骨からグイッと槍を持った腕を後ろに引き、それでいて切っ先は一切揺らさず右目の横でキープ。左腕は走りながらの投擲フォーム維持のためにうまく動かします。

 そうして、二十メートルほどの助走距離はすぐに詰まり、槍が放たれる瞬間が訪れます。

 右足、左足、とリズムの早いステップを踏み、ひねりを作り力をためていた腰を開放。その反動で勢いを増した上半身、特に右肩から右腕ごと正面に投げ捨てるような感覚で、わたくしは槍を放ちます。

 ——そう、今までは。

 しかしそんな風に言いますが、大きな違いがあるわけではありません。むしろ、違いが発生するのかどうかも分かりません。でも、それでもわたくしは今この瞬間の投擲に、溢れるほどに湧き上がる『殺気』を込めて投げ込んだのです。

 指先にかかる、槍の感触。それは投擲がうまくいった証。今までにない最高の感覚にわたくしは思わず笑みがこぼしてしまいました。

 そしてわたくしは第二投擲を開始します。すぐ横の地面に突き刺さるベルさんの剣を手に取り、そうしてすぐさまフォームを作って、少々の助走を要してから無事に放ちました。今度は天井スレスレを狙ったふわっとした投擲。きっと鉄号にも悟られないはずです。

 そうして自分との闘いのような、わたくしの攻撃は終わりました。恐怖に負けず、投げ切れてよかったですわ。強さが身についた感覚が、実感できたのですから。

 そうして祈ります。届いてください、わたくしの激情。願わくば、この一撃が最悪の状況を変える一撃にならんことを——

 そうして切り裂くような鋭い音が、静寂とした暗がりに響いたのです。

「いやあお見事。素晴らしいものを見させてもらったよ」

 後方から、小さな拍手と共に気持ちのこもっていなさそうな感嘆の言葉が聞こえてきます。わたくしは振り返りながら返事をしました。

「わたくしも、自画自賛ながら良い投擲を見せられたと思いますわ。……それはそうとわたくし、聞きそびれたことがあるのですが」

「何だい? 僕としては答えられることには答えてあげたいね。普段なら言わないことでも教えてしまいたい気分だよ。ああ、僕の好みかい? そうだね特別に——」

「興味ないことをベラベラ話されても困りますわ。そうではなくて、単純な疑問ですの。

 わたくしは何故、集子さんに剣を投げたのでしょうか。彼女は銃使いですし、ベルさんの剣なんて必要ないと思うのですわ」

 ベルさんが気持ちよく舌を回しているのを、邪魔するのは申し訳ないと思いながらも尋ねます。するとベルさんは、手厳しいね、などと漏らしつつ、しかし得意げな表情で答えてくれました。

「《《まず前提が間違っている》》。シューコは厳密には銃使いじゃあないんだ。『最悪の曲者』挑御川重雅の娘であり、その技術を受け継ぐ彼女はやはり器用でね。彼女はどんな武器だろうとも、素手だろうともその実力指数が損なわれない、と言われているんだ。それ故に彼女には戦闘面での弱点らしい弱点が全くない、とも言われているね。

 言い換えるとね、敵がどんな武器の使い手だろうと、相手が最も苦手とする武器で闘えるわけだ。当然、どんな武器を用いてもシューコ自身の実力は変わらない。凄すぎると僕は思うね。そして敵に回すことは出来るだけ避けたいタイプのいやらしい相手だ。実力が拮抗した相手ならまず負けないと思うよ」

 そこでわたくしは、でも、と口を挟んでしまいます。

「現に集子さんは負けてしまいました。逢瀬牧という超能力者に。つまり逢瀬牧の方が、集子さんよりも圧倒的に強かったということに——いえ。でしたらいくら同じ超能力者でも、緋板さん一人で勝てるようなレベルではないことになってしまいますわね。わたくしが映像で見た限り、逢瀬牧がその域とはとても——」

「そうだね。僕としてはシューコと逢瀬牧の実力は拮抗していたと思う。でもファリジアレースでシューコは有名人でね、こういう話がある。

『挑御川集子に勝つには圧倒的実力でねじ伏せるか、もしくは不意打ちしかない』

 まあ簡単な理屈だよ。シューコがその時持っている武器では不利な武器で不意打ちすれば、オールラウンダーという彼女の特性を無効化できるんだよね。まあシューコが逃げられないくらい速度のある相手じゃないと成立しない理屈だと思うけど。けれど逢瀬牧はそれを成功させた、というわけだ」

 そういうことでしたのね……と、納得するわけにはいきません。わたくしのツッコミのせいとはいえ、まだ本題の説明を受けていませんわ! 

「あの、それで……」

「ん? ああ、話が逸れてたね。でもそれほど的から外れた話でもなかったんだ。つまり僕が言いたかったのは、挑御川重雅から受け継いだ器用さで、シューコはどんな武器もうまく扱えるということ。

 そしてもう一人、シューコには親がいる。重雅を差し置いて圧倒的な実力で世界最強を誇った、挑御川桜菜がね。やはり最高レベルの使い手が近くにいると違うものなのかな? シューコはオールラウンダーで、つまり言い換えるとどんな武器を使っても実力が変わらないわけなんだけど、例外が二つほどある。それは『二丁拳銃』と『刀』なんだ。とりわけ刀を使った彼女は、元の実力よりもずっと強くなる……らしいよ。僕もこの目で見たことないから、確証はないんだけどね」

「……本当に、お詳しいんですのね」

「まあファリジアレースの場でたくさんの人間と関わっているなら自然と耳に入る情報さ。君もこれからコンスタントにレースに参加するなら、そういった情報には重きを置いておいた方がいいと思うよ」

 非常にためになる解説でした。尊敬すら覚えてしまうほどに。同じ貴族でありながら、自らに蓄えた確かな強さを武器にファリジアレースを自由に楽しんでいるその姿は、まさしくわたくしの理想でした。だったらわたくしも——。そんな思いが胸を疼かせます。

「あの……教えていただいて、ありがとうございます。ベルさんのようにファリジアレースを自由に闊歩出来るよう、日々精進いたしますわ」

 わたくしはただ単純に、心の内を話しただけでした。てっきりベルさんはこんなことを言ったわたくしを茶化すようにして、いつも通りペラペラとまくし立てるのだろうと、そう思っていました。

 けれど彼が一瞬浮かべた表情はあまりに印象的で、何故か心に深く残りました。いつもは楽しげに吊り上がった眉を下げて、うらやむような視線をわたくしに向けたのですから。何故でしょう、その時わたくしは、こんなにも自由なベルさんが、酷く不自由な人に見えたのです。まるで囚人のような——

 そんなことを考えていた刹那。視線の先。わたくしの瞳が見覚えのある煙をとらえた時。

 耳に突き刺さるような爆発音が、暗がりに大きく響いたのです。その瞬間、わたくしはある種の恐怖にさいなまれました。言い換えるならば嫌な予感、強烈な不安。気がかりなことが原因で、何か大事故が起こってしまったような感覚でした。

「これは、おそらくヒイタの超能力だよね」

 わたくしが密かに抱えていた不安材料が、一気に心を侵していくようでした。思いのたけを吐き出すようにして言います。

「行きましょうベルさん! 緋板さんが心配ですわ!」

「彼ならきっと大丈夫さ。鉄号盾人との対峙を乗り越えたんだから。彼も戦闘に加わっているんだろう」

 わたくしはかぶりを振って、叫ぶように言いました。

「緋板さんは明らかに正常ではありませんでした! 自分が汗をかいているのかも分からないくらい疲れてたんですの! もしかすると肌や痛みの感覚が麻痺していたのかもしれなくて——」

 すると、表情を一変させたベルさんが早口で告げます。

「それはまずいね。その症状が本当なら、もう彼を闘わせない方がいい。ただでさえ重傷を押してこの場にいるんだから。今の状態が続けば、遠くない内に死んでしまうかもしれない」

 ベルさんが、死ぬ——? 先ほどから湧き上がっていた嫌な予感が、さらに濃密な恐怖へと変わっていきます。そんなの、嫌です。絶対に嫌です。彼はわたくしにとって恩人であり、始めてファリジアレースを体感する同志でもあり、とっても大切で、大事な、大好きな人ですから。

 絶対に、絶対に死なせたりするものですか!

「——行きます!」

 そうして衝動のままに駆け出します。そこまで遠い場所にいるわけではありません。すぐに追いつきます。鉄号盾人だろうと誰だろうと、緋板さんの命を守れるのならば、わたくしも命を賭けられます。

 それでも、否定出来ない事実が一つあるのです。それがわたくしの目頭を熱くして、一筋の涙を流してしまいます。

 あの投擲は四人の、緋板さんを襲う絶望的な状況を変えられませんでした。それが、悔しくてならないのです。

 その時、わたくしの頭を優しく撫でる手がありました。その手の主は強い口調で言います。

「君はまだまだ強くなる。だから心配しなくていいさ」

 その言葉は心の底から、わたくしを安心させてくれます。同じ貴族の、とっても強い人からの言葉でしたから。

 だから涙を拭って、前を向きます。今度こそ状況を変えてみせる、と。強く心に誓いながら。

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