怪物
その扉は、わずかに力を入れただけでも大きく軋んだ。耳障りなその音は目の前に広がる、暗く静かな道にこだまするように響く。一歩、わずかに一歩進むだけでブルリと、空気の変化が肌に伝わった。寒い? いや、そこまでではない。ならば肌を撫でるこの感覚は一体何だ?
視界に広がるは、大質量の闇だった。それに抗うよう壁に一定の間隔で立てられている松明だけが、私たちに目の前の道の存在を示している。わずかに照らされた地面と空間が、ここがある程度広い場所であることをおぼろげに教えてくれている。
隙間風で揺れる松明の炎で目の前の道が歪んで見えて、これから進む道がひどく不安定に感じられる。私を背負うラダル君は小さくため息をついてから、緊張しつつも迷いを捨てたようにして突き進んだ。私は少しばかり抱いた不安を消し去るため、後ろを振り向く。そこにはいつもと変わらない集子の顔があり、その後ろからラダル君に続くようにして皆が歩みを進めている。
「どうしたんですか緋板先輩」
「……なんでもない」
落ち着いた返事をしてから、また正面を向いた。大丈夫だという安心感で心が満たされていく。そうして背後から先ほどの煩わしい軋みが聞こえてきて——、バタンと扉が閉まる。隙間風が止み、炎は落ち着きを取り戻し、道が正しく真っ直ぐに照らされている。同時に外からの光源が消え失せたせいで、光陰はよりハッキリと映し出された。光は希望を強く宿し、闇は不安と恐怖をどこまでも煽ってくる。耳にはコツ、コツ、と皆の足音と、それから切れ切れの息遣いだけが響いていた。
静寂はどこまでも続いている。私はそんな錯覚すら覚えていた。
しかし、終演への時は刻まれ続けていた。幕切れを知らせるたった一つの音は、唐突に現実を——世界を破壊せしめるのだという事実を、私は逢瀬牧との邂逅で思い知らされていたはずなのに。いや、三十年のつまらない人生の中でもそれは散々実感していたはずなのに、私はふとそれを忘れていた。
『終わり』はいつだって自らの意志とは関係なく、暴力的に現実を蹂躙していくのだ。
じゅ、と。あまりに脈絡のない濁った音が、突然背後から響いた。それが一体何の音なのかと数秒ほど考えたが、しかし分からなかった。ついぞ聞いたことのない音だったのだ。私はそれがなんとなく、大したものではないような気がしたので気にしないことにする。すると同じような音がもう一度聞こえてきた。今度はさらに近くからだと分かり、今度は探究心を膨らませて、勢いよく後ろを振り返った。
最初に目に入ったのは、鮮やかな血の海に沈みながらも微動だにしない挑御川重雅だった。あまりにも真っ赤で、衝撃的な光景に頭は簡単に機能不全を起こした。だが眼球はしっかりと機能していて、映し出される映像が次々と脳内に流れ込んでくる。ああ、次の瞬間には目の前で浩太が血飛沫をまき散らす。その光景から、先ほどの音の正体が非常にクリアな人体の切断音だと理解した瞬間。全身の皮膚が絞りちぎられたような激痛が生じる。それが身の毛のよだった感覚だと自覚したと同時に。
意志なき人形のように倒れ込む浩太の背後にそびえ立つ、《《異形》》が目に入った。
その男の身長は推定するに二メートル半ばを超えていた。しかし背が高いという印象は微塵もなく、ただただ人間なのかと疑いたくなるほど規格外の体格だった。神が設計を間違えたとしか考えられないような、巨大な人間がそこにいた。
その印象を支えるのは、男が纏っている黒いローブの上からでも判断出来る腕の太さだろう。あれはもはや大木だ。しかし巨大という表現が表すのはそれだけではない。その太すぎる腕で抱える得物もまた規格外なのだ。手に装備しているゴツい手甲で握りしめているそれは、まさにその男にしか扱えないだろう代物だった。
規格外の男の体躯すら覆える幅の広い大剣だった。しかも幅広なだけでなく、明らかに男の身長よりも長い。あんな巨大な鉄の塊、一体何百キロあるのか。そんなもので、しかも木の棒を扱うような気軽さで、浩太を切りつけたのだ。目の前の男が、私にはもはや人間状の別の生物にしか見えない。
真正の怪物。そんな単語が浮かんで消えた。逢瀬牧はいわば怪物の雛だったのだと、今ならば断言できる。それほどこの男——鉄号盾人は圧倒的であり。
絶望の象徴として君臨していた。
重雅と浩太、二人の血液で作られた血の海に立つ鉄号盾人を見た瞬間、私はこの世の理不尽さに怒りを通り越して、思わず涙が浮かんだ。わずかに抱いていた自信や闘争心など一瞬にして吹き飛んで。私は運命に対して、問わずにはいられなかった。
私がやってきたことは一体何だったのかと。集子のために、逢瀬牧との命を賭けた闘いは無価値だったのかと。綿密な作戦を立てたり先を見越して体力を温存していた重雅と浩太の行動は、全くの無意味だったのかと。私たちが勝利に向けて抱いてきた想いや意志や感情は、たった一人の男の存在だけで、こんなにもあっさりと覆される程度の物だったのかと。
いいや、違う! 私はそう断言できる。だが目の前の現実はあまりにも非情だ。正面切っての戦闘で互角という浩太の読みが、この先の展開全てを物語っている。五人がかりという条件で成り立っていたその計算は、飛車角を取られた今どうなるのか。
答えは必然、一方的な虐殺だ。
私の思考回路は危機的状況に慣れたのだろうか、状況を正しく分析していた。だからこそ心臓は凍ったように冷たい。呼吸の仕方も忘れてしまったようだ。怖い。とにかく怖いのだ。全身の肉が縮こまる。寒い。歯が無意識にガチガチと鳴る。しかし目は敵に釘づけだ。逸らしたその瞬間に殺されてしまうような強迫観念が心を鷲づかんでいる。
ああ、あの怪物と目が合ってしまった。覚えのある冷徹な瞳。そう、逢瀬牧と同質の瞳。仕事を淡々とこなす、圧倒的強者の瞳だ。あまりにも無機質なその目に見つめられた瞬間、心臓が射抜かれたように鋭く痛んだ。同時に全身の皮膚から血の気が失せていき——
ああ身体が今、意志と同調するように死へと向かっている。
どうしようもない現実を受け入れるようにして視線を武器へと移す。巨大な剣には薄暗い血がべっとりと塗りたくられていて、松明の炎で鮮やかに光った。あんなもの、人間を殺すには過剰すぎる。あれを振り下ろされた時、私は人間の形を保っていられるのだろうか。
そして審判の時は一瞬にして訪れる。鉄号盾人は、例に漏れないすさまじき速度で私の正面へと移動しながら、左手で握りしめた大剣を簡単に振り下ろした。相手に感慨すらも与えない手際の良さと躊躇のなさ。強大すぎる力を前に、諦めと恐怖に支配された身体が動けるはずもなく。目の前にそびえる鉄号盾人のある種冗談のような巨大さを、ただ見つめることしか出来なかった。
——しかし、刹那。見覚えのある背中が視界に映り込む。黒く縮れたつややかな髪。高貴な雰囲気のある装いに、美しく染まる血の色。そして——
やれやれ、もう少し頑張れると思ってたんだけど。
そんな声が耳に届いた瞬間、ギイン! と金属同士が激しくぶつかり合う音が響いた。その衝撃で、無意識のうちに沈んでいた意識を呼び起こされる。そうして眼前の光景が、圧倒的な現実感を持って私を刺し貫いた。
両の手で細剣を握りしめるフランベルジュ=ケンラルーが、鉄号盾人の大剣を受け止めていたのだ。しかしそれはかなりの無茶なのだろう、彼の腕は震えるほど力が込められているのが分かった。私は絞り出すようにしてベルに対して声を出そうとするも、要領のよい言葉が紡げない。
「あ……ベル……」
しかし私の馬鹿みたいな言葉に返すように、
「君たちは行きたまえ」
ベルはこちらも向かずにただ告げて。そうして畳み掛けるようにして言葉を続けた。
「本当なら君の行く末を見たかったんだけどね。けどそれは無理そうだ」
ギギギ、と金属同士の擦れあう音がより強く響き始めた。
「君は君のやるべきことを、果たしたまえ」
浅い息を吐きながら、歯ぎしり交じりに言葉を吐き出すベルの姿に、私の心は分かりやすくも再燃した。ベルの熱が私に強く強く伝播したのだ。体の底から湧き上がる懐かしくも強い感情。ああ、この気持ちを忘れるなんて、どこまで不躾か。数時間前、爆発に巻き込まれる前の逢瀬牧の悔しそうな表情を思い出せ。私はあの怪物を倒してここにいるのだ。お互いの全霊を賭けた闘い。死ぬ物狂いでもがいたあの時の感情を忘れるのは、敗れた逢瀬牧への侮辱に他ならない——。
だがしかし、私はそこで思考を閉じた。そう、今この瞬間の時を捻出するためにベルは命を賭けているのだ。動かなければ。今、動かなければ!
「ラダル君、行くぞ!」
私を背負うラダル君に声をかけるが、しかし動く気配がしなかった。返事はなく、ただ鉄号の姿を見つめている。そして、かなりの息切れをしていることは理解した。無理もない、本来なら真っ先に私たちを守ってくれるはずの二人がやられてしまったのだ。その上圧倒的なまでの『死』の恐怖を突きつけられたのだから、本当ならばいたわりの言葉をかけてやりたい。しかしそんな暇はないのだ。非人道的だが、こうなったら超能力で——。
と考えた瞬間に、ラダル君は大きな舌打ちをしてから口を開いた。
「分かってるっつーの! くそっ情けねえ、いちいちビビってんじゃねーよ俺! 恐怖に負けんなああああああ!」
そうしてラダル君はすぐさま踵を返して走り出した。彼のこういった、自分の弱みを素直に口に出せる性格は格好いいと思う。その上すぐさま弱みに対して立ち向かうような行動を起こせる点など、尊敬に値する。本当にこう在りたいものだ。
ラダル君が走り出してから数歩して、今度は集子の声が耳に届く。
「ベルさん、私も一緒に闘います!」
その言葉に思わずドキリとする。しかしベルは集子の提案をすぐさま否定した。
「いや君はヒイタと一緒に行きたまえ。僕は誰かと一緒よりも、一人で闘う方が強いからね。それに——」
鉄号盾人の剛剣を受けながら、ベルは乾いた笑いを含んだ声で言った。
「僕はどうせすぐに負ける。鉄号はラダルにすぐ追いつくだろうさ。だからその時こそ、君はヒイタの刃になるんだ」
ベルの声は私の心に冷たく響いた。あまりにも残酷な自己分析。先を走る私には彼の表情は見えない。けれどその声色が、彼の強い決意をありありと表しているように思えた。
「分かりました」
集子はすぐさま返事をした。それから、
「来家も分かったでしょ? 私と一緒に来て!」
と声を挙げた。来家は不服そうな声色で返事をする。
「はいはい、まあすぐに闘えるならいっか」
私たちを追う足音が二つ聞こえてくる。さすがに足が速いな、もう追いついてきたのか。このわずかな間でも、集子と状況の整理をするべきだと考えた私は一つ深呼吸をして、それから思考を回す。するとすぐに、あることに気が付いてしまう。そしてシンクロするようにして、背後から走ってくる集子がベルに向けて言った。
「すみません、カモミールさんはお願いします!」
そう、そうなのだ。カモミールは一体どうした? 先ほどまで背後を向いていたにも関わらず、私は死におびえるばかりで周りが全く見えていなかった。あの時の私はカモミールばかりか、集子や来家の姿まで見えないほど視野が狭まっていた。今、すぐ後ろに集子がいる。来家もいるだろう。だがカモミールは? 分からない。それが本当に怖い。まさか私が振り返るその前に、地に伏してしまったのだとしたら——
「カモミールさんは心配ないですよ。きっとすぐに動けるようになります。緋板先輩と同じで、初心者とは思えないくらい強い人ですから」
背後からの声掛けに、ビクッと背筋を震わせた。まるで心を読まれたような発言に私は、既に私の横で並走している集子の顔を食い入るように見てしまう。すると集子は苦笑いを浮かべて言った。
「動揺しすぎですよ先輩。背中の動きだけで何考えてたのか、すぐに分かっちゃいました」
指摘されて、私も同様に苦笑いを浮かべる。冗談のような集子の言葉だが、きっと本当にそう見えたのだろう。数秒前の私の背中はさぞ煤けていたに違いない。不安を吐き出すようにして息をついて、それからもう一度頭の中を整理した。今は余計なことは考えない。カモミールの安否は私がゴールするにあたって必要のない情報だ、と無理やりに考える。
そう、今はゴールすることだけを考えるべきなんだ——
「ま、色々考えてもしょうがないんじゃない?」
私の左側を走る集子の反対、右側を走る来家は軽い口調でさらっと述べた。
「結局はあたしと先輩が闘うんだからさ。オジサンとラダル君は、黙って守られてればいいんじゃん?」
「おいガキ、お前俺を君付けで呼ぶんじゃねえよ——」
瞬間。来家の言葉が耳に届いたその瞬間、私の心は鋸でガリガリ削られたような、どうしようもない痛みを覚えた。そして同時に思考が沈む感覚に陥る。ああ、またこの感覚だ。耳元で聞こえているはずのラダル君の文句が頭に入ってこない。思考が、意識が世界から脱落したような——。
この感覚に嵌った理由は分かっていた。私は先ほど来家が述べた言葉から、意識がグラつき正気が保てなくなりそうなほどの強烈なデジャヴを感じたのだ。だがそのデジャヴの元がハッキリと分からない。
『結局はあたしと先輩が闘うんだからさ。オジサンとラダル君は、黙って守られてればいいんじゃん?』
最初はこの城の内部に入る時に重雅や浩太が言っていた「お前を守る」という言葉の、悲惨な結果からくるデジャヴなのかと思った。集子や来家が傷ついてしまうかもしれないという、そんな思いからくる妄執なのかと思った。
『オジサンとラダル君は、黙って守られてればいいんじゃん?』
だが違う。決定的に違う。もっと根源的な、気が狂いそうになる後悔の激情だ。絶対に忘れまいと誓った激情。絶対にもうしないと誓った行動。そして、圧倒的なまでの自己嫌悪。自分自身を許せなかった、あの時の——
『守られて』
「ああそうか」
とそのデジャヴの正体に気が付いた瞬間、私の頭は驚くほど晴れやかになった。思考を覆っていた霞がきれいに消えてなくなり、心を激しく捉えていた原因を正面から見据えられるようになって。
私は自分の脳みそを掻き毟りたくなる程の憤怒で、自らを殺してしまいたい衝動に駆られた。
「緋板先輩、どうしたんですか?」
集子の声が遠く聞こえる。こんなにも愚かしい馬鹿を心配してくれる。きっと集子は、私が今抱いている怒りの根源を知ったとしても気にしないだろう。そういう人間だと、重雅に教えられるまでもなく身に染みて知っている。
だが、もう駄目だ。もう私は許せない。自分自身の愚かさを、意志の脆弱さを、絶対に許すことが出来ない。
「やっぱり先輩、おかしいですよ。どうしたんですか? ちゃんと言ってくれないと分からないですよ」
「俺もそう思うぜ。アンタは気づいてないかもしれんがな、さっきから俺の肩を持つ手にめちゃくちゃ力入ってんだよ。痛えのなんのって」
「……すまない」
自分でも驚くほどのしわがれた声で返事をしていた。それでは余計に心配させるだけだと、分かってはいてもうまく声色を変えられない。
私は、動揺していた。愕然としていた。しかしそれは冷静さを失うだとか、我を忘れるだとかの意味合いではない。明確なまでの事実が心をパックリと割いて、溢れんばかりの血を流している。
しかし私は、その理由を口に出さなければならない。これは義務だ。今から「なんでもない」とは言えない。それは心配してくれた二人への、冒涜に等しい。
だから私は自らに罪を刻み付けるようにして言った。
「——同じなんだ」




