縁が絡み合う
「そこまでだ。ったく、どっちも死ぬ気か馬鹿野郎ども」
聞き覚えのある声が耳に届く。そして私と断頭台の間に、筋肉質の大柄な男がまるでトラックのような力強さで割り込んできた。
ずうずうしくも勝負に入ってきたその男は、私を貫こうとする断頭台の拳を横から無理矢理に、まるで手すりを握るような気軽さで掴み取る。驚愕の光景に、顔を上げる二人。そうして、ああそうかと納得した。割り込み男は私が知る人間の中で最も強く、そして信頼に足る人物だったからだ。
「あ、重雅さんだ」
断頭台がポツリと一言。そう、挑御川重雅その人だった。いやそれよりも今の反応。重雅と断頭台は知り合いだったのか?
刹那の時は終わり、圧縮されたような時が解放された。私が重雅と断頭台の関係性に思考を巡らせようとため息を一つ、つこうとしたその時。
後ろから、またも聞き覚えのある女性の声が耳に入った。声の主はは遠慮するような手つきで私の背中を触る。視界にはちらりと、ブロンズ色の髪が映った。
「お怪我は……そこまで酷くないようですわね。安心しましたわ」
柔らかく優しげな声質。ブロンズの美しくつややかな髪。特徴的な口調に気品ある態度。私を心配してくれるような人間でそんな人物は、一人しかいない。
貴族の少女、カモミール=カラカリス以外にはありえない。内心驚きつつも、真っ先に疑問を口にするのは私の性質なのだろう。
「カモミール、久しぶりだな。怪我をしたと聞いていたが、もう大丈夫なのか?」
聞くと、振り返りながらニコリとほほ笑むカモミールは自らの身体——色白ながら確かな筋肉をまとった腕からくびれた腹の辺りで視線を一度止めて、そうして太ももからつま先までをゆっくり見渡してから答えてくれる。
「元々それほど大きな怪我をしたわけではないんですの。ただ少し無茶な動き方をして、酷い筋肉痛になっただけですわ」
ベルから聞いていた通りだな、と頷く。そういえばベルとは最初に離れてから一度もニアミスしなかった。まああれだけの人間がいたのだから、仕方がないと言えばそうなのだが。
「それにしても、どうして重雅と一緒にいたんだ?」
私は実は一番気になっていたことを聞いてみる。するとカモミールは少し気恥ずかしそうにしながらも答えてくれた。
「ええと、ですわね。実は私が欲しかったアイテムを挑御川さんも狙っていましたの。それでわたくしは彼に勝負を挑んだのですが、結果としては返り討ちにあってしまって……。けれど挑御川さんはわたくしにアイテムを譲ってくださいましたの。『楽しい勝負だった』と言って。わたくしとしては、それではあまりスッキリしませんでしたわ。それで何か一つ言うことを聞いて差し上げるという条件を提示しましたの」
何か一つ言うことを聞くとは、女性が男性に出す条件ではないだろう。しかし、ううむ。うらやましいという気持ちが生まれるのは仕方がない。それにしても倍以上の年の差で——
「それで俺は、一緒に踊ってくれと頼んだんだよ。見た目も好みだったからな」
「その帰りでしたの」
内心ホッとした。そう、挑御川重雅は信頼に足る人物だ。自分に言い聞かせるも、しかしうらやましいという気持ちはまだ消えない。私だって、カモミールと踊れるものなら踊りたい。もしも日本に帰れたならば、まずは社交ダンスでも習おうか。
そんなことを考えていると、重雅は断頭台と何か話しているようだ。いや、先ほど口を挟めたのが奇跡だったかのように、重雅は断頭台を叱り続けているようだ。
「まったくお前は、いつも言ってるだろうが! 戦闘を楽しむのはいいが、もっと周りを見ろ。夢中になるのはいいが、没頭するな。戦闘狂も大概にしろ。俺が止めてなきゃ、お前も風向も死んでたかもしれねえんだ」
だが断頭台はあまり気にした風もなく、
「はーい気を付けます」
と非常に軽い口調で返事をするのみだった。私は先ほどの重雅の例に倣って、二人の会話に口を出す。
「重雅と断頭台は、知り合いだったのか」
すると、重雅はピクリと私の言葉に反応する。そうして少しだけ驚いたような瞳を断頭台へと向けて言う。
「速見お前、三狂人だったのか。いやそれよりも——」
今度は私の方に、先ほど断頭台へと向けた瞳で見つめてくる。そうしてよく分からないといった表情で言ってきた。
「お前が速見を知らないのか」
どういう意味だ? と聞き返すその前に、先ほど速見と呼ばれた少女が、ズイとこちらに乗り出してくる。そうして眼帯を取り外し、血まみれのセーラー服をはためかせながら口を開いた。
「あたし速見来家、十五歳ね。重雅さん、この人ってもしかして先輩の知り合い?」
聞かれた重雅は、そうだ、と口にしてから言葉を紡ぐ。
「会社の同僚って言っていたっけか」
その言葉に得心が行った。断頭台——いや、速見来家が言う『先輩』が指し示す人物とはつまり、挑御川集子のことだったのだ。重雅の言葉を聞いた速見来家は、そうなの!? とテンション高く相槌をうってから、早口で言ってくる。
「あたしもハヤミ貿易会社で働いてるよ。まあバイトなんだけどさ。バイト疲れとか色々ででちょっとダウンしてたあたしに先輩——、集子先輩が声をかけてくれて、ファリジアレースに参加するようになったの。先輩と一緒に出るようになって、一年くらいかな」
その言葉には驚いた。世界は狭いというか、集子が狭くしているというか……。昨日聞いた重雅の話によると、確か集子には友人と呼べる人間が少ないという話だった。速見来家は、集子にとって数少ない信頼できる人間なのだろう。
というよりも、集子の口から家族以外の他人の話を詳しく話してくれたことなど二、三回あるかないかだ。その一つは、好き勝手した自分に降りかかった後悔とトラウマの話。そしてもう一つは戦闘狂の某の話だった。後者が間違いなくこの少女だ。初参加で集子に襲い掛かったという逸話にも、安易に納得できてしまう。
そういえば私の方は自己紹介をしていなかったか。おそらくこれからもこの少女とはよく出会うだろうから、きちんとやっておこう。そうしてふと正面を見ると速見来家はもうすでに私の目の前からいなくなっており、どうやらカモミールに興味を移しているようだった。落ち着きのない少女だ。
「あー、ゴホン。断頭台、一応聞いてくれ。私は風向緋板という。集子とは会社の先輩後輩の間柄だ」
簡単に言うと、速見来家はガバッと勢いよくこちらに振り向いた。
「その名前、知ってる! 確か会社では『自動仕事処理係』をやってるって聞いたけど。あれ、『宴会前仕事押し付け器』だったっけ」
どちらも酷いネーミングだ、事実だが。しかしただの処理機として扱われている私に、後者のような大仰な名前を付ける奴など一人しかいない。
「君の上司の名前は、根岸か?」
「すごいね、当たってる」
どうやら土産の量は減らさなければならないようだ。それはともかく。
「速見来家だったな。私は君のことを何と呼べばいい」
少女は私の言葉にきょとんとして、それからうーんと唸って考え始めた。そこまで考えることだろうかと思っていると、どうやら答えが出たようだ。納得したようにうんうんと頷いてから口を開いた。
「友達からはミライって呼ばれてる。集子先輩からは来家で呼び捨て。重雅さんには名字。まあ好きに呼んでよ。私はオジサンのことはオジサンって呼ぶけど」
重雅にはさん付けで、私はオジサンか。まあ見た目は少し老けてはいるが、そう呼ばれるのには抵抗がある——、いやないか。戦闘中に散々言われたせいで慣れてしまったようだ。唯一例外的に、この少女からの『オジサン』は受け入れられそうだ。
「……だったら私は、断頭台と呼ぶとしよう。言い慣れたしな」
その言葉には、さすがに露骨に嫌そうな表情を浮かべた。そういえばこの少女の負の表情を見るのは始めてだった。もっと見てみたい気もするが。
「もっと可愛いのがいいんだけどなあ。せめてダントとか」
「核弾頭というのも中々味があるな。そうしようか」
「ちょっとオジサン、可愛いのって言ってるのにさあ!」
戸惑った表情も見られたが、これ以上はやめておこうか。私はまだ呼び方に文句を言ってくる来家の言葉を聞き流しつつ、一息をついた。
すると街中に突然、落ち着いた音程のきれいな曲が流れ始めた。この五日間過ごしてきたおかげで歌詞がファリジア語であることは分かったが、意味までは分からない。いきなりだったので少々の戸惑いを隠しきれずにいると、近くにいたファリジアレース経験者の二人が小さくため息をついた。私とカモミールは訳も分からず顔を見合わせていると、重雅がそれを察してか、説明をしてくれた。
「透明の森終了の合図だ。この曲の題名が透明の森ってんだ」
なるほど、つまり私の修行時間は終了したということだ。今ふと考えると、壮絶な時間だったと実感できる。壮絶で、その上内容の濃い四時間だった。その一番の原因だろう来家は知らぬ間に私への文句を止めていた。けれどチラチラと重雅を見つつ、こちらに話しかけてくる。
「オジサン。今日の勝負の続き、いつかまたやろうよ。久しぶりにすっごく楽しかったからさあ。今度は出来るだけ殺さないようにするから、ね?」
本当に楽しかったのだろう。純粋でキラキラした瞳を私に向けて懇願する来家に、私は思わず本音を口にしてしまう。
「ああ、私も楽しかったよ。またいつかやろうな」
ポンと頭を叩きながら言ってやると、子ども扱いしたからか一瞬むっとした表情を浮かべるも、その後にニヤリと笑う来家。表情が豊かだな。
来家にそう言ってから、私はほんの少しだけ後悔した。当然も当然、私も来家もこれから成長しなければ、次の戦闘でもまた『戦闘』が『殺し合い』に発展してしまうかもしれない。それまでに私はもっと他のプログラムを組んでおかなければならないし、来家も戦闘に没頭する癖を直さなければならない。だがその時には、もっと楽しい闘いになるはずだ。その時を楽しみにしておこう。
私は体中にため込んだ疲れと緊張感を、解き放つように空を見た。すでに夕焼けから群青に移りつつある空はあまりにも綺麗で、心が洗われるような感覚を覚えた。そのままずっと見つめていたい。けれど、どこか暗い美しさからは嫌な感情がぞわぞわと心を揺らす。
ああそうか、逢魔時の色相は奴を否応なく連想させるのだ。
ドクンと心臓が低く鳴り、逢瀬牧を——『輝く夜空の翼』が頭に浮かんだ。額から小さな汗が流れてきて、下唇を濡らす。それを舐めとり、心配そうな表情を向けてくるカモミールに大丈夫だとジェスチャーして、私は深呼吸をして心を落ち着かせる。一度では足りず、二度三度。
さて、宿へと帰ろう。今日は皆で酒という気分にはなれない。シャワーを浴びてひと眠りしたいのだ。体は疲れ切っているが、それ以上に慣れない戦闘の連続で精神がすり減っているようだ。
そうして夜闇が侵食しつつある道をポツポツ歩いている私たち四人の間に、何となく帰るような雰囲気が流れ始めた時。その中の一人である重雅が突然立ち止まり、思い出したように口を開いた。
「そうだった。お前らに聞いて欲しいことがある。非常に重要なことなんでな、これから話すことはできるだけ口外しないでほしい。友人に伝えるならば電話でなく端末のメールが好ましいくらいの重要案件だ」
つられるように立ち止まってから、私とカモミールの間にハッと察したような緊張感が生まれた。その反応から察するに彼女も重雅から、ある程度のことは聞いているのだろう。突然生まれたそんな雰囲気にハテナマークを浮かべる来家は、昨日の出来事を何一つ知らなさそうだ。
重雅は真剣な表情でハッキリと述べた。
「逢瀬牧の動きと、犯罪ギルド『グロリアス・デモンズ』の目的の一部が判明した」
私たちは止まっていた足をゆっくりと進めながら、重雅の言葉に耳を傾けた。歩みが遅くなる理由は言うまでもない。私たちの意識はもう、重雅の話に向いていたのだ。
「俺は集子がやられた昨日の夜からカモミールとの約束の時間まで、ずっと逢瀬牧の動きを追っていたんだよ」
正確な説明を意識してだろうか、重雅は慎重に言葉を選んで話している。今の言葉は昨日の夜に聞いていたので、それほど重要ではない。だが昨日の事情を知らない来家は今日一番の驚いた声で、
「え。先輩負けちゃったの? 誰に?」
と遮るように言ってしまう。重雅は少々面倒くさそうな表情を浮かべながらも、非常に簡単な説明を来家に向ける。
「三狂人の一人、逢瀬牧だ。どうやら犯罪ギルドの幹部らしくてな。今からそいつの目的やら行動やらを話すから、お前は黙って聞いとけ」
来家は目を見開いて驚きをあらわにする。しかし唐突に両手の人差し指を上へ向けて、きょとんとした顔を作った。何だと思って見ていると、来家はそれを自分の口の前に持ってきてバツを作った。『私は話さないから続きをどうぞ』という意思表示だろうか。大仰なジェスチャーをする奴だ。重雅はその行動を目で諌めるも一方の来家はそのポーズのまま左右に揺れ始めた。全く反省の色を見せないのでため息を一つ。重雅は気にした風もなく口を開いた。
「それで、奴——逢瀬牧は風向が言っていたように、境界線の消失を狙っている参加者を狙って狩ってやがる。その過程で今はこの街にはいないんだが、次の街『セレン』に行ったってわけじゃねえ。アッシュに残っていた参加者がアイテム変更で境界線の消失を選んだらしくてな。奴は今そいつを狩りに行ってる。つまり往復で最速五十時間、奴はベーラとセレンには現れないってわけだ」
なるほど、そう聞かされると面倒な——というか時間のかかるルールを設定してあるものだ。確かアッシュではシーカーズが使えないので、アッシュに同じアイテムを狙う参加者がいる場合は、
『ベーラでシーカーズを使ってからアッシュに戻る』
または、
『アッシュで透明の森イベントを待つ』
のどちらかを選択するしかない。まあ現実的に考えて、アイテムを狙う多くの参加者はさっさと次の街へと向かうので、前者のケースが適用されることは案外少ないのかもしれない。
私は俯いて考えていると、言葉の続きが聞こえてこないことに違和感を覚えて顔を上げる。すると重雅やカモミールが訳ありげに私を見ていることに気が付いた。どうやら話を止めているのは私の様子を窺っていたかららしい。逢瀬牧のことで落ち込んでいるとでも思ったのだろうか。それは大きな勘違いだが、わざわざ否定の言葉を口にするのは面倒だ。視線を重雅に向けることで話の続きを催促した。重雅は静かに頷いて続きを口にする。
「……それで、『グロリアスデモンズ』の目的の話だったな。それは逢瀬牧の動きを追跡している過程で得た情報なんだが、実は中途半端にしか分かっていない」
「中途半端とは、どういうことですの?」
可愛らしく首をかしげるカモミールの言葉に、重雅は頭を掻きながら難しい顔をした。
「逢瀬牧の言葉を盗み聞いて分かったのは『三日後に三都市を巻き込んだでかい計画がある』ってことだけだ。つまりはいつ、どこでの情報だけだな。何を——、つまり計画の内容は分からねえままってわけだ。これ以上の情報を得るために、俺までアッシュに戻っちまうと肝心の逢瀬牧に見つかる可能性が高くてな。これ以上は分からずじまいだ」
悔しそうに知る重雅に対して、私は励ますように口を開く。
「だがそれでも、敵の計画がいつなのか、分かっているだけで随分違う。準備と覚悟に時間を割ける」
「まあ覚悟はともかく、何の準備をすりゃあいいか分からん以上、それほど意味のある情報とは言えねえんだがな。俺としてはお前らに、覚悟よりも警戒をしておいて欲しいんだ。何が起ころうとも対応出来るようにな」
そうして重雅は話を切って、再び立ち止まる。当然私たちも立ち止まるのだが、その理由を遅れながら察した。彼の背にはもうすでに見慣れたパブの看板があった。ネオンの光は昨日と同じように安っぽく照らされている。
「お前ら、話は終わりだ。今日はさっさと寝ろ。三日後の準備をするなら明日からにしろよ。それに逢瀬牧が二日戻ってこないってことは、これ以上の追加情報はないと思っとけ。俺もこれ以上は動けないからな。
言っておくがな、ゴールするならこの二日で何とかしろよ。逆に言えば、三日後以降は何が起きるか分からねえぞってことだ。俺は犯罪ギルドの目的阻止が含まれてはいるから下手には動けねえってだけだ。お前らはお前らの目的を見失うな。ゴール出来るんならさっさとしちまえ。くれぐれも言っとくが、特に速見! 逢瀬牧にちょっかいかけようとするなよ。事態がややこしくなるからな」
来家はいまだ口にバツ印をくっつけたままコクコクと頭を縦に振った。本当に分かっているのか怪しいものだ。それでも、おそらく来家は逢瀬牧に挑まないだろうと思った。態度とは裏腹に来家の瞳が、戦闘中と同じように真剣さを宿しているように思えたからだ。
そうして私たちは解散した。来家は、
「先輩のお見舞いしよっかなー」
と言って重雅について行った。カモミールは午前中に済ませていたようで、来家にはついて行かなかった。
そうして私とカモミールは宿屋へと帰る夜道をポツポツと歩く。まだ時刻は七時前で、人通りも多く店はライトアップできらびやかだ。赤や青や黄色の様々な光で装飾された街並みを歩くのは、貴族であるカモミールには新鮮だったらしい。疲労の溜まっている私とは対照的に、彼女の足取りは軽やかで。さすがに何も食べず宿に帰るとそのままベッドへ直行してしまいそうだったので、食欲はなかったがその辺の店でハンバーガーとドリンクをテイクアウトした。行儀などお構いなく、私たちは並んで歩きながら食べようとする。
しかしカモミールは紙に包まれたままのハンバーガーを開こうともせず、じっとそれを見つめていた。
「食べ方は分かるのか」
お嬢様でもという主語を意図的に抜いた私の言葉に、
「あら、その程度の常識は学んでいますのよ?」
とふくれっ面で抗議するカモミールは非常に癒しだ。私の見よう見まねでぎこちなく袋を開いたまではいいものの、しかし彼女はハンバーガーのパンだけをサクサクと食べ始めた。呆れる私を前にそれでも意地を張って頬張り続ける彼女は可愛らしかったが、ずっと見つめているのも趣味が悪い。
「これはすべての具材を重ねた状態で頬張るものなんだ」
手本とばかりにバーガーを食べる。そんな様子をまん丸の瞳で見つめられると、さすがに照れくさい気持ちが湧き出てきた。
そんなやり取りを何度も重ねる夜散歩は、カモミールの宿に着いたところでお開きとなった。その頃には数々の戦闘ですり減った私の精神はだいぶ回復しており、自分の単純な神経に我ながら笑いそうになった。そんな私の笑みをカモミールは良い方向に勘違いしてくれたようで、
「わたくしも楽しかったですわ」
と優しい笑顔で述べてくれる。私はこのファリジアレースで一つ学んだ。それは、やはり清楚なお嬢様とはいいものだということ。カモミールといるとそれを非常によく実感出来るのだ。
「次のファリジアレースでは、カモミールと一緒に回るのも楽しそうだ」
ポロリと思ったことが漏れてしまう。疲れだろうか。現時点で集子と一緒に回っている自分がこう言うと女タラシのようだと気が付いたのは、言ってからだった。 しかしカモミールはそういう意味だと察することはなく、
「でしたらそうしましょう。約束ですわ。ええと、こういう時には良いおまじないがあったような。確か人差し指と人差し指を——」
「そうではなく、小指と小指を結ぶんだ」
「では、こうですの?」
「いや違う。自分と自分ではなく、自分と約束をする者とで——」
「それでは、こうですのね」
カモミールは右手でゆっくりと私の左手を広げる。そして私の左小指に自分の左小指を結ばせた。
「……これで、いいんですの?」
「ああ。これで完了だ」
「指切りげんまん」まで教える積極性はなかった。カモミールの方はこれをやって表情一つ変えないとは、物を知らない故の強みだな。私は照れて顔から火が出そうだというのに。
「それではよい夜を」
知らぬ間に小指の結びを解いていたカモミールは、丁寧にお辞儀をしてそう言った。彼女が宿に入るのを見届けてから、私は心を落ち着かせるために三度深呼吸した。澄んだ空気は私の頭と心をひんやりと冷やしてくれる。多少でも覚えた邪な気持ちが、薄らいでゆく感覚に満たされる。そうして踵を返して、一人さびしく夜道を歩く。
今度は夜空を見上げても、恐怖の対象として逢瀬牧を思い出すことはなかった。それでも集子をねじ伏せた圧倒的な強さとあの煌めく翼は、今でも私の目蓋と心に焼き付いている。
ああ、そうか。どうやら私は逢瀬牧という存在に対して掛けていた、恐怖という名の色眼鏡を外すことができたのだ。
そうしてクリアな視界で思い出す。すでに二十四時間経った、地獄のようなあの光景を。そして三度決意する。何もできなかった自分すらも糧として力にすると。さすれば強くなれると。
皮肉にも、夜空に向かってそう誓った。




