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  作者: モノノケ
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二人が出会う

 私が挑御川集子について知っていることは三つある。

 一つは、彼女が三年前にこの会社に入った人間であるということ。これは間違いようもなく記憶に刻まれている。何故なら名前の割にハーフのような面表とブロンド髪、青みがかった瞳に百六十五はありそうな身長、さらには勝気な美貌を併せ持つ彼女は社内で異彩を放っている。

 それにある逸話が有名だ。

 挑御川集子の入社初日。見た目が流麗な彼女に意気揚々威風堂々と話しかけた奴がいた。そいつは私の同期内では特に英語の出来る奴として認知されていて、彼の第二か国語での勇気あるアタックは成功したかに見えた、その時だった。

 彼女はこう言ってのけた。

「ちょっと何言っているのか分からないです、すみません。できれば日本語で話しかけてもらえるとありがたいんですけど」

 その見た目で英語が通じないのはもはや詐欺だ、とその場にいた男性社員は皆思っただろう。話しかけたそいつは口をあんぐりと開けて、どこかへ歩いていく彼女を泣きそうな顔で見つめていたのが非常に印象的だった。

 二つに、挑御川集子が今年で二十一歳であるということ。つまり彼女は十八歳で我らがハヤミ貿易会社に入社したことになるのだが、それは凄まじい偉業だと言わざるを得ない。私も末席とはいえ所属するこの会社は恥ずかしながら一流企業だ。ここに入社するものは皆、無論私も含めて一流大学出身の者ばかり。それを彼女は高卒で入ってきたのだ。例えるならば日本の高校球児が翌年、いきなりメジャーのマウンドで投げるような快挙なわけで。

 三つに、挑御川集子が紛れもなく優秀であるという事実だ。これまで彼女の異質さを挙げてきたわけだが、それらを忘れてしまえるほど彼女はあっという間に会社の中に紛れてしまった。それは一流企業の歯車として、うまく機能しているということに他ならない。

 そんな挑御川が今回、ある種の問題を起こしたと言うべきなのだろうか。

 我々は彼女の優秀さに目をつむる形で秘に触れようとはしなかった。無論一般的に知られていないだけで——もちろんここで言う一般的とは会社内のことを指すわけだが、彼女の秘を知る人間は、つまりそれを知れるほどに親しい人間は社内のどこかにはいるだろう。しかし現状それが広く知られていないということは、彼女の持つ秘を、彼女自身が知られたくないと思っているからではないだろうか。

 何故高卒でありながら一流企業に入社出来たのか。

 その年にして何故そこまで優秀なのか。

 何故ハーフな見た目にも関わらず、名前が純日本人なのか。

 などと、そんなことを考えながら飲むビールはいつもより少しだけうまかった。

 午後十二時を回った頃。仕事に一区切りつけた私は、当然根岸の言う飲み会に参加する気はなかった。けれど酒は飲みたい気分だったので根岸と二人でよく来るビアバーに来ていた。よくあるシックで静かな、雰囲気の良い店だ。まるで木の香りがしそうな光沢のある茶色の空間が気に入っている。

 そこに私は無論、一人でいた。隅の席でビールをあおり、柿ピーをポリポリとつまみながらボーっとするのは非生産的だと考えたので、挑御川がどのような人間なのかを思い出していたのだ。

 彼女とは会話が三度あるかないかの薄い関係だ。けれど私は少し気になっていた。ファリジア・レースが世間でどのように思われているのか、知らぬはずはない。それなのに、何故。何故彼女はそのような世間から浮くような発言をしたのか。そればかりが気になる。

 そうしてビールに小さく口をつけ、つまみに手を伸ばした——その時だった。

 ガランと、乱暴にドアを開ける音。そうして落ち着いた音楽や雰囲気を、引き裂くような声が聞こえてきた。

「あーあ。やってられないってのよお——まったくぅ」

 抑える気のない大ボリュームの女の声。店の客たちのむっとした表情が見て取れる。迷惑そうにちらちらと、あるいははっきりガンつけるように視線を向けていく人々。当然私もそんな内の一人で、マナーもなっていない客だと目を向けてみると。

 そこにはグデングデンに酔っぱらった挑御川集子がいた。グレーのスーツに長いブロンド髪をまとめたポニーテールは特徴的なので嫌でも目に付く。

 そう、目に付いた。私はついまじまじと見てしまったのだ。その行動は、面倒ごとを避ける傾向にある一般社会人からは逸脱した行為だったわけで。さらに、彼女を睨み付けていた客たちはその存在をさっさと意識の外へと置いて酒にふけっていたのだ。おかげで私の視線は、より際立った形で彼女へと注がれる。

 普段から多様な視線を向けられる挑御川が、そんな分かりやすい注視に気付かないはずがなかった。

「ああ! そこにいるの風向せんぱいじゃないれすかあ。相変わらずつまんなそうな顔してますねえ。見て見て、あのくたびれた人、私の先輩なんれすよ。上司じゃなくて先輩、ここ重要なんでー」

 赤ら顔で陽気な挑御川女史は、ゲラゲラと笑いながら一番近くのテーブル客に絡んでいた。知り合いだとばれて、こちらにも彼女に向けられるのと同種の視線が突き刺さる。

 そんな迷惑系へべれけ女子には当然、近くにいた店員が対応する。

「お客様、すみませんが他のお客様にご迷惑をかける方の来店はご遠慮させていただきたいのですが……」

「風向せんぱあい、何とかしてくらさいよお」

 相当酔っているのか、普段の落ち着いた佇まいが微塵も見られない。酔うと性格が変わるのか、そもそもそういう性格なのか彼女とは知り合い未満の私には判断しかねる。ともかく顔見知りだと周りにばれている以上、手を貸さないわけにはいかないか。

「よし挑御川こっちに来い。すまんそこの店員、こちらに連れてきてもらってもいいか」

 店員は露骨に迷惑そうな表情をしたので、結局手伝うことにする。足元のおぼつかない様子でフラフラと客に絡む挑御川の腕をこっちに来いと引っ張ってやり、座っていた席の向かい側に無理やり座らせてから、私も元の席に腰かけた。それから静かにしろと言ってやるも、私の言葉を聞いた風もなく。随分とでかい声で発言した。

「えへへ、お久しぶりですせんぱい。ああすみません店員さん、生ビール一つ」

 まだ飲むのか。これ以上飲ませるわけにはいかないな。

「店員、水を持ってきてくれ。……それはともかく、よく私のことなど覚えていたな。最後に話したのは……いつだったか。三年前くらいか」

 入社直後に少し会話をして、それ以来挑御川とかかわる機会はなかったはずだ。だが彼女は、予想に反した言葉を紡ぐ。

「そりゃあ覚えてますってぇ。らってせんぱい、私が入社して二日目には、普通に接してくれた人れしたから」

 頭を揺らしながら楽しそうに話す挑御川。しかしその言葉には、そうだったか? と首をかしげる。確かに皆、彼女が来た当初は落ち着かない様子だった気はする。しかし私だけが違ったかと言えばそこまでの差はなかったと思う。

 どうだったかと記憶をさかのぼっていると、すぐにビールと水を持った店員がやってきた。私は手渡しでそのビールを受け取り、すぐさま口をつける。

「ああせんぱい! それ私のビールらのに」

「ん? 私のために頼んでくれたのだろう。私もお前のために頼んだ水があるから、それを飲め」

「むー」

 と異議を申す声と瞳をこちらに向けるが、さすがに口をつけたビールをひったくろうとは考えなかったらしい。大人しくジョッキをあおり、ぐびぐびと大量の水を胃に流し込む姿を見ながらじっと待つ。彼女の口からジョッキが離れるのを待ってから私は聞いた。

「それで、だ。お前今日は飲み会に行っていただろう。それはどうした」

 聞いた瞬間、しまったと思った。何故なら口の端から水をこぼしつつジョッキを机にたたき置き、苛立った瞳をこちらに向けたからだ。そうして一言、勢いに乗った言葉を述べてくる。

「そうなんれすよ、聞いてくらさいせんぱい!」

「……何だ」

「実は今日の飲み会で、ファリジア・レースに参加しませんかーって言ったんれす」

「ほう」

 私は苦笑気味に返事をする。会話が聞こえたらしい客、数人がギョッとした視線を向けてきた。しかし彼らはすぐに視線を戻してグイグイと酒をあおる。挑御川はそれらの視線に一切目を向けず、話を続けた。

「けど誰も参加してくれなかったんれすよー。それはもうすごい拒否り方で」

 当たり前だ! と私はこの女に言ってやりたくなるも、それは心に押し止める。

「みんなみんな、ファリジア・レースを分かってないんれす。犯罪だー暴力的だーってそればっかり。あれはそういうんじゃなくて、もっと、そう……」

 もう一度、ぐいと水をあおる挑御川。そうして先ほどよりも酔いの覚めた、しかし楽しげな薄ら笑みを浮かべて言った。

「命を賭けて全力で遊ぶ、最っ高の娯楽なんです」

「…………」

 ほんの少し、ドクンと心臓が鳴った。

 しかし何も面白いと思えない私には。その文章を理解できても心まで届かないような、そんな感覚が心を撫でた。しかし挑御川は、かまわず言葉をぶつけてくる。

「風向先輩は、いつもつまらなそうですよね」

「…………」

「先輩は人生を、自分のために消費してますか?」

 何の比喩かよく分からないが、人生という単語に対して反射的に答えていた。

「……私は、人生を捨てている」

「だからつまらないんですよ。人生は楽しむもので、そのためには人生を消費しなければならないんです。人生は使わなければ、他人に勝手に使われちゃうんですよ。人生は貯蓄できないんですから、使わないともったいないです。先輩の人生は会社の物じゃなくて、先輩自身の物なんですから」

 挑御川にとって、人生とは生きる時間そのものを指しているのだろうか。そういう意味で言うならば、私は今までどれだけ捨ててきたのだろうか。無為で無駄な時間を。過ぎていく己の時間を、人生を。けれどそんなことは分かりきっていたはずだ。分かった上で何もしてこなかったのだ。

 楽しいと思えるもの全てが、瞬きの間につまらなくなってしまうから。

 その気持ちを、苦しさを、おそらくこの後輩は分かっていない。

「つまらないからな、人生は」

「だったら楽しいことをしましょう」

「それがファリジア・レースだと?」

「命を賭けることがこんなにも楽しいことだって、よく分かりますよ」

 まくしたてるように挑御川は言葉を紡ぐ。命を懸ける、か。久しく耳にしていない言葉だ。楽しいという気持ちもここ五年は感じていない。


 空虚の地獄にいると、いつからか自覚していた。どうあがいても抜け出せない。何をしても空虚だけが心に残る。つまらない。そうして日常を過ごすうちに、何もかもが分からなくなる。これまで生きてきた人生の中で得た感情が、自分自身が。どうしようもなく無関心になり、全てはどうでもよくなり、乾いて崩れて消えていく。

 そして心には、これまで生きてきた二十五年のそれなりに濃密だった人生が形のない砂粒になって。

 それからずっと、心には何もない荒野だけが広がっている。

 これはきっと、一人の陰気なサラリーマンが紡ぐ特異な叙情詩ではない。


 私は小さくため息をつきながら疑問を告げる。

「なぜ命を懸けることが重要なんだ」

「そんなの皆、死ぬ物狂いで闘うからに決まってます。油断すれば死ぬかもしれない、極限の中でもがく楽しさがファリジア・レースの魅力ですから。誰だって死にたくはないです。でもそれ以上に手に入れたいものがそこにはありますから」

 手早くジョッキの水をがぶ飲んで、一息。それから少し考えるようにしながら彼女は口を開く。

「あー、つまりですね。命を担保にするからドキドキワクワクする。命を担保にしてでも手に入れたいものがそこにある。命を担保にしているからこそ必死でもがく。命を担保にしているからこそ相手はどこまでも真剣に挑んでくる。そんな相手と闘える。そういうことです」

 ……ファリジア・レースは何というか、本当に頭のおかしい人間しか参加しないのだろうか。そんな印象を抱いたが、しかしそういうことが聞きたかったわけではなかった。ニュアンスの相違。私は頷きつつも、もう少し意志の乗った言葉を口にした。

「そんなことは噂話からでも推測できる。……挑御川。私が思っているのはな、命を過大評価しすぎているように感じる点だ」

 はい? と首をかしげる挑御川は、行動をそのまま口に出す。

「命って人間の一番大事なものじゃないですか。たとえ他にも大事なものがあったとしても、それらも結局は命がないと成立しないことばかりだと思いますし」

 そういうところだ。私は淡々と言う。

「どうもピンと来ないんだ。命を懸けるという事柄が、概念が、ファリジア・レースではとんでもない価値があるように聞こえる」

「ちょっと話が噛み合いませんね。命はファリジア・レースの場だろうと日本だろうと変わらず大事なものですよね。皆が一番に思っているそれを、けれど賭けられる場所や出来事は今日日少ない。だからこそ、あれには魅力があるんです。レース、闘い……つまり娯楽に対して正真正銘本物の命を賭けるというハイリスクな行為は人間を狂ったように高揚させます。

 だから先輩。命を賭ける行為に価値がある、と言うよりもですね。ファリジア・レースは命を賭けているような状況でなければ到底行えないようなルールとギミック、そして商品が盛り込まれているレースということなんですよ」

 違う。また挑御川は的外れな説明をしている。ピンと来ないのは命を懸けるという行為でもなければ、その魅力でもない。彼女の説明その全てを私は理解できている。

 ただ一点だけが釈然としない。いくら言っても伝わらないことにイラつきすら覚える。語気を荒げていることを自覚しながらもそれを自重せず、私は告げた。

「そうじゃない——なんでそんなに命や死が重いんだ。命は、生きていることはそんなにも大切か? 死はそんなにも一生懸命避けるようなものか?」

 そこが一番の疑問だった。我ながらうまく感情を言葉にできている。より気持ちを伝えるために、妙に苦い顔を浮かべ始めた挑御川の目を見つめながら言った。

「私は、自分が生きたいのか死にたいのかも分からない。生きることがどうしようもなく苦しい。だが死ぬことはおそらくもっと苦しい。だから生きていたくないし、死にたくもない。少なくとも今、私にとっての人生とはそういうものだ。だから捨てている。それが一番苦しくないからだ」

 駄目だ。言葉が足りない。すうっと息を吸い、続ける。

「自分の命が重くない。命は私に苦しみを与え続けるからだ。言い換えよう。私は自分が生きていることが嫌で、自分が死ぬことも嫌で、だから自分の命に価値を置いていない。教えてくれ挑御川。そんな人間がファリジア・レースに参加したところでどうなるというんだ。大切でもない命を懸けたところで高揚もしない。必死にもなれないだろう。命を懸けるという行為に対して、当然魅力など覚えない」

 久しぶりだった。誰かに胸の内をさらけ出すのは。しかし心地よさは不思議と感じない。むしろ口からあふれる言葉は自身を傷つけていく。痛い。唇がズタズタに裂けて血が噴き出しているみたいに。それでも止まれないのは何故だろう。

 心の片隅に湧く疑念をねじ伏せるようにして、続けようとした——瞬間。さえぎるような、挑御川の声が響いた。

「先輩は、命を何だと思ってるんですか……!」

 睨み付けるような、不快さを前面に出した表情と視線を向けて。彼女の声色は泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。

 しかしその問いに答えるべく私から紡がれた声色は、平坦だった。

「日本だけで一億二千万、全世界に七十億ある。一秒で二つ無くなって五つ増える。私たちがこうして酒を飲んでいる間にも勝手に増え続けている。人間の命なんてそんなもんだ。

 そんなものに、自動車よりもわんさかあるようなものに価値を置くのは何故だと思う? そうしなければ、自分という意識にすら価値が置けないからだ。生やら命やら人生やらに、本来ない価値を定めるためだけに『大切だ』と、そういうことにしているんだ。

 ……無意識に考えないようにしているだけで気が付いているはずだ。価値があると言い続けないと、教え続けないとすぐ有象無象に埋もれてしまう程度の代物が、『命』本来の価値だと——」

 鋭い言葉が場を裂いた。

「話にならないです。先輩は自分の命の価値が低いって決めつけてるから、どう理屈をこねても命がくだらないものにしかならないんですよ。……それに気が付いてないかもしれませんが、先輩のその考え方は重症です。壊れてます。何が『気が付いているはずだ』ですか。命、人生、生きること、それに自分自身。全部に価値がないなんて言えるのは、先輩がその全部に期待しないからです。希望を、持ってないからです。私はその全てに期待も希望も——」

 言葉が胸にあふれてくる。何もないはずの心の荒野に、言葉が生まれていく。

「期待しても無駄だった。希望には幾度も裏切られてきた。お前が否定する私の考えは、三十年ぽっちで突きつけられた現実であり、戒めでもあり、もう真実に成り果てた代物だ。

 この世に生きている人間は皆、このつまらない世界で必死にもがきながら戦っている。命や人生や生きることに、本来ない価値を付加するため。つまり、楽しさを掴むために。分かっているんだそんなことは。

 だがもう私は諦めた。どこにもなかった。人生はつまらない。私という人間に価値はなく、命にも価値がなくて、死んでいても生きていても——」

 同じだ、と。心の荒野から生まれる言葉、その全てを吐き出そうとしたその瞬間。

 あまりにも必死で切実な、挑御川の怒号に襲われた。

「でも先輩は、ファリジア・レースを知らないじゃないですか!」

 これだ——また私は十も年の離れた後輩から放たれた言葉で心臓が鳴る。ドクン、ドクンと血が通う。分からない。その理由が。彼女の言葉に込められた、感情の根源が。

「『どこにもない』なら一緒に行きましょう。先輩の行けないところへ。行ったことのない未知の場所へ。私が連れて行って、見せてあげます。だから——」

 挑御川は大きく息を吸って、心まで射抜く強い視線を向けて、それから絞り出したように言い放った。

「ファリジア・レースに参加しましょう、先輩」

 決意の刻まれた、しかし震えた声。ああそうか、と気が付いた。挑御川は私に挑んでいるのだ。三十路の男が溜め込んだ、ヘドロのような言葉を受け止めて、それでも立ち向かおうとしている。気持ちが悪いはずだ。怖くて仕方がないのかもしれない。彼女の気丈さにかまけて、その心を察しようともしなかった自身の愚かさには吐き気を催す。

 そうだ、私は何も知らない。挑御川集子を。その心中を。何故彼女が窓際族、風向緋板のためにここまで食い下がるのか。

 分かっていることは一つだけ。彼女は暴力のような言葉を受けてなお、私を救おうとしてくれているのだ。

 ふと湧いた疑問を、聞かずにはいられなかった。

「……一つ、聞かせてくれないか。お前にとって、ファリジア・レースとは何だ」

 突然の質問に驚いたのか、彼女は少し目を見開いた。それからは表情を変えることなく目をつむり、ジョッキから手を放して、両手を膝の上に置き、数秒。その隙のない落ち着いた佇まいは、不思議と洗練された武士を連想させる。

 そして目を開くと、非常に落ち着いた声色で口を開いた。

「私にとってのファリジア・レースは……生まれた場所で、育った場所。そうですね、親、みたいなものかもしれません。私を私とする要素、そのほとんどはファリジア・レースから教えてもらったんです。生き方も、命の大切さも、孤独を埋める方法も、自分を大切だと思う気持ちも——あ、いえ。すみません、別に当てつけのつもりはなくてですね、その……」

 気まずそうに視線を逸らすも、しかし気にならなかった。そういう意味ではなく彼女の心の言葉なのだと、そう素直に思えた。あまりにも自然に漏れた言葉。先ほどまでの私と同じように。気持ちはよく分かった。

 そして彼女の、涙で湿った言葉が続く。

「……先輩の気持ちとか考えは、はっきり言って全然分かりません。でも先輩が心の底から、先ほどの考えを信じていることだけはとても伝わってきて……」

 その言葉を聞いた瞬間、心がまさしく射抜かれた。同時に、ごちゃごちゃした頭の中がスッと晴れやかになるような感覚が駆け抜けた。そう、それは答えだ。抱いていた疑念——挑御川集子の言葉に心臓が鳴る理由。

 挑御川の言葉が私と同じように心から漏れたものならば。つまり彼女が語る考えや思いは二十一年で彼女自身が突きつけられた現実であり、戒めでもあり、真実だ。風向緋板のものとは違うというだけの、まぎれもない世界の真実。

 見えた気がした。彼女の背中のその先に、私の真実を、三十年を否定する景色が。

 だから心が揺れた。心臓が鳴った。そして心底知りたくなった。彼女にこの真実を語らせるファリジア・レースという場所がどのような世界なのか。同時に散々言っていた、『命を懸ける』という言葉の本当の意味についても。


 だったら、もう、こう言うしかない。

「……生きていても死んでいても同じならば、未知に挑んでみるのもいいか」

 ふと漏れた言葉に、挑御川は固定された机が外れかねないような勢いで反応し、立ち上がった。

「ほっほんとですか先輩!」

 その表情は驚きよりも笑顔が強く、頬が緩んで落ちそうなほどだ。先ほどまでの泣き顔はどこへ行ってしまったのか。

 私は思いをしっかり固めるつもりで、決意を紡ぐ。

「言ったからには本気だ。それよりもお前、あそこまで言ったんだ。このつまらない人生に夢を見せてくれ。期待してもいいのだろう?」

 それはもう、と彼女は社内では見ないような自然な笑顔を浮かべて言った。

「命を賭けることがこんなにも楽しいんだって、先輩に教えてあげますよ」

 その笑みは、その言葉は、何故かとてつもなく魅力的に思えた。久しぶりに自らの感情が、胸の真ん中から熱く湧き上がるような感覚にたまらなくなって。

 手元にある泡の消えかけたビールを見つめ、それを担ぎ飲む。ほとんど満タンだったそれを半分ほど一気に流し込んで——それからジョッキを口から離し、アルコール臭いため息をドッと吐き出した。一気に回る酩酊感の中で、確かに告げる。

「せいぜい楽しませてもらおう」

 その時私は、おそらく笑ってそう告げた。そうして挑御川はさらに輝いた笑顔を向けて言う。

「いいですよ。全力で楽しんでもらいますから。ですが一つだけ、訂正させてもらいますけどね」

 表情をコロリと、真面目なそれに変えた。しかし目だけは、どこかを見つめるように遠い。

「あそこは夢の場所でも、ましてや異世界でもなく——私たちが生きる世界の遥かな延長線にある『現実』です。それがファリジア・レースという巨大興業だということを、肝に銘じておいてください」

 それは紛れもなく、知っている者の表情だと思った。

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