現実を知り、その先へ
木々のざわめきが、今の私にはただの雑音にしか聞こえない。吹き抜ける強い風が、あまりにも冷たく感じる。干渉してくるもの全てが、私を責めているような気さえした。
何も、出来なかった。他人のために生まれて初めて怒りを覚え、生まれて初めて『他人のために』という強い情動を抱いて行動を起こした。
だがそんなものは。私の意志は、逢瀬牧という怪物によってあっけなく打ち砕かれてしまった。
不意に、気持ちが悪いほどの喪失感と吐き気を覚える。体を汚さないように必死で体を持ち上げて、四つん這いなると堪えることができずに嘔吐してしまった。滝のように、あのパブで飲み食いした全てが流れていく。あの時の楽しかった時間も、全部流れていくような気がした。
吐き終わった私の目の前に広がる吐しゃ物を見て、まるで夢から覚めたような虚無感だけが浮かんだ。楽しかった記憶全てが幻だったような気すらしてくる。空っぽになった胃が強烈な喪失感によって再びキュウッと痛んで、あふれてくる温かい涙を止めることが出来なかった。
しかし私は、駄目だ、と自制した。流れ続ける涙をグイと拭き、痛みをこらえて立ち上がる。こんなところでグズグズしている場合ではないのだ。今この瞬間にも集子の命は失われようとしている。今最も苦しくつらいのは集子なのだから、私が一緒にいてやらなければ——。彼女の心と体を、癒してやれるのは私しかいない。傲慢かもしれないが、そう思い込むことで心の均衡を保とうとする。
ふらつく足どりで倒れる集子の元へと歩みを進めた。途中に彼女の端末や銃が落ちていたが、それらを無視する。全てを抱えて、その上彼女を抱えることなど出来るわけがない。今何よりも大切なのは命だ。余計な体力を使うわけにはいかない。
そうして集子の元へとたどり着く。彼女はあおむけで倒れていて、血の溢れる腹を両手で押さえつつ虚ろな瞳を空に向けていた。その表情は、笑顔にあふれていた面影など微塵も残されていない。苦い気持ちを噛みしめる。一帯には濃い血の臭いが充満していて、彼女の深刻さを如実に表していた。急がなければ。
私は気を使うことなく、集子に言ってやる。
「病院へ行くぞ。抱えるから、多少痛くても我慢してくれ」
そうして体に触れた瞬間、瞳がついとこちらを向いた。わずかながら生気も宿っていて、正気は保っているようだ。ほんの少しだけほっとするも、すぐに気を引き締める。すると彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「先……輩?」
集子の言葉はあまりにも弱弱しい。
「ああそうだ。今から抱えるからじっとしていてくれ。しかし申し訳ないのだが病院の場所を知らない。知っていたら教えてくれないか」
集子はこの問いかけを無視した言葉を口にする。
「先輩に……抱っこして、もらうの、嬉しいな……」
「おい、聞こえているか?」
焦る声に、集子はゆっくりとした口調で返事をした。
「ここから病院は……少し遠いです。だから……お父さんのいる酒場へ行って……下さい。あそこなら……応急手当てできる人が……います、から」
分かった、と短く返事をすると、私は出来る限り優しく集子を抱え上げて、歩き出した。走ることはとても出来そうもないし、つまずく可能性もある。そもそも彼女を抱えた状態で走って、体力が持つか分からない。私が力尽きてしまっては元も子もないのだ。それでもある程度の速度を維持して、例のパブへと向かおう。
集子の弱弱しい吐息に恐れを抱きつつ、必死に歩みを進める。
「気をしっかり持てよ。大丈夫だ、絶対に助かるからな」
公園からパブへは、歩いて十分ほどの距離だ。だが早歩きしているため、実際はもっと早いはずだ。
それまでの間、私は集子に励ましの言葉をかけ続けていた。大丈夫だ、助かる、心配いらない。そんな自分でも分かっていないようなことを、安っぽい言葉を、かけ続けることしかできない。そんな自分に嫌気が刺すも、彼女は私の言葉を本当にうれしそうに聞いてくれる。
「心配……しすぎですよ。むしろ、ずっと緋板先輩に……抱きしめてもらえて、幸せです、から」
妙に感傷的になっているようだ、無理もない。逢瀬牧に敗れて、あれほど強く望んでいた『境界線の消失』を得られなくなったのだから。そうしておそらく亡くなっているだろう、母親と話す機会を永遠に失うことになったのだから。
パブまでの道のりが、半分ほど過ぎた頃。それまで軽口で私を安心させようとしていた集子は、聞いた覚えのない異質な声色で言葉を紡いた。
「……寂しかったんです」
ただでさえ密着している身体を、さらに寄り添うように、抱きしめるように近づける。集子のほのかな女の香りが、血の臭いに混じって鼻に抜ける。応えるように、先ほどよりも少しだけ強く肩を抱いてやった。
「突然、どうしたんだ」
集子はほんのりと笑顔を浮かべてから、表情を押さえて目を伏せる。そして小さく息を吸ってから、話し始めた。
「緋板先輩、お父さんと……話してましたよね。私の、出生について」
素直に驚いた。しかし「聞いていたのか」という言葉を口にはしない。ただ一言、肯定の首肯をして先の言葉を促した。
「それで……最後に。先輩が聞いた……、私が、会社に入った理由……」
「その理由が、寂しかったからなのか? だが、寂しいならばよりファリジアレースに熱を入れると思うのだが」
すると集子は、弱弱しいながらも腹の底から絞り出すような、重みのある口調で話した。
「お母さんが、死んでしまって……」
頭の中にあった挑御川集子の事柄全てが、ピッタリと繋がった気がした。
「その原因が、ファリジアレースだったんです……。それで私は、怖く……なってしまって……。それでも仲間が、欲しかったから……。お父さんのコネを、使って……入社したんです」
言葉がいよいよ掠れるようになっていく。しかし反比例するように声に込められた意志は重く深く、強いものになっていき——、彼女の身体を抱く力も不思議と強まっていった。
集子は話を続ける。
「命を賭けずに……次々と迫る、仕事をこなすのは、それなりに楽しかったです。……けど、入社して一年経って、気が付いたんです。私が求めていたのは……命を賭けて、擦り切れるような緊張感の中で……全力で闘う、ファリジアレースだったんだって。
あの世界で、得られた仲間こそが……、最高の……」
突然、苦しそうに咳き込む。同時に傷口を刺激してしまったのだろう、苦痛で顔を歪ませ脂汗を滴らせている。息も切れ切れで、瞳はどこも見ていないように虚ろになっていた。
「集子、大丈夫だ。もうすぐ着く。だからもう話さなくていい。少しでも体力を温存していてくれ」
するとこれまでで最も力のない笑みを浮かべると、私の胸に顔をうずめるようにして、それでも確かに聞こえる声で言った。
「先輩には……知っていて、欲しかったんです。もし死んでしまったら……私のこと、忘れてしまうかも……しれないって。忘れられるのは……とっても寂しいですから」
「忘れないさ。絶対に忘れない。集子と出会って、私は本当に楽しかった。心の底から笑えたのはお前のおかげなんだ。ファリジアレースを通じて、レースに懸ける人の思いの強さも、お前自身の思いも確かに心に刻んだ。絶対に忘れない。絶対に、忘れるものか……」
言ってから、その言葉は死者への手向けのようであることに気が付く。慌てて、取り繕うように言ってやった。
「これから二人で、もっと楽しいことが出来るさ。集子はこの程度では死なない。そうだろう?」
しかし返事は、聞こえてこない。私の身体を掴む力も、いつの間にか失われている。
心が凍ったような気がした。
「おい集子。返事をしてくれよ! お願いだから! お願いだから……、私を、置いていかないでくれ。
お前がいないのは……あまりにも寂しい」
涙が、とめどなく溢れてきた。いくら力強く抱きしめてやっても、これまで返してくれていた反応が返ってこない。まるで意志なき人形を運んでいるような嫌な錯覚すら覚えてしまう。
強く強く、集子を抱きしめていた。寂しくないようにと、集子に気を使っていたはずのその行為が、いつの間にか自分のための行為へと変わっている。
ダランと私の手からこぼれた集子の腕を伝って、地面に血が流れていた。
その瞬間に泣きながら駆けだした。必死で、全力で、集子の命を繋ぎ留めるためだけに。すぐにやってきた疲労を、ねじ伏せて私は走った。
無我夢中で駆けていく。時間の感覚が失われ、どれだけ走ったのかすらも把握できないでいた。しかし不意に、抱きしめる身体から小さな振動を感じた——
その瞬間、意識していなかった目の前から、声がした。
「……嫌な予感は、当たっちまったか」
正面からの突然の声にハッと顔を上げた。そこには苦い顔で私たちを見つめる集子の父、挑御川重雅がいた。
私はパニックと少しの安心感が入り混じった状態で口を開こうとするも、彼はそれを制して言った。
「今はいい。とにかく重要なのは、集子の命を繋ぐことだ。
おいお前ら、ありったけの手当道具を持って来い! それとマスター、二階にコイツを寝かせてもらうぜ」
いつの間にか、あのパブの前へとたどり着いていたようだ。どういうわけか重雅は店の前で待っていたらしく、今は集子を助けるための指示を手際よく飛ばしている。私の腕に抱えられた集子を受け取ると重雅は、
「よく連れて帰ってくれたな。話は後で聞かせてくれたらいいから、今は風向も休め。コイツがこの状態じゃあお前の怪我の手当ては後回しになるからよ」
と言ってから急いで二階へと駆け上がった。それに続くように大量の荷物——おそらくは怪我を治すための道具を持った人々が、二階へと上がっていく。
私は呆然とするだけで、何もすることが出来なかった。集子の温もりと血の臭いだけがいつまでも、いつまでも纏わりついている気がした。
「それで、集子を倒したのはどこのどいつだ」
パブにたどり着いてから、すでに三時間が過ぎていた。集子は何とか一命は取り留めたらしいが、しかし絶対安静の状態が続いている。怪我自体は大したことはないが、血を失いすぎたせいで気を失ったらしい。彼女の血は珍しい型だったらしく、輸血の心配をしていた私だったが、どうやらファリジア王国には血液増幅剤という劇薬があるので必要ないらしい。たった数滴で心臓の働きを促進するので高い効力があるが、用法容量を守らなければ寿命を削るような代物だという。本来あまり使うべき薬ではないが、今回は特別な事例だったようだ。
私は空いた時間に宿へと戻ってシャワーを浴びて、血まみれの服を着替えてからもう一度戻ってきた。
そうして一階のパブで重雅に質問を受けている。行われていた酒盛りは当然終わっていて、重雅の仲間たちも集子の看病をする者、自分の宿で休んでこれからのレースに備える者という風に、それぞれがそれぞれに過ごしていた。
私は重雅の質問に、嫌な記憶を掘り起こしながら答えた。
「逢瀬牧だ。三狂人の一人で、闘技場で三十人抜きしたという。その上、奴は犯罪ギルドのメンバーだった。確か『グロリアス・デモンズ』とか言ったか」
重雅は苦い表情を浮かべ、舌打ちをしてから言った。
「グロリアス・デモンズとは、随分な大物ギルドの名が出やがったな」
「集子も言っていたな。それほどなのか」
「ああそうだな。俺は何度もやり合ったことがあるが、武闘派ぞろいで面倒な相手だった」
面倒といえば。私は思い出したことを口にする。
「逢瀬牧が言っていたんだが、このレースにおいて『挑御川重雅が参加していることが一番のイレギュラー』らしいのだが」
「そりゃああれだ、古参のメンバーに俺とやり合った奴がいるのさ。俺と桜菜の二人でデモンズと敵対したのが二十年以上前でな。数人、長く俺と敵をやってる奴がいる。待てよ、そういや悪趣味な『仮面』連中とやりあった大物ギルドの頭領が死んだって噂が流れていたな。なるほど話が読めてきたぜ」
重雅の話す内容はよく分からなかったが、理屈としては理解できた。
「つまり、その死んだという頭領がグロリアスデモンズの頭領だった。その頭領に話があるギルドの連中が、『境界線の消失』を狙ってきたわけか」
私の言葉に重雅は、唸りを上げて応えてくれる。
「話が早くて助かる。そうだ、集子を狙ったのも境界線の消失を狙ってのことだろう。
しかし、これからどうしたもんかな」
そういえば重雅に、逢瀬牧が境界線の消失を狙っていたことは言っていなかった。それでも推察出来てしまうのだから、彼の推察能力の高さが窺えるというものだ。
だがそんな重雅は、これからの行動について迷っている。こういう時のパターンとして、彼がとりそうな行動はいくつか思い当たる。だがそれを口にしない。その理由を、私は察せないでいた。
「重雅は何を悩んでいるんだ?」
そう言うとこちらにチラリと視線を向けてくる。そうしてうーんと唸ると、彼は照れ隠しのような苦笑いを浮かべて言った。
「これからの俺の行動さ。正義ギルドの俺は『グロリアス・デモンズに所属している逢瀬牧の目的を止める』ことが第一目標なわけだ。そいつは俺を恐れているらしいから、『俺自身が境界線の消失を目的のアイテムに変更して、逢瀬牧と決闘する』のが一番いい方法だってのは分かるよな」
私は頷く。
「だがな、今、それが無理な状況なんだよ。外堀から理由を埋めていくが、集子の性格を考えるとな、親の俺がアイツの目的のアイテムを代わりに取るなんてことをすると——、間違いなく怒る」
なるほど、と内心納得した。集子の重雅に対する態度を見ていると、親の干渉を極力受けたくない彼女がどのような行動を取るのか何となく察しが付く。
「まあこっちは大したことのない方の理由でな。問題はこれから言う方だ。
昨日の——、風向と集子が来る前日のことだ。俺は誰かにしつこく付け回されていてな。どこからともなく槍が飛んで来たりナイフが飛んで来たり、それはもう落ち着かない時間だった。そいつの不意打ちを全て避け続けていたら、いよいよ本人が現れてな。俺は驚いたさ。下手すりゃ俺を殺していたそいつは、見た目も可愛らしい貴族のお嬢ちゃんだったからだ。
見た目もタイプだったから、遊んでやろうと決闘してみたんだが——、危うく殺されかけた。油断大敵だな。まさか巨大なトマホークを寸分狂わず首に投げ込めるなんて、想像もしていなかったぜ。見た目に騙されちまった。
それで、だ。舐めて戦闘したお詫びとして、俺は『目的のアイテムを変更してやった』んだよ。
ここで話は戻るわけだが、言いたいことは分かっているよな。俺が集子の代わりをすることは、ルールで縛られちまっていて無理なんだ。つまり、俺自身が境界線の消失を手に入れることは出来ない」
一度アイテムを変更した参加者は、そのレース中のアイテム変更は不可。これは例外のないルールだったはず。重雅は続けて言った。
「そうなると、どうなるか。逢瀬牧は、俺と決闘する理由も、必然性もなくなるんだよ。もしもこっちが目的のアイテムを境界線の消失に変えられたなら、奴はほぼ必ず俺と闘うことになった。だがそうじゃない今、奴は逃げの一手を選ぶことが出来る。ガチンコする必要が、俺にはあっても奴にはないんだ。
さらに今回のレースは小規模だからな。俺の所属する正義ギルドの腕利きは俺ともう一人しかいない。酒場に集まっていた連中に頼んでもいいんだが、逢瀬牧との戦闘をメリットもなしに引き受けるような物好きがいるかどうか。そもそも連中にも狙ってるアイテムがあるわけだから——」
つまり逢瀬牧を止めることは、重雅やその知り合いには難しいのだ。
それはそうと、あの逢瀬牧がとことん厄介に思う重雅を、油断していたとはいえ殺しかけた存在がいることに私は驚かされた。話を聞くに三狂人の『断頭台』のような気がするが、確か姿に関する情報はなかったはずだ。貴族の少女らしい人物には、用心するとしよう。
それで話は戻るわけで。重雅が集子の敵討ちを出来ない理由は理解した。ならば彼はこれからどうするのか。しかし考えるまでもなく、もう答えを出しているようだった。
「風向に説明したおかげで、状況がより明確になったな。俺が集子のために出来ることがないとすれば、やるべきは敵の目的の阻止ってことだ。だったら逢瀬牧の行動でも、逐一確認するか。こっちが把握していないギルドメンバーが他にもいるかもしれねえしな。
それで風向、お前はこれからどうするんだよ」
そう、問題はそこだ。私はこれまでずっと一緒に行動してきた挑御川集子、一時的に失った。それが意味するのは、これからの行動指針を全て私自身で決めなければならないということだ。ファリジアレース初心者の私が、だ。
それでも今は、三日前とは大きく違う。どのように行動するのが効率が良いのかも、道草の仕方も分かっている。どうやら集子が目を覚ますのは逢瀬牧の言った通り、大体三日後くらいが目安らしい。その間パソコンを手に入れるためにシーカーズを用いて、敵の場所をあぶりだして闘ってもいい。または闘技場で儲けたメラを使いこのレースを全力で楽しむということも出来るわけだ。
しかし私は、すでに決めていることがあった。いや、そうせざるを得ないという表現が適切なのかもしれない。数時間前の苦々しき記憶。絶望的なまでの無力の記憶が、遊びを許そうとしないのだ。
そうして強い決意を胸に秘めて言った。
「重雅に紹介してほしい人間がいる。まずは医者だ。それから一番重要なのは——、知り合いの超能力者全員だ。頼めるか」
大きく目を見開いた重雅。そうしておそらく、私のやろうとしていることを把握した上だろう言葉を口にする。
「別にかまわないが、それは、お前」
「私は」
感情的な言葉を吐き出してしまいそうだったので、一度言葉を切ってため息をつく。そうして自分の心を整理してから口を開いた。
「私はファリジアレースに参加して、それから多くの人間に出会った。出会って出会って、出会い続けてようやく気が付いたんだ。彼らは皆、どのような形であれ『強さ』を持っていることにな。体ではない。能力でもない。気持ち、心構え、考え方、そういった言わば『環境によって磨かれた心の強さ』とでも表現すればいいのだろうな。その表現の仕方があっているのかは分からないが、確かに言えることはある。私が、その強さを持っていないということだ。
レースに参加してから、ずっと思っていた。そういう強さを持った人々は歴史上の英雄たちと変わらない、いやそれ以上に優秀で素晴らしい人間たちだ。そんな人々の中に、私はいてもいいのだろうか、と。
尊敬する人間たちの中で何もせずのうのうと紛れること、これはとてつもなく重い罪だ。何故なら、紛れているだけでその凡人は何かをしたような、出来るような気になって勘違いをしてしまう。だがそれだけならまだいい。自業自得、分不相応、それはつまり、その凡人が勝手に傷つくだけなのだから。
最大の罪はその凡人がいるだけで、尊敬する人間の足を引っ張ってしまうという否定できない事実だ。私はそれがもう、我慢ならない。集子と一緒にいるためには凡人のままではいられない。一緒にいてやるには、私が変わるしかないんだ」
一度言葉を切って、思い出す。数時間前の情けなさを。己の無力に涙を流したことを。集子を失いかけた時に覚えた、心が剥がれ落ちるような強烈な喪失感を。
目蓋に焼き付いた映像を、再び心に焼き付けてから言った。
「もう自分が弱いことに我慢出来ないんだよ。強くなることに躊躇なんて、していられないんだ」
そんな決意に、しかし重雅は鼻を鳴らした。
「……ふん、まあ強くなることは一向に構わんさ。個人的には好かんがな。ファリジアレースは命を賭けて挑むものだが、所詮は娯楽だぜ。俺が何で正義ギルドをやっているか教えてやろうか。
俺は二つのものを欲しているから、正義ギルドをやっている。それは『目的のアイテム』と、『焼けつくような緊張感のある戦闘』だな。……回りくどくなっちまったな。言いたいのはな風向、お前は真剣すぎるんだよ。集子もそうだ。『大切な人の隣にいるために』だとか『かけがえのない存在を作るため』ってのは、ファリジアレース的には邪道なんだ。そういうのは本来の目的である『楽しむこと』が疎かになっちまう。現に集子はファリジアレースを楽しめない時期があったからな」
そう強い口調で言い放って、それから重雅は苦笑いを浮かべた。そして頭の裏をボリボリと掻きながら、呆れたように口を開いた。
「まああれだ。俺はお前の心配をしてるんだよ、風向。お前が集子を大事に思ってくれているのは親としてもうれしいんだが、あまり気にするな。レースにおいて怪我、それも重傷ってのは思っているほど重大じゃない。よくあることなんだよ、あんなのはな。
だから俺としては風向に、ファリジア・レースを楽しんで欲しいんだよ」
重雅の言葉は酷く真剣で、そのうえ心にのしかかるような現実味があった。きっと彼の言葉は正しいのだろう。この言葉の重みは、そのまま彼のファリジア・レース経験の積み重ねによるものだ。一介の初心者である私が安易に否定出来るものではない。
そもそも重雅は私を心配した末の言葉だ。感謝するべきなのは、分かっている。
それでも重雅の言葉をたやすく肯定するわけにはいかない。『無力の記憶』が、強迫観念としてどこまでも私を追ってくる。それはさながら迫り来る火のように。背中を焦がしても、まだ足りない。私には強さが必要なのだ。後悔や強迫、絶望という名の火にも決して負けない強さが。そして、これから迫り来るだろう敵に立ち向かい、ねじ伏せるだけの力が。
そうしなければもう、集子たちと対等でいられないから。
そんな思いをぶつけるつもりで口を開いた、瞬間だった。
重雅はなぜか乾いたような笑い声を上げたのだ。私には彼が何に対して笑ったのか見当もつかない。笑うような場面ではなかったと思うのだが。積もり積もった決意の気持ちが、タイミングを外されて方向性を失ってしまったわけで。だから少々、むっとした声で何かを言ったとしても許されるはずだ。
「急になんなんだ、わざとらしい笑い声だったが」
「分かるか、わざとだ」
久しぶりに年上に対して苛立った感情を持った気がする。重雅はほとんど悪びれた様子もなく言葉を紡いだ。
「いや、俺が言いたいことを言い終えるまでにお前が何か言いたげだったからな。悪いが遮らせてもらった。ったく、人の話は最後まで聞けよ。
まあいい。話の続きなんだが、さっきまでの言葉は紛れもない俺の意見なわけだ。俺はファリジアレースは楽しむこと以外は不純だと思っている。だがそれは所詮個人の意見であって、俺の経験したファリジア・レースの光景と必ずしも合致しているわけじゃねえ。
つまり強くなること否定したわけじゃねえってことだ。本当ならレースを楽しむ過程で徐々に強さを得る方がいいってことを言いたかったんだよ。その方がスタンダードだし、危険も少ないからな」
ここで言葉を区切った重雅は、なぜか彫りの深い笑みを浮かべた。いや、人の悪い笑みと表現するのが適切か。ともかく妙に楽しそうな笑みを浮かべた彼は少しだけ間を取って、それから再び口を開いた。
「だがさっきも言ったが、それは所詮個人の意見であって俺の経験してきたファリジア・レースの光景じゃない。それでだ風向。経験上、断言できる真理が一つある。
『この世全ての事象は強さの理由になりうる』ってことだ。強くなるためには例外なく努力が必要なわけだが、努力のモチベーションがちゃんと自分の心に発生するんなら、強くなるための理由ってのはなんだっていいんだ。
自分のためだろうと他人のためだろうと、世のためだろうと人のためだろうと、恨みだろうと復讐だろうと、善だろうと悪だろうと、そんなもんは問題じゃねえ。強くなるための理由に正しいも間違いもねえんだ。だから正しい強さなんてもんは存在しねえし、当然間違った強さなんてもんもない。
勝負は所詮、強さと相性と準備だけで決まるんだからな。
だから風向。強くなりたいんだったら、今現在の自分という存在を作り上げている全ての要素を利用しろ。長所も短所も、自分の好きな部分も嫌いな部分も、性格すらもすべて強さへのモチベーションにしてしまえ。全て自分を強くする道具にしてしまえ。己が強くなることだけを考えて、それ以外の全てを排除しろ。そうすりゃ間違いなく人間は強くなる。
そして、お前がどんな風に強くなろうがその成長を疑うな。他人から間違っているだとか歪んでいるだとか言われたとしても耳を貸すな。その言葉は所詮、嫉妬であり畏怖だ。自分よりも成長の早い存在を否定したくなるもんなんだよ、人間ってもんはな」
重雅の言葉はすなわち、私の行動、気持ちへの肯定だったわけで。これで集子が目覚めるまでの三日間の行動が決まった。
これから私は同類たちから話を聞くことで、超能力という存在を理解する。そうして自身の超能力でもって、まともに闘えるだけの戦闘力を得る。そう、強くなるための努力をするのだ。今までやってこなかった『当たり前』をやることで、少しでも友人たちに近づいてみせる。心の強さを得てみせる。
今更遅いことは分かっている。すでに手遅れなことも分かっている。それでも強くなれるのならば。
皆と対等になるためならば、私はきっと命を削ることすら躊躇しないだろう。




