窓際社員、風向緋板の日常
人生を捨てているような感覚、とでも呼ぶのだろうか。
それが私、風向緋板に纏わりつくようになったのは一体いつの頃からだろう。
今現在所属するハヤミ貿易会社に入社した時は、このようではなかったはずだ。あの頃は仕事に対してそれなりの張り切りを持って挑んでいたし、多種多様な人材とのコネを手に入れるため、コミュニケーションには全神経ともれなく命すら懸けていた。なぜそこまで必死になって行動していたのか、今はさっぱり分からないのだが。
いや、推測はできる。ありていに言えば、全力で仕事に携わることが楽しかった——のだろう。遠い記憶。その記憶と思い出は、まるで別の人間の物にすら思える。今は共有できない。いや、共感できないと表現する方が正しい。
目の前に積まれていく仕事をこなすだけで過ぎていく一日。単調で張りのない日々は心を擦れさせるのに多くの時間を要しなかった。
ある瞬間から、切り離されてしまったのだ。今現在と昔の『私』。それはもはや同一人物ではなくなっていた。
仕事という存在が、生きていくための苦労働となった時。窓際社員となった時から。
人生を楽しいと思ったことは一度もない。
パソコンがずらっと並んだ広々としたオフィスの、文字通り窓際に私はいた。もっと言うならば窓際の、そのさらに隅という表現が正しいか。
社内唯一の友人はこのフロアを、『東京都』だと表現する。なるほど的を射た言葉だと、その時感心したのを覚えている。最も忙しく、人通りも多く、多くの優秀な人間が狭いスペースに机を並べている辺りは二十三区。半径五メートルに私一人しかいないこの辺りはさしずめ森林溢れる奥多摩と言ったところか。何せ、顔を上げると景色がいい。
窓に視線を向けると、そこから見えるビル群は夕焼け色に染まっていて、入社祝いで親に買ってもらった時計を確認すると午後五時を指している。ため息をつき、目の前にある仕事の山を見やる。山とは言っても積み上げられた書類の類ではない。デスクトップに表示された、膨大な量のデータだ。
すると不意に、操作していないにも関わらず表示画面が変わる。どうやらメールだ。もう何度ついたか分からないため息をつき、件名を確認してみるとそこには同僚の名前と共に、
『やっといて』
とそっけなく書かれている。なんてことはない、仕事の総量が少し増えただけのこと。私は機械のような手際の良さで添付ファイルをダウンロードして、ファイル名をその同僚の名前に変更しておいた。これでどれが誰から押し付けられたのかよく分かるのだ。妙なところで気が回るようになったなと自嘲気味に、もう一度ため息をついた。
……少し休憩をしよう。そう思って席を立ち、のそのそとした足取りで喫煙室へと向かった。
すると視界の外から騒がしい会話が耳に届く。
「今日、飲み会に行く人―」
ハイハイハイと、出しゃばりな小学生のように声を上げてアピールする彼ら彼女らは、新入社員だろうか。一瞬視線を向けるも、ほとんど覚えがない顔ばかりだからそうだろう。今日はやけに多くの仕事を押し付けられたと思っていたが、もしかすると大規模な飲み会でもあるのかもしれない。
まあ私には関係のない話だ。何も聞こえていないような顔で通り過ぎて、目的地へと歩いていく。
喫煙室は、まるで隔離されたように仕事場があるフロアの一番奥に設置されている。吸う人が少ないので場所に対する文句は封殺されているらしい。私は吸わないのでよくは知らない。
何故吸わない癖に喫煙室へ行くかと問われたならば、その答えは簡単だ。先に述べた喫煙率の低さゆえ人に出会いづらいという理由と、もう一つ。
少し歩いて、目的地の前にたどり着く。そうして扉を開けると、息苦しい空気がムワリと重さを持って流れてきた。けれど慣れたもので構わず入るとそこには一人、疲れた様子で椅子に座り煙草を吸う男がいた。入ってきた私をその男、根岸は咥え煙草を指で挟み、その手で敬礼のようなジェスチャーをして迎えてくれた。
「よう窓際族。心底つまらなそうな顔だな」
「お前もだ根岸。いつもよりしんどそうに見えるが」
別に憎まれ口を叩いたつもりはなかった。ただ目の前にいるこの男、根岸が老けて見えたのだ。同い年にも関わらず年齢よりもずっと若く見える——実際気も見た目も若い奴だが、今日はやけに疲れているようだ。
「何か仕事のトラブルか?」
聞くと、少しだけ苦い表情を浮かべて口を開く。
「そっちも、確かにあるんだ。久々の大きい取引でな。ファリジア王国の貴族がアーティファクトなんぞ持ち込んできて、俺も俺の部下もてんてこ舞いでよ。部下の方はあれの取引は初めてらしくてな、レプリカかどうかの判定で緊張しっぱなしだ。見ていられなかったぜ」
それは大変だ、と私はいまいち実感のこもらない返事を返した。
根岸の言うアーティファクトとは奴の態度から考えるに、英語の直訳の方ではない。どの時代にも存在する孤高の天才。そんな人間たちがその時代最高、いやそれ以上の技術とセンスで作り上げたという『特殊な効果を持つ人工遺物』。そちらの方だろう。私のような窓際社員は扱ったことのない代物なので、大変らしいという薄っぺらな言葉でしか返答できないが。
根岸は紫煙を吐き出しながら続ける。
「まあ大変と言っても、貴重だから扱いに慎重になる程度の話だ。部下にとっては大変だろうが、俺にとっては実はそれほどでもない。何度も扱っているしな」
「お前がそんなに老け込んた理由は、他にあるということか」
その通りだ、と根岸は私の冗談めかした言葉を聞き流した。女子力の高い根岸が『老けた』を聞き流すとは、相当に参っているようだ。
「何があった」
聞くと、根岸は今一度煙草を取り出して火をつける。しばらく無言が続き、暇な私は腕を組みながら、段々と小さくなっていく煙草を注視する。そうして奴は小指の先ほどになったそれを机の上の灰皿にねじ捨てて、肺に溜まっていた煙を吐き出しながら話してくれた。
「……もうすぐ大型連休があるだろう。うちの部署の若い連中が、休みに何をするか話していたんだ」
「仕事中に無駄話しやがって、ということか?」
「別に、そこまで厳しくしちゃいない。お前じゃあるまいし仕事中に会話くらい、皆するさ。問題はその会話の内容だ」
根岸は私から視線を外し、ケースから新たな煙草を取り出し咥えて、火をつける。そうして口から紫煙を吐き出してから続けた。
「その会話で、こんな事を言った奴がいるんだよ。『ファリジア・レースに出場するんです。誰か私と出ませんか』ってな」
「……それはそれは。とんでもない事を口走る奴がいたらしい」
素直にそう口にすると、根岸はホッとした表情を浮かべて言う。
「さすがの風向でもファリジア・レースくらいは知っていたか。お前は時々とんでもなく常識はずれなところがあるからな。もしかすれば俺の苦労が伝わらないかと思ったぜ」
「いくらアングラな話題でも、ある種有名な部類だからな」
などと言ってみたものの、私がファリジア・レースについて実感の伴う知識として知っていることは、少ないどころか皆無だ。それでも、どのような噂を帯びているのかくらいは知っていた。
確かファリジア・レースとは、他の追随を許さない技術力世界第一位のファリジア王国を源流とした、一攫千金のレース大会のようなものだと聞いたことがある。レースの商品に高価なアーティファクトが出るという噂も。それが本当ならば紛れもない一攫千金の機会なわけだが、そうは問屋が卸さない。むしろファリジア・レースで有名なのは、悪名の方だ。
レースで必ず死人が出るだの、犯罪組織が参加して資金の調達をしているだの、銃や武器を平然と用いるだの、超能力者が暴れまわるという話は必ずセットで語られる。一般人が参加した暁には生きてゴールできない死のレースというのはネットの表現だったか。
だがまあそういう噂はあっても、一般的には関わり合いのない世界だ。例えばアトランティスやムー大陸が存在していたとして、それらと同列に語れるくらいには世界の外にあるものだ。つまり、参加したいと望むだけではどうしようもない場所なのだ。相応の金と努力、もしくはコネクションが必要となる。
この噂話で何より怖いのが、超能力者が参加するという点だと思う。超能力者の能力は十歳までに消えるというのは、私にとっては常識だ。つまりはそんな善悪も判別つかなそうな少年少女たちが強力な武器を持って暴れるわけで。そういう子どもは際限を知らない。
それは、身に染みてよく分かっていた。
根岸は思考にふける私にかまわず、話を続けた。
「そいつはレースについてやたらと熱弁していてな。そいつに悪名高い噂をそのまま告げた奴がいたんだが、こと細かに肯定と否定を繰り返されたらしい」
「よく意味が分からんのだが」
「この噂のこういうところは本当で、この噂のこういう所は間違ってると、そんな感じだ。やたら詳しくてな、よく調べたんだろうよ。ちなみにその場にいた奴らは皆行かないと言ったらしい」
「当然の選択だ。そうやって死ぬような思いをしなくても、わがハヤミ貿易会社で実績を上げれば金に困ることはないからな」
「前にグループで遊びに行った時のガンシューティングは異様にうまかったが、実際の銃と勘違いでもしているんだよ、奴は」
グループで遊びに行って、ゲーセンに行くのかこの男は。思わず目を見開いてしまった。やはり気持ちが若いと見た目も若くなるのだろうか。私には難しいアンチエイジングだ。同じ三十歳とは思えない。
ここで根岸は、指に挟んでいた煙草を咥え、深呼吸をするように煙を吸った。そうして大きく息を吐き出して、まだ第二関節くらいまで残っている煙草をぐりぐりと灰皿に突き立てながら言った。
「これからそいつらグループも合わせた、でかい飲み会があるんだよ……」
「…………」
そいつは、ご愁傷様だ。私はポンと根岸の肩に手を置いて頷いてやる。しかし根岸はその手を振り払うようにして立ち上がり、私を見て言う。
「お前も来ないか」
「分かっているだろう、根岸。私のような窓際社員が行けば場の雰囲気が悪くなる。それにまだ仕事は山ほど残っているからな。たとえ行きたくても行けないさ」
そうか、と根岸は同情するように少し表情を曇らせた。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに切り替えたように、普段通りのシワのない若い顔に戻った。
「それじゃあ俺は行く。まあ……あれだ。そう根を詰めるなよ。無理はするな。気は楽に、だ」
若干しつこくそう言って、奴はドアに手をかけた。心配されているのは分かっていたが、しかしそちらに関心がいかなかった。肝心なことを聞いていない事実に思い至ったのだ。気になった私は反射的に、出ていこうとする奴を呼び止める。
「そういえば、だ。結局ファリジア・レースに参加すると言った奴は誰なんだ」
ああ、とこちらを振り返る。奴は何とも微妙な顔をしながら言った。
「挑御川集子だよ」
バタン、とドアの閉まる無機質な音がよく響いた。




