理沙
「………」
目の前には明希がいた。
久しく見ない間にまた身長が伸びている。
さすが中3男子。
色々思ったけど、どれも言葉にならなかった。
久しぶりに会った実の弟。
嬉しかった。
ずっとろくに人と話をしていなかった私は、何か明希と話そうと思った。
最近部活どう?
頑張ってる?
口を開きかけたとき、私のなかで何かが動いた。
だめだ。
私が明希にできることは、近づかないこと。
そして一旦冷静になる。
そうだ、今私はひどいありさまだった。
今丁度上着を脱いだところだったのだから。
クラスメートは陰湿で、見えないところをを傷つけた。
長袖の季節の今、私の腕は痣や切り傷でいっぱいだった。
手に汗を握る。
気づかれた?
いや、今玄関は電気が付いていない。
明るい廊下からは私の腕はよく見えないはずだ。
明希は何も知らない。
明希の綺麗な腕や足を見る。
よかった。
本当に、良かった。
やっぱり明希と関わっちゃいけない。
明希だけは、幸せに生きて欲しい。
私が明希の分まで不幸になってもいい。
私が変に明希と関わってちゃだめだ。
早く明希の前から消えよう。
顔を伏せながら何事もなかったように明希の横を通る______。
「おい理沙」
思わず足がすくんだ。
低く力強い声につい耳を傾ける。
「話したいことがあるんだ。」
私が明希を避け始めてから、明希から私に絡んでくることはなかった。
私はそれが嬉しいようで、悲しかった。
きっと心のどこかで泣いていた。
話したいことってなんだろう。
本当は私だって明希と話したいことがたくさんある。
私たちこれからどうしたらいいのって。
だけど、今明希は普通に生きていけてるのでしょう。
なら、私が明希の世界に足を入れちゃいけないわ。
私が触ってしまったらきっと壊れちゃう。
悲しむのは私だけでいい。
私だけでいいから。
視線がぶつかる。
ああ、やっぱり明希の顔はお母さんにそっくりね。
羨ましい。
ううん、よかったね。
よかったね、お父さんに似てなくて。
だから明希は…………
「理沙」
ふいに腕を掴まれた。
力強い弟の手に驚く。
こんなに強かったっけ。
明希は私の目をじっと見つめていた。
その目を振り切ることはできなくて、話を聞くことにした。
「話ってなんなの。」
とりあえず何事もなかったように上着を着る。
明希はしばらく考え込むような素振りを見せてから、唐突に口を開いた。
「ごめん」
状況が把握できない。
「なにが?」
明希は言いにくそうに身をよじった。
そして、口を開く前に私に茶色い封筒を押し付けた。
そこには明希のお世辞にも綺麗とはいえない字で、こう書かれていた。
<生活費>
ドクッと心臓が音を立てた。
嫌な予感がする。
「なに…」
そう言いながら封筒を受け取ると、全く厚みがないことがわかった。
中を覗くと、案の定札は一枚も入っていなかった。
「どういうこと?」
状況が飲み込めない。
明希は意を決したように言った。
「………今月の生活費……母さんが……」
頭が真っ白になる、というのはこういうことだ。
必死に頭の中を整理する。
「…お母さん?」
明希はふぅっと息を吐いた。
「これ、今月の生活費。俺が学校行ってる間に母さんが盗んだみたいなんだ。ごめん、俺のせいだ」
そう言って明希はうなだれた。
「明希の…せいじゃ…ない」
乾いた口から精一杯言葉を発したけれど、本当は理解しきれていなかった。
それはつまり…
「俺ら、今月どうしよう…」
今日は11月の2日。
2日にしてもう今月の生活費は0。
その原因は母。
お母さんがおかしいことは知らなかったといえば嘘になる。
しかし、まさかここまでイカれてたなんて。
ごめんね、明希。
でもね、私明希に全部押し付けてた訳じゃないの。
私だって必死に戦ってたの。
お父さんに顔が似てたのが明希じゃなくてよかった。
明希と同じ中学に通ってなくてよかった。
社会的制裁を加えられるのは私だけで済んでる、そうでしょう。
私はもう1人の朝霧裕二。
だから代わりに罰を受けている。
「理沙。母さんな…………最近頭がおかしいんだ。」
いつからか外は雨が降り出していたようだ。
雨が静かに屋根を打つ。
「………理沙は知らないかもしれないけどさ」
明希が最後にそっと付け加えた言葉に、胸を貫かれた。
明希は私が逃げてると言いたいんだ。
そうでしょう?
違う。
私は逃げてない。
私は必死で戦って……
私は罰を受けて…………
あれ?
私は罰を受けている。
なんの抵抗もせずに、当たり前のこととして。
それって、逃げてるんじゃないの?
私は罰を受けていると言い訳をして、現実から逃げてるんだ。
お母さんがおかしくなったことも、本当は知ってた。
貧しいことから目を背けて、明希の朝食も作らずに自分だけ逃げてた。
私は……
逃 げ て た
「ごめん、ごめんね明希、.…私………」
いつも我慢していたのに。
我慢すればいいだけなのに。
収まることをしらない涙が次から次へと頬つたっていた。