怒鳴られる彼
「お前仕事舐めてんのか?誰でもいいからさっさと家売ってこい!売れるまで帰ってくるな!!」
営業所にいつもの怒声が鳴り響く。さっき友達から結婚するという連絡を受け友達との昔の思い出に浸っていた。自分にとって心地の良いそんな時間がまた部長の怒声によってかき消された。いつものことではあったが正直うんざりしていた。僕の所属する不動産事務所は女性3名、男性7名の小さな事務所でありそれ故に部長の怒鳴り声は事務所に重く響き渡る。
怒鳴られている彼の名前は鈴木一くん。僕の1つ歳下で25歳。今年で3年目の営業マンだ。
会社での立場としては僕の先輩にあたるのだが部長に怒鳴られるのはいつも彼だった。
部長の机の前に立たされている彼は終始俯いており、
そこまで背が高くない彼がさらに小さく見えた。きっとまた今にも泣きそうな顔をしているだろう。
僕はこんな事務所の雰囲気が嫌いで、そんな事務所で働いている自分も嫌いだった。
この仕事を始めて半年になる。
入社を決めた理由は給料が良かったからという単純な理由だった。大学時代から含めて計7年働いていたBARを僕は辞めた。今でも僕はそのBARが大好きでよく遊びに行っている。そんな大好きなBARを僕は辞めた。そこで働く以上に僕は自分の店を持ちたいという気持ちが上回ったからだ。ただBARというのは給料面では厳しい所があり、僕は手っ取り早く稼げそうだった不動産の営業をやることに決めた。今の会社はたまたま求人が出ていてそれに僕は応募した。
よほど人が足りなかったのか面接をした次の日に合格の連絡をもらった。今となってはこの会社に入ったことを後悔してるわけだが。
部長の鈴木くんへの怒声が聞こえなくなったと同時に鈴木が僕の隣の席に戻って来た。連日の部長からプレッシャーのせいなのか鈴木君の表情は最近いつも怯えている子猫のように弱々しかった。今日飲みにでも誘ってみよう。
「佐藤くん。」
そんな事を考えていた時部長の声が聞こえた。部長の方を見ると先ほどまでの険しい表情が嘘のように笑顔で手招きをしていた。
「今月も営業成績トップだよ佐藤くん。いやー本当すごいね君は。鈴木なんかとは大違いだ。社長含め期待してるからね。これからも我が社を頼むよ。」
「ありがとうございます。」
僕は淡々と答えた。お世辞も入ってるだろうが入社半年の僕に会社を頼むなんて発言は軽率であり、こんな僕に期待する会社にもうんざりしていた。
君の天職だとか言われるがそれは大きな間違いだ。
僕はこの仕事が向いていない。不動産の営業をやると決めた時、きっと向いていないだろうなーとは予想していたが案の定それは当たった。少し働けば考えは変わるかもしれないとも思っていたがそれもなかった。
これも経験の内だと割り切っているがそろそろ潮時だと感じていたし、これ以上この会社にいても得られるものはお金だけであり他にはなにもなかった。
時計の針が18時を指し、そろそろ仕事を切り上げて鈴木くんを飲みに誘おうかと思っていた時鈴木くんの方から声をかけられた。
「佐藤さんこの後予定ありますか?」
やはり鈴木くんも限界だったらしい。誰かに話しを聞いてもらいたかったのだろう。幸い部長と課長は1時間前に飲み行ったので鈴木くんも心置きなく退社することができる。
「大丈夫ですよ。飲んでスカッとしましょう。」
そういうわけで僕達は淀んだ空気の事務所を後にした。本当この事務所は嫌いだ。
鈴木くんと飲むのはこれで2回目だ。1回目は僕の歓迎会で事務所全員出席のものだった。会社の人と2人で飲みに行くのは初めてだったが鈴木くんなら大丈夫だろう。他の先輩や事務の女の子からも以前に飲みに誘われたことがあったが全て断っていた。飲みに行った所で仕事のグチ話になるのが目に見えていたし、極力会社の人とはプライベートで関わりたくはなかった。
ただ鈴木くんは歳下というのもありほっとけない気持ちがあった。何よりあのままだと本当に危ない気がした。人間は自分で思っている以上に脆く弱い。
僕達は駅近くの飲み屋街にある大衆居酒屋に来ていた。人も割といたが僕達はテーブル席に座ることができた。席に着くとお互いにコートとジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿になった。僕は未だにこの格好に慣れない。ネクタイも外しワイシャツのボタンも1つ開けた。本当に息苦しかった。ネクタイを外した瞬間はホッとする。僕は会社員からただの人間に戻った。
「鈴木さん生でいいですか?」
ビールの注文をしようと鈴木くんに尋ねると「はい。それと敬語は辞めていいですよ。もう会社ではないので。」鈴木くんは僕の方を見ながら笑顔でそう言った。鈴木くんも僕と同じように気を使われるのが苦手なタイプらしい。お互い腹を割って話せそうだな。僕は店員さんに注文しながら少しほっとしていた。
店内の他のお客さんを見渡してみると上司にお酒を注いでペコペコしている人や会社の中のように説教を部下にしている人もいた。そんな光景はよく見るが見る度にウンザリしそんな社会が嫌になる。
注文したビールが届き僕と鈴木くんの乾杯の声で飲み会がスタートした。
「佐藤さんって彼女いないんですか?」
飲み会の始まりの言葉は意外なものだった。
「もう3年くらいいないかな〜。大学卒業してからは誰とも付き合ってないね。」
僕の話を聞く鈴木くんの左薬指には銀色に輝く指輪がはめられている。彼は妻子持ちだった。
「そうなんですか?佐藤さんカッコイイし仕事もできるからてっきりいるかと思いました。そういえばうちの会社の高橋さん佐藤さんの事好きらしいですよ。」
彼は焼き鳥を頬張りながらそう言った。焼き鳥を美味しそうに食べる彼はまだ幼さが残っており見ていて飽きない表情をしていた。
高橋さんというのは事務所の鈴木くんと同期の事務の女の子で、実は1週間前事務所でたまたま2人になった時に告白されていた。
言われた事は全部覚えていないが要約すると、カッコよくて仕事もできる佐藤さんが好きです。というものだった。社内恋愛に良いイメージがないのもあったが、何より高橋さんに興味がなかった為僕は丁重にお断りした。何より高橋さんは会社の中の佐藤しか見ていない。高橋さんにとって僕がどんな佐藤さんなのか分からないがきっとプライベートの僕を知ったら幻滅するだろう。僕はそれくらいONとOFFがハッキリしている。別に会社の中で無理している訳ではないが、自分の中で会社の中のモードというものはある。仕事が終わった途端それは終わり通常佐藤モードに戻る。
勝手に想像され勝手に期待され、勝手に幻滅される。そういう事は結構経験してきたしもう慣れてしまった。途中からどうでもよくなってしまった。
「鈴木くんは今の会社には何故入ろうと思ったの?」
新卒で不動産の営業に入る人は少ない。みんな過酷な現状を少なからず耳に入れているからだ。
「僕昔っから気が弱くて、就活の時も面接で苦戦して。なかなか内定がもらえず、そんな時にたまたま求人を見かけてとりあえず受けてみようかなと。そしたらあっさり受かっちゃって。その当時今の奥さんと付き合っていて、僕も焦っていたと思います。就職しなきゃ彼女に会わせる顔がないと。それで入社を決めました。今はとても後悔していますけどね笑」
鈴木くんは笑ってはいたがそれは明らかに作り笑だった。入社して半年彼の仕事の様子を見ていたが、彼は優しすぎた。優しい人には不動産の営業は決して向いていない。売りたくないものでも会社が売れと言えば売らなくてはいけない。僕ですら罪悪感が出るくらいだ。鈴木くんは相当な罪悪感と戦っているだろう。
「正直僕、先月会社辞めようと思ってました。だけどいざ辞めるとなると妻と子供の事が不安になり、結局辞めれずじまいで。」
彼の場合は家族の生活も関わっている。自分自身だけで済む僕とは背負っている物が違うのだ。
「鈴木くんは家族の事が大事だろうし、家族は鈴木くんの事が大事だと思う。1回奥さんに話してみた方が良いよ。」
なかなか難しいことだとは思うが、このまま働いていると鈴木くんは確実にパンクする。そうなるとなかなか復活するのは難しいものだ。
BARで働いていたおかげでいろんな人を見てきた。勿論鈴木くんと同じような悩みを持つ人の話も聞いた。
ある人は酒に溺れ、ある人は心療内科に通い、ある人は命を自ら絶った。鈴木くんにはそうなって欲しくない。心からそう思った。
「好きな仕事をやれている人って本当に少ないと思うし難しいと思う。実際俺も今の仕事は好きじゃないよ。自分がやりたい仕事を考えるのも大事だけど、何だったら嫌じゃないなーとか、何だったらできそうだなーとか。そういう考え方もあるよ。」
実際僕も不動産の営業は向いてないなとは思ってはいたが、できなさそうとは思ってはなかった。結果予想は見事に当たりもうそろそろ潮時かなと思っている訳だが。
「そうですねー。嫌じゃない事かー。」
僕が見てきた限り鈴木君は営業というより接客に向いている。彼の最大の長所は雰囲気が優しいということだ。顔もそうだが誰が見ても悪い人には見えないし、事実彼はとても好青年だった。
「鈴木くんは妻子があるから行動に制限が多少かかると思うけど、それでもやりたいと思ったことはやるべきだよ。」
僕もBARを開くまでにいろいろな事を経験したいと思っている。やっぱり働いてみないと分からないことはたくさんある。
仕事ができるからといって向いている訳ではないし、仕事ができないからといって向いていない訳でもない。仕事に対する価値観は人それぞれだが、僕は仕事をしてどれだけ自分の中で充実感が得られるかだと思っている。現在の僕には皆無だが笑
僕はテーブルのししゃもに箸を伸ばす。
チーズ焼きししゃもを初めて食べたが美味しかった。
今度家でやってみよう。
「佐藤さんは何でBARで働いていたんですか?」
彼は焼き鳥を頬張りながら言った。どうやら焼き鳥が大好きらしい。今度は焼き鳥屋にでも連れて行こう。
「上京して一人暮らし始めてさ、バイト探していたらちょうど家のすぐ近くのBARがバイト募集してて。近いし面白そうだったから始めたんだ。俺喋るの好きだしね。」
鈴木くんは少し驚いた顔をしていた。おそらく僕が喋るのが好きということに驚いているんだろう。
人間話してみないと性格なんて分からない。分からないからこそ話すんだ。
「佐藤さんの話もっと聞かせてください!」
鈴木くんの顔を見ると事務所の時の暗さが嘘のように晴れ、そこには純粋な好奇心で目を輝かせる鈴木くんがいた。
「よし、じゃあ2軒目行くか!俺が働いてたBARに連れてくよ。マスターもきっと喜ぶだろうから。」
僕達は今仕事のことは綺麗に頭から離れている。鈴木くんと飲んでいるが僕も意外と楽しめているようだ。
人生は楽しんだもん勝ちだ。