僕<蓋<トマト
相も変わらず目の前の生物は鍋の蓋に齧りついている。
何がそんなにそいつを掻きたてるのだろうか。鍋の蓋に何があるというのだろうか。
僕は前進を続ける。
さっきより余程近くに来たというのに、目の前の生物は鍋の蓋から離れそうにない。
もしかしてあの鍋の蓋はおいしいのだろうか?
そんな疑問が不意に頭をもたげる。例えば木の味とか、特別な何かが染み込ませてあるとか、そんな特殊な鍋の蓋なのだろうか。
それとも、あの生物が特殊なのだろうか。骨じゃなくて木を齧る習性があるとか。もしくは、鍋の蓋に特別な何かを感じるとか。
そこまで考えてそれはないと頭を振る。
可能性としては全否定できないが、さすがにそれはないだろう。いくら異世界とはいえそこまでぶっ飛んではいないはずだ。もしかしたら食べられる木のようなものがあるのかもしれないが、そもそも食べられる木は鍋の蓋に向かないだろう。
そんな他愛もないことを考えながら、僕はその生物の傍まで近づいてじっと見つめた。
もう二歩三歩踏み出せば攻撃できるという距離に僕が近づいているにも関わらず、目の前の生物はいっこうに僕に注意を向けない。
そんな生物をしばらく見ていると、僕はある理由に辿り着いた。何てことはない。すぐに思い当たっても不思議ではないことであった。
「腹減ってるのか」
そうだろうと思える答えをぼそりと呟く。
その言葉に誰も答えるはずがないのに、目の前の生物は律儀にも唸って返答を返した。
「ガゥ」
とはいえ、目の前の生物が不意に反応を示したことに、僕は驚いて少し交代した。
こいつは僕の存在に気が付いていたのだろうか。懸命に鍋の蓋に齧りつく様は明らかに一心不乱のように見えたし、それ以外見えていないようであった。加えて、少しずつ僕が近寄っても反応を示さなかったし、そんなもんだから辺りが見えていないのではないかと思っていた。そんなところに、「聞いてるよ」とでも言うように反応が返ってきたのだから、僕が驚いたのも無理はないだろう。
目の前の生物は腹が減ったから鍋の蓋に齧りついている。
なるほど、納得のいく理由かもしれない。しかしだ、何故僕じゃない。見る限り口には短くも鋭い牙が生えているし、齧りつくたびに木でできた鍋の蓋を削るくらいには顎の力はあるのだろうから、きっと肉食であろう。もちろん雑食でも構わないが、それよりも何よりも何故鍋の蓋にいったのだろうか。僕は食料としては鍋の蓋にも劣るのだろうか。
などと益体のないことを考える。されど、一度相手の事情が分かってしまった以上、必死に鍋の蓋に齧りつく様はどこか哀愁を漂わせているようにも見えてくる。
僕は肩から斜めに掛けていた麻袋に手を突っ込むと、徐にこぶし大のトマトを取り出した。
それに目の前の生物が反応を示す。
「ガャウ」
鍋の蓋を口に咥えながら、物欲しそうな目でこちらを見る。
「食べる?」
答えるだろうか。そんなことを思いながらトマトをグッと前に差し出すと、その生物はあれほど執着していた鍋の蓋をあっさりと手放すと、僕に向かって大口を開けた。
どうやら欲しいらしいと、僕はトマトをその生物の口に入れようと手を伸ばしたところでふと躊躇した。
思った以上に口が大きいのだ。トマトを入れても余りある。トマトを掴んだ手なんて軽々と納まってしまうのではないだろうか。そんな不安が過る。
僕は伸ばしていた手を引っ込めると、トマトを軽く放り投げた。
「ガゥ」
飛び跳ねる様にその生物は放り投げられたトマトに齧りついた。トマトを一口で口に咥えると、懸命に咀嚼して満足そうな顔を浮かべる。
それにしても、トマトを食べさせてもよかったのだろうか。今更かもしれないが。
そんな僕の考えを他所に、その生物は拳大のトマトを平らげると、大きく口を開けて次を要求した。
「まだ食うのかよ……」
遠慮も何もない様子に思わず呟いてしまう。
「ガャウ」
僕の言葉にその生物は嬉しそうに声を上げた。
溜息を吐きながらも、僕はその生物が満足のいくまで――大口を開けてこちらに強請らなくなるまで食べ物を与えた。
その生物が満足そうに小さくゲップをして地面に寝そべる頃になると、四十センチ四方の麻袋一杯に詰め込んできた食べ物がほとんどなくなっているような状態であった。
「食いすぎだよ……」
すっかりと軽くなった麻袋を片手に僕が嘆くと、その生物は「どんなもんだ」とでも言いたげに鼻を鳴らした。
それにしてもと上を見上げると、すでに太陽は真上にあった。昼時である。そんな僕の心を読んだのか、タイミングよく腹の音が空腹を告げる。
「くそぅ」
恨めしげに目の前の生物を睨むが、相手はさほど気にする様子もなく、太陽の下気持ちよさそうに目を閉じていた。
仕方ない。運が悪かったんだ。襲われなかっただけでもマシだ。
言い聞かせるようにそう声に出さずに呟くと、僕は麻袋を肩に掛けなおし、放り投げられていた鍋の蓋を拾う。大飯食らいの生物が残した痛々しい傷跡は残っているものの、まだ盾としては使えそうである。
僕は来た時と同様の装備を身に着けると、最後に日向で寝そべっている生物を一睨みしたあと回れ右をした。
ところでふと気になって再度回れ右をして生物に向き合う。
僕は異世界に来て馬鹿になったのだろうか。そう思わなくもないが、それでももしかしたらもしかするかもしれない。
「お前、川のある場所知らない?」
僕は思いきって尋ねた。
しかし、期待とは得てして裏切られるものである。
反応を示す様子のない生物に僕は溜息を吐いた。
トマトをあげるくだりとか、言葉を理解しているようにも見えなくもなかったからもしかしたらと思ったが、やはりそうは問屋がおろさないらしい。
僕は諦めたように首を振ると、再び回れ右をした。
腹は減ったが、まだ日は高い。もう少しだけ探してみよう。
そう思って一歩を踏み出した時だった。
案外、期待というのはしてみるものだったらしい。
「ガャウ」
後ろで鳴き声が聞こえた。
慌てて振り返る。すると、寝そべっていた先の生物がむくりと起き上がり、「ついてこい」と僕に一度目をやって、最初に飛び出してきた草むらの方へとゆくりとした足取りで歩いて行った。
まさか、本当に言葉を理解したのだろうか。
半信半疑である。仮にも相手は「ガャウ」とか「ガゥ」とかほとんど違いの分からない鳴き声しか出さない奴である。それがこう言ってはなんだが、人間の言葉を理解できるのだろうか。
そんな半信半疑ではあったが、さりとて僕自身に当てがあるわけでもない。この先、確かな目星もなく水源を探して歩き回るばかりである。
それならば、目の前の少し生意気な生物を信用してみるのもいいのではないだろうか。
もしかしたら僕を食料とせんと巣や穴倉へ連れて行く気かもしれない。
そうなったらそうなったで……。
嫌だな。その可能性もあるのか。
ウジウジと頭を悩ませるが、どうにも結論が出そうにない。ふと見ると、その生物は前半分がすでに草むらに隠れるところであった。
「ええい、ままよ!」
そう言って気合を入れると、僕は慌てて離れていく生物の後を追った。
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とは言いつつ、たぶん明日の昼ごろに一度更新すると思います。
気が向いたらまた明日来てください。
反応待ってま~す