小さな生き物
外は曇天だった。
勢いよく飛び出したはいいが、いきなり出鼻をくじかれたような気分になって僕は少し肩を落とした。
さりとて、水を探しに行かないわけにはいかない。曇天を一度睨み付けると、家を出た最初の一歩よりは幾分か思い足を持ち上げて、カルデラの外へと向かって歩き出した。
さてどちらに行こうか。カルデラの淵に立ちながら周囲を見回す。この一週間で散策できた範囲は広くない。概ね家の真向かいというか、玄関口の真向かいの方角のみである。家の裏手やその左右まではあまり踏み行っていない。
「右か、左か、真ん中か」
あちらこちらと目線を彷徨わせながら顎に手を当てて考える。もっとも、山についてなんて遠足で上って以来だから何も知らないし、そもそも川がどうやって山にできるのかも、「雨が降って――」程度にしか知らない。
そんなわけだから、結局出した答えは単純だった。
「ど~っちだ!」
鈍い音を立てながら鉄棒が僕の方に倒れる。
「あっちは……」
家の真向かいの方角。つまりは散策で重点的に探した場所である。
「あー、それは却下」
もう一度鉄棒を立てる。
「おい……」
今度は鉄棒が直立したまま倒れない。もちろん、鉄棒とはいえそこそこの太さはあるし、底は平らになっているから立たないこともないだろう。それでもここまでボケをかます鉄棒は初めてだった。
何度か地団太を踏んで鉄棒を倒してようやく方角が決まった。鉄棒に対して苛立ちやら悔しさやらを抱いたのは初めてだったが、それでも最終的には倒れやがったのだ。人間舐めるな、である。
方角は家の真裏から少し左より。仮に家の真向かいを北とするならば、南西の方角ということになる。
方角が決まった所で、僕は歩き出した。
大地を踏みしめ、草を掻き分けていく。様々な見たこともない植物に目を奪われながらも、順調に歩を進めていく。とはいえ、闇雲に探していることは否めない。
「水~」
ぼやきながら当て所なく彷徨う。
そもそも、此木廉次郎なる人物はどうやって水を得ていたのだろうか。家畜だっていた。おそらく生活するのに必要な量以上の水が入り用だったろう。もしかしたら野菜と同じように、家畜の餌もすぐに新しく出来るのかもしれないが、そこまで調べてはいない。仮にそうだとしても此木廉次郎本人が必要とする分の水は確保する必要があっただろう。
しかし、あの家に水を得られるような場所はない。それならばきっとどこからか水を持ってきていたのだろう。そう考えると、あまり遠くない所に水が確保できるような場所があるはずだ。
そんなことを考えながらも、道なき道を進む。
無駄に大きい木の根や、背の低いくせに枝葉が大きい木などに道を阻まれながらも、水を求めて歩く。
「あっ」
家畜の水を飲めばいいのではないだろうか。そう思い当たって、けれどすぐに打ち消す。それはあくまで最悪の場合に限るし、できることなら遠慮したい。そもそも、家畜小屋には近寄っていないから中がどうなっているか分からないが。
「それにしても、どこにあるんだ?」
しばらく歩いたつもりだが、いっこうに水がありそうな気配はないし、そのせせらぎすらも聞こえてこない。
「あー、そういや井戸掘るって手もあったな。そんな気力ないけど」
今更なことが頭に浮かぶが、そんなものも頭の片隅に追いやって彷徨い歩く。
ただ闇雲に探すだけは無計画すぎただろうか。
そんな疑念が頭を過った時、不意に左手から草を揺らす音がした。咄嗟に音の方を振り向いて鉄棒を構える。
「誰だよ……」
不安が小さく漏れる。
ゆっくりと後ろに後ずさりながら、僕は瞬き一つせず前方を凝視した。
前方は腰ほどまである背の高い草が茂っており、その陰に隠れているのか、物音の正体を目視できない。
今までこの森で動物を見たことはない。それが偶然なのか、何らかの要因による必然なのか分からないが、もし今回、目の前に物音の正体が動物であるとしたら初めての遭遇である。だからと言ってどうだということはないが、一つ思う所がないわけではない。
植物を見る限り、元の世界の植物はほとんどない。むしろ全くないといっても差し支えないほどに異なっている。もちろん家の地下を除いた話であるが、そこら辺に生えている雑草一つとっても奇抜であり、奇妙であり、異様である。それは元の世界の植物を見慣れているからこその意見ではあろうが、それでもそういう風に感じている僕がいる。
だからこそ、この世界の動物は僕が思っているような動物ではなくて、植物の様にもっと奇抜で、奇妙で、異様なのではないだろうか。そんな風に考えてしまう。もちろん、奇抜なり奇妙なりの方向性がもっと丸い方に転がっているのであればまだいいのだろうが、それがもっと鋭く凶暴な方向性に転がってしまっていたのなら手に負えない。
僕は鉄棒を構えながら、静かに息を吐き出した。先程の一度以外、物音は一度も聞こえてきていない。
もしかしたら、さっきのは聞き間違いだったのではないだろうか。
とはいえ近づく勇気が湧いてくるはずもない。
腰丈ほどの草の茂みは不気味なくらい静かに僕を見返していた。
逃げようか。そう思って足を後ろに引いた時だった。
「ガァッ」
小さな吠え声をあげて、その生物は離れたところにある草の茂みから一直線に飛び込んできた。
「うわっ」
咄嗟に鍋の蓋を構えて身を竦める。
「ガャウッ」
悲鳴ともとれるその生物の鳴き声と同時に、鍋の蓋を持っていた左腕に重みがのしかかる。
鍋の蓋にぶつかったのだろうか。
そう思うも、左腕にかかる重みはいっこうに消えず、恐る恐る目をやると、蓋の淵にその生物が齧りついていた。
「うわっ」
情けない声を上げながらも、咄嗟に盾を手放してその生物から遠ざかる。
右手に持っていた鉄棒を両手に持ち替えると、まだ相手は蓋に齧りついているようで、僕はゆっくりとその生物を観察した。
「犬……?」
一見犬の様にも見えたが、どうもそうではないらしい。少なくとも僕が認識する犬とはいくつか異なる部分がある。
まず、体長はそれほど大きくなく、体高はひざ下くらいである。小ぶりだが鹿のようながっしりとした角が二本、耳のあるはずの頭頂部から生えていた。胸の部分だけ赤い毛が生えている以外体は白い毛に覆われており、尻尾は短くまるで球体の様に臀部にちょこんと付いている。爪は目に見えるほど長くはなっておらず、指からほんの少し生えている程度だ。蓋を噛んでいる牙もまた尖ってはいるものの決して長いというほどではない。蓋に懸命に齧りついている様はどこか愛らしくもあった。
総じて言えば、凶暴というよりかは、どちらかといえば可愛らしい生き物であった。
僕はその姿形に、鉄棒を両の手で握りしめたままほっと溜息を吐く。
どうやら目の前の動物によって殺されるということはなさそうだと、鉄棒を握る手を少し緩める。決して油断してはいけないが、それでも幾分余裕ができたのも事実である。いつ蓋から離れて襲い掛かってくるかは分からないが、仮に飛びかかって来ても鉄棒で対処できるだろう。
根拠のない自信が胸中に沸き起こる。
僕はゆっくりとその生き物に近づいて行った。
絶賛不定期更新中です。
もしかしたら今日もう一話くらい上げるかもです。