カルデラ
冷たい風が頬を撫でるのに気付いて、僕は恐る恐ると目を開けた。
「……」
言葉にならなかった。遠くそびえ立つ連峰に、その麓に広がる森林に、中央で輝く湖に、それらを赤々と染める陽光に、目の前に広がった世界に僕は一瞬のうちに意識を持って行かれた。綺麗だった。美しかった。どれだけ言葉を並べても表現できないくらいに、それは僕の心を鷲掴みにした。
しばらく経った後で、ようやく今自分の置かれている現状に目を向けることができるようになると、僕は途端に不安に襲われた。
「どうしよう……」
自分がいるのはそれなりに高い山である。それは理解できた。しかしそれ以外何もないのだ。何も見えないのだ。ただ驚き呆れるほどに美しい自然がどこまでも続いているだけで、村ひとつ、人ひとり見当たらないのだ。
そもそも、今自分が置かれている状況によって、あの時の携帯越しの声が言っていたことが事実だと証明はできたのだが、半ばそれを疑っていた身としては余りのできごとに未だ冷静になれずにいる。ただ身一つで訳のわからない地に放り出され、僕は間違いなく戸惑っていた。
「とりあえず、寒いかな」
呟くようにそう言って身を縮める。さすがに山の上と言うべきか、それとも季節的なものなのか、先ほど感じたように吹き付ける風は冷たく、吐き出す息は仄かに白みがかっていた。
見る限り赤々とした太陽は今にも連峰の影に隠れそうな勢いである。夜が来るのであれば、今よりさらに冷えるだろう。そうなったら満身創痍もいいところだ。
とはいえ、身を温めようにも、寒さをしのごうにも、見回す限りそれに適した場所は見つからない。
「なんでこうなったんだろう……」
不意に口をついて出た言葉は、そのまま自分に返ってくる。
どうして自分はこんな所にいるのだろうか。教室の中で大学の講義を受けるはずではなかったのだろうか。春先でまだ寒さが残り、降り注ぐ雨がそれを助長させていたとしても、まだ教室の中はここまで寒くはなかった。あの電話の相手は何を意図していたのだろうか。いや、意図していたことは話半分ではあるが聞いていはいた。しかし、何故僕なのだろうか。もっと適任はいたはずだ。その中で僕を選んだ理由が分からない。そもそも、なぜ僕はあの時ボタンを押してしまったのだろうか。好奇心?ただの同情?それとも正義感からだろうか?
一度頭の中を巡り始めた後悔は、いつの間にか僕の心の不安を盛大に掻きたてた。
つと頬を一筋の涙が伝う。
それだけで十分だった。さすがにみっともなく声を上げることはなかったが、頬から流れ落ちるそれはしばらく止まることはなかった。
ただ、吹き付ける風が肌に冷たかった。
僕は頭を駆け巡る後悔と流れ落ちる涙が落ち着くのを待って、ようやく異世界での第一歩を踏み出した。
*
とにかく寒さをしのげる場所をと思って、辺りを彷徨う様に僕は歩いた。とはいえ、あまり最初の場所から離れたくなかったのもあって、探す範囲は狭く、そのせいか適した場所は見つからなかった。ただ、歩いて分かったのが、そこら辺に群生している植物が恐らく地球にないものであろうと言うことだけであった。もちろん、僕自身そう言ったことについて明るいわけではないので、もしかしたら探せばあるのかもしれないが、赤や黄色といった風に明滅する花やひとりでに形を変える木々は、やはりそこが異世界であることを僕に実感させた。
そうこうしているうちに、赤々と世界を染めていた太陽はすっかり連邦に隠れ、夜が訪れた。
さすがに何も見えないということはない。空には丸々とした月が居丈高に居座っているし、先にいったような明かりを灯す植物もあった。されど夜は間違いなく僕の不安を一層掻きたてた。
何か明かりをと思って先のような植物を抜き取ってみたが、少しすると明かりは消え、萎れたような花が手に残るだけとなった。
結局、僕は途方に暮れた。選択肢としてこの場から動かないというものもないわけではないが、それも些かどうかと思われる。寒さもそうであるし、何より時折聞こえる動物の咆哮が僕にそう思わせていた。
だからと言ってどこかに行こうにも、上に登るか、下に下るかという問題がある。
はっきり言えば、勘は上に登れと言っていた。頭の中はそれは悪手だと囁いてはいたが。
僕自身下に下る方が理性的であることは理解している。少なくとも山の上にいるよりは寒さが少ないだろうし、何より人里があるとしたら山の上ではなくもっと低い所にある可能性のほうが高い。
散々悩んだ末、僕は上に登ることに決めた。理由は分からない。強いて言うならば、勘がそう囁いたとなるのだが、それもどこまで勘なのか怪しいところもある。もしかしたら僕の意志が介在しているとも思えなくもない。いったいどんな意志が介在してるのかは皆目見当もつかないが、それでも本の中には勘に頼ったら上手くいったというものも多々あるし、どの物語にもピンチの後にチャンスというものはあったりするのだ。僕の意志がそういう知識に引っ張られたとしても何ら不思議ではない。まあ、ピンチの中にチャンスがあることは少ないのだが。
しばらく山を登っていくと、不意に視界が開けた。両側に延々と連なっていた木々が切れ、透き通ったと形容するに相応しい星空が目の前に広がった。しかし、一方で視線を下に向ければそこにはゴツゴツとした岩が転がっていた。
ゴツゴツとした岩に足をとられそうになりながら、そこからもうしばらく歩くと、頂上とも言うべき場所に着いた。
「はぁ……」
僕は深い深いため息を吐き出した。
そして、もう一度目の前の景色を眺めて、やはりため息を吐き出した。
「美しさ」という点で言えば、初めてこの世界に来た時に見た景色ほどの感動のようなものはなかっただろう。それほどまでにあの景色は衝撃的であり、感動的であった。
されど目の前の景色はまた違ったものなのだ。神秘的で、幻想的で、そこに強い力の奔流があることが肌からひしひしと伝わる。
それは巨大なカルデラであった。内側を自然によって彩られた巨大な花園であり、地面から湧き出る様に光が空へと昇って行く神秘的空間でもあった。
しばらくその景色を眺めていたかったが、そうは問屋が降ろさなかった。
ふと目を移した先、カルデラのおおよそ中心部と思われる場所に、暖かな光を発する建物があったのだ。
僕は思わず駆けだした。
途中道を這う蔦に足をとられながら、近づくにつれてより強くなっていく力の奔流に圧倒されながら、僕は建物を目指した。
最期には盛大に転げ落ちながら建物に辿り着いた僕は、躊躇うことなく木製の扉をノックした。
「……」
誰もいないのか。それとも誰かいて誰もいないフリをしているのか。分からなかったが、少なくともノックに対する返事はなかった。
少し離れて建物を一望する。未だ力の奔流ともいうべき圧力は止まることなく体を押してくるが、それでも耐えられないほどではない。
ゆっくりと建物の周囲を回りながら観察する。窓から中をのぞき、戸口に耳を当て、裏口がないか探す。
分かったのは一つだけ。
誰もいなさそうだってこと。
最期に、
「誰もいませんか?」
そう問いかけて返事がないのをかくにんすると、僕はゆっくりとドアノブを回した。
「ん?」
ドアノブはガチャガチャと回るが、押しても引いても開くことはない。どれだけ力を入れた所で木製の扉がきしむだけで開く気配はない。
「鍵かかってるのかな?」
鍵がかかっているのならどうしようもない。
しばらく試行錯誤していると不意にドアノブが横にスライドした。どうやらただの閂のような仕組みになっていたようだ。ドアノブはなぜついているのだろうかという疑問が浮かばなくもないが、そもそもこれを作った人間の意図が分かるわけもない。
とにかく、扉を開けることに成功した僕は、生唾を飲み込んで扉を押し開けた。
相変わらず不定期更新継続中です。(三話だけど……!)
感想等待ってま~す。(三話だけど……!!)




