着信
「ねえ」
甘えるような、縋るような、それでいてどこか祈るような、そんな声で女性は僕に呟いた。
「救って」
僕の耳元で囁くように言った。
「世界を救って」
それは懇願であり、期待であり、強制であった。
だから僕は彼女に言ってやった。
「いくらですか」
きっと彼女は一瞬目を見開き、この上ないほど美しく微笑んだのだろう。不思議と僕はそう感じた。
*
その日は朝から雨が降っていた。
大学へ向かう道すがら、いつものようにコンビニによって朝食を買う。とにかく自炊というものが苦手な僕は朝昼晩の三食を基本コンビニか外食で済ましている。極めて稀ではあるが、台所に経ったとしても作るのは炒飯のような簡単なものだけ。凝ったものやお洒落なものを作ったことはない。そもそも、僕自身好き嫌いはあれどそこまで味に煩いわけではないし、食欲を満たせればいいかなぐらいにしか考えていないので、結局は食事にというものがどこかおざなりになってしまうのだ。そんなだから、得意料理がお茶漬けになってしまうのかもしれないのだけれど。
そんなわけで、いつものようにコンビニに寄った僕は、いつものように鮭のおにぎりとサンドイッチを買うと、5分も経たないうちにコンビニを出た。講義が始まるまで時間があるが、誰もいない教室というものが好きな僕にとって、朝早くの静まり返った教室で食べる朝食というのはちょっとした楽しみでもあり、ある種慣習めいたものでもあった。
愛用というほど愛着のないビニール傘を差して大学に向かう。雨のせいか人通りは少なく、たまに横を通過するる電車内はやけにごった返して見えた。
大学に着くと、校門脇に佇む記念館に入る。僕が通う大学は全ての校舎が渡り廊下等で繋がっており、遠回りを辞さなければ、雨が降っていても濡れることなく大学の構内を移動できる仕組みになっている。そんな仕組みなものだから、雨が降ると校舎の中は人で溢れかえるのが常である。けれど早朝の大学にその常識は通用しない。
閑散とした校舎内に響く足音に耳を澄ませながら、教室のある三号棟へと歩く。雨雲で太陽が遮られているせいでまだ灯りのついていない校舎内はどこか薄暗く、窓を叩く雨音は不思議と僕の気分を高ぶらせた。
教室に着いた僕は一番右の一番後ろの席に座る。お気に入りの位置であり、どこの教室でも例外なく僕はここに座る。何をやるにも便利なのだ。携帯を弄るのにも、本を読むのにも、寝るのにも。別にここが一番教壇から遠いからという理由だけではない。窓際であるためほの温かい日差しを浴びることができるし、後ろにはクーラーが控えているから服装で調節すれば比較的過ごしやすいくなるのだ。
ともあれ、コンビニで買った朝食を広げる。こだわりがあるわけではないが、先にサンドイッチから袋を開ける。サンドイッチを半分ほど食べた後でおにぎりに口をつける。
静寂と雨音というどちらかというと矛盾した空気を感じながら、僕は朝のひと時に浸っていた。
その時だった。ポケットに入れていた携帯が静寂と雨音を切り裂いてけたたましく鳴いた。至福の時間を邪魔されたことに不快感を顕わにしながら携帯の画面を確認する。見たことのない番号からの着信だった。
「はい」
ボタンを押して携帯を耳に当てる。やや怒気のこもった声で返事をすると、電話越しに聞きなれない声が聞こえた。
「……」
そもそも聞き取れないほどに小さく掠れた声だった。
「もしもし?」
「……」
いたずら電話か何かだろうか、そう思って画面を見て表示された電話番号を確認する。間違いなく見たことも聞いたことも、電話帳にも入っていない番号だった。
「いたずらですか?」
そう尋ねる僕はきっと律儀な人間なのだろう。
「いたずら電話ですか?」
掠れた声すら聞こえなくなって、僕は再び携帯の向こうに問いかけた。
「いたずら電話なら切りますよ?いいですね?」
そう尋ねた僕の言葉に、初めて聞こえる返事が返ってきた。
「待って」
女性の声だった。待ってと言う割にはあまり慌てた様子がなかった。
「何の様ですか?」
女性の友達がいないとは言わない。別に無駄に意地を張ってるとかそういう訳じゃなくて、数は少ないかもしれないがいることにはいる。けれども全員電話帳に登録しているし、そもそも声そのものが聞き覚えない。
少し警戒しながら尋ねる僕に、携帯越しの彼女言った言葉はあまりにも唐突だった。
「ねえ」
甘えるような、縋るような、それでいてどこか祈るような、そんな声で女性は僕に呟いた。
「救って」
僕の耳元で囁くように言った。
「世界を救って」
それは懇願であり、期待であり、強制であった。
だから僕は彼女に言ってやった。
「いくらですか」
きっと彼女は一瞬目を見開き、この上ないほど美しく微笑んだのだろう。不思議と僕はそう感じた。
不定期更新ですが、なるべく日にちを空けずに更新していきたいと思っています。稚拙な文かもしれませんがよろしくお願いします。